誰そ、彼
海は、あまり好きではない。
素足を浸せば、どろりと温い茶褐色の海水がゆるゆるとまとわりつき、泡となって砂地に染み込んでいく。その感触を心地よく思う事もあるが、だからといってわざわざ、焼き付くような夏の日差しのもと、砂浜に溢れかえる人の群をかき分けて行く気は毛頭ない。だから、冬に行くほうがまだいい。
「ちょっと散歩に行ってきます」
「海がシケてるから気をつけて」
少し軋む音をたてながら引き戸を開けると、かすかな潮の香りと共に、いく分湿った空気が肌を撫でていく。空は灰色の分厚い雲に覆われ、坂道の向こう見える沖合では白波がたっているのが見えた。
一度も会ったことのなかったこの遠縁の家へ来たのは今朝のこと。親族が一同に会する法事の席に、親の都合で急遽、一人で行かなければならなくなった阿佐子だったが、都会から来た若い彼女への好奇の目に耐えかね、隙を見て抜け出すことにしたのだ。
古くは漁村として栄えた村のようだったが、当時を忍ばせるものは既に過去へと忘れ去られているように見えた。浜辺沿いにある細い石畳の参道の先には、朱漆の剥がれ落ちた小さな鳥居がぽつりとたっており、その奥にまつられた水神さまがかろうじて当時の面影を残しているだけだった。
阿佐子は今にも壊れそうな古い木の賽銭箱に10円玉を投げ入れ、暗くて何も見えない神殿の向こうへ軽く頭をさげた。
砂浜へ出ると、沖からくる湿った風が容赦なく顔に吹き付けてくる。辺りは既に暗くなりはじめていた。雲に覆われた西の空に見えるかすかな切れ間から、黄金色の光がこぼれ落ちているのが見え、波打つ海面を鈍く照らしている。人影のない黄昏時の浜辺はどこか不思議な空気に満ちていた。阿沙子は吸い寄せられるように、勢い良く寄せる波のもとへと近寄り、水に触れようと手を伸ばした。
「危ないよ」
風に運ばれるようにして聞こえたその声は聞き覚えのあるものではなく、一瞬、阿佐子は身を強張らせる。
「あ、ごめん。驚かせてしまって」
びくりとした肩の動きは、相手にも見えてしまったようだった。少し恥ずかしく思いながら立ち上がり後ろを振り返るも、潮風に煽られた長い髪が、阿佐子の視界を隠す。もつれた髪の隙間からちらりと覗く視界の向こうに、白くはためくシャツが見える。
「こんにちは……」
「もう少し離れた方がいい」
少し遠巻きにこちらを見ていた青年は、静かに微笑みながら歩み寄ると、阿沙子を波打ち際から離れるように促した。
「旅行の人かな」
「いえ…えっと、親戚の家に」
初対面の人にどこまで説明するべきなのか思い悩み、言いよどむ阿沙子に、青年は穏やかな微笑を浮かべたまま口を開いた。
「もしかして、遠見さんの家の人?」
「あ、はい。そうです」
小さな村のことだから、何か起きたらすぐに知れ渡るのだろう。親戚の名が彼の口から出たことに、地元の人なのかと、少し安堵を覚えた。
「ここは初めて?」
「えぇ」
「やっぱり。この時間に浜辺に出る人はあまりいないからね」
「そうなんですか」
「うん」
青年は、さくさくと砂を踏みしめて波打ち際に近寄ると、海辺を指差した。
「ほら、見てごらん」
つられるように振り返ると、荒れる水面の向こうを覆う雲はぼんやりと薄明るく、天上の空はゆっくりと藍色へ移り変わろうとしていた。
「黄昏時が始まろうとしている」
そう言う彼の後ろ姿は、日の沈む海を背後にまるで影絵のように浮かび上がっているようだ。
「黄昏時に、こんなふうに荒れた海の日に近づくのは、危ないよ」
どうして、という言葉は、ふとこちらに振り向いた彼の瞳に捉えられ、口から発することができなかった。まるで、静かな水底を思わせる黒い瞳に体の動きが全て止まる。
「もう、ここに来ちゃ駄目だよ」
青年は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。そのどこか怪しげな笑みに、阿沙子は魅入られたかのように顔をそらすことができない。呼吸すら忘れたかのようだった。
「さぁ、早くお帰り」
その言葉を合図に、打ち寄せる波の音が耳に戻る。阿沙子ははじかれるようにしてその場を後にした。何故か、後ろを振り返ってはいけないような気がして、急かされるように遠見の家へと戻っていった。
「逢魔時にあまり浜に行くもんじゃない」
夕食の後、少し酒の入った大叔父がぽつりと言った。大人数の食器を洗う手伝いをしていた阿沙子が台所から居間に戻ると、そこには大叔父しかいなく、集まった親戚達はそれぞれ客間へと下がったようだった。
「阿沙子ちゃん、ありがとうね。今お茶をいれるから」
少し戸惑う阿沙子の後ろで、父の従姉妹である靖子叔母が座るように促すと、手にしたお盆を座卓の上に置いた。銘々皿の上には、淡く黄色い断面を覗かせるカステラが載っている。
「ちょっとお父さん、あんまり変なこと言わないでよ」
「お前だって知ってるだろうが」
ポットから湯を注ぐ叔母はどこか可笑しそうに言うが、大叔父のしわがれた声は固く、不機嫌そうだった。
「都会で育ったもんには分からんだろうが、この辺りのもんだったら誰でも知ってる」
阿沙子は苦笑いを浮かべながら叔母から湯のみを受け取ると、そっと手の平で包み込んだ。この時期は日が落ちると急に肌寒くなってくる。つるりと釉薬のかかった白い器肌から、じんわりと伝わる温かさが心地よい。親戚とはいえ見慣れない面々に、少々気疲れをしていた阿沙子だったが、やっと落ち着いたような気がした。
「逢魔時?」
どこかで聞いたことのあるような言葉だったが、それが何を意味するのかは分からなかった。
「黄昏時のことよ」
隣に座る叔母が、カステラをフォークで小さく切りながら、やっぱり可笑しそうな声で言った。
「お父さん、今の子はそういう言葉を使わないわよ」
ふと、浜辺で会った青年の言葉を思い出し、阿沙子は首のあたりが何となくゾワリとするのを感じた。
「黄昏時に浜辺に行くと、どうなるんですか」
大叔父は少し大きめの湯のみで茶をすすると、ゆっくりと置き、その不機嫌そうな顔をこちらに向けた。
「トッカリに攫われる」
「海豹のことよ」
間髪入れずに叔母が口を挟むと、やぁね、昔話じゃないの、と笑った。
「この村に伝わる古い伝説なのよ」
そう言って叔母は、どこか懐かしそうな顔で話し始めた。
ある所に若い男女がいた。二人は夫婦の約束をしていたが、ある日のこと、男は鯨漁に出てそれきり帰ってこなかった。高波にでも攫われたのだろうと、村のものたちは悲しむ娘を慰めた。
ところが一年後の夕暮れ時のこと。行方の分からなくなっていた男が、ふらりと帰ってきたのだ。娘は喜んで男を迎えるが、既に男は死んでおり、海豹になっていたのだった。
「海から来たものは陸にあげてはならぬ」という決まりから、村人達は海豹になった男を海へ戻そうとするが、それに怒った男は嵐を呼び、黄昏時と共に娘を海へと連れ去っていったと言う。
「私の若い頃でもまだその風習が残っていてね。若い男に化けた海豹が若い娘を攫って自分の妻にしてしまうから、逢魔時、つまり黄昏時に浜辺に出てはいけないと言われていたのよ」
翌日、大叔父の目を盗み浜辺へ行くと、まるで青年は阿沙子を待っていたかのように、波打ち際から少し離れた所に佇んでいた。時折、小さな雨粒が肌に当たるのを感じて頭上を見上げると、今にも降り出してきそうな空の色だった。海は昨日よりも荒れていた。浜辺の端にある岩場で波が叩き付けられ、しぶきが宙を舞っているのが見える。
「来ちゃ駄目って言ったのに」
青年は咎めるでもなく、ごく穏やかな顔でそう言った。
「まだ、黄昏時じゃないわ」
傾き始めた日は、雲の向こう側で鈍い光を放ちながら水平線の彼方へと落ちようとしていた。ふと目にとまった青年の、無造作にまくりあげられた袖口からは浅黒く日焼けした二の腕が覗き、夏の名残を思わせた。たどるようにして視線をあげると、あの黒い瞳が、静かにこちらを見つめていた。
「おいで」
つっと長い腕が伸び、その大きな手が阿沙子の手を柔らかく掴む。
「どこへ」
「急いで。嵐が来る」
青年は阿沙子の手を掴んだまま、早足で歩き出した。問うた答えが返らぬまま、彼女は半ば引きずられるようにして後を追いかけた。
青年の足は、遠見の家とは反対の方向へ向かう。昨日来たばかりの阿沙子に、彼がどこへ向かっているかなど分かる訳も無かった。ぽつりぽつりと肌に落ちてくる冷たい雨の中、自分の手を握る彼の温かな手に、ほんの僅かな不安はすっと消えて行った。
まるで何かから逃れるように、細く入り組んだ道を歩き回り、ようやく村の外れまで来ると、そこには一軒の古い家が建っていた。表札には掠れかかった文字で「背古」と記してある。周囲の家と何ら変わりないごく普通の木造家屋だったが、玄関先に、やけに大きな銛のようなものや、網だとかが忘れられたように置かれていた。
「あれは、僕の曾祖父が鯨漁に使っていたんだ」
見たことの無い異質なものから目が離せないでいると、彼が説明をしてくれた。
「上がって。今何か拭くものを持ってくるから」
引き戸を開けて中に入ると、ようやく青年は手を離した。言われるままに玄関をあがり、奥へと通される。辺りは薄暗く、誰もいないのか不気味なほど静まり返っていた。居間と思わしき広い和室で、阿沙子は少々気後れしながら、周囲を落ち着き無く見回した。古い壁掛け時計の振り子が、規則正しい音を刻み、誰もいない部屋の中で唯一その存在を知らしめていた。
ふと廊下の向こう側へ目をやると、ガラス戸に風と雨が打ち付けられているのが見える。
「これからもっと激しくなる。遠見の家には僕から連絡しておくよ」
後ろを振り向くと、奥の部屋からタオルを手にした青年が出てくる所だった。
「きっと、心配するわ」
「大丈夫。背古と遠見の家とは昔から付き合いがあるから」
まるで親の言いつけを守らなかった幼い子どものようだと、阿沙子は自分の衝動的な行動を恥じた。ましてや見知らぬ人の家にあがっている現状に、少し警戒心が無いのではとも思ったが、親戚と顔見知りである様子から特に気にはしなかった。それ以上に、青年のあの黒く印象的な瞳をもっとよく見つめてみたいという欲求に、あらがうことができなかった。
「今日は泊まっていくといい」
既に暗いガラス戸の向こうを見つめながらそう言うと、青年は穏やかに微笑んだ。
その日の夜、青年の言った通り嵐がやってきた。閉ざされた雨戸の向こうは何も見えないが、ごうごうと唸るような風の音と、バラバラと打ち付けてくる雨の音だけが聞こえ、家全体がかすかに軋んでいるような気がした。
「海は、あまり好きじゃないの」
敷いたばかりの布団の上でぽつりと呟くと、青年は押し入れの奥から枕を引っ張りだし、こちらにやってきた。この家は、彼が小さな頃に住んでいたのだと言う。引越した後も、こうして時々、一人で来ては休暇を過ごすのだという。
「どうして」
すぐ側で、畳の擦れる音がした。青年は座ってから阿沙子に枕を手渡すと、優しい声で問いかけた。
「怖いの」
横を向くと、青年の黒い瞳がじっとこちらを見つめている。
「海の底は、得体が知れなくて、引きずり込まれそう」
違う、そうじゃない。引きずり込まれそうだと恐怖にかられるのは、それほどまでに、どうしようもなく惹かれているからだ。阿沙子は、彼の瞳を見つめ返す。なんて魅力的な目をしてるのだろう。
自覚した途端、彼女の体を、うねるような熱が駆け抜けていった。
「海は、怖くないよ」
青年は、少し体を傾けて顔を近づけると、おどろく程近い距離で囁いてきた。耳元で発せられた言葉は、ただの音になり、彼女を震わせた。
頭の隅のどこか冷静な部分が、この理を理解しようとするのだが、うまく考える事ができない。阿沙子と青年を隔てる隙間が限界まで近づき、互いの呼吸が、肌の持つ熱が、皮膚の上で痛い程に感じられる。
「やめて」
何とかして絞り出した声は、驚く程小さく、震えていた。
「やめる理由が、ない」
彼の表情はどこまでも鋭く、その瞳は深い水底のように暗く、何も見えない。彼は私を捕獲し、喰らうつもりなのだ。
「君はもう、僕を受け入れている」
彼はゆっくりと顔を近づけていき、彼女の額に自分の額をそっと押しつけた。阿沙子はもう目を開けていることができなくなり、強く瞼を閉じる。
「互いに強く惹かれあっているのに、何を躊躇する必要があるの」
鼻に、口に、瞼に、温かな吐息のようなその声は、肌の上をくすぐるように撫でていく。
彼の言うとおりだ。何を戸惑う必要があるのだろう。息苦しいくらい、全身が彼を欲している。今この瞬間には、常識だとか、分別だとかは意味の無い言葉のように思えてくる。
「名前を、教えて」
耳をかすめるようにして囁かれた声は、懇願するかのような響きを帯びていた。
「阿沙子。あなたの名前は?」
「夕馬」
柔らかい響きを持つその名は、彼にぴったりだと思った。
「阿沙子」
どこかかすれた甘い声で名を呼ばれ、ハッとして目を開ける。そこには、優しく微笑む夕馬の顔があった。
「阿沙子、阿沙子が欲しい」
自分の名に、こんなにまで甘美な響きがあっただろうか。感情が高ぶり、涙がこみ上げてくる。
「……僕の名を」
阿沙子の目尻にそっと口づけ、ゆっくりと離すと、頬に手を当て、宥めるように撫であげた。
「僕が欲しいと、言って」
切なく細められた目に、阿沙子は上擦った声をあげる。
「夕馬」
かすかに震えを帯びた小さな声に、彼の口から、何かを堪えるかのようなため息がこぼれ落ちる。
「……あなたが、欲しい」
夕馬は応えるようにそっと口づけを落とすと、愛おし気に微笑んだ。
「嵐の時、海豹たちはどうしているの」
未だ鳴り止まない雨風の音に耳を傾けながら、阿沙子はふと思い出したように呟いた。夕馬は、阿沙子を覆うように背後から抱きしめると、後ろから手を握り込んだ。
「彼らは、沖の離れ小島に住んでるんだ」
「海の中は、寒くないのかしら」
触れ合う肌からは、どちらともなく温かさが流れ込み、阿沙子は心地よい眠気を感じながらも問いかけた。
「寒くないよ」
「そう。なら良かった」
翌朝、空は晴れ渡り、夏を思わせる眩しい日差しに包まれていた。遠くに見える海面が、朝日を受けてきらきらと輝いているのが見える。
遠見の家まで送ってくれた夕馬に礼を言うと、彼はふと、真面目な顔になる。
「君を攫ってもいい?」
「今は、黄昏時じゃないわ」
阿沙子は笑って応えると、夕馬はふと悪戯を思いついたような顔になり、にっこりと笑った。
「じゃぁ、黄昏時にまた迎えにくるよ」
そう言って踵を返すと、浜辺へと向かう道を下って行った。その後ろ姿をしばらく見つめていると、ふと彼が振り向き、こちらに手を挙げてみせた。昔話に掛けたその真意に気付くのは後になってから。