星が照らすふたりの時間 ~マリナ、その後の記憶~
春の花が風に舞う午後、マリナはひとり、店先のプランターに水をやっていた。
花屋〈ミルテの小径〉。かつて夫とふたりで立ち上げた、小さな店舗。今ではマリナひとりの手で切り盛りしているが、彼が去ったあの日から、不思議と心は穏やかだった。
――未来を知っていたから。
あの最後の時間を、大切にできたから。
ふと、マリナは水差しを置き、奥の部屋へと足を運ぶ。
引き出しの奥から取り出したのは、一枚の写真。若き日の彼女と、その隣で不器用に笑う青年の姿。
「ほんと、変わってなかったのよね。最後まで、まっすぐで、不器用で」
彼との出会いは、もう三十年以上も昔のこと。
小雨が降る春の日、花市場の片隅で、マリナは荷物を落とし、花を散らしてしまった。そこに現れたのが、青年だった。
「……咲いてたのに、可哀想に」
「ご、ごめんなさい。全部台無しに……」
「違うよ。こうしてまた、君に拾ってもらえた。これも、縁だろ」
そう言って彼が差し出した一輪のマーガレット。その白さが、妙に記憶に焼きついている。
「あの頃は、笑うのも下手で、でも優しい目をしてたのよね」
青年――のちの夫・ユリオは、寡黙な運送業の青年だった。
口数は少なく、花言葉も知らなかったが、マリナの話をよく聞いて、毎週市場に顔を出すようになった。
「……マーガレットの花言葉、知ってるか?」
「清く正しく、だったかしら?」
「違う。“真実の愛”って、誰かが言ってた」
不器用な告白だった。でも、それだけで、マリナは泣きそうになった。
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そんな日々を思い出しながら、マリナは今を生きていた。
ユリオが逝ってから、もう半年。
ひとりになった夜は確かに寂しい。けれど、後悔はない。
「あの子が言ってたのよ。“運命を知ってよかった”って」
そう。あの占い師――リュミ。
若くて、でも澄んだ目をしていて、あの子の言葉がマリナの人生を変えた。
(もし、知らずにあの最期を迎えていたら、私はずっと泣いていたかもしれない)
マリナは今、小さな活動をしている。
月に一度、町の集会所で「花と暮らしの教室」を開いているのだ。
園芸の基本、季節の花の育て方、そして――花言葉の話。
「花にはね、それぞれ“心”があるの。だから誰かに贈るときは、その気持ちごと伝わるのよ」
そこに集うのは、若い娘たちや、人生の節目に立つ女性たち。
誰かが失恋の話をし、誰かが家族のことで悩み、誰かが結婚を迷っている。
マリナは花を通して、少しだけ、彼女たちの“次”の一歩を手伝っているのだ。
教室が終わったあと、ある若い女性が声をかけてきた。
「マリナさんって、結婚ずっと続いたんですか?」
「ええ、最後の最後までね」
「羨ましいです……私、相手が最近そっけなくて」
「ふふ。でもね、大事なのは“今”なのよ。未来を知ることも大切だけど、いちばん重いのは、“いま何を伝えたいか”ってこと。花もそう。咲いているあいだに、水をあげないと、枯れちゃうでしょう?」
女性は少し笑って、「わかります」とうなずいた。
(きっと、私はあの子の言葉で救われたから。今度は、私が誰かを支えたい)
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その夜。
マリナは店の灯りを落とし、ふたりで使っていたテーブルに座った。
机の上には、一冊のノート。ユリオが生前に残していた「花の名前帳」。
無骨な文字で、たどたどしく記されている。
マリナが好きな花:すずらん(純粋)
毎年春に渡す予定だった
今年は……手渡せるかわからない。
でも、咲いたら見てほしい。マリナの笑顔が好きだから。
読みながら、マリナの目に静かに涙がにじむ。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
翌朝。
マリナは店の前に、小さなすずらんの鉢を並べた。
白く、清らかに咲くその姿は、どこかユリオに似ていた。
「あなたの代わりに、今年は私が配るね。誰かの未来が、少しでも明るくなるように」
そう呟いた彼女の背中に、春の風がやさしく吹いていた。
それはまるで、過ぎ去った誰かが「ありがとう」と囁くような、あたたかな風だった。