『それでも、あなたに花を』 ―イリス視点―
星の導きがすべてを決めるなら、私は今、どこに立っているのだろう。
希望の前か、絶望の入り口か。あるいは、ただの分かれ道の真ん中か。
私は小さな占い小屋の扉の前に立っていた。
白い壁に蔦が絡み、木製の看板には控えめに「星の小径」と書かれている。
こんな場所に来るなんて、以前の私なら考えもしなかった。
けれど今は――どうしても知りたかった。
この気持ちに、未来があるのかどうか。
「……ごめんください」
扉を開けると、中は柔らかな灯りと薬草の香りに満たされていた。
静かで、温かくて、でもどこか、よそ行きの顔をしているような空間。
その奥にいたのが、彼女――占い師のリュミだった。
「いらっしゃい。どうぞ、こちらへ。お名前をうかがっても?」
「……イリス。イリス・ノヴァです」
名乗ると、彼女の瞳が少しだけ揺れたように見えた。
きっと、ノヴァ家の名前を知っているのだろう。
それでも、彼女は動揺を見せず、優しく微笑んだ。
「占いたいことを教えてくださいね」
私は息を呑み、ほんの少しだけ、勇気を振り絞った。
「……好きな人が、いるんです。でも、その人には……婚約者がいて」
そう口にしたとき、胸がぎゅっと締めつけられた。
彼の笑顔も、言葉も、私にとっては宝物だったのに。
でも、彼にとって私は――ただの子ども。取引先の令嬢の一人。
「それでも……気持ちを伝えたいんです。望みがなくても、黙っている方が辛いから」
リュミは頷き、静かに手をかざす。
その先にあるのは、魔道具――《星霊盤》。星の動きを模した盤面が淡く光り出す。
私は思わず、手を握りしめた。希望と恐怖がせめぎ合って、胸の内がざわつく。
しばらくの沈黙ののち、彼女はそっと顔を上げた。
その表情で、すぐにわかった。
「……イリスさん。この恋は、残念ながら……叶わない可能性が高いです」
思ったよりも、言葉は柔らかかった。
でも、その優しさが、かえって痛かった。
叶わない――
その響きが、心に静かに沈んでいく。涙が滲みそうになったけれど、私は堪えた。
「……わかってました。なんとなく、ですけど。……でも、やっぱり……聞くと、痛いですね」
リュミは言葉を失っていた。占い師というより、人として、私に何か言いたそうに見えた。
「それでも、私は気持ちを伝えます。結果がどうでもいいわけじゃないけど……でも、想いだけは、嘘じゃないから」
言いながら、なぜか胸が少しだけ軽くなった。
「ありがとうございました。正直に教えてくれて」
そう言って、私は小屋を後にした。
⸻
数日後、私は街の花屋で一輪の“シレンシア”を買った。
純白の小さな花。花言葉は「伝えられなかった言葉」。
でも私は、これを「伝えたい言葉」に変えたかった。
彼――ライオネルさまが衛兵詰所から出てくるのを見かけたとき、私は意を決して声をかけた。
「ライオネルさま」
彼は驚いたように振り向いた。
その視線の中に、戸惑いと――少しの優しさが見えた。
私は花を差し出しながら言った。
「これ、受け取ってください。あの……私、あなたのことが好きです。ずっと、ずっと前から」
彼は言葉を失っていた。目が揺れていた。
やがて、そっと私の手を取って、花を優しく押し戻した。
「……ありがとう、イリス。君の気持ちは、確かに受け取った。だけど、僕はもう……」
「はい、わかってます。これ以上は言いません。ただ、どうしても伝えたかったんです」
私は笑った。涙はこぼれなかった。
それはたぶん、もう心が折れていなかったから。
私は花を胸に抱いて、街の風に背中を押されるように歩き出した。
⸻
家に帰ると、母が少し驚いた顔をして言った。
「イリス……なんだか、顔つきが変わったわね」
鏡を見ると、そこには少しだけ大人びた私がいた。
きっともう、私は前を向ける。
叶わなかった恋は、決して無駄じゃなかった。
あの気持ちは、本物だった。
だから私は、自分自身を誇れる。
あの占い小屋で、リュミさんに出会えてよかった。
あのとき、真実を告げてくれた彼女の瞳――忘れない。
次に誰かを好きになったら、もっと強く、もっと優しくなれるように。
そう願って、私はまた、新しい朝を迎えた。