歌は、まだ届く場所がある
その男は、入ってくるなり頭を下げた。
「はじめまして、リュミさん。……俺はルドルフ。吟遊詩人をやってます。いや、やってました、が正しいかもしれません」
リュミは静かに頷くと、男を向かいの椅子へ招いた。
ルドルフと名乗った男は、どこかくたびれた身なりをしていた。
楽器の入った布袋を背負い、マントの裾には泥がついている。
髪には風の癖、声には少しだけ疲れの色。
「俺、もう十年近く旅をして、村から町へと唄を届けてきたんです。
最初のうちは、それなりに食っていけた。でも……最近は全然ダメで。
人が立ち止まってくれない。酒場でも、口笛すら返ってこない」
男は苦笑した。
「もう、潮時かなと思って……。
どこかに腰を落ち着けて、ちゃんと働くべきじゃないかって。
いい年した男が、夢だの唄だの言ってても、どうしようもないですもんね」
笑っているようで、目は笑っていない。
その背に宿るのは、長い年月の“寂しさ”だった。
リュミはそっと星霊盤を取り出した。
「あなたが、この道を選んだとき――それは、自分のためでしたか?」
男はふと考え込んだあと、小さく首を振る。
「……違うかもしれません。
俺、誰かの心に残る唄を届けたかったんです。
ちっぽけでも、聴いた人が少しでもあたたかくなれたら、って。
――でも、もう、その唄も誰にも届いてない気がして」
リュミは静かに盤に手を添えた。
星霊盤が淡く光を灯す。
その中に、一本の道が見える。
そして、その道の先には――小さな灯火が、いくつもいくつも揺れていた。
まるで、その男の声に導かれるように。
「……これは?」
「あなたの歌を、心に残している人たちの“光”です」
リュミの声は柔らかく、けれど確かな芯をもって響いた。
「今は見えなくても、あなたの唄は確かに誰かの中に息づいています。
星は告げています――“その声がまた、誰かの心を癒す”と。
“あなたの詩が、まだ未来に続いている”と」
ルドルフは目を見開き、やがてわずかに唇を震わせた。
「……そんな、馬鹿な……。
俺の歌なんて、通りすがりの風みたいなもんだ。忘れて当然で……」
「風は、通りすぎても痕跡を残します。
あなたの声を“必要とした人”は、確かに存在した。
それは、あなたが“誰かのため”に歌ってきた証です」
静かに涙がこぼれた。
男は目元をぐいとぬぐったが、次の瞬間、笑った。
「……参ったな。こういうの、泣かされると思ってなかったんだけど。
リュミさん、あんた……すごいな。
“未来を見る”って、ただの魔法じゃないんだな」
リュミはただ静かに首を横に振った。
「星の示すものは、可能性にすぎません。
けれどその可能性に気づけたとき、人は自分の未来を選び直せるのです。
あなたは、すでにたくさんの人を癒してきました。
そのことを、どうか忘れないでください」
ルドルフはうつむいていた顔を上げた。
「もう少しだけ……信じてみてもいいのかな。
“誰にも求められてない”って、決めつけるのは……俺のほうだったのかもしれない」
「ええ。あなたの唄が、明日を変える人が、きっといます。
まだ見ぬ人、かつての誰か、あるいは――あなた自身も」
沈黙が訪れる。
だが、それは優しい沈黙だった。
外では夕方の鐘が遠くに鳴っていた。
ルドルフは立ち上がり、背中の楽器袋を背負い直した。
「もう少しだけ、旅を続けてみます。
次に唄うときは、少しだけ胸を張って。誰かのためじゃなく、自分のためにも」
そして、扉の前で振り返った。
「……俺の声が、また誰かを癒せるなら。
それは、今日ここに来たおかげです」
リュミは微笑む。
「それは、あなた自身の声が持つ力です。
星は、ただその輝きに気づかせてくれるだけ」
扉が開き、光が差し込んだ。
男の背中は、まだ疲れていた。
けれどその足取りには、確かに“進む意志”があった。
人知れず落とした涙も、また歌になるのだろう。
そう、きっと――“誰か”の心に届く歌に。
リュミは静かに、盤をしまった。
今もこの空のどこかで、かすかな詩が流れている気がしてならなかった。




