静かな涙の、その理由
「何も悪くないんです。……むしろ、全部がちゃんとうまくいってるんです。
なのに、どうしてか――ふいに、涙が出るんです」
そう言って、目の前の若い女性はぎゅっとハンカチを握りしめた。
年の頃は二十代半ば、きちんと結われた髪と、柔らかな紺色のワンピースが落ち着いた雰囲気を醸している。
名は、ミリア。
リュミの小屋の椅子に座る彼女の瞳には、疲れとも違う、形にならない曇りが宿っていた。
「ご主人とお子さんがいらっしゃると伺いました」
「はい。夫は優しい人で、子どももまだ三歳ですが、元気で……幸せなんです。
……そう、幸せなはずなのに。家族の寝顔を見ていたら、なぜか――息が詰まりそうになるんです」
リュミは頷き、手元の星霊盤にそっと手を置いた。
「“不安”というのは、必ずしも“問題”があるから生まれるものではありません。
ときに、人の心は“静かに積み重なったもの”に揺さぶられます。
その揺らぎの兆しが、星に現れることもあります」
ミリアの目がゆっくりと星霊盤に向けられた。
光の粒が、静かに盤上に浮かび上がる。
小さく、しかし確かな光。その中心には、“誰かを背に抱えて歩く姿”があった。
「星は、“静かな再出発”を告げています」
「……再出発?」
リュミは小さくうなずく。
「ミリアさん。あなたは長く“誰かのために生きる日々”を積み重ねてきたのだと思います。
それはとても尊く、美しいことです。でも、きっと――あなたの中の“自分の声”が、少しずつかき消されていった」
ミリアの瞳が揺れる。
「……自分の、声」
「母として、妻として、“こうあるべき”という日々は、知らず知らずに“自分”を後ろに押しやります。
すると、心の奥に置き去りにされた声が、“涙”というかたちで表に出てくることがあるのです」
ミリアの肩が、ふと震えた。
そして、彼女は言葉を絞り出すように告げた。
「――私は、ちゃんと“お母さん”できてるでしょうか。
毎日、ちゃんと起きて、食事を作って、子どもを抱いて、夫を見送って……
でも、ときどきふっと、全部が怖くなるんです。
このまま全部が壊れたらどうしようって。自分がいなくなったらって。
――そんなこと考えちゃう私は、ダメな母親ですよね……?」
リュミは、そっと彼女の手に触れた。
「いいえ。誰かを守るということは、とても怖いことです。
それだけ、あなたが真剣に愛している証です」
ミリアの目から、ぽろり、と涙が零れた。
「……大丈夫でしょうか、私……。もう一度、自分の声を――聞けるようになれるでしょうか」
「ええ。星がそう告げています。
“静かな再出発”とは、誰かのためではなく、“自分のために立つ日”のことです。
たとえば、それは一人で散歩をする時間だったり、好きな本を読むひとときかもしれません。
心に“自分だけの静けさ”を戻すことが、あなたをもう一度満たしてくれるはずです」
ミリアは、ハンカチで涙を拭いながら、小さく笑った。
「……今日ここに来てよかったです。
家ではこんなふうに弱音、言えなかったから。
夫にも、子どもにも、“何も問題ない顔”をしていたくて」
リュミは静かに頷いた。
「完璧なお母さんでいようとしなくていいのです。
ミリアさんの笑顔を守るためにも、ミリアさんがご自身の“声”を聞く時間は大切です。
誰よりあなたの大切な人たちも、その笑顔に救われているはずですから」
しばしの沈黙のあと、ミリアは立ち上がった。
どこか、来たときよりも表情が軽くなっている。
「ありがとうございました。……今日は家に帰って、子どもが寝たら、自分の好きだった歌を、久しぶりに口ずさんでみます。
あの子がお腹にいた頃、よく歌ってた曲なんです。思い出したくなりました」
「きっと、星もその歌を聴いてくれますよ」
扉の向こうへ帰ってゆくミリアの背に、リュミはそっと手を振った。
誰かのために生きることは、尊い。
でもそれは、自分の声を大切にしてこそ、本当に続けられるものだ。
星霊盤の残光が、小さく光った。
静かな涙の先に、新たな“心の場所”があることを――星は、確かに告げていた。




