『それでも、あなたに花を』
星の光がよく見える夜は、胸の奥がすこしざわめく。
それは、未来が静かに動き出す音――と、リュミは思っている。
古びた占い小屋の中。魔道具《星霊盤》の上に指をかざし、リュミは魔力の流れを整えていた。月の相が変わるこの時期は、星の動きも繊細になる。
小さな軋みと共に、扉が開いた。
「……あの、占いをお願いしたいんです」
現れたのは、年の頃は十五、六の少女だった。顔立ちは整っていて、衣服も高級な仕立て――明らかに上流階級の令嬢。けれど、その目は、今にも涙をこぼしそうな不安で揺れている。
「どうぞ、こちらへ。お名前をうかがっても?」
「……イリス。イリス・ノヴァと申します」
リュミの脳裏に、すぐにその名が引っかかった。名の知れた商会をいくつも束ねるノヴァ家の令嬢――ただの興味本位では、来ないはずだ。
イリスは椅子に腰かけると、胸元を押さえるようにして言った。
「……好きな人が、いるんです。でも、その人にはすでに婚約者がいて……」
指先が震えている。けれど、その声には覚悟があった。
「私は、それでも気持ちを伝えたい。望みがなくても、黙っているほうが辛いから。……どうか、占ってください。この恋の行方を」
リュミは頷き、星霊盤に手をかざした。
金属の盤に刻まれた星々が淡く光り、魔力が静かに回り始める。未来の糸が少しずつほぐれていくように、やがて一つの図形が浮かび上がった。
その中心にあったのは――
(……星の交差がない。繋がりの線が見えない)
苦い予感が的中した。盤が示すのは「離別」と「片想い」の運命。言葉を選んでも、結果は変わらない。
リュミは深く息をついた。迷いはある。それでも、偽りは何も生まない。
「……イリスさん。占いの結果を正直にお伝えします。この恋は、残念ながら……叶わない可能性が高いです」
その瞬間、少女の瞳がわずかに揺れた。
でも――泣かなかった。
イリスは、両手を膝に置いて、ゆっくりと目を閉じる。
「……そうですか。わかっていたんです。けど、やっぱり、言葉にされると……痛いですね」
リュミは何も言えずにいた。けれど、イリスの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「それでも、私は気持ちを伝えます。自己満足かもしれない。迷惑かもしれない。でも……それでも、想いを持ったことを否定したくないから」
「イリスさん……」
「ありがとうございました。正直に教えてくれて」
イリスは立ち上がり、深く礼をして小屋を後にした。
リュミはその背中を見送りながら、胸の奥がほんの少し、締めつけられるような感覚に包まれていた。
⸻
数日後、イリスが再び小屋を訪れることはなかった。だが、噂はすぐに広まった。
――ノヴァ家の令嬢が、ある騎士に一輪の花を差し出したという話。
――騎士は、驚いたようにそれを受け取ってから、そっと返したという話。
――令嬢は微笑み、花を胸に抱いたまま去っていったという話。
リュミは、小屋の中で静かにその噂を思い出していた。
恋は叶わなかった。けれど、あの少女は――自分の意志で伝えたのだ。
それは、運命の結果に従ったのではなく、自分の生き方を選んだということ。
小屋の壁に飾られた、白く小さな花が風に揺れる。
イリスが最後に持っていたのと、同じ花。名を“シレンシア”という。
その花言葉は、「伝えられなかった言葉」。
だが、あの少女は確かに伝えた。
それは、誰かを変える未来の種になる。
占いの示す運命が、すべてじゃない。
だからリュミは、今日も小屋の灯りを絶やさない。
いつかまた、誰かが“自分の未来”を選べるように。