「ふたたび、音はめぐる」
リュミの小屋の扉が開いたのは、雨が上がったばかりの午後だった。入り口に立っていたのは、すらりとした立ち姿の女性。風に揺れるコートの裾の下から、バイオリンのケースがのぞいていた。
「……こんにちは。覚えていらっしゃいますか?」
少し照れたように微笑むその顔に、リュミはすぐに気づいた。
「マティアさん……!」
数ヶ月前、「結婚するのはこの人じゃない」という占いをきっかけに、人生を変える決断をした女性。あの時の静かな強さが、いまでは確かな芯として彼女の中に宿っていた。
「演奏会の帰りなんです。この街で初めて、自分の音を披露しました」
リュミは驚いて目を見開いた。
「本当に……始めたんですね、音楽の道を」
「ええ。最初は怖かったですけど。でも、弾いているうちに思い出したんです。あの頃、何も考えずに夢中で弾いていた自分のこと。私はやっぱり、音楽と一緒に生きていたいんだって」
小屋の窓際に差し込む光が、マティアの金茶色の髪を柔らかく照らしている。彼女はケースをそっと床に置き、懐から手紙の束を取り出した。
「これは……?」
「子どもたちからのお手紙です。最近、音楽教室で教え始めたんです。“演奏家”としてはまだまだ駆け出しだけど、誰かに音を伝える喜びを、今すごく感じていて」
リュミは一枚一枚、丁寧に目を通す。「ありがとう」「また弾いてね」「音がきれいだった」――色とりどりのクレヨン文字に、リュミの胸がじんわりと熱くなる。
「……マティアさん、本当に素敵な未来を選んだんですね」
「あなたが、占ってくれたからです。あの時、“結婚相手じゃない”って言われて、本当は怖かった。でも、それがなかったら、私はまだ誰かの夢を生きていた」
ふと、マティアが遠くを見るように視線を外した。
「ねえ、リュミさん。……あなた自身の夢って、何ですか?」
問いかけに、リュミの指がわずかに震える。普段は“誰かの未来”を読み解くことに意識を向けていた自分が、“自分自身”に触れられた瞬間だった。
「……わたしの夢、ですか?」
マティアは頷いた。
「占いで“未来”を告げるあなたが、“自分の未来”をどう思っているのか……ずっと気になっていました」
リュミは、星霊盤を見つめる。澄んだ盤面に、誰の意志も反映されていない空白の未来が広がっていた。
「……少し、怖いんです。わたしが未来を見ようとすると、それが“定まってしまう”ような気がして。だから、なるべく見ないようにしてきました」
「でも、本当は知りたいと思っている。そうでしょう?」
リュミは、そっと微笑んだ。マティアの目には、優しさと強さが混じっている。それは、かつて彼女自身が掴み取った“自分の夢”という確かな光だった。
「……いつか、その時が来たら。わたしも、自分の未来を占ってみようと思います」
マティアはそれを聞いて、満足そうに頷いた。
「その日が来たら、今度は私があなたに音を届けます。未来に迷ったときは、音楽が道しるべになることもあるんですよ」
その言葉の後、彼女はバイオリンを手に取った。
「リュミさんのために、一曲だけ弾いてもいいですか?」
「……ぜひ」
夕暮れの光が、小屋の中に優しく広がる中、マティアは弓を走らせた。
最初の音が空気を震わせた瞬間、リュミの胸に、何かが流れ込んでくる。静かであたたかな旋律。迷いも、不安も、少しずつ溶けていくような感覚。
それは“未来”の音だった。
誰かの夢ではなく、自分の心から紡がれた願いの音。
演奏が終わる頃、小屋の中には深い静寂が満ちていた。だが、その沈黙は恐怖ではなかった。確かな温もりと、次の一歩を照らす微かな光。
「ありがとう、マティアさん。……音が、届きました」
マティアはうれしそうに微笑んだ。
「またいつでも、迷ったら呼んでくださいね。今度は、わたしがリュミさんの“道しるべ”になりますから」
彼女が去った後、リュミは星霊盤にそっと手を置いた。
まだ見ぬ自分の未来。
その先に何があるのかはわからない。けれど、もう怖くはなかった。
なぜなら、リュミの世界にも、“誰かの音”が灯り始めたから。




