“結婚”するのは、この人じゃない
雨上がりの午後。リュミの占い小屋の扉が、控えめな音を立てて開いた。現れたのは、上質なクリーム色のドレスに身を包んだ若い女性。品のある仕草と柔らかな笑みの裏に、どこか影を帯びた瞳があった。
「ご予約は……?」
「いいえ、飛び込みで……申し訳ありません。でも、どうしても今日、来たくて」
女性――マティアは、そう言って頭を下げた。リュミは静かに頷き、席へと案内する。
「ご相談は……?」
「来月、結婚する予定なんです。でも……それが本当に正しいのか、どうしても確かめたくなって」
彼女は、左手の薬指をそっと撫でる。リュミは黙って星霊盤に手をかけた。盤面に微かな光が灯り、回転を始める。室内の空気が静かに変わっていく。
やがて、盤面に浮かび上がった一文を、リュミは読み取る。
《“結婚”するのは、この人じゃない》
口に出すまでに、少し時間がかかった。それでも、占い師としての責任を込めて、リュミは言葉を選びながら伝えた。
「……あなたの未来には、別の選択肢が見えます。いまの婚約が“間違い”というよりも、“本当に望む人生”と少しずれているように感じます」
マティアは、少しだけ視線を伏せた。
「やっぱり、そうなんですね。きっと、どこかで気づいてたんです」
「お相手は……?」
「とても、いい方です。家柄も釣り合っていて、私のことを大切にしてくださって。でも……どこか“仮面”をかぶっているような感覚が消えなくて」
しばらく沈黙が流れた後、マティアは小さく息を吐いた。
「私、昔はバイオリンをやっていたんです。物心ついたときから、夢中で弾いていて。でも、父に“いい加減お遊びはやめなさい”って言われてから、やめてしまって……」
「今も、弾きたいと?」
「ええ。本当は、音楽の勉強を続けたかった。けれど、貴族の娘がそんな道に進むのは“分不相応”だと……そう言われて育ってきました」
リュミは静かに頷いた。星霊盤はすでに静まり返っていたが、彼女の心には、マティアの“もう一つの未来”が見えていた。
「それが、あなたの“本当の願い”なのかもしれません」
「でも、今さら……家の期待もあって、婚約もして……」
「それでも、“あなた自身の人生”です。誰かの夢ではなく、自分の望みに従う権利は、誰にだってあると思います」
マティアの目が大きく開き、しばらくの間、何かをかみしめるように黙っていた。そして、静かに立ち上がり、深く一礼する。
「……考えてみます。いえ、本気で、向き合ってみます。ありがとうございました」
数日後、再びマティアは現れた。今度はその顔に、どこか凛とした強さが宿っていた。
「婚約、解消しました」
「……そうですか」
「彼とは、ちゃんと話し合えました。“あなたには、もっと自由な未来が似合う”って言ってくれて……。最初は涙が止まらなかったけれど、不思議と清々しいんです」
マティアはふっと微笑んだ。
「私は、バイオリンをもう一度始めます。夢の続きからじゃなくて、“今の私の音”を探すために。遅いかもしれないけれど、それでもいいって、今は思えるんです」
リュミはその言葉に胸を打たれた。
「……その音は、きっと誰かの心にも届くはずです」
「私自身の願いを、初めて見つけられた気がします。あの時、あなたに会えて本当によかった」
マティアの言葉とともに、小屋の扉が風と一緒に開く。晴れた空が、彼女の新たな道を明るく照らしていた。
そして、静まり返った小屋の中、リュミは星霊盤にそっと手を添える。
《運命は、縛られるものではなく、選び取るもの》
誰かの夢を生きるのではなく、自分自身の音を奏でるために。今日もまた、誰かの“本当の願い”を見つける手助けができればと、リュミは思った。




