霧を吹く井戸①
その日、川越の街は濃い霧に包まれていた。
悠真は自転車を押しながら、ぼんやりとした視界の中を歩く。街灯の光が霞んで見え、どこか幻想的だ。
「……これ、霧吹の井戸のせいだったりしてな」
川越市立博物館の前庭にある「霧吹の井戸」。かつて戦の最中に、この井戸の蓋を開けると霧が吹き出し、劣勢だった軍が形勢を立て直したという言い伝えがある。
現代でも、こうして時折、川越の街は霧に包まれる。
「まあ、さすがに迷うほどじゃないけどな……」
そう思いながら、悠真は馴染みの喫茶店「雪塚」に辿り着いた。
***
店の扉を開けると、すでに常連たちが集まっていた。
カウンターには千鶴が立ち、白い着物の少女は窓際の席でココアを飲んでいる。
そして――
猿の全身タイツを着た老人が、堂々と座っていた。
「……」
「……」
「……ウホ」
「お前、まだそれ着てんのか!!!」
悠真のツッコミが、店内に響き渡る。
千鶴はコーヒーを淹れながら、ため息混じりに言った。
「この霧の日に来た時点で嫌な予感はしてたけど、まさか猿で来るとは……」
「いやいや、ワシは霧の日に合わせたんじゃよ!」
老人は胸を張って言う。
「昔、川越の戦で霧が戦局を変えたという話を聞いてな、それにちなんで猿軍団を率いるボス猿のつもりで――」
「いや、川越に猿軍団いないだろ!」
悠真の的確なツッコミをよそに、少女はクスクス笑った。
「やっぱり、猿が足りないですよね」
……いや、そういう問題じゃない。




