迷い家(まよいが)④
強い陽射しが照りつける中、悠真はじっとバケツを見つめた。
腰からぶら下げた小さな赤いバケツ、砂場に置き去りにされていたものだ。
「まさか……な」
バカバカしいとは思いながらも、妙な引っかかりがあった。
いたずら好きな“オトウカさま”の話。どじょうの代わりに、バケツを返せばいいのではないか?そんな思いつきに駆られて、水を満たしたバケツを腰にぶら下げたのだ。
チャプチャプと、水の揺れる音が歩くたびに響く。
陽炎の揺らめく道を、ソロリソロリと進む。
ふと、足が止まった。
背後に、何かがいる気がした。
けれど、振り向く勇気が出ない。首が、意識に反して固まっている。
気づけば、音が消えていた。
蝉の声も、風のざわめきも、人の気配も、何もかも。
まるで世界ごと、息を潜めたようだった。
「……」
一歩。二歩。背後に、確かに足音が混じった。
ぞわりと鳥肌が立つ。
意を決し、振り返る。
そこには、顔を伏せたまま立つ、見知らぬ少女がいた。
少女は、無言で指を伸ばした。
その指先は、悠真の腰の辺りを指している。
「それ、わたしの」
声は小さく、でもはっきりと届いた。
「ああ、ごめんね!今返すよ!」
悠真は急いでベルトからバケツを外すと、左手でベルトを押さえ、右手でバケツを持って、少女に差し出す。
「…ちがうよ」
少女がそう言うと、バケツがグッと重たくなった。
「うわっ!」
悠真は思わずつんのめり、両手でバケツを抱える。
その拍子に、左手から離れたベルトがズルリと滑り、ズボンが勢いよく膝まで落ちた。
「わっ!?」
慌ててズボンを引き上げようとしたその瞬間、
「あらまあ!よいのう、積極的じゃのう……!」
頭上から、どこか調子外れな、しかしどこかで聞いたような声が降ってきた。
見上げると、そこにいたのは少女ではなく、あのとき悠真を混乱の渦に突き落とした、自称・雪の姉、杏だった。
「ええええっ!!?」
絶叫する悠真をよそに、彼女は優雅に扇子を開いて胸元を仰ぎながら、涼しい顔で言う。
「ここで会ったが百年目。さあ、今度こそ続きをしましょうぞ?」
杏がそう言うと、バケツがふわりと赤い布団に変わった。
まわりの生垣も、いつの間にか遊郭のような奥座敷に変貌していた。
杏は、「よいのう、よいのう」と楽しげに悠真のシャツを剥ぎ取り、布団に押し倒す。
「いや、ちょっと待って!!こないだちゃんと断わりましたよね!?」
悠真はそう言いながら、杏から逃れようとするが、「あのときは、あのときじゃ」と、杏はまるで悪びれず、馬乗りになってのし掛かる。
「じゃあ聞くがの、お主、あのとき、断ったことを後悔してないと言い切れるかの?本当に?1ミリも?」
「うっ……」
その目に不意を突かれる。
杏の笑みはふざけているようで、どこか本気の色を含んでいた。




