迷い家(まよいが)③
悠真は、汗のにじむ額をぬぐいながら、背もたれから身を起こした。
蝉の鳴き声が相変わらず耳の奥を揺らしている。空は青く、風の一つも吹かない。
そのときだった。ふと、頭の奥に、ある昔話が浮かんだ。
川越に伝わる「オトウカさま」の話。いたずら好きの狐の神様。
とある農夫が、どじょう釣りの帰りに、あぜ道で奇妙な灯を見たという。
それは提灯のように、道の上をふわふわと連なっていた。ついたり消えたりを繰り返しながら、まるで誰かの行列のように進んでいく。
「狐の嫁入りか」
農夫は興味を引かれ、足を止めて見入ってしまった。だが、ふと我に返って腰の籠を見ると、そこにいたはずのどじょうは、一匹残らず姿を消していたという。
「オトウカさまのいたずらだって話だったな……」
そんな馬鹿な、と悠真は自嘲するように笑い、ベンチから立ち上がった。
「現代にそんな話があってたまるか」
そう思いながら、舗装された道へ戻る。
あの看板が間違っているのか。あるいは、自分が脇道を見落としたのかもしれない。
もう一度、歩いた道を引き返しながら、慎重に左右を見回す。
見慣れた生垣の切れ間が、ふたたび視界に入った。
「……え?」
その向こうに見えるのは、さっき休んだあの小さな公園。
滑り台も、ブランコも、赤いバケツもスコップも、そのままだ。
さっきとは別の道を選んだはずなのに。
悠真は足を止める。
背筋に、ひやりとした感覚が走った。
「……マジで、迷わされてるのか?」
ありえない。そう思おうとする一方で、確かに、さっきとは違う道を歩いてきたという実感があった。
けれど、辿り着いたのは、さっきと同じ場所いや、同じに“戻された”としか言いようがない。
まるで、オトウカさまの昔話のように。
「やめろよ、オレ、別にどじょうなんか持ってねーぞ……」
声に出してみたが、返ってくるのは蝉時雨ばかりだった。
日差しの中で、あの赤いバケツが、ぽつんとこちらを見つめているようにすら思えた。




