底なしの穴④
目を覚ますと——
そこは、日枝神社の近くの森だった。
「……は?」
頭がぼんやりとしながら、身体を起こす。
(俺……さっきまで、穴の中にいたよな……?)
周囲を見渡すと——すぐ近くに、千鶴がいた。
木にもたれかかり、静かに眠っている。
「……千鶴!」
急いで駆け寄り、彼女の肩を揺さぶる。
「ん……?」
千鶴が、ゆっくりと目を開けた。
「……あれ? 私……?」
彼女も混乱しているようだった。
「お前、無事か?」
「う、うん……たぶん……」
2人は、顔を見合わせた。
さっきまで穴の中にいたはずなのに、気がついたら地上にいた。
まるで、最初からそんな出来事はなかったかのように——。
「……ねぇ、悠真」
千鶴が、ぽつりと言った。
「私たち、本当に穴に入ったよね……?」
「……ああ」
「でも、なんで……?」
その答えは、誰にも分からなかった。
ただ——
悠真の頭には、最後に見た、あの”手”の感触だけが、はっきりと残っていた。
***
数日後。
悠真と千鶴は、喫茶「雪塚」にいた。
店内は、昼下がりの穏やかな雰囲気に包まれていた。
木目調の家具が並ぶ静かな空間に、コーヒーの香ばしい香りが漂う。
棚には古い洋書や観葉植物が飾られ、心地よいジャズが流れている。
昼時には混んでいた店内も、今は悠真、千鶴、そして雪の3人しかいなかった。
そんな中——
「——なるほど、つまり、お二人は底なしの穴で不思議な体験をしたわけですね?」
雪が、ココアのカップを両手で包み込みながら、にこりと微笑んだ。
悠真と千鶴は、顔を見合わせた。
「……まあ、そういうことになるな」
悠真が答えると、千鶴も小さく頷く。
「うん……でも、本当にあれが夢じゃなかったって、今でも信じられないけど」
「ふふ、興味深いお話です」
雪は、スプーンでカップをゆっくりとかき混ぜながら言った。
「そもそも、なぜ”底なしの穴”は塞がれたのでしょう?」
「え?」
「普通に考えれば、安全のために埋められた……というのが妥当でしょうね。でも、私はこうも考えられると思います」
雪は、一口カップを啜り、静かに続けた。
「もしかしたら——“偶然、何かと繋がってしまった”から、塞がれたのではないか?」
悠真と千鶴は、息を呑んだ。
「……何かって?」
千鶴が、少し身を乗り出して聞く。
「それは分かりません」
雪は、肩をすくめる。
「でも、この世には時折、“繋がってはいけない場所”というものがあるのです。それが、たまたま開いてしまった。だから、人々は慌てて塞いだ……」
悠真は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、その理由を知ってしまった人間は……」
「……ええ」
雪は、微笑んだまま頷いた。
「口封じのために、穴に埋められてしまったかもしれませんね」
カラン——
千鶴のスプーンが、カップの縁に当たり、小さな音を立てた。
「……」
彼女は、目を伏せたまま、小さく息を吐く。
「私たちが見た人影……あれは、その”埋められた人”だったのかも……?」
「可能性はあります」
雪は、カップを置き、にこりと微笑んだ。
「でも、考えてみてください。もし本当にその人が亡くなった魂だったとしたら……きっと、こう言いたかったんじゃないでしょうか?」
雪は、指をトントンとテーブルに置き——
「“おーい! ここにいるよ! まだ、忘れないで!”」
にっこりと、楽しげに言った。
千鶴が、少し驚いた顔をする。
「……そっか。そう考えると……ちょっとは、怖くなくなるかも」
「ええ、そうです」
雪は、明るく頷いた。
「幽霊の話は怖いものですが——それを、ただの”怖い話”で終わらせるのか、それとも”誰かの記憶の話”として残すのか。それを決めるのは、生きている私たちの方ですから」
「……なるほどね」
悠真は、ふっと息をつき、肩の力を抜いた。
「ま、少なくとももうあの穴には近づかないけどな」
「それがいいですね」
雪は、くすっと笑い、カップを手に取る。
「それにしても、お二人が無事に帰ってこれて、本当によかったです」
その言葉に、悠真と千鶴は顔を見合わせ——
「……ま、結果オーライってことか」
「そういうことだね」
2人は、安堵の笑みを浮かべた。
こうして、“底なしの穴”の出来事は、ひとまず幕を閉じた。
少なくとも、今は。




