喪に服すとき
「署名をお願いします。」
署名を、と警備員は確かに言った。ご覧いただくには、署名を。と、鈍い銀色のパイプ椅子から腰を浮かせる素振りも見せず、制帽を目深に被って呑気に雑誌を読む姿は実にアンバランスで、巨匠の彫刻作品じみた貫禄があった。汗が浮いた薄い唇の中で空気が蠢く。署名を、と。
白昼の空気に載せられるように、くたびれた大学ノートと、インクが切れかかった青色のボールペンが差し出された。警備員はパイプ椅子に優雅に腰掛けたまま両腕を伸ばした。抱擁を強請る子供のような、拒絶の可能性を伺う卑しさのない、あどけない仕草だった。疲れの見えない顔と通らない声は鉄屑のように冷たかったが、警備員は首筋に汗をかいていた。
とても静かな広場だった。黒い太陽は真上に鎮座したまま微動だにせず、如何にも騒々しい音を立てんばかりに木々を焦がしていたが、熱に耐えかねた葉や実から小気味良い破裂音がするでもなく、ただ幾筋も伸びた白い光が、空と大地を繋ぎ、音も無く辺りを揺らしていた。高い木々や植え込みの影すら焼き尽くすように照りつけられ、白い土に細々と敷き詰められた角の欠けた小石は虹色に輝く。手入れが行き届いているとは言い難かったが、その乱雑さはどこか模範的な様相を呈していた。中途半端な長さの芝生は道をほとんど侵食して、かろうじて両側に並べられた煉瓦からは豪華なサンドウィッチのようにセメントが溢れていた。
「署名をお願いします。」
静寂を斬りつけるように警備員は繰り返した。
彼は画廊の門番をしていた。白い円柱が並べられた立派な渡り廊下の突き当たり、二枚の重々しい青銅扉は右側だけ吹っ飛んでいたが、その錆びた枠に細長く繰り抜かれた闇を控えめに塞ぐように、彼は横向きに座っていた。青い制服に包まれた腕が気だるげに伸ばされて、半熟卵のような両目は訪問者を見つめ、署名をしなくては、入れるわけにはいかない、と静かに訴えかけた。
警備員の隣の暗闇をちらりと覗いた。片側だけ閉ざされた青銅の扉の湿った青さと、警備員の制服の乾いた青さに隔てられて、底知れぬ気体の闇が長方形に切り取られている。全くの黒。その先の展示物はおろか、床の色すらまるでわからない。決してその奥に興味を惹かれたのではなかった。実際、誰の好奇を促すにも不足な、あまりに得体の知れない闇だった。欲を刺激するような瑣末な手がかりすら示さない未知には虚無さえ備わらなかった。
だが、画廊があるならば、入るべきだ、入らなければならない、ということを、ペンとノートを受け取った頭は、至極当然に導き出したのだった。
門番の警備員が光を全て吸収しているのかのように思われたた。あるいは、画廊の全容を隠すために、警備員は雇われていた。彼だけが太陽の光を受けて勝手に発光していて、イルミネーションのようにチカチカと点滅していた。皺が寄った制服の青さが外眼筋を硬直させた。
ともあれ、署名だ。手は誰の名前を書けば良いのかわからずに、受け取ったノートにしばらくペン先を突き立てていた。六ミリずつ几帳面に線が引かれた紙の白さが眩しく、やがてペン先からじわりと青いインクが滲み出して紙に滴り始める頃になって、ようやく手はのろのろと何かを書き出した。警備員は待たされることにも関心を持っていなかった。彼は無心で雑誌をめくっていた。表紙がわずかに見える。野球雑誌だった。
「誰のです?」警備員が聞いた。
「え?」
適当な名前を書いたのに気づかれたのか? 瞼が痙攣した。しかし警備員は未だに雑誌から顔を上げてもいなかった。目に薄らとした退屈が浮かんでいるだけで、特に不審者の素性を怪しむような気配も無かった。警備員は雑誌を畳むと、長い腕を優雅に伸ばし、半ばノートを奪い去るような形で掴み取った。それからじっくり時間をかけて名前を見つめた後で、「いや、お若いと思って。」と唇を舐める。「まぁ、そこまでお若くはないんでしょうが。」
その通り、そこまで若くはない。
ものの数秒のことだったが、警備員の質問は蜃気楼の中に溶け込み、辺りを漂う間も無く消えてしまった。箸で掻き回されるように思考が混ざり、体の感覚は失われ、杭のように地面に突き刺さった両足と、不自然にぶら下がった冷たい両手にばかり意識を奪われた。向かい合った二つの唇が、互いに息を交換するように話し始めた。
「暇潰しに、と思って。」ひび割れた唇が言った。
「皆さんそうですよ。」さして珍しいことでもないので、警備員は目を細めただけだった。「で、誰のです?」
「こういう場面では、暇潰しにお茶を飲むとか、散歩するとか、そういうのも憚られますからね。せいぜいこうやって、絵でも見るのがちょうどいい感じがするような」
「まぁ、皆さんそうです。そのために、ここに画廊があるのかもしれない」警備員は太陽の亡霊のように、相変わらず眩しく輝いていた。彼は汗をかいていた。額から雫が静かに流れて、彼の真っ直ぐな鼻梁を通り過ぎた。
「で、誰の葬儀ですか?」
警備員は再び尋ねた。
答えなくては通せないのだろうか、とスフィンクスの前で立ち往生する冒険者のような気分でしばらく警備員と見つめ合った。紙面に記された名前は、愛想を見せるでもなく、悪態を吐くでもなく、ただのインク染みの風情で二つの唇の間に息絶えていた。
風の音も、木々のざわめきも、虫の声も無い広間で、殊更に重い沈黙だった。口の無い死人たちを前に、自然でさえ音を立てるのを躊躇していた。警備員の冷たい声は熱に侵された脳みそに一滴の水を垂らし、ほんの一瞬だけ意識が覚醒するような感覚があったが、それはどこか遠くの地平に金属のピンが落とされたような、不確かな響きをもたらしただけであった。
「まぁ、こういうのは順番ですからね。」やがて警備員が言った。
「知っていますよ。」
「物事がこれ以上、見るに耐えなくなる前に終わった、っていうのは幸せですよ。良かったんではないですか。」
「知っていますよ。」
警備員はもう一度名前を見ると、丁寧にノートを閉じた。それから大事そうにペンを胸ポケットに差し込み、ノートを脇に挟んでから、ぎこちない仕草で半開きの扉を示した。
「どうぞ入ってください。貸切です。」
「ありがとうございます。」
警備員は微笑んだ。唇を引き結んだだけのようにも見えた。神経質な金切り音を上げながら、闇をふさいでいた椅子は引きずられ、向きを変えた。警備員は客人への興味をすっかり失くし、パイプ椅子に座り直して雑誌を最初から読み始めた。
片翼が閉じられた扉は通るには少しばかり幅が足りなかった。白い地面にぎこちなくくり抜かれた穴に落とし棒が差し込まれている様式の古い造りの扉だったが、文明に取り残された建設への興味をそそるには不十分だった。しゃがんで落とし棒を引っ張り上げると、ぎりぎりと鈍い音がした。か細い悲鳴のようにも聞こえた。膝をついて、扉の鼓動に耳を澄ませるように身体を押し寄せて押し込むと、扉は簡単に動いた。
前触れもなく画廊の中から子供が走り出してきて、ちょうど耳を擦るような距離で通った。扉を押し開けたのとほぼ同時だった。子供は足音一つ立てなかった。耳元にわずかな風が巻き起こり、ふいに右頬あたりに熱い呼吸を感じて、息を切らした子供の声が確かに聞こえた。
「誰か死んだんだ。」
振り返ったが子供の姿は無かった。警備員は姿勢良く座ったまま項垂れて、早々に眠りこけている。膝の上で開かれた野球雑誌は歴史的な試合の功績を讃えていた。
・
画廊は暑かった。
そしてやはり静かだった。巨大な両手が画廊を包み込み、音の無い真空へと閉じ込めているようだった。その両手に生えた長い指の間を通り抜けるようにして画廊に侵入すると、にわかに辺りは仄白い光をたたえ、闇は全て扉の外へ逃げ出した。入り口を見ると、今度は外の様子がわからなかった。警備員の青い裾と黒いブーツの踵と、その影がわずかに窺えた。
たっぷりニスを塗られた焦げ茶色の壁にはいくつかの絵画が掛けられていた。壁際の天上に等間隔に嵌めこまれた豆電球の灯を受けて、立派な装飾が施された金メッキの額縁に収められた絵は凹凸に合わせてオレンジ色に輝いた。どこかで見たような山や、どこかで見たような港、どこかで見たような鴎の影。人類が抱える原風景の手本、存在しない幼少期の記憶のかき集めだった。水平線は白く濁り、太陽が顔を覗かせて、草木は風に靡き、水を飲む馬は芦毛だった。如何にも模範的で淡白だったが、今この瞬間、人が焼かれているのだという事実から観覧者の目を逸らすには、それでちょうど良いようにも思われた。
鼻が天井でカラカラと音を立てて緩慢に回る扇風機の羽に載った分厚い埃と、アマニ油の湿気った匂いを捉えた。港の腐臭はしなかった。気を逸らす眩しい日照りも無く、駆け出したくなるような籠った熱も無く、広場と同じように至って静かで、何もかもが遠慮がちに息を潜め、それでいて何かを待ちわびていた。
両目がじっくりと絵画の表面を舐めるように眺める。たっぷりと時間をかけて、見たことの無い景色を感慨深そうに称え、彼方へ散り散りになった意識を強引に寄せ集め、点検するように細部を観察し、時折物思いに耽るように瞼を閉じた。
居心地の良い画廊だった。
居心地の良い画廊なのだろう、と思われた。
画廊の隅にはカーテンが掛けられていた。歩み寄ると、床についた黒い布地の隙間から、わずかに外の光が漏れているのが見えた。画廊の隣に控えめに有刺鉄線が張られ、その奥に僅かに生垣やトピアリーが覗けたことを思い出す。どうやら画廊は、火葬場から中庭への巨大な抜け道の役目も果たしているようだった。
重い遮光カーテンの先に扉は無かった。裾にわずかに砂利がついた布をたくし上げると、すぐに陽の光が画廊の床に散らばった。身体に纏わりつく布を苦労して剥がしながら、中庭に躍り出る頃には顔中に汗をかいていた。画廊に入る前より暑さがいくらかましになったことも無く、相変わらず太陽は強烈に地上に照り付けていた。小石まじりの白い地面が眩しく光を跳ね返し、誰かが靴裏で引きずって持ち込んだ鉄屑がさざなみのようにそこら中に輝き、軽い眩暈にふらつきながら目の焦点が合うのを待った。
徐々に形を成していく風景が鮮明になるにつれ、中庭に先客がいることに気づくと、ああ、と喉が締まった。広い池の傍に、男が佇んでいた。煙草を咥え、ジャケットを着こんだ男はじっとこちらを見つめていた。決して目をそらすことを許さないような鋭い視線は猫を彷彿とさせ、不意に両腕が震えて産毛が逆立つのを感じた。
近寄ると、煙草と香水が混ざった懐かしい匂いがした。もう何十年も、この男は同じ煙草を吸い、同じ香水を首に吹き付けてきたのだという事実がふいに脳裏をよぎった。次いで画廊で眺めた景色がデジャヴのように意識に浮かんだが、それが何を意味するのかはわからなかった。
「どこ行ってた?」男はたっぷりと時間をかけて煙を吐き出した後で聞いた。
「どこも。暑くて、画廊でちょっと涼もうかと思っただけ。まだ時間はあると思うけど」
男の質問は挨拶代わりだったらしく、彼は返事を待たずに「ウロチョロするなよ」と吐き捨てるような低い声で言った。静寂に包まれたガラスの中庭を叩き割るように、男の声は響いた。神経麻痺の名残で顔を引き攣らせて、男は足元の池をぼんやりと見つめた。小石が縁に並べてあるでもなく、隕石が落ちた跡地に水を満たしただけのようにも見える粗末な池は、化石のように色褪せて濁っていた。
池のふちには、唇だけを水から突き出して、幾匹も肥えた鯉が群がっていた。物欲しげに何度も蠱惑的な唇を開閉させ、透けた水面の下で光の無い目が虚空を見ている。藻に覆われた翠色の池の中に、ぶくぶくと泡がいくつも弾けた。鯉の口に歯は見えなかった。ただ一つの黒い空洞が、唇の素早い開閉に合わせて見え隠れしていた。
男が煙を吐きだすわずかな息と、鯉が互いを押しのけ合って飛沫を上げる以外には、何一つ音は無かった。風一つ吹かないために、自然は熱にさえ気づかないかのように静かだった。人のこめかみに滲んだ汗だけが、ゆっくりと頬を涙のように滑り落ちた。
池を囲むように生えた杉の木の一つに、「禁煙」と角ばった字体で書かれたプレートが打ち付けられていた。それをそのまま読み上げるように、沈黙の中に悪戯っぽく舌が言葉を紡いだ。
「ここは禁煙みたいだよ。」
その時ふと、辺りが暗くなるような幻覚に襲われた。引いていた夜の波が気まぐれに世界を覆ったかのようだった。しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間には、明るい青空を背負った、煙草を咥える男の景色に戻った。
男は少しだけ眉を吊り上げた。細められた瞳がじっとこちらを見つめ、そして杉の木の警告文を射抜くように目玉を動かし、膨らませた頬をすぼめながらたっぷりと時間をかけて煙を吐き出した。
そうか、と男は呟いた。
そしてふいに屈みこむと、何の躊躇もなく、糸のように煙が伸びる吸殻を、池の水面に浮いた鯉の口に投げ込んだ。
その全てを男は、煙草を灰皿に押し付けるより自然に行った。
小さな赤い光を灯した短い煙草が鯉の喉に落ちていった。空洞が唇で覆い隠される。鯉の喉がごくりと鳴った気がした。赤い炎が鯉の滑らかな喉の内壁を引っ掻き、肉を燃やし、柔らかい内臓が爛れ、身体を捩って戸惑う仲間たちに必死にぶつかりながら鯉がのたうち回る光景を錯覚した。
鯉は悲鳴を上げなかった。男は恭しく頭を下げた。
「それは大変失礼いたしました。」
もう餌はもらえないと見るや、鯉は呑気な顔をして身をひるがえし、濁りに消えていった。
男はジャケットの内側をまさぐると、煙草を取り出し、再び火をつけた。今しがたの蛮行はすべて夢だったのだと言外に諭すように、彼の仕草はすべて芝居がかって鈍かった。あたかも何かの手本があって、それに準えて神経を操っているかのようだった。彼は淡白な原風景の一員に加わることに憧れ、画廊の風景画の一つに相応しい振る舞いを常に心がけていた。そして時々、自分を抑えられずに事を起こした時は、立ち振る舞いを典型的な形に整えることで軌道修正を試みるのだった。彼は早速、雑談を始めた。
「俺は何度か葬式に出たことがあるが」男は切り出した。「棺の中の花は、ぜんぶ菊だったよ。黄色か白。二十年前の、親父の葬儀の時もそうだった。お前が産まれる前だね。お袋のは行けなかったが……お袋の時もそうだろ?菊だっただろ。白か黄色の」
少し思い出す素振りを見せてから、ゆっくり考えるように、菊だった、と呟いたのは、男を安心させるためだった。
そうだろ、と男は頷く。会話が順調に滑り出したので、声は優しげだった。
「まぁ、百合でもいいよ。最低ラインだ。それがどうだ?こいつは、白い薔薇、だってさ……かぶれてやがるよ。」
確かに、朝方の葬儀で見た棺の中には白い薔薇が敷き詰められていた。差し色に黄色も少しだけあしらわれていた。その黄色も、百合や菊ではなかった。鬱病って遺伝するらしいわね、と故人がいつも噛んでいた不揃いな爪を覆い隠すように、スクランブルエッグみたいな花をつけた植物が、白い薔薇と共に手首までぎっしりと、無造作を装って散りばめられていた。
藁織りのバスケットから白い薔薇を取り出して、故人の胸元に置くと、最期に、触れてあげてください、と葬儀屋が鼻の詰まった声で言った。そしてスピーカーから重厚な音楽が流れると共に、ガラスの蓋が三人がかりで外された。促されるままに棺に伸ばした手は冷静に、優雅かつよそよそしく、命じられるまま穏やかに死人の頭を撫でた。スポンジのような少し湿った髪は、触れただけで抜け落ちそうなほど細かった。鬘だったのかもしれない。額はつやつやと蝋燭の明かりを反射させ、白すぎる化粧が施された粘土のような皮膚は爪を立てれば最後、二度と修復できないことを予感させた……
でも、白い薔薇など取るに足らないことだ。言われるまで気づきもしなかった。それ以上に、両目が最後まで捉えて離さなかったのは、故人の歯だった。死体が口を開くのは別に珍しいことではない。頭を撫でた手の影から、威嚇するように彼女は歯を剥きだしていた。
色付けられた薄い唇がぽっかりと開いていて、その空洞の中に、貝殻のような白い歯が並んでいた。故人にかつて味覚的な快楽を届けた舌は空洞の闇に紛れ、異様に揃った小粒な歯列ばかりが印象に残った。これが?と両目が不思議そうに歯を見つめる。どの部位よりも偽物じみていた。葬儀のどの場面よりも現実味が無かった。この歯で、安い飯を喰らい、この歯が、咀嚼し、噛み砕き、あの細い肉体に動力を与え、膨れた腹の胎児に給餌を続け、舌を鳴らし、この歯で、誰にも笑顔を作り、この歯を食いしばって、彼女はこの棺までの道程を辿り、この歯が、彼女の内側から発せられた言葉を反響させ、声として轟かせ、叶えられなかった多くの祈りを唱えさせた?
これが?
ご冗談でしょう、と、揺らめく黄色い炎と低質な音楽に揺さぶられながら、考えていたのはそんなことだった。
「あいつは薄情な奴だよ。」感情の無い声で言ってから、男はまた煙を吐き出した。
やがて遠くから、スーツ姿の葬儀屋がのろのろとこちらへ歩いてきた。葬儀屋が気まずそうに顔を伏せるまで、男は葬儀屋から目を離さなかった。ようやく男の鼻先に辿り着くと、葬儀屋は「この度は」と口を開きかけたが、男は「どうも。」とすぐにそれを遮り、先を促した。葬儀屋は明らかに狼狽していた。チェックのハンカチで額を拭いながら、ええと、と咳ばらいをした。
「故人はこの土地の方ではありませんようですね。」緊張で声を上擦らせながらも、決して無礼には聞こえないように精一杯気を使って、葬儀屋は極めて丁重に確認した。
「あれはどこの土地のものでもありませんよ。まぁ、俺たちはみんなそうですがね。」
男は煙草を頬張りながら、可哀想な葬儀屋に目配せをした。目配せの仕方も昔から変わっていなかった。威圧的で、高い上背を惜しみなく生かした、不思議なバランスの取れた顔面痙攣的な瞬きだった。
彼の兄も同じ目配せを会得していた。小馬鹿にしたような口のすぼめ方も同じだったが、彼は兄よりも優しく笑えた。
「そうしますと……」葬儀屋の声が今度は萎んだ。後に次ぐ言葉が無いのは明らかだったが、男は葬儀屋が何か絞り出すまで待ち続けるつもりだった。
「持ち帰りますよ。」
助け舟を出すつもりでも無かったが、思わず口を挟むと、男はあからさまな嘲笑をこめて遮った。「持ち帰る?どこに?」
その通りだ。どこに?
「第一、骨壺が通されるわけが無い。」男は鋭い声で詰った。国境を越える際の、所持品検査の話をしているようだった。「灰に混ぜて麻薬を密輸してる、って勘繰られて終わりだよ。あれは白いお花が欲しい、とか余計なことは書いて、自分の骨をどうするかとは書いてないのか?」
「恐らく……」
「恐らく?」
「きっと書いてないよ。」故人は本当に、そんなことは書いていないだろう。白。薔薇。それしか書いていないことは、想像に難くない。そしてそれでさえも、故人が本当に望んだものではないのだった。彼女はただ、死人の口を借りて、一度で良いから無理を押し通したかっただけのように思われた。彼女がどうして死んだのかはよくわからない。葬儀では、故人の死因を事細かに述べることは無い。そんなことは皆さんご存じで、とさも言いたげに、ただ、死体がある、ということと、それを燃やす、ということを至極丁寧にこなした。死体が生きていたことはなく、最初からそれとして地から湧いてきたのを、幾つもの重要な段取りを経て廃棄する儀式だった。
「そういう時、お宅ではどうしてんの。ちょっと確認してきてくれ」男はただ葬儀屋が目障りなために、この場から追い出す口実を作った。
これ幸い、と葬儀屋は失礼した。確認することなど何も無いのは明白だった。それは男にもわかっていた。男はただ人が無意味に歩き回るのが面白いのだった。まぁ、持って行かされるだろうな、とうんざりしたように首を振り、男は新しい煙草を咥えた。新鮮な空気の方が毒だと言わんばかりの、人間ならざる者には、この地上のあらゆる食物が口に合わなかった。
「死人に口無しは本当だな。うるさく騒ぎ立てられても、塞ぐ口が無いんじゃお手上げだよ。」男は苛立たしげに煙草のフィルターを噛み続けた。「近頃は何もかもがおかしいんだ。お前もそう思うだろ?」
「思うよ。」
男は有刺鉄線の向こうにそびえたつ切り立った崖の、短い枝がいくつも飛び出た木々を顎で指した。
「あそこを見ろ。嫌な電波が飛んでいる。俺はそういうのがわかるんだ。きっと、お前にも遺伝してる。ほら、あの木立は造り物みたいじゃないか?最近は、ああいうのにもカメラが仕掛けてあるんだよ。ペットにマイクロチップを埋め込むことなんか義務化したら、一家に一つ爆弾付き盗聴器を抱えているの同じことだ。」
「そうだね。」
「そうだよ。わかるだろ?」
男はしきりにそう呟いていた。全世界が彼の命を奪おうとしていて、全宇宙が彼の敵らしかった。あるいは、沈黙を紛らすためにそんなことを嘯いているうちに、それが彼の現実となった。嫌な電波が彼の周りを蠅のように飛び交っていて、彼の毛穴の一つずつに潜り込み、彼の脳漿を吸い尽くす。そういうことを信じていながら、彼は至って冷静だった。暴動には参加せず、恐怖を露わにもせず、命が奪われることを、生活の終わりを、何かとぶつぶつ呟きながら待っていた。
「あの画廊の中の絵、見たか?」
「見たよ。」
「あれはプロパガンダだ。」
あの風景画がプロパガンダだとすれば、推進したのは死だった。そして、もしそうだとすれば、成功していた。
「あの絵はプロパガンダだし、その鯉は敵国のスパイだ。」
「その通り。」
「署名したの?」
「署名?」
「中庭に来るのに画廊を通らなかった?警備員がいて、署名をしないと画廊に入れなかったよ。」
「いや、俺は柵を越えて来た。まさかお前は書いたのか?」
「書いてないよ。」
「賢いやつだ。」男は上機嫌に笑った。短くなった煙草を地面に落とすと、靴底で火種を揉み消した。禁煙のプレートのことなど彼はもう覚えていなかった。思い出させる者もいなかった。
睡眠薬の呑みすぎで手を震わせながら、男はふいに思いついたように黒いジャケットの胸元を探り、光沢を放つ皮財布を取り出した。繊細なジッパーが蠅の羽音を立てて、魚を捌くように財布が開かれた。紙製の臓物が無造作に二十枚ほど抜かれ、掌に押しつけられる。見たことも無い大金だった。
「いらない。」
「もらっておけよ。これでもう終わりだ。最後の大判振る舞いだ」
「いらないよ。」
「もらっておけ。俺の灰はな、」これでこの話は終わりだ、と言わんばかりに男は語気を強めた。
「いいか、俺の灰は海に撒け。気に病まなくていい。俺は海が好きだ。でも、間違えて湖とか、でかい川に撒いたりしたら、末代まで祟る。まぁ、お前が末代かな」男は紙幣を押し付ける力を緩めず、がさがさした声で喋り続けた。それから、最後のは冗談だ、と静かに付け足した。でも、前半は本当だ。
「この金は……その時に海があるところへ行くための旅費だ。もちろん俺の灰が運良く、いや、運悪く、お前の手に渡るようなことがあった場合のことだ。いや、でも……ネットオークションに出してもいい。売れるんならな。ははは、調味料の瓶に詰めて売ってみたっていい。」
男は愉快気に身体を揺らした。男はよく笑った。なんて卑怯な、と誰もが思うのだった。彼のような男でも、簡単なことで本当によく笑うなど、あってはならないことなのだ。
早くしまいなさい、と促されて、ようやくのろのろと金を外套のポケットにねじ込んだ。男は落ち着かない素振りでその様子を見ていた。日差しに目をやったり、鯉が消えていった池を眺めたりと何度か視線を彷徨わせてから、暑いな、と独りごちた。彼は汗をかいていなかった。煙草を探るようにジャケットに手を当てて、しかし見つけられず、諦めて行き場を失った腕を組んだ。それから男は事も無げに尋ねた。
「お前、菊より薔薇の方が好きだろ」
実を言うと、そうなんだよ、とも返せず、「でも、白より黄色が好きだよ。」と唇が弁解じみたことを言った。
「袖が汚れてる。」応えず、男は顎をしゃくった。
見ると、着ていた外套の袖口に、確かに粉々に砕けた赤錆が付いていた。不意に腕を掴まれたかと思うと、男は優しく錆を払い落としてくれた。ちゃんと綺麗にしてなさい、と事務的な注意を口にしたが、思いついたことをそのまま言っているだけで、その目はどこか遠くを見つめていた。
男の腕に頭を押し付けてしなだれかかると、男はむずむずと奥歯を噛み締めた。泣くように見えたが、彼は目を細めて、敵国が仕掛けた監視カメラの方を睨みつけていた。
暑い、と男は呟いた。頭を撫でる手は震えていた。
・
「署名をお願いします。」
冷たい声は、熱に侵された脳みそに一滴の水を垂らすように響いた。ほんの一瞬だけ意識が覚醒するような感覚があったが、それはどこか遠くの地平に金属のピンが落とされたような、不確かな耳鳴りをもたらしただけであった。
外に出られる際にも、署名を、と、警備員は見覚えのあるノートとペンを差し出した。警備員の膝に載った野球雑誌はまだ同じページを開かれていた。署名では広場の柵を越えて直接中庭に侵入した男を捕らえられませんよ、などと余計なことは言わず、大人しくノートに、入った時と同じ名前を書いた。
「これはあなたの名前じゃないですね。」
今度の署名は、警備員に告げ口したようだった。
「あなたが読める言葉で書ける名前はありませんよ。」軽薄な冗談めかしく発するはずだった言葉は極端に挑発的に聞こえた。
警備員はちょっと驚いたように目を瞬かせ、それから「意外に無学でいらっしゃる」とのんびり述べた。
「身分証を見ますか?」そんなものは持っていなかった。
「いえ、結構ですよ。」
ようやく日が傾き、辺りはいくらか涼しくなっていた。僅かに風さえ感じられた。暑かったのか、警備員は制服の青いシャツを少しはだけていた。布のあわいに見える肌はもう乾いていた。伸びをしながらゆっくり立ち上がると、彼は画廊の扉を手早く閉めた。年季の入った仕草だった。落とし棒を引っ張り上げ、再び地面に固定すると、パイプ椅子を畳み、雑誌とノートを脇に挟んだ。客人が未だ留まっているのに気づくと、警備員はぎこちなく微笑んだ。
「死んでる人を見るのは初めてでしたか?」
「いえ。」
「怖かった?」
「ちょっとだけ。」
まぁ、皆さんそうです、と警備員は言った。
「あの画廊の絵は楽しめましたか。気休めにはちょうど良いでしょう。」とても綺麗で、と警備員は画廊の扉に愛しげに目配せをした。
もちろん。とても綺麗で素敵な絵ばかりで、と唇は微笑を浮かべて言おうとした。しかし喉を塞がれたように、いつまで経っても声が出なかった。
警備員が目を瞬かせた。その静かな瞬きに呼応するように、火葬場に繋がる石畳を、枯れ葉が転がっていった。風だ、と頭が冷静に思った。杉の木々が擦れあい、欠伸のような一際大きな風と共に、遠くで下校の鐘が鳴った。永遠の時に余韻を響かせながら、子供たちの歓声が和音となって重なった。それは太古の昔にこの土地を震わせた笑い声が、ようやく木霊となって返ってきたようだった。しばらくじっとそれに聞き入ってから、口がのろのろと勝手に開いた。
「何も感じませんでした。」とても恥ずかしいことのように思われた。
「絵画も、音楽も、良さが全然わからないんです。見つけられない。」とても絶望的な響きを持っていた。
どうか信じてください、と口が言った。鐘の音に掻き消えて、声は煙のように景色に溶けていった。
信じましょう、と警備員が言った。
「死は旅をすることなんでしょうか?」口は聞いた。
「そう思いますか?」
「そうであってほしくないと思っているんです。もう旅なんてうんざりだ」舌をもつれさせながら、たどたどしく呟いた。もう二度とまともな言葉を話すことなどできないような予感があった。
「帰りたい。」
警備員は微笑むだけだった。
外套のポケットを探ると、男に渡された紙幣があった。インクのにおいが鼻をついた。僅かに煙草と、香水が薫った。それは、白い薔薇も、海も、すべて冗談だということを静かに訴えていた。そんなものはすべて芝居の小道具だった。
警備員は少し戸惑ったように目を丸くしていたが、金を受け取ってくれた。制帽を外して丁寧にお辞儀をすると、制帽の中に紙幣を入れて、野球雑誌をその上にかぶせて蓋をした。御心づけです、とでも説明するべきだったが、言葉が出てこなかった。両手で帽子をしっかりと抱えて、警備員は火葬場から立ち上る煙をしばらく目で追っていた。お戻りになる前に、と彼は呟いた。
「墓石をじっくりお読みになると良いですよ。」
処方箋のようだった。頷くと、彼は何か祝福の言葉を述べて、青い背中を向けてとぼとぼと去っていった。
火葬場の裏手に回ると、爛れた深緑のアーチの向こうに確かに墓地があった。入口に立てられた真新しい看板には、大戦時代に紛争や水難によって母国に戻れなかった異邦人たちの亡霊を弔う土地である、という風に書かれていた。
アーチをくぐると、火葬場の黄色い外壁と崖の岩肌に挟まれた墓地は小ぢんまりとしていた。広場よりよほど綺麗に整えられていた。黄色い壁の向こうにかすかに人の気配が感じられた。カラカラと音を立てて緩慢に回る扇風機の前で、葬儀屋がどこかに電話をかけている声がした。
墓地は観光名所らしく、しっかりと区画が分けられ、明るく清潔だった。健康的な若草色をした芝生は平らに刈り込まれ、誰が見ても雑草ではないと判断されるような花だけが咲くことを許されていた。天使や、聖人や、空を仰ぐ様々な動物の像が墓標として立てられ、墓地では人には場違いなお茶会がひっそりと開かれていた。
鐘の音を響かせた校舎は、火葬場のすぐ近くにあるようだった。馬の嘶きのような不明瞭な笑い声が弾けると、木陰に置かれたベンチにとまっていた雀のつがいが飛び立った。歓声の糸くずの中に、「誰か死んだんだ。」と告げた幻覚の姿が確かに見えた。
棺はどれも、土の上に半分剥き出しに置かれていた。苔や野草に抱かれるように覆われた白い棺は大地と融けあい、大きな苔石のようにも見えた。名前と命日が蓋に彫ってあったが、ほとんどが消えかかっていて読み取れない。もう少し奥へ進むと、棺の数は減り、今度は巨人の白い指のように整然と並んだ墓石が目立った。棺に比べていくらか新しい。木漏れ日のまだら模様をまとって、やはり棺と同じように蔦や枝を這わせた墓石には、故人の名前の代わりに短い詩や、聖典の引用が簡素な字体で刻まれていた。
名の無い亡霊がそれを見ていた。署名を、と、警備員が語りかけると、亡霊ははにかんだ笑みを浮かべた。
ふと一つの墓石の前で足は止まった。
記された没日は二百年前を示していたが、金色の文字は目に優しかった。
『彼はもう 雷を恐れずに済む 世界へ辿り着いた。』
白い墓石にはそう彫られていた。
弔いと祈りを。