二章 「悲劇は鎹」
「なんだっていうんだ……」
結果だけ先に述べると、全滅であった。
わずかに顔を知っている人でも必死で思い出して会いに行った。帰ってくる言葉は「誰だ?」「しらない」「覚えてない」ばかり。
だが奇妙なことにも気づくことができた。
「初めから忘れている人もいたけど、僕と会ったときは覚えているようなことを言うのは何だ?」
ガードさんの時もそうだった。初めはぶつかったミラークにハンカチを差し出し名前を呼んでくれた。孤児院の人たちも初めは覚えていたのに、食卓で会うと忘れてしまっていた。フーラさんのように初めから忘れている人もいたが。
「…………そういうこと、なのか?」
気づいてしまった。この身に沁みついた呪いの正体を。
ジロンドの手記の最後、あの出来事が起きた日の日付で「記憶に関する黒魔術の実験」と書かれていた。今起きていることは紛れもなく記憶に関する問題。この奇妙な現象は間違いなく黒魔術による呪いが原因。
その効果は。
「他人が自分を見て、視界から消えた時に全ての記憶が消える……か?」
ガードさんは途中で声をかけられて視線を外した。子供たちや院長は手洗いや調理でその場を後にした。そして記憶が消えて、次に見たときは赤の他人。ということなら話は通る。初めから忘れていた様子のフーラさんはおそらく一度病院に来たのだろう。三日寝ている間にミラークの姿を見て、病室を出るときに記憶がなくなったのだ。病院の従業員関係もそういうことだろう。
「自分を見ても記憶が戻っているわけじゃないから。今までの記憶は完全に消えてしまったんだな……」
原因がわかっても解決策が考え付かない。もう覚えている限りの知り合いは洗い出し終わっている。。結果が語るように手遅れだろう。例えもっと早くに効果が分かっていても視界に入らないように会話することは至難であり、なんなら街を歩いていてすれ違うだけで目に入るからいつかは記憶が消えることになるだろう。
「だとすれば、もうあの町で自分の存在は無いに等しいな……」
一から関係を築きなおそうとしても、視界に入り外れるとまたゼロに戻る。いつまでも自分を見つめてくれる人なんているはずもない。
孤独。
そんな言葉が浮かび上がる。誰にも覚えられず、誰にも助けてもらえず、誰とも関係を築けない。そんな寒々しい未来を想像してしまう。
「……とにかく、もうこの街にいてもしょうがないな」
他人が自分を忘れただけで、ミラークは忘れていない。友人を、知人を、家族を。だからこそその人たちから忘れられているという事実を会うたびに突き付けられるのが辛いからだ。
「……さようなら。また会えるなら、いつか」
誰にも見送られない中、切り捨てたくなかった思い出に別れを告げ、自分を育ててくれた街を後にした。
・ ・ ・
城下町ジェスカー。リフリーフの街から徒歩で一日かかる場所にある名が表す通り王族が住む城のある巨大な都市だ。普通は定期便の馬車か商人の荷車に相席させてもらうかが常套の移動手段になる。歩いていく人間なんて街から街を放浪する吟遊詩人でもしない。
「着いた……ここが、城下町ジェスカー……ひぃ」
しかしミラークの現状馬車に乗っても乗ったことを忘れられ不法乗車と指さされて守衛に突き出されてはたまったものではない。なので足を棒にしながら途中野宿も強いられながら、なんとかたどり着く。
この街に来た理由は、前の街にいづらいということもあるが、もっとも大きな理由は
「人が多ければ、もしかしたら自分を覚えられる人がいるかもしれない。あと黒魔術についてもなにか手掛かりがつかめるかも」
この身に染み付いた呪いをなんとか解呪する方法を探すためだ。城下町ジェスカーはミラークが知る限りで近くにある一番大きな都市。実際にここに匹敵する都市はそうそうない。食料、衣類、家具から道具まであらゆるものがそろうこの都市は、近くの街にも恩恵を与えている。実際にリフリーフの街にある衣類や道具なども、この都市から輸入したものも多く存在する。
「話には聞いていたけど、本当に大きな町、いや都市だなぁ」
建物の巨大さと人多さに圧倒されるが、本来の目的を忘れてはいけない。しかし今一番の問題といえば
「これからの生活をどうするかだ……」
空腹を主張する腹の虫を手でさすりなだめながら、これからのことを考える。
ミラークは今それなりの金銭を背中のリュックに入れている。このお金はミラークが薬屋で働いて稼いだお金。それらすべて自室である屋根裏部屋に置いてあったので、木を上り窓から自室に侵入し、お金と遠出に必要な品を詰めてきたのである。はたから見ればまぎれもなく泥棒に相違ないが、持ってきたものはすべて自身の持ち物だけ。薬屋の物には一切手を付けていない。それでも道中良心が痛むので、念仏でも唱えるように謝罪をリフリーフに向けて唱えながら歩いていた。
「おぉいそこの兄ちゃん! うちの果物を買っていかないか!?」
呼ぶような声が聞こえ、周りを見渡して該当するのが自分だと気づいたので、出店に近づく。そこには色とりどりの果実が所狭しと陳列されてた。
「どれがおいしいですか?」
「今朝いいリンゴが入ったんだよ! 甘酸っぱくて瑞々しいぜ!」
「そうなんですね。では二つもらっていいですか?」
「毎度あり! 包むから金用意しといてくれな!」
店主は背後にある紙袋に手際よく入れていくが、途中で手が止まり不思議な様子で紙袋を眺める。
「どうかしましたか?」
「あ? それがな、客もいないのに何故か俺はリンゴを包んでるんだよ。なんで入れてたんだっけかな……」
「あ、じゃあそれ僕が買います」
「お、いいのかい!? 気前のいい兄ちゃんだな! これは今朝採れた良いリンゴなんだ。一個オマケしてやるよ!」
「どうも」
複雑なやり取りの末、リンゴを購入した。
「やっぱり買い物一つにしても苦労するな……」
これからの生活についての難点がこれである。
たとえ一瞬でもミラークが視界から消えれば途端に存在を忘れてしまう。忘れるということは数秒前に行ったやりとりも忘れてしまうので、商談は振り出しに戻ってしまう。
今の買い物はまだスムーズな方である。リフリーフの街でも買い物をしたのだが、商品を頼んで取ってきてもらうも忘れられ同じやり取りを二十回ほど繰り返したり、お金を払った後に商品を用意されるところではお金だけ持っていかれ挙句ミラークからお金をもらった事実が消えているので、返金の説得をするのに一時間を要するなど改めて呪いの忌々しさを痛感した。
「それでもなんとか手掛かりの一つでも探さないと」
意気揚々とは言い難いが、己のこれからのためにと奮起し、人が交じり合う中に紛れていった。
・ ・ ・
城下町ジェスカーで過ごす日々はもう二週間が過ぎていた。
過ごす日々と言っても、人並みの生活を送れていたわけではない。第一としてミラークはここのところまともな寝床に横たわっていない。毎晩野宿である。
宿に泊まる金がないわけじゃない。宿を取り、部屋にいると急に宿の主人がマスターキーを使って入ってきて、鍵泥棒、部屋泥棒だと騒ぎ立てた。ミラークが部屋を借り、鍵を渡した事実が消えているのだから当然である。
その場は受付で記入した宿帳に自分の名前(いかに呪いでも物理的な記録は消せないらしい)が載っていることを確認させてなんとか納得してもらったが、「金は返す。だが気味が悪いから出て行ってくれないか」と言われたので、それ以来夜になると都市を出て少し離れたところの草木の中で眠るのが通例になっていた。
一日のサイクルとして、朝になると都市に入り賑わう大通りで自分を記憶できる人探し。途中で食料を調達。夕方になり人が減ってくると都市にある膨大な知識で壁を埋められた大図書館にて黒魔術についての情報を探す。閉館し夜になるとまた都市を出て野宿の場所を見繕い、眠りにつく。
人探し、黒魔術の手がかりともに成果はゼロ。わずかな期待すら匂うことのない煩わしい日々が続いていた。
「どうしようもないのか……」
心に影が差す。
持ち直して立ち直ったように見えるが、実際はカラ元気だった。まったく成果の出ない日々、誰にも名を呼んでもらえない孤独感。変わりようのない日々はミラークの心を着実に痩せ細らせた。
終わりはあるのか? こんなことが死ぬまで続くのだろうか? だとすれば何を想って生きていけばいい? 誰にも求められず、誰にも救われず、誰にも支えられない。死ぬときでさえ誰にも看取られないなんてこと、考えただけで寒さで震えが止まらない。人は誰かとつながりを持っているから安心して生きていけるのだと嫌というほど実感できた。
「…………もう」
その口から終末的な悲嘆が漏れそうになったその時。
「はぁ、はぁ、あ!」
声が聞こえた。顔を上げると目の前で誰かが今まさに足を引っかけ倒れた。
「うぅ……」
「…………大丈夫、ですか?」
声をかけてからハッとする。何をしているんだと。どうせ自分のことなんて覚えられない。助けてもどうしようもないし、余計ややこしくなるだけだ。
しかしその手を取ってしまったからにはもう引っ込めない。倒れた人を起こすだけはした。
少女だった。年齢はミラークと同じくらいか。身に着けている服は正直乞食のようなボロを着ていた。それと同じくらい薄汚れてぼさぼさの髪だが、それでもなお美しいと感じる金髪だった。しかるべき手入れを施せば宝石に比肩する輝きになるだろう。
「…………」
ミラークのほうを向いたかと思うと、首を振りキョロキョロと周りを見渡す。見とれていたミラークはこれで現実に引き戻される。あぁ今のでまた忘れただろうなと。
「……さようなら」
意味のない礼をして荷物を手に取りその場から立ち去る。
「待って!」
声がかけられた。普通のことのように聞こえるかもしれないが、これは異常事態だった。
急な事態に目を見開き勢いよく振り向く。自分のことかと思ったが見たものはそれ以上だった。
「こっちを見ていない……?」
少女は全く別の方向を見ていた。ここは人気のない路地裏。見渡しても少女以外はミラークしかいない。少女はミラークのことを呼んでいる。何かの間違いなのか
「お願い、待ってください!」
やはり間違いではない。しかしありえない。少女はミラークではなく壁に向かって叫んでいる。ミラークが視界に入っていない以上記憶が維持されることはない。それは嫌というほどわからされている。ではなぜ?
「あの、僕を呼びましたか?」
「っ! はい! まだいるのですね!? ど、どこでしょうか?」
反応を見つけてパァっと明るい顔をする少女。その表情は年相応に花のように愛らしかった。
少女は空間を探るように両手を前に出し右へ左へ飄々朗々とする。
「僕を覚えているのですか?」
「お、覚えて……? あの、さきほど手を差し伸べてくれた方ではないのですか?」
完全に記憶している。視界から消えればミラークの行動、つまりさっきの助け起こしたことも忘れているはずなのに。
ふと違和感に気付き、少女の前に立ち、顔の前で手のひらをひらひらさせる。それに対しての反応はなく、変わらず両手を前に出しミラークを探している。
「……目が見えていないのか?」
少女は盲目であった。目は開いているが、よく見ると黒も白もくすんだ色をしていた。
「そうか。初めから視界に入っていないから……」
ミラークの呪いは「ミラークを視界に入れ、次に視界から消えた時、ミラークに関するすべての記憶が消える」である。ミラークを見たときに初めて呪いは牙を向く。
つまりこの少女は盲目で初めからミラークを見ていないから、呪いの対象になっていないわけである。
「あの……すいません。どこにいらっしゃるのでしょうか……?」
「あ、えっと……」
見えないがゆえに一歩前にいるのに気が付かない。確かめる術は一つだけ。
ミラークは少女の両手を包み込む。すると磁石のように少女が手を握り返す。
「あぁ……よかった。もういなくなったのかと思いました」
見えていないが、少女の瞳はまっすぐミラークを見つめている。
「その、優しいあなた。急で申し訳ないですけど、お願いです。私を助けてくれませんか?」
「え……? 助け、る?」
記憶の維持、謎の少女、捕まれた手、そして助けを求める言葉。整理しきれない情報の多さに戸惑い、ミラークは握った手を少し緩めた。
それは触覚が情報の多くを占める少女にとって十分な返答に感じていた。
「あ……そう、ですよね。こんなこと言われても、困りますよね……」
「あ……」
少女から手を離す。後ろ足に一歩、二歩と下がる。軽い会釈をして、一言。
「ありがとう、ございました。では」
よたよたと頼りない動きで離れていく。
手が冷たかった。いや冷たくなった。大切なもの、暖かなものが消えていき、心の温度が急激に失われていく感覚。ミラークは知っている。これは一度体験している。
「……待って」
行かないで。直感であり確信だった。少女の手をもう一度握れなければもう自分のなにもかもを手放してしまう。
暗いのは怖い。寒いのは辛い。孤独でいるのはもう耐えられない。
「待って!!」
ミラークは数歩を駆け出し、少女の手をつかみ取る。
急に握られてビクッと身を震わせる少女。何が起きたかわからぬまま、言葉が続く。
「その目を、治したくないですか!?」
「え? 目を、治す?」
「そうです! 僕は薬剤師……の端くれですけど、多少は医学に精通しています! だから僕が必ずあなたの目を治してみせます! だから、だから僕と……僕と一緒にいてください! お願いします!!」
矢継ぎ早に繰り出された言葉に少女はあっけを取られるが、握られた手の熱さでミラークの熱意を感じ取る。
「名前を、聞いてもいいですか?」
「あ? え、その、ミラーク。ミラーク・ロンハートです」
「ミラーク。いい名前。とても安心します」
握られた手を両手で包み、言葉を返す。
「私はステラ。ステラ・サンロード。その、見ての通りあなたに返せるようなものなんてないと思いますが、それでも、私を助けてくれるのですか?」
「……はい。大丈夫です。それにその、えっと、一緒にいてくれるだけで、十分というか、その……」
先ほど勢いに任せて言った言葉が急に恥ずかしくなり、言葉尻がしぼんでいく。その言葉にステラがクスクスと笑みをこぼす。
「ありがとうミラーク。ではごめんなさい。初めにわがままをしてもいいですか?」
「はい! え? その、大丈夫ですぅ!?」
返事を待たずにステラがミラークを両手で抱きしめる。余すことなく密着するその体は震えていた。
驚きと恥ずかしさはその震えを察して消えて、その体を抱きしめ返す。
お互いを感じあう二人の思考は一致していた。
「「((温かい。もう、失いたくない))」」
ここに二人の人生が絡み合い、物語は新しい一つの物語へと生まれ変わっていく。
欠けた二人が支えあい、助け合い、寄り添いあう、温かくも悲しい運命の物語が、幕を開く。
・ ・ ・
「じゃあ、入るよ」
そう言ってミラークが歩き進めるのは自分たちより何倍も高さがある巨木が立ち並ぶ大森林だった。
なぜこんな森の中を行くことになったかは、少し時間を遡ることになる。
二人は抱擁のあと、路地裏のもう少し奥にある木箱に座り話をする。話をするなら普通は相応の店にでも行くようだが、方や記憶されず方やボロをまとっているので、お互いに人がいない方が都合がいいのである。
「改めてありがとうミラーク。わがまままで聞いてもらって」
「い、いや。別に大したことはないよ。ははは」
ミラークは交友関係はとても広いが、こと男女の関係となればからっきしだった。真面目な彼は言い換えれば奥手で不得意だということだ。
先のことで少し赤くなりながらも言葉を返す。
「そういえば、ステラは最初に助けてほしいって言っていたけど、あれはどういうことなの?」
「……その、私は今、追われているんです」
「追われている? 誰に?」
「それは……分からないです。でも私は一度捕まって、そこから逃げてきたんです」
「だからそんなボロを着せられていたのか。あ、もしかしてその目もそれが関係していて?」
「えっと……」
「あ、ごめん。あんまり根掘り葉掘り聞くことじゃないよね」
「いえ! 助けてほしいといったのは私です。ただ答えられることが少なくて……ごめんなさい」
「いいよ、気にしないで。えっと、これからどうしようか? 追われているならこの街を出る?」
「できればそうしたいのですが、ミラークはいいのですか?」
「大丈夫だよ。僕はもともとこの街の出身じゃないからね。少し離れたところにあるリフリーフってところだよ。今は……その、旅をしているっていうか、なんていうか」
黒魔術のことは伏せておくことにした。話しても信じてもらいにくそうだし、何より目が見えない人に自分呪われているんです、なんて余計な不安を与えることもない。
「そうなんですね。なら一つ当てがあるんです。そこに連れて行ってもらえませんか?」
「どこか逃げ込む場所があるってこと?」
「はい。まずは北門に向かってくれますか?」
「わかった。ちょっと待ってね」
背におぶっていたリュックを前にかけなおし、ステラの前でしゃがむ。
「ステラ。ゆっくり前に進んで。僕が前でしゃがんでるから、もたれかかって」
「もたれ……それは、背負ってくれるということですか?」
「そうだよ。手を引いて歩くより、こっちのほうが楽じゃない?」
「ですが、その、重くないでしょうか?」
「大丈夫だよ。こう見えても結構力はあるんだよって、見えてないよね、ごめん」
「いえ、ミラークの体はさっき抱き着いたときになんとなくわかりましたから、しっかりとしているのはわかりますよ。では、よいしょ」
「おっ……っと」
思わぬカミングアウトにちょっと照れながらもステラを背に乗せて立ち上がると、今まで体験したことがない感覚が押し寄せてくる。
軽く感じたのは見た通り。しかし肌が触れるということは予想していなかった。端的にすごく柔らかい。今までは太陽をふんだんに浴びた厚手の毛布が一番気持ちいいものだと思っていたが、たった今その記録が塗り替えられた。
そして鼻孔をくすぐる甘い香りがふわっと流れてくる。香水とは違う人特有の優しい気持ちになれる香りだった。女性からいい匂いがするのは女性ホルモンが作用しているのだと医学書でなんとなくは知っているのだが、それだけで男とはこうも違うのかと初めて知った瞬間であった。
「やっぱり孤児院の子供たちとは違うなぁ」
「くんくん」
「わひゃぁお!」
突然首筋の匂いをかがれて危うく背中から落としそうになったが、なんとかキープした。
「どど、どうしたの急に!?」
「あわわ、すいません! いやその、背負ってもらったのって初めてだし、こんなに男性に近づいたことがなかったから、つい……」
「そ、そそそうなんだ! あ、臭い? やっぱりちょっと匂うかな!?」
働くこともできずお金が減る一方の生活において、入浴を贅沢と判断し、回数を減らしていたのを思い出し、焦りからさらに汗をにじませることになった。
「いえ、そんなことはないです! ただその、嗅いだことのない匂いだなぁって」
否定はしているものの、後半のセリフで怪しさが窺わせてしまっている。もう風呂は欠かさない。そう決意したミラークであった。
「じゃ、じゃあ行こうか。まずは北門だったね」
「はい。着きましたら言ってください。そこからまた案内します」
ステラの言う通りジェスターの北門に向かう。ミラークがリフリーフからやってきたのは南門で、毎晩都市を出るのでその付近で活動していた。ステラと出会った路地裏も南門の近くなので、少し歩くことになる。なるべく背負っていくつもりだが、これから歩くとなると靴が必要になるので途中で購入した。
北門に到着し、検問を受ける。追われているのなら検問で止められるのかと思ったが、特に怪しまれることもなく出国出来た。さすがにボロを着たままだと待ったがかかりそうなので、自分が羽織っていた上着を着せた。服も買えばいいと思ったが、追われているのならそんな悠長に選んでいられない。それに服なら今から逃げ込む場所にあるとステラが言うので靴だけにした。
「次は牧場が見えるまで街道をまっすぐ進んでください。あ、ここからは歩きますよ」
そう言って背中から降りて靴を履き、手を繋いで目的へと進む。女の子と手をつなぐことの気恥ずかしさは目の見えないステラへの気遣いですっかり忘れていた。
雲一つない快晴の中歩いていると牧場が見えてくる。たくさんの牛が草をはむ姿が見える。ステラにも教えるとモーモーと鳴き真似で声をかける。牛もブモォォと返事をした。
「声なら見えなくてもいるのがわかりますね。ではミラーク、周りを見渡してください。大きな森が見えますか?」
「えっと……あった。少し離れたところに針葉樹林の森があるよ」
「それです! その森の中に入ってください」
「森の中に逃げる場所があるってこと?」
「えぇ。きっとびっくりしますよ」
そして時は戻り森の中。足場が悪いため再びステラを背負い森を踏み歩いていく。
「方向とか、何か目印になるようなものってあるの? もし迷ったら森の中で野宿は結構危険なんだけど……」
「大丈夫です。入ったところからなるべくまっすぐに歩いてください」
道という道もなく、方位磁石もない中まっすぐ歩くというのはそれなりに至難の業だ。だが目の見えないステラを当てにするわけにもいかないので、言われた通り直進を続けると、思いがけない光景を目の当たりにする。
「これは……すごいな」
歩くこと三十分。木々を抜けた先に広く木の刳り抜かれた空間があり、その真ん中には二階建ての洋館が静かに、だが圧倒的な存在感をもって鎮座していた。
「見えましたか?」
「うん。ステラが言っていたのは豪華な屋敷のことかな?」
「そうです。その屋敷は住む者がいなくなって捨てられた建物なんですよ。もうずいぶん前のことですから、その、覚えている者もいなくて」
「それを知っているってことは、ステラはここに来たことがあるの?」
「はい。幼いころに何度か訪れたことはあります。懐かしいですね……」
今の屋敷には壁にツタが這っていたり窓が薄汚れていたりとまさに放置され手入れのない状態であるが、ステラにはきっと昔のままのきれいな姿に見えているだろう。
しかし汚れているとは言うものの、立派な屋敷なので壁が剥がれていたり窓が割れていたりなどの目立った劣化は見受けられない。当時の建築の名工がその時代一番の技術で組み上げたのだろう。
「ここならよっぽどのことがない限り見つかりはしないでしょう。ただその、移動などが不便ですけれども……」
「そうですね。でも今度は僕だけなので、もっと早く行けると思いますよ。では入ってみましょうか」
屋敷の周りは三メートル以上ある頑丈な柵で囲まれている。これならば小動物はともかく狼やイノシシなどの大きな動物が侵入しているということはないだろう。
屋敷の玄関の延長線上にある両開きの門を押し開ける。門から玄関までは加工された石畳(これも精密で高価だろう)が敷き詰められているが、隙間から雑草が生えており、放置されてきた年数が伺える。
玄関の扉の前に立つ。この扉も職人の手によってだろう、美しい紋様が彫り込まれている。
「この屋敷いくらかかっているんだろう。考えもつかないや」
「……入らないのですか?」
「あぁごめん。今開けるよ」
建物に魅入られていた自分をステラが引き戻し、ドアノブをひねる。
「あれ……開かないや。鍵がかかっている。それもそうか」
いくら放置されているとはいえ、鍵を開けっ放しにして放置したりしないだろう。さてどうしたものかと考えていると。
「ミラーク。入れないのですか? でしたら横に窓はありませんか?」
「窓? うん、窓なら正面にもたくさんあるけども」
「なら石か何かで割って入るのは?」
「……ステラって以外にワイルドだね」
まぁそれしかないかと思い、玄関にステラを待たせて森に戻り、手ごろな石を持ってくる。
「ステラ投げるよ! よぃっしょ!!」
バリィィィィィン!!!
厚めの窓ガラスだったが、快音を響かせて大小様々に砕ける。
さっきより小さい片手で持てる石で縁に残ったガラスを砕き、布をかぶせて中に入る。
「あとで片づけないとな、ステラが踏んだら大変だ」
そのまま玄関に移動し、内側から鍵を外す。
「これで入れるよ……わぁ……」
ステラを中にいれ振り返ると、ミラークは見たこともない世界を目にする。
複雑だが美しい模様の絨毯。明かりのないこの空間でも目立つ彫刻や絵画の数々が飾られ、極めつけは天井。光り輝くように形作られたガラスや貴金属が数えきれないほど装飾されたものが吊るされている。シャンデリア、というものだったと思う。思うというのはミラーク自身見たことがないものだったから。ミラークに限らず普通に暮らしていればまず目にすることはない、この世界では間違いなく「贅沢」でありその中でも上位に分類される代物である。
「ふふふ。見えなくてもミラークが驚いているのがわかります」
「そうだね……これは、驚かない方が無理だよ」
「その様子だと壊れているようなところはなさそうですけど、どうですか?」
「見た感じは捨てられてるとは思えないくらい汚れや損傷はないね。ただやっぱり埃とかは相応にあるかな」
足踏みをするともわっと埃が舞う。ここに住むのなら入念に掃除をしなければいけない。この広い屋敷を一人で。
「ステラはこの屋敷の構図とか覚えてる?」
「昔のことなので曖昧ですけど、玄関の正面に二階への階段があって、二階には客室や応接室、バスルームなど来客者が使う部屋が多く、一階には食堂や厨房、使用人部屋など屋敷の者が使う部屋が主だったはずです。子供の時は入ってはいけない部屋も多かったので、むしろ知らない所のほうが多いです」
「なるほど。じゃあ屋敷の探索の前に、ステラが寝られそうな場所を探してくるよ。ちょっとこっちで座って待ってて」
玄関ホールの端にあるソファーに座らせて、二階へと上がる。階段が抜けないかが懸念だったが、軋む音一つ漏れることはなかった。
結構な数の客室があったが、手ごろな客室を見つけたので、簡単に掃除をしてステラを招き入れる。
「ベッドはあるんだけど、洗濯をしないと寝られないから、今日のところはこの部屋のソファーで寝ることになるけど、いいかな?」
「もちろん大丈夫です。むしろこのソファーなら十分すぎるくらいですよ」
「よかった。あ、毛布なら僕のがあるなら心配しないで」
「ありがとうございます。ミラークはどこで寝るんですか?」
「ここ以外にも客室がいっぱいあるから、適当な部屋で寝ようと思ってるけど」
「……そう、ですか。わかりました」
「じゃあ僕は屋敷を見て回ってくるよ。危ないかもしれないから、ステラはここにいておいて」
「はい。お願いします」
ステラを部屋に残して屋敷の探索を始める。二階も一階も幸いなことに鍵がかかっている部屋は一つもなかった。扉を開けるたびに舞い上がる埃が入らぬように口元を布で押さえながら見回る。
「よし、これで大体は見て回ったかな」
ひとまず危険なものや動物が住み着いているということはなさそうだと確認できた。しかし見た目通りしっかりした造りの屋敷だが、時の流れには勝てず所々老朽化が進んでいるところもある。ステラの安全のために修繕する場所も把握する必要がある。
それにともなって掃除や生活に必要なものも浮かび上がってくる。ジェスターに買い出しに行く必要ができたことも。
「戻ったよステラ」
「おかえりなさいミラーク。どうでした?」
「あ……う、うん。大丈夫だったよ。また掃除が終わったらステラを案内するよ。もう夕方だし、食事にしようか。と言ってもそんな大したものは今ないんだけど」
簡単に取れる食事ということでミラークが持ち合わせていたパンをステラに渡す。
「えっと、パンですよね? 合っていますか?」
「合ってるよ。いくつかあるから、食べたいだけ食べていいよ」
ステラはパンをちぎって口に運ぶ。パンカスやジャムがこぼれたりしていたのを、ミラークは気づかれないようにふき取っていった。
食事も終わり、外もだいぶ暗くなってきたことをステラに伝える。
「もう暗くなってきたし、そろそろ寝ようか。ステラはこのままソファーで寝てくれたらいいから」
「あ、はい。えっと、ミラーク?」
「どうかした? あ、僕は隣の部屋で寝てるから、何かあったら呼んでくれればいいから」
「……わかり、ました。おやすみなさい。ミラーク」
「うん。おやすみステラ」
部屋の蝋燭を消し、ミラークは隣の部屋のソファーでゆっくりと眠りに落ちていった。
しかし少ししてから目が覚めることになる。
「うん……? なんだろう、音が聞こえた気がする」
蝋燭を消しているので窓から差し込む月明かりでしか周りを把握できない。目を凝らしてあたりを見回すと、動くものが目に入る。
「な、なんだあれ?」
見ればそれはテーブルクロスなのだが、問題はかぶせられるように中に何かがいてもぞもぞともがいていることだ。
もしや自分が見逃しただけでこの屋敷には動物が住み着いていたのか。そうであれば早急に確認と対処をしないとステラに何かあってからでは遅い。
自前のフライパンを片手に意を決してテーブルクロスを勢いよく剥ぐ。そこには
「……ステラ?」
しゃがみこんで涙目で手足をばたつかせる彼女がいた。
「あ……その、これは……」
声をかけられて気が付いたステラは言い訳をしようとしていた。
「ここまで来なくても、何かあれば呼んでくれれば――」
「ごめんなさいミラーク!!」
今まで聞いたとこのない声で謝罪をするステラ。その目の涙はまだ枯れていない。
「ど、どうしたの急に」
「私、本当はあなたと一緒に眠りたかったんです。でもそんなことであなたを煩わせたくなかった。そんなことまでお願いしていたらキリがないって。でも、一人で横になって、怖くなってきて……グス、朝になったらあなたがいなくなっていたらどうしようとか、もしかしてこれは夢なんじゃないかって、そんな不安ばかり溢れてきて……うぅぅ」
ステラの告白を聞いて、自分の身勝手さを思い知った。
この呪いにかかってから、初めて自分を覚えていられる人。そんな存在がうれしくて、いてくれるだけで心が満ちていた。
だからか。優しくしていたつもりだったが、それは独りよがりだった。
「ごめん。僕は君を蔑ろにしていた」
「そんな! ミラークは十分私に良く――」
「僕ね、少し前に一人ぼっちになったんだ。誰にも覚えてもらえなくて、誰にも相手にされなくて。でもそんなときに、君と出会ったんだ」
ステラの手を握ってはっきりと、だが優しく語る。
「本当に嬉しかったんだ。僕を覚えていて、触れてくれて、優しくしてくれるステラと出会えて。だからそれで舞い上がっちゃってたんだ。君のためにとしていたどれもが自己満足で、結局君に寂しい思いをさせてしまっていた」
離れたくないと思ったのに、失いたくないと決めたのに。
「だから誓うよ。これからは心から君を想い、君のために尽くすよ。だからさ、ステラももっと頼ってほしい」
「私……私も、あなたに遠慮していました。あなたの迷惑になるからって。だけど」
握っていた手を引き寄せてその胸の内に抱く。
「頼って、いいんですよね」
「もちろん。って言えるほど頼りがいがあるか分からないけど、これからはなるべく離れないようにする。僕を君の支えにしてほしい」
「私も、ミラークを支えられるようになります。ですので改めて、よろしくお願いします」
「あ、そうだ。敬語は使わなくていいよ。声でなんとなくわかるかもだけど、ステラと同い年くらいだと思うから」
「あ……はい。わかりまし、んん、分かったわ。これからよろしく、ね。ミラーク」
「うん。こちらこそ」
「それで、その……これからの、ことなんだけど……」
「あぁわかった。ステラの部屋のソファーにする?」
「いえ、ここで大丈夫です。実はもう、眠気が、限界……すぅ」
緊張がほぐれたのか泣きつかれたのかはたまた両方か、ミラークに体を預けて寝てしまう。
お姫様抱っこでソファーに座らせて、その横に座り一枚の毛布で眠りについた。
お互いの体で支えあって眠る二人の手は、しっかりと握られていた。