一章 「その幸せは薄氷の上」
その少女は震えていた。
冬も近づき、黄や赤に色づいた木の葉は街路の絨毯と敷かれ鮮やかに染めていく。
外気もそれに連なり生き物にとって生きにくい寒さへと変わっていく。当然そこに住む人々は時期に適した温かい衣装に身を包む。
しかし少女はボロをまとっていた。比喩でもなんでもなく、汚れてくたびれて厚みもなく、とても冬を越すことなんてできそうもない。
しかし彼女が震えているのは寒いからだけではない。何もできない恐怖に怯えてその身を震わせている。
動けない。叫べない。何も見えない。
事態を動かせない閉鎖的状況はとてつもなく人の心を弱く、儚いものにしてしまう。
ゆえに少女は身を丸めて蹲り、響かない声でどこにも届かない言葉を叫ぶ。
「誰か……私を、助けて」
一章 「その幸せは薄氷の上」
やっぱり自分は恵まれている。とミラーク・ロンハートは改めて考える。
病院の一室、調剤室で薬草をゴリゴリと磨り潰しながら自分の置かれた環境を見返す。
ミラーク・ロンハート。十九歳。城下町の近くにある小さな町で生まれ、幼いときに事故で両親を亡くし孤児院で育つ。人生の転機として十八歳の時に孤児院に訪れた薬剤師さんに気に入られて引き取ってもらい、住み込みで仕事をさせてもらっている。
「ミラーク君。調子はどうだい?」
「あ、ジロンド先生。頼まれていた製薬の下準備、ちょうど今終わりました」
つぶし終わった薬草を見せる。笑ってうなずいているところを見るに失敗はなさそうだ。
「ミラーク君は本当に優秀だねぇ。助かるよ」
「いや、これもそれも先生に教わったことをやっているだけですよ」
「教えたことをすぐに覚えて実践できる。簡単のようでそう出来るものじゃありません。君は本当に優秀ですよ」
ありがとうございます。と照れ臭くなって俯きながら返事をする。
「君が滞りなくやってくれたおかげで今日の仕事は無くなったよ。早めだけど、今日は終わりで大丈夫だよ」
「そうですか。では何か用事が出来たら呼んでください。いつものように屋根裏にいますので」
「すまんねぇ。働いてもらっているのに、あんなところしかあてがってあげられなくて」
「いえいえ、あれだけの広さがあれば僕には十分ですよ。では」
礼をして間借りしている屋根裏の自室に戻る。早めに上がらせてもらったが急いでやる用事もないので、医術の勉強をしようと本に手を伸ばしたところで思い出した。
「そういえば前に本屋でお願いしていた本、そろそろ入荷しているころかな。となると少し離れてるからついでにほかの買い物も……よし」
仕事着から身支度を整えて、一階への階段を降りる。
「あらミラーク。お出かけするの?」
声をかけてくれたのは先生の奥さんのフーラさん。ジロンド先生の仕事にはかかわっていない専業主婦だ。あとお世辞抜きに美人だ。
「はい、入用の物を買いに行こうかと、なので先生に一言言っておきます」
「あらそうなの。なら私が伝えておくから、このまま出かけなさい」
「いや、そのくらいでお手を煩わせるわけには」
「ミラーク。あなたのことは家族のように思ってるんだから、そんなことで遠慮しないの」
「……ありがとうございます。では伝言、お願いします。行ってきます!」
「いってらっしゃい。夕飯までには帰ってきてね。今日はミラークの好きなシチューにするから」
早く帰る用事が出来たので、駆け足で街へと繰り出す。
この小さな町、リフリーフは人が住む場所こそほかの都市に及ばないものの、その周辺は森や草原などの緑が非常に豊かな土地であることで有名だ。そこでとれる草木や良質な水。そして気候も穏やかで栄養の豊富な大地で育てる野菜や果物は他の街に負けず劣らずな特産となっている。
なのでもちろん植物もたくましく群生している。そこに目を付けたのがジロンド先生だ。薬学に詳しい先生は効能の高い薬草がすぐにとれてすぐに調合できるこの街に薬屋を開いたのだ。お店はたちまち有名になり、今では外部から買い付けや交渉に商人の方が来ることは珍しいことではなかった。
「おう! 薬屋の先生とこのボウズじゃねぇか! 今日はどこに行くんだい?」
そこで働かせてもらっている自分もおこぼれではあるものの名前を覚えてもらっている。
「あぁ八百屋のおじさん、こんにちは。奥様のご容態はいかがですか?」
「おうよボウズのところの薬を飲んだら途端に具合がよくなってな! ジロンド先生様様だぜ! また今度嫁と顔を出すつもりだが、ボウズにも礼を言っておかなきゃだな! ありがとよ!」
「いや、僕はただの手伝いですから! そんなお言葉いただくわけには」
「あーっはっはっは! 謙遜するなよボウズ、みんな言ってるぜ? 若い有望な助手がいるってな!」
「そ、そうですか。では僕も頑張って期待にこたえられるようにします!」
「がはははは! こりゃこの街も安泰だな! なら礼にこのリンゴをやるよ!」
そら! と言って投げてきた瑞々しいリンゴを危なげにキャッチする。
「ありがとうございます! ではこれで!」
「おう! またよろしくな!」
別れを済ましてもらったリンゴを一口かじる。バランスの取れた酸味と甘みが口いっぱいに広がる。
お客さんの好意と期待を忘れぬように一層励むことを胸に改め、目的の本屋へと足を運ぶ。
「おやミラーク君。おでかけかね」
「ミラークちゃんじゃない! またうちに寄ってね!」
「ミラークさん。以前はありがとうございました」
街の人に親切な声をかけてもらいながら、目的の本屋にたどり着いた。
「こんにちはガードさん」
「ん? あぁ薬屋のとこのミラーク君か。いらっしゃい」
「すいません。以前頼んでおいた本はもう入荷していますか?」
「あぁあれね。来とるよ。取ってくるからちょっと待っとれな」
ガードさんが奥の書庫に取りに行っている間、商品の本を眺める。この町一番の蔵書を誇るガード書店。本人は城下町の本屋に比べたら犬小屋だよと卑下しているが、それでも売れ筋の本を充実させているので負けているわけではないと思う。かくゆうミラーク自身の所有する蔵書もすべてこの書店でそろえたものだ。立派なお得意様である。
眺めているとふとおかしなものを見つけた。
「お待たせ。この医術書で間違いないね?」
「え、あぁはい合ってます。ガードさん、これって」
「その張り紙かい? 城下町から本を取り寄せるときにもらったんだけどね、なんでもこの辺りで子供の誘拐事件が多発しているようなんだよ」
その張り紙には誘拐事件の大きな見出しにさらわれた子供の名前が記載されている。しかし肝心の犯人の特徴などが書かれていない。
「まだ犯人の尻尾もつかめていないそうだ。ミラーク君も人気がない時の外出は控えたほうがいいよ」
「そうですね。わかりました。薬屋に来るお客さんにも言っておきますね」
発注した本の代金を支払い店を後にする。空が赤みを帯びてきた。まもなく話していた人気のない時間がやってくるので、来た時とは違う心持ちで駆け足で帰路についた。
・ ・ ・
言いつけ通り夕飯までに帰宅し、皆で食卓を囲んで夕飯を済ませる。そのあとは寝るまでの間で買ったばかりの医術書を読み込む。しかし次第に睡魔に勝てなくなり、ベッドに潜り込もうとしたが
「水が飲みたい……」
階段を下り一階のキッチンに向かう。その途中で窓の外にあるものが目についた。眠たい目をこすり、よく見てみると
「あれは……ジロンド先生? 急患かな? でも医療バックも持たずに出ていかないよな」
薬屋だが、先生は夜中でも電話があれば急患の対応もしている人だ。しかしそれにしても手ブラで、なおかつ白衣も着ずに出かけることはまずない。
妙な行動を目にしてしまったためすっかり目が覚めてしまった。このままベッドに入っても安眠には至れないだろうと思い、先生のあとをつけることにした。
別に声をかければいいのだろうが、夜中に声を出すのも憚られるし、先生が自分のせいで起こしてしまったのではと考えてしまわないためでもあった。様子を見、もし本当に急患であるならば、声をかけず先に家に帰って眠ればいい。そう思い尾行を始める。
先生を見失ってはいけないので、屋根裏に上着を取りに行く暇もなく、夜風に身を震わせながら追跡する。
「どこに行くんだ……?」
街のことも先生のこともよく知っているから、どの方向に行けばどこに行こうとしているかは多少なりとも予想は出来る。だが今回は例外だった。頻繁にあたりを見回しながら挙動不審に歩く先生から目的が読み取れない。
門番の目を盗み、ついには街の外にまで出ていったため真夜中の追跡劇はさらに混迷を極める。だがしばらくしてようやく展開が切り替わる。
「あんなところに、地下? 入っていくぞ……」
街から少し離れた場所にある大きな大木のそばに、土で隠された地下への扉があり、そこに先生は入っていった。もちろんそんなものがあるとは露とも知らないし、聞かされたとこもない。
どう考えても怪しい。あそこには薬屋にあるのとは別の薬が置いてある保管庫だ。夜中に迷惑にならないように地下室で夜通しで薬の研究をしているんだ。そんな前向きな考えが浮かんでくるが、どうしても暗い考えが消えてくれない。夜も更けたこんな時間に人気のない街の外の、その上誰も知らないような隠された地下室で一体何をしているのだろうかと。
「聞いてみるしか、ないよな」
夜風に当たり体が冷えてくる。あまり長考できる環境でもないし、考えても仕方がない。直接聞くために、地下の扉を開ける。外気とは違う空気に若干慄きつつも、地下へと下っていく。
この時の行動によって自身の一生を使った悲劇が生まれることを、ミラークは知る由もなかった。
・ ・ ・
がりがり、がりがりがり。
硬いものが齧りあう音が聞こえる。その正体は男が石畳にチョークで線を引く音。
何の線か? 文字か? 記号か? 目印か?
そのどれもが違うのは、全体を見れば答えがわかる。そのどれでもないものが描かれていた。
「これで、完成だ」
書きあがったものは、幾何学的な紋様だった。文字らしいものがあるかと思えば決して読めるものではなく、左右対称や様式に沿った形が描かれているわけでもない。わかるのは全体的に円を描いたものであること、そして
「ん、んぅ、んんー!」
その円の真ん中に縄で四肢を縛られて、猿ぐつわを噛まされている男の子が転がされていることだ。
「大人しくしてるんだよボウヤ。なぁに、ちょっとの間だけ苦しいだけさ」
昼間と口調は似ているが、雰囲気はまるで別人であるジロンドは男の子に囁きかける。
「では実験だ。あとはここに火を落として……」
ジロンドが松明を紋様の線に火の粉を落とすと、ただのチョークの線がまるで導火線のように火を走らせて、紋様を燃え上がらせる。すべての紋様が火に包まれると
「んんん! ぎ、ぎゃぁあああああああああああああああああああああああ!!」
中央の男の子が声を上げ悶え苦しみ始める。並の苦しみ様ではない。猛毒かなにかで内側から蝕まれているのか、痙攣と動悸が混在している。
一分ほどだろうか、紋様に火が消える。それと同時に男の子も動きを止める。息切れの呼吸も聞こえない。
「ちぃ、失敗か。コロッと死にやがって、子供を攫うのも楽じゃないってのに、クソ!」
動かなくなった男の子を蹴り、苛立ちをあらわにする。落ち着くためかタバコを吸おうとした時。
「おい、そこでなにやっている!」
「っ!」
ジロンドは虚を突かれタバコを落とし、声の聞こえた地下室の入り口に目を向けると
「……なんだお前か。驚かすなよ!」
「なんだとは失礼だな。それより、これはなんだ?」
入り口から入ってきた四十代のジロンドより若い男は片手で気絶した少年を引きずってきた。
「……うちで預かっている子供だ」
「はぁ? 後をつけられてたってことじゃねぇか。耄碌してんじゃねぇぞクソジジィ」
「黙れ。その子は預かる。それよりさっさと金をよこせ」
「おいおい、あんたの不始末の尻拭いをしてやったんだぜ? ちょっとくらい誠意ってのがあってもいいんじゃねぇの?」
「……ふん、意地汚い奴め。そこにある薬でも持っていけ」
「へへ、わかってるじゃねぇか。ほいじゃ、これが金な」
男は乱雑に薬瓶を懐にしまい、銭袋を渡す。ジロンドは棚にしまってある羊皮紙の束を手渡す。
「ほほーん。これが大悪党ジロンド先生の最低の新作ですねぇ。相変わらずひどいものをお作りになられるこって」
「それを売りさばいて私腹を肥やす貴様がほざくな。取引は終わった。さっさと消えろ」
「おぉ怖い怖い。では、これからもいい関係でいたいので、夜道には気を付けてくださいねぇ、ジロンド先生」
男は軽薄に別れを告げる。残ったのはジロンドと横たわる少年だけである。
・ ・ ・
「ん、んん……」
眠っていた意識が戻る。ミラークは混乱している記憶を整理しながら状況を確認する。
「起きたか」
「ジロンド先生! あた!」
慌てて起き上がろうとするが、手足が縄で縛られているせいで芋虫のように体をくねらせることしかできない。
「えっと、僕は……そうだ! 先生早く逃げてください! ここで何をしているかわからないですけど、暴力をふるう男がいます! 縛られていないのなら、早く!」
「こんな状況でも私の心配かい。お前は底抜けにお人良しだな」
とっさに危機を知らせたが、さすがにいつもとジロンドとは雰囲気が違うことに感じ取る。
「せ、先生……?」
「さて、いつ侵入してどこまで見たかは知らないが、この地下室に来た時点でもう手遅れだ」
「見、見たって……先生、さっき火をつけていた」
「やはり見ていたんだな。そうだとも。私はここで黒魔術の探求を行っているのだよ」
黒魔術。特殊な道具や呪文などを使い他者に呪いをかける儀式。本質的に他者を傷つけることが目的の不道徳な術法。知識としては知っている。だがそんなことが可能なのか、なにより実在しているのかなど普通は知る由もない。まさに今の状況と同じ現実離れした単語である。
「黒魔術って、そんなのあるわけが、噂にも聞いたこともない」
「別に信じようが信じまいが私にとってどうでもいい。重要なのは君があれを目撃したことだ」
ジロンドが指をさした部屋の片隅にはピクリとも動かない男の子があった。しかしそれだけではない。その奥には女の子もある。別の男の子もある。無造作に積まれたそれらは共通して生気が感じ取れない。
「あ、あぁ……そんな、子供が……せ、先生、嘘ですよね、そんな、先生が、あんなこと……」
「君ははっきりと言わないと理解しないだろう? そうとも、あの子たちは私が黒魔術の実験のためにさらってきた子供たち、だったものだ」
あっさりと明かされた事実に動揺し、次の言葉が紡げない。あれほど優しかった先生が、いったいなぜ?
思考が整うこともまたずにジロンドは黒魔術の準備を進める。
「楽にしておけ。ちょっと苦しんだあと、楽になれる」
ミラークは気が付いた。自分の周りには線が引かれていることを。そしてジロンドの手には松明が。
「……ジロンド先生、聞かせてください。僕を、僕を孤児院から引き取ったのも、このためだったのですか!」
いつもの先生は優しかった。それこそ裏なんてまるで感じないくらい。お人良しの自分が気付いてなかっただけなのかもしれない。だけれど先生の教えが、自分やフーラさんに向けたあの笑顔が、偽りのものであうとは思えない。いや思いたくないのだ。
「あぁそんなことか。いいや、君を黒魔術の実験体にはしようとは思ってあの孤児院から引き取ったわけじゃないよ」
「な、ならなんで」
「ただ君である必要はないんだよ。君を引き取ったのは助手が必要で、あの孤児院でたまたま君が最年長で、それなりに頭がよかったから引き取ったというだけだ。普通の医者を助手にするより、君のような寄る辺のない純粋な子供のほうが感づきにくく疑われにくいと思っただけだ」
「…………」
「つまり君に固執する理由はないよ。ただ……」
下ろされた松明の火の粉が飛び、頬に触れる。何も感じることはなかった。
信じていたものが、寄りかかっていた柱があっけなく折れた。
「……信じていたのに」
「夢でも見たと思っておけ、では実験開始だ」
すべての関係を燃やし尽くすように火が走る。悲しみと絶望に溺れるミラークを、それ以上の汚泥が塗りつぶす。
「あぁ……あ、ぐぎ、ぎゃ、があぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
気持ち悪い! 気持ち悪い! やめろ! 来るな! 入ってくるな! 吐きそう! 吐きたい! やめて! 助けて! 気持ち悪い! 死ぬ! 死ぬ! 助けて! 動けない! 潰れる! はち切れる! 死ぬ! 殺せ、殺して! 死にたい! やめて! どっかいけ! 消えろ、消えろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
内側から泥と油と腐った臓物が混ざったようなものが溢れ出して止まらない。もうとっくに体の容量を超えている。骨を、血を、内臓を押しのけて体の中を蹂躙するそれは人間が受け付けられるものではない。
時間間隔はものの数秒で消し飛んだ。意識を手放したいのに目が冴える。冴えた頭で感じるのは形容しがたき嫌悪感。意識が無理なら生を捨てたいと願うがそれすらも許されぬ生き地獄。
そんな地獄も、終わりが存在した。
タール液に顔をつければ見られるような淀んだ黒一色の視界が、光を取り戻す。聴覚も回復して何かが聞こえる。
「おぉ生きてる! はははすごいぞ! やはり君は優秀だ!」
手足を縛るものが切られてなくなる。しかし力が入らない。
「さぁ起きろ! 私の問いに答えろ! 体はどうなってる!? 動くか、動かないか!? なにボケっとしてるんだ自分の体だろさっさと答えろ!」
無理やり体を起こされて肩をつかまれ強引に揺さぶられる。先に比べるまでもないが、気持ち悪いことに変わりはない。
「はぁ。はぁ、はぁ……ぼ、僕は……」
「意識ははっきりしているか、ほらなにか変わったことがあるだろう!」
はっきりしているなんてとんでもない。今にも口からさっきのものが胃からせりあがってきそうだ。
朦朧とする意識を必死にかき集めてジロンドを見る。自分を見て喜びをあらわにしているが、そんなものにもう何の意味もない。
「さぁ早く言え! この実験が成功すれば、またたんまりと――」
「うるさい! 近寄るな!」
問い詰めるジロンドを両手で突き飛ばす。四肢に力を込めてなんとか立ち上がる。
「もうあなたを信用しない! あなたの言葉を何も聞きたくない! すべてを裏切ったあなたのことを、僕はもう信じない!」
息を切らしながらジロンドと距離を取る。精神的疲弊はすさまじいが、肉体に損傷はなかった。
「……がっかりだな」
立ち直ったジロンドは先ほど陽気は消え失せ、実験を始める前の顔に戻っている。
「生きてはいるが肉体も無事なら精神も壊れていない。記憶もはっきりしていて反抗的。黒魔術としては最低最悪の失敗だ! 期待させやがって。肝心な時に役に立たないなお前は!」
言動が支離滅裂を極まっている。落胆する彼が腰から取り出したのはサバイバルナイフ。
「成功しようが失敗しようが始めに言ったとおり、お前は処分する。せめて抵抗せず死ね!」
ナイフを構えて命を絶たんと歩み寄る。黒魔術を受けているさっきなら自分からあの凶刃に飛び込んだだろう。しかし今は違う。
「あなたになんか殺されたくはない!」
決意はしたものの、武器も何も持っていないので状況は最悪に近い。外に通じている階段はジロンドの後ろにある。脇を通り過ぎることはできないだろう。
ゆっくりと迫りくる中、何かないかと視界を巡らせる。そして目についたものがあった。
「っ……くっそぉ!」
ミラークはジロンドの脇を過ぎようと駆ける。それをみすみす見逃すわけもなく、横一線に振られたナイフは血を噴出させる。
「うわぁぁぁ!」
横っ腹当たりの服が血でにじんでいく。痛みが脳を突き刺すが、手で傷を押さえ歯を食いしばりジロンドをにらみつける。
「ちぃ、逃げるなよ。余計苦しいだけだぞ!」
逃げられないようにナイフを腰溜めに構えて走ってくる。傷のせいで動きにくいが、避けなくてもいい。なぜなら
「くぅぅ! ごめん!」
両手でがっしりつかみ投げ飛ばしたのは無残に殺され慈悲もなく積まれた子供の一人だった。
投げられた子供は構えられたナイフに突き刺さり、ジロンドはその勢いに負けて後ろに倒れこむ。
「くそ邪魔だ! ナイフが抜けねぇ!」
子供にのしかかられたジロンドは必死に起き上がろうとするが根元まで深く刺さったナイフが肉に食い込む。
その間にミラークは出口に向かって逃げる。わけではなかった。
「因果応報だ。報いを受けろ!」
「は!? おい待て! お前、育ててやった恩を忘れたのか、おい! が、ああぁぁぁぁああああああああああああああああ!!」
壁に掛けてあった松明をジロンドの胸元に押し込む。子供も燃料となり逃げ場は与えられず、瞬く間に炎に包まれた。
本当は逃げようと思った。逃げるためになにかないと見渡した時に目に入ったのが子供の山だった。感じてしまったのだ。あの子たちも自分と同じ目にあったのだろう。攫われて、縛られて、何の抵抗もできずにあの苦しみの果てに殺されたのだと。自分と違い生きることもできなかった彼らをおいて、自分だけ逃げるということはもう考えられなかったのだ。
ゆえに、敵を討った。投げた子供には本当に申し訳ない思いがこみ上げるが、敵と一緒に燃えていくことを眺めることしかできなかった。
「ほかの子たちは埋めてあげないと、ぐっ」
傷口の痛みを思い出し顔をゆがませる。すぐにでも弔いたいが、切られた傷は致命傷ではないものの無視もできないほど出血している。
「包帯も……ない。家に帰って、治療を、しないと……」
脂汗が全身からあふれ出す。このままでは危険だと体が熱を上げる。深く呼吸を繰り返し、階段を上り地上に出る鉄扉を押し上げて外に出る。
血の巡りが悪くなり、視界がぼやけてくる。歩いた後の草に赤い斑紋が点々とついていることも見えないが、街の入り口らしきものが見えてきた。
「はぁ、はぁ、はぁ、もう、少し……」
「ん? こんな夜中に誰だ。いや待て怪我をしているのか! おい君、しっかりしたまえ! おい! 医者を呼んできてくれ!」
門番がミラークに気付き、体を支えながら懸命に声をかけてくれているが、もうほとんどはっきりしない意識では、答えることもできなかった。
・ ・ ・
目に光が差し込み、映し出されたのは真っ白な天井だった。
「う、うぅ……こ、こは」
覚醒したばかりの意識で状況を把握する前に声が聞こえた。
「あ……目が覚めましたか。えっと、では院長を呼んできます」
少し歯切れ悪く声をかけたのはナースさん。ということはここは病院であるということ。窓の外を見ると見覚えのある景色が見える。ここはリフリーフの街にある一番大きな総合病院だ。薬屋の関係で何度か訪れたことがあるから覚えている。さすがにベッドで寝たことはないが。
体を見ると胴回りに厚く包帯が巻かれている。察するに意識を失う直前で誰かに発見されて助けてもらったのだろう。そのあたりも聞きたいが、問題は
「……なんて説明しよう」
ナースさんが呼びに行ったのでもうじき院長先生が来るだろう。その時になんと説明すればいいのか。雇い主のジロンド先生は町はずれの地下室で黒魔術を使い多くの子供たちを非人道的な行為に巻き込んでいました。と正直に言ってもにわかには信じられないだろう。例の地下室を案内すればと思ったが、きっともう先生は灰になっているだろうし、いくら取り繕うとも燃やした実行犯は変わらない。捕まることは致し方ないが、せめて地下の子供たちを埋葬し弔ってからがいい。同じ苦しみを味わった者がするべきだと思うから。
あれこれうんうん考えていたが、答えが出ないまま件の人物がやってきた。
「えーっと……あの子、かな。……うん、合ってるな、うん」
手に持ったカルテを見比べながら院長がベッドの横の椅子に腰かける。
「やぁ、えっと、ミラーク・ロンハート君、で間違いないよね?」
「は、はい。ミラーク・ロンハートです」
薬屋のことで何度か足を運んだ病院だが、ジロンド先生なら顔見知りだろうが自分はそこまで面識はない。初対面のような反応でも仕方がないだろう。
「あの、僕はどのくらい寝ていたんでしょうか?」
「あ、えーっとね……運ばれた夜から三日だね。傷についてだけど、出血がひどかったけど臓器に傷はないし、それほど深い傷じゃなかったからあと一週間ほどで退院にはなるかな」
「一週間? あんまり覚えているわけではないですけど、それなりに深い傷だったと思うのですが、そんな短期間で?」
「あぁ。少し前に新薬が出来上がってね。早期の患者にしか使えないという条件はあるものの、切創にとても効能の高いものでね。この新薬の基礎はジロンドという薬剤師の作ったものから応用されてできたのもなんだ。本当に優秀な人だよ彼は」
「そ、そう、ですか……」
優秀な薬剤師のもう一つの顔を知っていることと、その当人はもう焼死体となっていることを知っているせいで、以前のように誇らしい感情は浮かんでこない。
「改めて、助けてくれてありがとうございます。そ、その……」
「いやいや。ではまた回診に来ます。お大事に」
「え? あ、はい。お願いします……」
やけにあっさりと応対を終えて部屋を出て行ってしまった。根掘り葉掘りとはならないにしても事情は聞いてくるものとばかり思っていたが、何一つ聞いてこないとは。
「気を使ってもらったのかな……」
院長の心遣いなのだろうと解釈した。家に連絡など入れたかったが、動くこともできないので、申し訳ないと思いつつ、体力の回復のため午睡に浸ることにした。
・ ・ ・
あれから一週間がたち、無事退院となった。奇妙な違和感を残して。
まず一週間の間、食事が届かなかった。隣のベッドの患者には配膳されるのに、自分のところには毎回用意されない。仕方がないので毎度給仕室に自分で取りに行くことになった。
さらに回診もなかった。院長やナースに声をかけてやっと自分の様子を見に来る、というか見せに行く。そして院長は毎回カルテを片手に言葉を詰まらせながら診断をする。
「すまない。そこまで物忘れが激しいとは思っていないのだが」
と本人が言うようにそんな年でもなければむしろ医者という職に就いているので普通の人より明朗な人のはず。
今日の退院でさえ自己申告で伝え、ナースが慌てて準備を行ったくらいである。
「忙しいのかな……患者さんも多いだろうし」
深く考えても答えが出ないので、ひとまず歩き出す。傷のほうも痛みが完全にとれたわけではないが、歩く動作程度ならば問題はない。安静にしていれば次第に消えていくだろう。目下のところ悩みの種はそれではなく
「フーラさんにどう伝えるか……」
死んでしまったジロンド先生の奥さんであるフーラさんにどう話すべきか。そもそも話していいものかと。
病院にいるときに手紙を書き、ナースさんに配達をお願いしたので、自分のことは伝えてある。伝えてあるといっても事故に会い深い傷を負ってしまったので、一週間ほど入院しているということだけではある。さすがにジロンド先生のことや地下室、黒魔術のことを手紙に書いても荒唐無稽すぎて伝わらないだろう。伝えるにしても口頭が望ましい。
そうこうしているうちに家である薬屋に到着する。勝手知ったる街なので考え事をしながらでも危なげなく帰路に着くことができる。
「……ひとまず退院したと、無事を伝えるのが先かな」
重要な話をするために、まず片づけるべき話をするのが得策だと、優先順位を変えることが必要だと考え、お客が入る正面の入り口ではなく、身内が出入りする裏口の玄関に入る。
「フーラさん、今帰りました!」
聞こえる声で帰宅を告げる。どんな家事をしていても笑顔で玄関まで迎えてくれる優しいご婦人。しかし今回は違った。
「はい……えっと、なんですか?」
いつもならパタパタとスリッパを鳴らして駆け寄るのだが、今の彼女はゆっくりと部屋の陰からミラークをのぞき込み、一定の距離を保って声をかけている。
「すいません。退院のことを伝えなかったので、急でしたよね。ご迷惑をおかけしました。今日から自宅で療養します。えっと、ただいま」
なんてことのない普通の報告。このあと安否を喜びハグを交わすのであろうが。
「……その、何のことかな? ちょっと私にはわからないのだけど、なぜうちの裏口でそんなことを?」
「え……その、裏口から入ってはダメでしたか? 何か問題が」
言ってはいるがそんなことはない。表はお客さんが利用する店の入り口なので、ジロンドにもフーラにもこちらの入り口を使うことを言明されている。今まで一度も裏口から入ることに不都合があったとこなんてない。
だが次に出た言葉は、そんな疑問すら消し飛ぶほどの衝撃であった。
「いや裏口とかじゃなくて……そもそも君はどこのどちら様なんですか?」
「………………………………………………は?」
絶句。今しがた聞いた言葉がまるで理解できない。ドコノドチラサマ? 今フーラさんはそう言ったのか?
「な、何を言ってるんですか! 僕ですよ、ミラークですよ! ミラーク・ロンハート!」
「ミラーク・ロンハート……ごめんなさい。私や夫の知り合いにそんな苗字の人も聞いたことがないわ。ロンハート君? 前にどこかで会っているのかしら? もし忘れているのでしたら本当にごめんなさいね」
この優しい気遣いはまさしく自分が触れてきたフーラさんのものだ。見間違いでも人違いでもなんでもない。
あまりのショックでぶっ倒れそうだった。でも何とか言葉を絞り出し、記憶を呼び起こさせる。
「覚えていませんか!? ジロンド先生に孤児院から引きとられて、この家の屋根裏に部屋をいただいて! あなたの作るシチューが大好きだった! 僕を!」
「…………」
「フーラさん!」
「ごめんなさい。よその子だけどはっきりと言わせてもらいます。ロンハート君。それはあなたの妄想です。私と夫の間に子供はいませんけど、だからといって孤児院から養子をもらってなどいません。この夫が経営する薬屋には私と夫しか住んでいません。私の料理も、夫にだけしかふるまっていません」
「―――――――――」
「今はその夫が行方不明で、もう一週間も姿が見えなくて……まさか、あなた夫がいなくなったことと何か関係しているんですか!?」
フーラさんが詰め寄り両肩をつかんで問い詰める。これほど必死な顔は見たことがないが、今そんなことを意識できるほど余裕はなかった。
「お願い教えて! 夫のことを知っているならどんなことでもいいわ! お願い!」
「ぼ、僕は……ジロンド先生は……」
自分のことを思い出してもらうことが先なのか、彼女の言う通りジロンド先生のことを告げるべきなのか、迷えるほどの思考力が保てない中、ミラークにとって決定的な一言が響き渡る。
「お願いします! 私の家族はあの人しかいないの!」
「っ!!」
いつの日か、遠慮するなと、あなたは家族だと思っているといわれた言葉が、当の本人によって完全否定された。
「あ、あぁ……うわぁぁぁあああああああああ!!」
つかまれていた肩の手を振り払い全力で走り出す。走っているが周りなどまるで見えていない。とめどなくあふれる涙で視界が濁って前が見えない。人にぶつかりながらも行き場のない感情を燃料に足を動かした。
「はぁ、はぁ、はぁ、誰か、誰か!」
あの対応はなんだ? あれではまるで自分のことだけ頭から抜け落ちているようではないか。一体どうして? そのように考えられるほど冷静でいられなかった。
今一番の願いは誰かに名前を呼んでほしい。原因不明に忘れられたこの悲しみを埋められるのはそれだけだ。
「あぐ!」
「おやミラーク君、そんなに慌ててどうしたんだい?」
バランスを崩して倒れこんだ時に、手を差し伸べられた。医術書を買ったガード書店のガードさんだ。
「ガードさん! ガードさんは、僕のことを覚えてますか!?」
「覚えて? ワシは確かに年だが、まだお得意様を忘れるほど耄碌はしとらんよミラーク君。それよりほれ、これで涙を拭きなさい」
「うぅ、ぐす、すいません……」
ハンカチで涙を拭きながら、手に入れた安堵感で心を整える。
「どうかしましたか? 手を貸しましょうか?」
「あぁお気遣いありがとうございます。彼は知り合い……ええっと、とにかく、ご心配には及びませんので」
待ちゆく人が足を止めて様子をうかがってきたが、ガードさんの配慮で立ち去って行った。
「すいませんガードさん。ハンカチは洗って返します」
「ん? あぁ、いやもらうよ。また次に会えるかわからないだろうからね」
「……え」
「ところで君、私は君に名乗ったかな? どうして私の名前を知ってるんだい? あ、もしかして私の本屋に来てくれたことがあるのかな。すまんねぇ、まだボケてはないと思ってるんだが……」
「そ、そんな……なんで……」
「きみがよかったら、洗ってくれたハンカチは本屋に返しに来てくれたら――」
「ごめんなさいやっぱり返します! すいません!」
ガードさんの手にハンカチを押し付け脇目もふらず走り出す。
「なんだ、なんだ、何が起こってるんだ!?」
訳が分からない。なんで自分のことを忘れている? ここは本当に自分が住んでいた町なのか、それすら疑わしくなってきた。
「誰か、誰か覚えていないのか!?」
このあとはこのおかしな現状を打破すべく町中を駆け回った。威勢のいい魚屋の店主や薬を届けているお客の老人、わずかな人脈でも余さず声をかけた。これほど多く知人がいつのも、ミラークの人柄の良さ、社交的な性格の賜物であろう。
しかしそんな彼の絆はどこにも見当たらなかった。
「どうして……どうしてだれも……」
日も沈みかけ、疲労は限界に来ていた。全力疾走と不安定な精神のダブルで外も内もボロボロだった。
ここが最後だった。薬屋で働いている今ほど思い出が、絆がある場所。
「……こんばんは」
こんな暗い顔で帰ってくるつもりではなかったが、そんなミラークをよそに明るい笑顔が木霊する。
「あ! ミラークお兄ちゃんだ!」
「ミラークお兄ちゃんが帰ってきた!」
「おかえりミラークお兄ちゃん!」
力いっぱい突進して出迎えてくれたのは多くの子供たちだ。ここはミラークもお世話になっていた。孤児院だ。
「あらミラーク。おかえりなさい。こんな夕方に急な里帰りですね。もちろん喜ばしいことです」
年齢はフーラさんと同じくらいのこの孤児院の運営をしている院長のハーシィさん。おっとりした口調の見た目通り優しい人だ。
「すいません。ちょっとお話がありまして。今大丈夫ですか?」
「もちろんですとも。ちょうど夕飯の準備が済んだところです。あなたも食べていってください。子供たちも喜ぶでしょう」
言葉通り子供たちはミラークの服をつかみ早く中に入るようせがんでいる。
「ミラークお兄ちゃん早く! 俺とチャンバラしようぜ!」
「だめよ! ミラークお兄ちゃんは私とお話しするの!」
「はいはいみんな。そんなに一度に声をかけてはいけません。先にご飯を食べましょう。みんな手を洗ってきて」
「「「はぁーい!」」」
ミラークとあれをするこれをすると仲睦まじく相談しながら手を洗いに行く子供たちを見て、心や休まる場所というものを再確認した。
「ミラーク君。あとでお時間を作りますから、子供たちの相手をお願いできますか? あの様子じゃなだめても収まらないでしょう」
「もちろんですハーシィ院長。突然訪問したのは僕なんですから」
「訪問だなんて言ってはいけませんよ。ここはあなたの故郷なんですから」
「そ、そうですよね、すいません。ただいま。ハーシィ院長」
「はい、おかえりなさいミラーク。では君も手を洗ってきなさい」
「わかりました」
ハーシィ院長は台所に調理に戻る。手洗い場に行くと、もう子供たちは手を洗い終えて食卓に並んでいるのだろう。ミラークも手を洗い、懐かしさを噛みしめながら皆がいる場所に向かう。
しかしもうこの場所に彼の思い出はなかった。
「……おにいちゃんだれー?」
食卓に行儀よく座る子供たちからかけられた二度目の言葉がこれである。
さきほどまでの無邪気さや親近の心はもう欠片も残っていないのが、不思議そうにミラークを見つめる目から読み取れてしまう。
「……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁぁ!!」
もう彼の心は持たなかった。頭を抱えて蹲る。小さなころから積み重なった思い出や友愛が音もなく消滅した瞬間だった。
「どうしたのですか皆さん。大きな声が聞こえたのですが」
「……ハーシィ……院長」
こちらを見つめる視線とぶつかる。問いを投げる。この首の皮が残るかちぎれるか。これで決まる。藁にすがる思いで、嗚咽を漏らしながら、聞く。
「あなたは、僕を―――」
・ ・ ・
灯る光が、洞窟を照らす。
淀んだ空気に溶けこむほど存在感のなくなったミラークは無骨な階段を下る。
やがて終点の広間にたどり着く。ここは黒魔術の実験場だった場所だ。
部屋に明かりを拡げて内部を探索する。と言ってもそこまで広くない上ものがないので、めぼしいものはすぐに見つかった。
「……〇月〇日、本日の実験概要」
それは使い込まれてくたびれた手記だった。内容は日付とその日のことが書き込まれ、その繰り返しだった。
『今回の黒魔術の効果は主に眼球に作用するものである。結果予測として、失明や色彩を知覚できないなどの効果があげられるだろう。実験体を二人用意。――実験の結果、一人は片目の失明。もう一人が自身の手で眼球を破壊。実験結果が得られなかったので失敗に終わる。実験体を処分』
『今回の黒魔術の効果は主に下半身に作用するものである。結果予測として、神経麻痺や筋肉の不能などの効果があげられるだろう。実験体を一人用意。――実験の結果、両足が融合し一本になる。その際足の拘束が外れ逃走を謀ったが、自身の意思では思うように動かせず、移動すらできなかった。実験の結果としてはまずまずだろう。実験体を処分』
黒魔術の詳しい詳細は明記されていなかったが、日ごとに書かれている実験内容と子供たちの被害を読めば概要はわかった。
「つまり黒魔術っていうのは本当に人に害するものでしかないってことだな……」
読むだけで気分を害するので、一番最後のページをめくる。
『今回の黒魔術は主に記憶に作用するものになる。これまでより高い効果が期待できる。実験体を四人用意。』
記述はここで途切れている。結果を書く前に死んだからだ。もうこれ以上この手記に残忍な記述が記されることもない。
しかしそんなことで安堵できるわけじゃない。
「クソっ!」
手記を投げ捨て、広間の真ん中に積まれた遺灰に蹴り上げる。もう怒りを向ける矛先は手ごたえも何もないこの燃えカスしか残っていない。
舞い上がる灰が顔にかかり、余計に虚しさが増す。
「なんで……なんでこんなことで、失くさなきゃいけなかったんだよぉ……」
彼の大事にした代わりのないかけがえのない宝物は、一人の狂人の手によって跡形もなく消え去ってしまった。
下を向き大粒の涙を流していると、灰の中に固形物が見える。骨かと思い見逃そうとしたが、妙に丸い造形が気になり拾い上げる。煤にまみれ汚れているがそれは鍵だった。
燃やしたのはジロンドと子供の二人。どちらかが懐に持っていたものだと思うが、おそらくジロンドだろう。この鍵がおそらくこの地下室の扉の鍵だと推測しての結論だ。こんな非人道的なことを内密にやっているのに用心をしないわけがない。
「……もう仕方がない。考える前に、やるべきことをやろう」
広間の端、積まれた子供を一人抱き上げ、外に向けて歩き出した。
・ ・ ・
「……もう朝か」
その作業は夜通し行われた。
子供を抱きかかえ地下から出て、近くの花畑に穴を掘り(スコップが地下にあったので拝借。心はないが同じ事をしようとしたのだろう)遺体を埋めて花を供える。繰り返すこと二十四回。少年の体力ではかなりの重労働だったので、花畑の中に埋もれるように横たわった。
「ごめんね。君たちとは一緒に眠れないけど、すこしだけ、一緒に、寝させ、て……」
体力精神力ともに尽き果て、草木の香りと心地よい感触に包まれて、このまま死んでしまいそうな夢心地になか、この時だけはすべてを忘れて落ちていった。
そしてたっぷり十時間睡眠をとり、大きな欠伸とともに体を起こす。しかしどん底に落ちた気分が晴れるわけでもなく。
「全部夢で起きたら屋根裏部屋だったらよかったのに……」
そんな叶わない願いを口にしてしまうほどである。だが疲労が取れ、一度精神を落ち着かせたことで、先のことを考えるほどには回復している。
「まだ声をかけていない知り合いの人がいる。その人達に会いに行こう」
立ち上がりこわばった体をぐっと引きのばす。昼下がりの今日。なんとか希望を見つけようと顔に張り手をし、己を鼓舞して街へと足を動かした。