35.その……
最高神・ディアスティマを認識した時、私たちの体は自由に動くようになっていた。けれど、彼という存在から目を離せない、圧倒的な存在感。
胸の奥が掴まれているような、息苦しいような、不思議な感覚だ。
レイジたちが意識を失っていて良かったのかもしれない。
もし彼らがこの存在を目の当りにしていたら、精神が耐えられなかったと思う。それくらいに強烈な存在だ。
ディアスティマの黄金の瞳が、ゆっくりと細められる。
「……その様子では、覚えてはいるようだな」
その声は大きくもないのに、空全体に響いた気がした。
これが、最高神――。
「……黙れ」
低く、唸るような声。
「貴様に……何が分かる……!」
勢いを失っていた青黒い光がさらに濃くなる。空気が軋み、再び私たちはスィンヴァンの光に絡み取られた。
「なんだこの災害級ヤンデレ神は」と思っていたが、ディアスティマを前にしても衰えない気概――堕ちてなお万物の神ということだろうか。
「私は……ただ――」
そこで、言葉が途切れた。
ほんの一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
――子供みたいに縋るような顔をした気がした。
「……モーアを、取り戻すだけだ」
ディアスティマは、ため息をついた。心の底から呆れたような、深いため息だった。
「スィンヴァン。魂は――神の所有物ではない」
その瞬間、空間が凍りついた気がした。
「ましてや、お前に取り扱えるものでもない」
スィンヴァンの周囲を渦巻いていた青黒い光が、しゅるしゅると収束していく――わけではなかった。
『フォンテ様!!』
青黒い何かが迫っていた。
認識した時にはもう目前だった。永遠にも感じるその長い一瞬を、私はただ呆然とするしかなかった。
『――女神……!』
ナールの声もアルトゥリアスの声も、聞こえているのに反応することは出来ない。
「――っ!」
――危ない。
――逃げて。
――だめ、間に合わない。
――体が……動かない。
「……?」
何も起こらない。
知らない間に瞑っていたらしい目を開くと、背中に流された白い髪がサラサラと揺れていた。
覚醒しない頭でそれを見上げて数秒後、ディアスティマの後ろ姿だということが分かった。
ディアスティマの右手には青黒い槍が握られている。
矛先はこちらを向いており、「これ、スィンヴァンが投げた槍かな」と他人事のように思う。
「わしが……お前を【追放】にした理由が分かっていないようだな」
「黙れ……! 貴様にだって、モーアを失った私の気持ちが分からないだろう!」
平行線ってこういうことを言うんだろうな。
スィンヴァンは、ずっと「自分」のことしか見えていない。
同じ話をする場所に、立っていない。そんな気がした。
ディアスティマが握っていた槍がぐるっと形を変え、白い杖の形になる。
「本当にスィンヴァン――お前は……」
ディアスティマは、そこで不自然に言葉を切った。
そのまま杖を左右に振り、その動きに合わせるようにスィンヴァンの体がユラユラと揺らぐ。
「あ」と思う間もなく、スィンヴァンは――杖の中に吸い込まれていった。
あっけない、最後だった。
よく理解できていない顔をしていたであろう私に、ディアスティマは振り返った。
黄金の瞳から、感情は見つけられない。
「その……」
長い間話していなかったかのように、喉が張り付いている。
「スィンヴァンは、どうなったんですか?」
「……これは、あまりにも偏りすぎた。しばらく休んでもらうことになるだろう」
ディアスティマは目を伏せた。
……神にさせられたモーアが仕事をせずに泣いていた時、ディアスティマは彼女から神の器を剥奪した。でも、スィンヴァンのことは追放だった。
それってモーアが「人間」だからだと思ってたんだけど……もしかしたらそれだけじゃないのかなと、ふと思った。
もちろん、これは私の推測に過ぎない。
「それにしても、そなたがこれほど上手く立ち回れるとはな。異世界の魂を多数拝借した甲斐があったというものだ」
「……え?」
「異世界の魂を多数拝借した」……どういう意味?
「その複雑性のおかげで、スィンヴァンからの干渉を、ある程度は防ぐことが出来たようだな」
もし、その言葉がそのままの意味だったら……?
「私」って、森の泉でエザフォスと会う前は……誰だったんだっけ? 何をしている人なんだっけ? 住んでる場所は? 性別は?
名前は?
突然、地面がなくなったかのような浮遊感に包まれる。
ない……ない。
「私」が誰だったのか、思い出せない。
「私」って誰なの?
ズキズキと疼くこめかみを指で押し込めた。
その時、ふと頭の飾りに意識が向く――あの女の子に貰った、お気に入りの黄色の花冠だ。そっとそれを撫でると、柔らかな花びらの感触がした。
痛みがほんの少し治まった気がして、固く閉ざしていた瞼を開ける。
ふと、胸元のアクセサリーが目に入る――これも、エレフから預かったものだ。細やかな金の装飾と水色の宝石が、私の胸元を彩っている。
『フォンテ様……?』
ナールが私の目の高さまで下りてくる。
私を、心配してくれている。
――大丈夫だよ。
誰?
――フォンテはフォンテだよ。
――ここまで、一緒に来たじゃない。
私がいる。
男であり、女であり、大人であり、子どもであった。家族がいて、孤独で、幸せで、平凡で、悲しい「私」だ。
私が、私を見ている――。
私を、みんなが見ている――。
だから、私が、私を見ていられる――。
「……そっか」
『いたたた……ってえ?』
ヴァッサーが、ディアスティマを見てぎょっとしている。
名前こそ知らないだろうけれど、その存在を見たら呆気にとられるに決まっている。
「私は――大丈夫です」
ナールに、そしてディアスティマに言った。
それに返事はなかったが、金の瞳が少し揺れた気がする。




