33.【私の神様】
モーアの毎日は、それほど変わらなかった。ただたまに、スィンヴァンと名乗った男性が泉の前にいることがある。
邪魔をするのは悪いと思ったモーアは、スィンヴァンがいなくなるのを待った。自分だって、祈りを捧げるのに他人がいたら気が散るかもしれないという、モーアの心遣いだった。
――けれど、それはスィンヴァンには届いていなかった。
今日はなんだか雲が厚いなぁ……私みたいだなぁ……。
空を見上げながら、今日も泉まで歩く。
最近、モーアは悲しいことがあった。それはお付き合いをしていた男性から「他に好きな女性ができた」と告げられたことだ。彼とは長い付き合いで、モーアが泉の神様を信仰していても笑わなかった人だ。なのに、どうして突然……。
けれど、こちらに別れを告げる彼の表情は、まるで泣いているかのようだった。振ったのはそっちなのに、どうして貴方がそんな顔をするのか、とモーアは思ったが、彼のあまりにも悲痛な表情を前に何も言えなかった。
「やあモーア。久しぶりだね」
泉の前には、スィンヴァンがいた。前会ったのは……いつだっただろう。
ぼうっとしていたせいで、彼が道にいることに気が付かなかった。
今日は誰にも会いたくなかったんだけどな、と思いつつ、モーアも挨拶を返す。
「……なんだか、今日は元気がないね」
「え……そう、ですか?」
「いつもは、もっと笑顔だろう?」
――なんだろう。この違和感。
なんだろう、スィンヴァンが、得体の知れない何かに見える。
モーアは無意識のうちに一歩後退った。
「あはは、少し揉め事があって……それのせいかもしれません」
「揉め事……」
スィンヴァンは右手を口元に当てて、考えるような仕草をした。
先ほどの違和感は和らいでいる。
「ねえモーア。君に渡したいものがあるんだ」
「なんでしょう?」
スィンヴァンは長身を少し屈ませて、モーアの左手を取った。
そして、白く細い指に小さな輪をくぐらせる。
「ゆ、指輪……?!」
きらりと光る金の指輪。厚い雲のせいで輝いているとは言い難い。
モーアは困惑した。
どうしてスィンヴァンが、これを自分に渡してくるのか理解が出来なかった。
「僕はね、君みたいな人間が大好きなんだ。最初は、ライゼンデが羨ましかっただけなんだけど……ずっと見ていたら、君が欲しくなったんだ」
「な、なにを言っているの……?」
スィンヴァンの言っていることが、ひとつも分からない。
「人間は、こうやって愛を示すものなんだろう? そうだ――見せたいものもあるんだ」
あまりの混乱で動けなくなってしまったモーアの手首を、スィンヴァンは強く引いた。いきなりのことに対応できないまま連れていかれた先は――。
「え……なに……?」
泥色に濁った泉だった。
大好きな、神様のいる泉――。
モーアは全ての力をもって、スィンヴァンから手を振りほどく。
「神様に、何をしたのっ!!」
涙が止まらない。
毎日のように、ずっとずっと通ってきた泉。
たった一度だけだったけれど、モーアを優しく見つめてくれたあの瞳――一度だって忘れたことはない。
それなのに……!
「ほら、これで――」
スィンヴァンが宙に手をかざすと、鎖のような物に縛り付けられたモーアの神様――ライゼンデが、濁った泉からザバリと浮き上がってくる。
「――っ!?」
ライゼンデは、ぐったりとされるがままになっていた。血こそ出ていないものの、体の至るところが文字通り欠けている。瞳からあの時のような優しい光は消え、まるで今の泉のように濁っている。
ぐぐ、と神様の体が、鎖によって持ち上げられる。
「やめてよ!! 私の神様に――」
鎖が、ライゼンデの体に音をたてて食い込み始める。
「いや……いやああぁぁぁ――――-っ!!」
モーアの悲鳴が木を揺らし、スィンヴァンは嗤った。
「――これで、君の神様は僕になったんだよ」
***
「……?」
気が付くと、モーアは暗く息苦しい場所にいた。
声を出そうと思ったが、泣き叫び過ぎたせいなのか、声が出ない。
何をしていたんだっけ――そうだ、「モーアの神様」のいる泉が汚されて、「モーアの神様」が鎖で……。
「……!」
吐き気がモーアを襲う。
「ラ……、……んだ!」
「……だ。そ……」
誰かの声。言い争っているの?
気持ちの悪さをこらえて、なんとか顔を上げる。不思議と体は重くない。
視界がはっきりすると、2人の男性が言い争っている様子が見えてきた。そして、自分が透明な膜のようなものに包まれていることが分かった。
これは、と混乱するモーアを尻目に、男性2人の話は進んでいく。
「神を殺すなど前代未聞! お前は、自分が何をしたのか分かっているのか!!」
「代わりに彼女を神に据えた。だとすれば問題ないだろう」
「あるからこうしてワシが来たんだ! 泣いてばかりで、全く泉の管理をせん神に、なんの意味がある」
話を聞いても、モーアには何も分からなかった。
「スィンヴァン、お前も同罪だ。万物の神ともあろう者が、人間との恋愛に現を抜かすなど、あってはならない」
スィンヴァンは以前と全く違う、恐ろしい形相で目の前の男性を睨んでいる。あの時とは違うその顔に、体の震えが止まらない。
「流石は最高神・ディアスティマ様――貴殿は傲慢を司る神だったか?」
「――なんだと?」
スィンヴァンがこちらに手を伸ばす。ぐいと引かれると、抵抗も出来ずにスィンヴァンの手に収まった。
その感覚に理解が及ばない。
――あれ、私の体は……?
モーアは、知らない間に「魂」になっていた。
「おい、スィンヴァン。その魂をワシに返すんだ……それはあるべき場所に行くべきだ」
「返す……? ふざけるな!!!」
スィンヴァンの形相が、また恐ろしいものへと変化する。
「モーアは、私のものだ!!」
違う。
「彼女は指輪を受けとり、私の愛を受け入れた! 私のものだ!」
勝手につけておいて、何を言っているの。
モーアがどれだけ声をあげようともがいても、「魂」の状態では声が出せなかった。
ディアスティマと呼ばれた男性が、いつの間にか透明の膜のようなものを手にしている。キラキラ透ける水球に、モーアは懐かしさを覚える。あれは、モーアの神様のものだ。
「返せ! それも私のものだ!!」
「戯言を――これは泉の神の器。新たな神は必要なものだ。それに、お前のような愚か者に扱えるものではない」
「貴様……!!」
ディアスティマは、もう片方の手を薙ぎ払う。
途端に後ろから思いきり引っ張られるような感覚に陥り、スィンヴァンの手にいるモーアに成すすべはない。
『全神に告ぐ――神殺しのため、神同士の干渉はしばらく禁ずる。そして――万物の神・スィンヴァンを……追放とする』
***
それから、モーアの苦しく、痛く、辛い時間が始まった。
まず、スィンヴァンはモーアをよく分からない狭い場所に押し込めた。それが痛くて苦しくて、なんとかしてほしくてもがき続けた。
スィンヴァンはいつもモーアに向かって、「愛している」と言うけれど、モーアをこの苦しみからは助けてくれない。
「モーアに相応しい器を用意してあげたよ」
その言葉のあと、必ずよく分からない場所に落とされた。
「新しいもの」だと言われるたびに、苦痛は酷くなっていく。ここから出して、と訴えたが「あれが手に入るまで待っていてほしい」と返ってくるだけ。
――痛い、痛い。ここはとても痛くて、苦しい。
「可哀想なモーア……これも全部、全部ライゼンデのせいだ……!」
――いだい、いだいよう……なんで私がこんな目にあわないといけないの。
「モーア、この器はどうだい? 精霊のものだから、今までより上質なはずだ。それにほら、水によく似た器――君は水が好きだろう?」
――あ? 懐かしい……ん、なつかしいって何?
「さあ入ってごらん」
――あああああああぁああぁっ! 冷だい!! うそづきぃい! いだい!
「モーア……ああ、可哀そうに」
あまりの痛みにのたうち回るモーアを、スィンヴァンは夜な夜などこかへ連れていった。
山や海、湖、時には人間の村の近くにだって、モーアの暴走が止まるまで、好きにさせた。
「これも、泉の神のせいなんだ」
――いずみのかみのせいなの?
「そうだよ。泉の神の器さえ取り返せば――僕たちは永遠に一緒にいられるんだ」
――ああ、このいたいのは、かみのせいなんだ。
そうして、モーアの旅は始まった。
苦痛から逃げるためなら、言われるままになるしかなかった。
けれどモーアの器は、時間が経つごとに黒く染まっていった。モーアは最初、自分が黒くなっていくのは血が出ているからだと思っていた。だから、痛みがなくならないんだと。早く器を手に入れなくてはならないんだと。
そうして、それが濃くなればなるほど……自我が保てなくなっていった。
「……このままでは、モーアが……!」
「ぎ、いぃぃぃぃ、あああぁ、いだぁい……」
「ディアスティマめ……! 奇怪な魂を器に詰め込んで……やはり奴は傲慢の神ではないか!!」
「うぅううううう、す、すいば」
「ああ、モーア。もう少しの辛抱だよ……あれの器さえ返ってこれば、大丈夫さ」
スィンヴァンは、苦しみもがく、黒い水――モーアを抱きしめる。
大丈夫だと言い聞かせて、そうして――あれの尻尾を掴むために、彼はとあるオアシスへと踏み出した。
――スィンヴァンはやっぱり嘘つきなんだ。
モーアがそう確認したのは、温かい誰かの温もりに包まれた時だ。
懐かしい森の香り、泉の涼しさ、優しい瞳――。
全て、彼女が持っていた。私は、この人に会いたかったんだ。
もう二度と会えないと思っていたのに――やっと会えた。
スィンヴァンはモーアに何度も言った。
「あれは偽物だ」と。
モーアの神様はスィンヴァンで、昔のあれはもういないのだと。
嘘つき。
あの時もそうだった。神様は、モーアが泣いていたら優しく寄り添ってくれた。モーアに一切、危害を加えようとしなかった。
今だってそう。苦しんでいることを分かってくれて……やっぱりモーアの神様は、いたんだね。
そう口に出したはずだったが、モーアの首は温かい炎に包まれてそれは叶わない。
けれど、目の前にいる「彼女の神様」が、あの時と同じように見つめていてくれる。
それだけで良かった。
――そして、彼女は救われた。
それを、彼女自身ですら、言葉にすることはできなかった。
ただ、それを見届けた魂が、ひとつあった。




