29.在ってはならない?
恐ろしいその感情の塊は、突如消え去った。
木陰に潜んでいた人影と共に、そこからいなくなったのだ。
「え……?」
消えた。
森はいつも様子を取り戻し、小鳥のさえずりも、木々のざわめきも、何もかもが元に戻った。
泉の水面だけが、その感情をぶつけられたように波打っている。
――今のは一体、なんだったの?
私の中から答えは返ってこなかった。
ナールにも問いかけてみたが、『……神であることは分かったが――今は、分からぬのだ』と、やはり新たな情報は得られなかった。
***
『フォンテ様』
森の泉で、モアと異様な気配に遭遇してから少し後、私は聖書を読んで心を落ち着けていた。
そんな中、ナールが声をかけてきた。ソファには乗らず、宙に浮いたままだ。
「どうしました?」
『あのモアと呼ばれるアレは、非常に危険なのだ』
それはそうだ。
見た目だって恐ろしかったし、遺跡に隣接したオアシスの毒と同じ気配だったとナールが言っていた。なので、それに関わっていないはずかない。つまり、モアはあのオアシスの事件の元凶なんだろうと思う。
なんで改めて――。
『というより、アレは世に在ってはならぬものなのだ』
「在ってはならない?」
『魂と器が一致していない、不安定な存在なのだ。それを無理に――』
ガァン!!
轟音が響いた。
何事かと立ち上がり窓を見ると、噂のその人物が、温泉の出入口付近で暴れていた。
腕や頭を振り回し、尖った岩に体を叩きつけている。ゴツン、ゴツンと鈍い音が響くたびに、黒い液体が飛び散って岩を染めていく。肌が裂けて血がにじんでいるのに、痛がっている様子は全く見せない。
痛みを感じていない……?
「――っ!」
そんなモアを抑えるように、あの老人と同じ気配が現れた。
今は影ではなく、きちんとその姿が見えている。
見た目は、髭を蓄えた男性だった。
服装は雪山にそぐわず、一枚皮を巻きつけ、肩や脇を留め具で留めている、シンプルなものだ。エザフォスが来ていた衣装によく似ている。
「……」
その人物が、小さな声で何か呟いた。
何を言ったのかは分からなかったが、モアに向けられていた視線が温泉へと向けられる。
いやだ。
男性は暴れるモアから手を放し、温泉へと近付いてくる。
こないで。
その場に屈み、温泉の水面へ、手を伸ばした。
さわらないで。
「……!」
男性の手に、青白い炎が灯された。
いや――彼の手が燃やされた。
男性は手を引っ込め、立ち上がった。炎を振り払う仕草をし、温泉の上に浮かぶ火の玉を見据える。
「え……」
気が付くと、窓の向こうにナールが浮いていた。
『退け。ここはフォンテ様の水源、そなたが触れる場ではない』
ナールの重い言葉に、その男性は初めて表情を見せた。それは怒りでも嘲笑でもなく、理解されないことを理解できないような……哀れな、子どものような顔だった。
「……奪う? 違う。取り戻すのだ」
いびつに歪んだ唇から吐き出されたそれは、どこか噛み合っていない。
「ナール!」
あの恐ろしい神に対峙するナール。
私の、私のナールが、いなくなったらどうしよう。
いても立ってもいられず、玄関へと駆け出す。震える足のことは無視をした。
――馬鹿なフォンテ。行って何ができるというの?
何もできない。そんなこと知っている。でも、このままここで眺めているだけだなんて、もっとできない。
温泉から飛び出すと、すでに戦いは始まっていた。
大きな光の玉が、ナール目掛けて飛んでいく。ナールはそれを焼き払うと、負けじと赤黒い火球を例の神に向けて投げつける。もちろん、相手はそれを軽々と避け、火球は洞窟の外へと行ってしまった。
その直後にゴゥと聞いたこのない音が鳴り、雪山の一部が抉れる。
『フォンテ様、下がっているのだ!』
宙を自由に飛び回る火の玉と、重力を感じさせない動きのその神の戦いは、洞窟内では収まらない。
2人は外へと飛び出し、猛吹雪の中で攻防を繰り広げている。私はただ、見ることしかできない。
そんな中、モアはまだ岩肌の前で暴れていた。あれをなんとも思っていないのか、視界に入っていないのか。
『ちょ、ちょっと何よこれ~!』
こんな時にもゆったりとした音の主は、ヴァッサーだった。
とんでもない気配を感じてきてみれば、何故か温泉の洞窟が破壊されそうになっている。そりゃあびっくりするよね。
私は可視化をして、ヴァッサーに助けを求めた。
「ヴァッサー、アルトゥリアスを知っていますか?!」
ヴァッサーにアルトゥリアスを任せている間、私も一度部屋に戻った。
クローゼットを開けて、準備を整える。
「よし」
急いで外へと戻ると、暴れていたはずのモアと、目が合った。
「え――……」
何も映していない空虚な瞳、岩にぶつかってズタズタになった腕や黒い髪の隙間から流れる液体――そして、それが染み込んだ衣類、全てが黒かった。
乾いた血の色を纏ったそれは、人の形をしているのにも関わらず「魔物」にしか見えない。
『あああぁぁあぁ、えええぇぇぇぇぇえ』
「きゃあっ」
『フォンテ様!』
モアの姿に絶句していた間に、彼女が飛び掛かってきた。むき出しの岩に尻餅をつく。痛くはない。
そういえば、可視化したままだった。
恐怖に体を支配され、無意識に腕で顔を庇っていた――が、何も起こらない。
知らない間に固く瞑っていた目を開けると、モアが私に馬乗りになっている。けれど。
『あぁぁぁ…ぅうう、えぇ』
呻くばかりでモアがそれ以上暴れることはなかった。
彼女から滴り落ちる血液が辺りを染め、茶色だった岩が、茶色と紫を足したようなどす黒いものに変色している。
なんとなく思った。
これは「毒」なんじゃないだろうか。
ナールが言っていたように、あのオアシスの毒とモアの気配が一致している。でも――モアに敵意は、ない。
額から零れる黒い雫が彼女の瞼を滑り落ち、まるで――。
「貴方――」
「モーア! そのままだ! そのまま、取り戻すのだっ!」
神が叫んだ。
ナールの攻撃をいなしながら、狂気の中に必死さを交えた表情で、そう叫んだ。




