01.きったない池じゃないんですか?
目を開けると、そこは森だった。
感想は「は?」である。右を見ても左を見ても木、木、木。下は草むらだし、上は青空だ。何も状況が呑み込めない。
「なんだようやく来たのかよ」
人がいる、そう思って振り向けば、顔こそ整っているが恰好が完全にアウトな男性がいた。ギリシャ神話のファンですか、と言いたくなるような白い布でできた服を纏っている。
関わりたくない格好の男性だったが、何か知っていそうな男性に応える他ない。
「来たって、私ですか?」
「当たり前だろ。突っ立ってないで、行くぞ」
「えっどこに?」
家まで送っていってくれるんだろうか。歩き出した男性に何故かホイホイついて行くと、濁って底が見えない大きな池の前に着いた。池は本当に汚くて、底は赤茶色に濁っていて、生き物が住んでるようには思えない。
「ここがお前の担当だ」
「は?」
説明は終わったと言わんばかりに背を向ける男性に、思わず掴みかかった。
「ちょっと、ここ私の家じゃないんですけど! こんな森の中なんだから、国道とか最寄駅とかに連れてってくださいよ!」
せめてここが何県なのか分かれば帰れるのに、というかなんでここにいるのか分からない。
「は? コクドウ? モヨリエキ? 何言ってんだお前……――まさか、引き継ぎされてねえのか?」
「引き継ぎ? 私にはよく分からないけど、人がいるところまで案内してくれませんか?」
男性は大きくため息を吐いた。そしてめんどくさそうに頭をぼりぼり掻くと、妙に冷めた目で言い放った。
「――お前、もう人間じゃねえんだよ」
「……はあ?」
「――つまり私は人間として死んだから、抽選で『泉の女神』に選ばれてここに来た、と」
「抽選じゃねえけど、まあそういうことだな。で、前任の泉の女神が引き継ぎしなかったせいでお前は無知ってことだな、ハハ」
「笑いごとじゃなあああああいっ!」
「あ?」
せっかく、せっかく……!
「女神に就職なんておもしろそうなことになってるのに何も知らないなんてぇええ! もったいない!! 何ボーッっとしてるんですか! 前任の女神がいない以上、あなたが私に業務説明してくださいっ!」
男性が顔を引きつらせているが、連れてきたのはそっちだ。
泉の女神と言えば、「あなたが落としたのは金の斧ですか? 銀の斧ですか?」じゃないか。そんなの私だってやってみたい。あと投げ込まれたコインで占いとかやるんでしょ? 楽しそう。
男性はとてもめんどくさそうな顔をしていたが、渋々説明を始めた。
「さっきも言ったけど、ここがお前の担当の泉だ」
「え? きったない池じゃないんですか? 赤く濁ってません?」
「言っただろ、前任の女神が職務を放棄したって。泉の女神の仕事は泉をきれいに保ち、人や動物に恩恵を与えることだ」
なるほど。しかし、どうやってこの汚い泉を掃除するのか。首を傾げていると、男性に腕を引っ張られる。勢いが良すぎて前に倒れる。え、目の前が泉ってことはこれ、泉に落ちるやつ――! 目を瞑って汚い水に飛び込む衝撃に備えたが、いっこうにそれは来ない。恐る恐る目を開けると、真っ白な部屋だった。泉の底でもない真っ白な部屋は、今いるリビングのような部屋ともう3部屋あるようだ。
「あれ、泉に飛び込まなかった?」
「泉から入れんだよ。で、ここがお前の家」
「広っていうかきれい!」
男性は「これから色々説明するけど、1回しか言わないからちゃんと聞けよ」と言った。なんで大切なことなのに、1回しか教えてくれないんだろう。
ここの部屋はリビングで、くつろいだり、窓から泉の外の様子が見られるようになっている。なんとリビングにあるクローゼットは簡単に言うと『取り寄せバッグ』だ。望んだものが出てくるらしい。1部屋は寝室で、シンプルなベッドとライトが置いてある。もう1部屋はバスルーム。神に風呂はいらないらしいが、女神は何故か入りたがる傾向にあるらしい。分かる。
「この部屋は?」
「開けると分かる」
説明しろよ、と思いつつ扉を開けて後悔した。
「な、なにこれ――!!」
「ここは泉の底だ」
部屋には鍋やフライパン、シャベルなどの農具、ゴミの入った袋――等々がいくつも転がっていた。しかも鉄製の物は赤茶色に錆びている。
「もしかして、これが泉が汚い原因なんですか?」
「ああ、正確にはこれを捨てた人間だけどな」
信じられない、誰だこれ捨てたやつ! 泉はゴミ箱じゃなんですけど!! 前任の女神はこれが嫌でやめたんだろうか。
「説明はこんな感じだな」
「そんだけ? もっとこう、ないの?」
「あー人間や動物を関わるのは悪くねえが、一方に肩入れするなよ。じゃあな」
「待って! あなたの名前は?」
そういえば聞いてない。そもそも自分の名前も分からない。
男性はそうだったな、と呟いて、もう一度体をこちらに向けた。
「俺はこの大陸の大地を司る男神・エザフォスだ」
「変わった名前ですね」
「そうか? お前は――泉を司る女神・フォンテだな」
「それが私の名前ですか?」
「ああ。神は普通、他の神と関わることはない、だからもう二度と会わないかもな。めんどうだったけど、まあまあ楽しめた。じゃあなフォンテ」
そういって、エザフォスの姿が消えた。めんどくさそうだったけど、面倒見のいい人――じゃなくて神だったんだよねきっと。
自分でもどうして女神になったのか分からない。自分が死んだから選ばれたとか言われても、死んだ時の記憶とかないから実感もない。でもなんだか楽しそうだし、せっかく楽しそうなことをするチャンスが目の前にあるんだから、楽しまなければ損!
しかも女神なんて、そうそうなる機会なんてない――遠い目をしながら、私はとても女神の仕事とは思えない粗大ごみの片づけを始めることにした。もちろん、クローゼットからゴミ袋と軍手を出して。
*****
大きなゴミも片付いた。とりあえずゴミ袋にまとめて入れ、リビングの隅に押しやっている。しかし、床に錆とかがこびりついてまだ汚れている。これは床を拭く必要もある。
疲れたので一旦休憩にしようと軍手を外してみたら、不思議なことに軍手は少しも汚れていなかった。でも気持ちの問題だということで、クローゼットからお手拭きと紅茶セットを取り出してみる。本当に何でも出てくるので楽しい。
紅茶の乗ったトレイをリビングのテーブルに置いた時、エザフォスがいた時にはなかった紙切れが置いてあることに気付いた。
いつの間に、と捲ってみる。
『女神力アップ! 可視化の能力を手に入れた! 心の中で可視化と唱えると人間や動物から姿が見えるようになるよ。でも可視化の最中は光るから注意してね』
力の抜けるポップな書体で書かれているそれは、間違いなくエザフォスの置いていったものではない。そう断定した。
そもそも人間や動物に会ったことがなかったが、可視化していないと私の姿は見えないのか。でも光るってなんだろう。今度可視化の機会があったら是非やってみなくては。
そういえば、私は女神になったのに特別な力とか何も貰っていなかった。神なのに、なんの能力もないとか悲しすぎる。人や動物からは見えないし、それもうただ存在してないのと同じなのでは。でも、こうやって女神力(って何?)を上げていって能力が手に入るなら、俄然やる気出てきた。
お茶飲んで一息ついたら、次は床をきれいにしよう。
「終わったー!」
薄茶色のフローリングがピッカピカになった。やっぱり汚くならなかった雑巾をクローゼットに戻し、泉の底と繋がった部屋を改めて見回す。最初は床すら見えなかった汚い部屋だったけど、今はもう床しかない!
あとはゴミの入った袋をどうするか、とリビングの隅に置いたゴミ袋を探したが、いつの間にかなくなっている。捨てたっけ? いやどこに? 捨てていい場所が分からなかったから隅に置いといたのに……まあいいか。
リビングの窓を見ると、エザフォスの言った通り泉を周囲の森の様子が映っていた。すると、底が赤茶色に濁っていた泉がすっかり透明感を取り戻していた。
達成感に震えていると、再びテーブルに紙が置いてあるのが目に入った。ずっと家にいたし、一体誰が?
とりあえずまた紙を捲ってみる。
『女神力アップ! 夢に出る能力を手に入れた! 本来なら泉付近から離れられないけど、任意の相手がどこにいても寝てる時間に、相手の夢に出られるようになったよ』
幽霊かよ。