夢の続きを
一人暮らしの部屋にはたいして荷物はない。引っ越しのための荷づくりもそう時間はかからなかった。殺風景な部屋を見渡してベランダに出る。沈みかけた太陽が辺りをオレンジ色に染めている。たばこに火をつけてその煙を肺の奥に吸い込む。そして吸い込んだ煙を吐き出したところで携帯電話が胸のポケットで震えた。奈美からのメールだった。
『いよいよね。明日は手伝いに行くから、なにか美味しいものをご馳走してね』
『引っ越しだったら蕎麦だろう?』
そんなやり取りをしながら僕は夕暮れの景色を眺めた。
午前8時。レンタカーの軽トラックに荷物を積み込む。隣の住人である中年の男が手伝ってくれた。
「いやぁ、寂しくなりますな。機会があったらまた一杯やりに行きましょう」
彼と知り合ったのは近所の居酒屋だった。彼が同じアパートの隣の住人だと解かってからは、お互いに独身だという事もあり、よく一緒に酒を飲んだ。彼はそう言ったけれど、そんな機会はもう二度とないだろう。
「色々とお世話になりました」
作り笑いを浮かべて僕は軽トラックに乗り込んだ。
新居に着いたのは午前11時を少し回った頃。5階建ての小さなマンションの玄関前で彼女は待っていた。僕は軽トラックを停めて窓を開けた。
「ずいぶん荷物が少ないのね」
彼女が言った。
「男の一人暮らしなんてこんなものさ」
荷物の運びこみは30分程度で終わった。僕は軽トラックに彼女を乗せて近くレンタカー営業所に軽トラックを返しに行った。
「さて、そろそろ昼だな。この辺りに美味い蕎麦屋はあるのか?」
「ないわ。でも、美味しいイタリアンレストランならあるわよ」
「そこにも蕎麦はあるのか?」
「あるわよ。イタリア風だけどね」
そう言って彼女は微笑んだ。
4月1日。僕は新しい赴任先に登校した。そこは僕の母校でもある。教師になって5年。ここが僕の新しい職場になる。
「今日からみなさんと一緒にここで働くことになった松本先生です。新学期から3年3組の担任になってもらいます」
「松本俊介です。よろしくお願いします」
挨拶を終え、自分の机を整理していると、奈美が近づいて来てポンと肩を叩いた。
「俊介先輩、解からない事があったら何でも聞いてね。ここでは私の方が先輩なんだからね」
「はい。南先輩」
僕は彼女に向かって敬礼した。
「よろしい! では早速参るかね」
「参るって? どこへ?」
「ついて来れば解かるわ」
奈美が僕を連れて来たのは野球部のグランドだった。
「今まで監督をしてくれていた先生が俊介先輩と入れ替わりで他校に移っちゃったのよ」
「それで?」
「頼むわよ」
「えっ!」
「彼らを甲子園に連れて行って! そして、今度こそ私も…」
10年前。全国高校野球選手権大会県予選決勝。9回裏の守り。あとアウト一つで甲子園行きが決まるところだった。そかし、満塁のピンチを迎えていた。捕手だった僕はフォークボールのサイン出した。暴投を恐れた投手は首を横に振った。けれど、僕はかたくなにサインを出し続けた。結果、投手はフォークボールを投げた。けれど、僕がそれを後逸して三塁ランナーはおろか二塁ランナーまで帰って来た。逆転サヨナラ負けだった。
当時記録員としてベンチに入っていた奈美を甲子園に連れて行ってやる事が出来なかった。
「私を甲子園に連れて行って」
Ⅰ学年下の南奈美は野球部のマネージャーだった。
「私を甲子園に連れて行って」
それは彼女の口癖だった。
彼女が3年になった時、主力だった3年生が抜けた野球部は部員不足で大会に出場する事が叶わなかった。
「集合!」
奈美が号令をかけると、野球部員たちが集まって来た。
「みんな、新しい監督を紹介するわ」
「初めまして…」
「頼むぞ。松本俊介。奈美ちゃんを甲子園に連れて行ってやるんだからな」
「どうして僕の名前を?」
「奈美ちゃんから聞いてたし。すごいヤツが来るって」
「な…。奈美ちゃんって…」
僕は奈美の顔を見た。奈美はにっこり笑った。
「よし! 練習に戻れ」
「どうなってるんだ?」
「みんな可愛いでしょう? あの日から私の夢はこの学校を甲子園に連れて行く事なの。だから教師なって、ずっと野球部の顧問をしているのよ。俊介先輩がここに来るって聞いて、胸が躍ったわ。また俊介先輩と甲子園に行く夢が見られるって」
練習をしている子供たちを見つめる奈美の眼はキラキラと輝いていた。僕の中で忘れていたものがくっきりと浮かび上がって来た。
帰宅した僕は段ボールの中に仕舞われていたグローブを引っ張り出した。
「甲子園か…」
僕は奈美のメールした。
『行こう! 甲子園に。今度こそ一緒に』
こうして僕は野球部の監督となり、彼らと共に甲子園を目指す事になった。奈美を甲子園に連れていくために。