第15話 シーナの旅立
店を出ると、僕は小走りに機織小屋に向かった。もう、彼女と自分との接点を見出す事は、自分には不可能だった。今更彼女に何をして欲しい、という事はなかった。ただ、少しだけ話をしたかった。実は、自分はこういう展開を密かに想像していたのだ、と感じもした。一層自分を惨めに感じた。駄目な奴だと思った。彼女に対して、精一杯やらなかった。だから、ある意味では当然の結果なのかもしれなかった。僕は幾度となく彼女を疑った。けれど、長い間、信じ続けもした。然しどうやら、彼女は見事に裏切ってくれた。
彼女に言うべき言葉なんかなかった。顔だけ見られればよかった。否、顔はもう、見ることは出来ない。彼女との会話の中にさえ、その仮面の上に以前の彼女の顔を重ねる事が出来なくなっていた。では、どうして僕は彼女と会わなくてはならないと感じているのか。解らない…。でも兎に角、会わなくてはならないと思った。
機織小屋の扉を、何の躊躇いもなく、大袈裟に開けた。休日だから閉まっていると思ったが、開いていた。
暗い室内に入ると、中には人影がなかった。ただ、空間があるだけだった。
僕は、シーナの名を呼んだ。否、呼びかけて、喉を通り過ぎた音は嗚咽にしかならなかった。それで、ひとつ大きく咳をしてから深呼吸をし、心に風を送り込むと、僕は出来るだけ大きな声で、奥の部屋に向かって、彼女の名前を呼んだ。
返事はすぐに返って来た。そして、シーナが出てきた。僕は、その姿を見た途端に、目をそらしてしまった。見られなかった。
「ケイトから…」シーナが言った。「聞いてくれた?」
僕は俯いたまま何も言わず、ただかぶりを振った。すると、シーナは大きく溜息を吐いた。
「今、会っておかないと…」僕が呟くように言った。「もう会えないかもしれない、みたいに言われた…」
シーナは、暫く返答をしなかった。両腕を後ろで組んだ様で、そのままゆっくりと僕の周りを歩き始めた。
「わたしね」彼女が言った。「この街を出ることにしたの」
僕は、驚かなかった。否、心の中では充分過ぎるくらいに驚いていた。けれど、それを表に出す事はなかった。相変わらず俯いたままだった。目頭が熱くなった。僕が一体、何をしたというんだろう、と、心の中で一度だけ呟いていた。でも、不条理に思える事が、何故だか非常に素直に受容できるような気がした。
「何処へ行くの…?」
僕は彼女の足音に意識を集中させながら、訊いた。彼女はやはり、暫く僕の周りを歩いているだけで、すぐには答えなかった。
「わたしね」口を開いた。「首府に行くの。洋裁店の関係の人にね、あっちで、とっても高給のお仕事があるって、紹介されたものだから」
僕は、どういう仕事をするの、とは訊けなかった。ケイトの事が頭に浮かんだ。でも、それは違うと思った。でも、際限なく悲しく感じる事では一緒だと思った。
「貴方には、あとできちんと挨拶に行こうと思っていたのよ」
彼女は、相変わらず僕の周りを廻っていた。俯いた周辺視野に、彼女がこちらを見ながら微笑しているのが見えた。僕にはその顔が、何やら悪魔のように見えた。彼女は、僕の悲惨を愉しんでいるのか…?
「なんだか…」僕が言った。「凄く、裏切られた気分だよ…」
僕が言うと、間髪を容れずに、悪いことをしていると思うわ、と彼女が答えた。
僕は、拳を握りしめた。
「出来るものなら…」僕が、乾いた喉で、自分でも信じられないくらい低い声で、洩らした。「君を一度、殴ってやりたいよ…」
「あら」彼女が、急に声を大きくして言った。「わたしだって、貴方には裏切られたと思ってるのよ」
彼女は、少し歩幅を大きくして、やはり僕の周りを廻った。「ねえ、わたし、貴方とは気持ちよく別れたいと思っているの。これ以上、荒立てようとしないで」
僕は幾度となく、彼女の言葉を反芻した。頭の中で無数に響き、そして神経を大きく揺り動かした。意識がぼやける感覚もあったし、吐き気もした。鼻の奥の筋が引きつるのも解ったし、無理して胸のつかえを抑えているのも解った。
彼女は、それでも僕の周りを廻り続けた。僕は何も言わなかったし、彼女も何も言わなかった。
やがて僕は、その場にしゃがみこんだ。一瞬、足音が止んだように思えたが、また僕の周りを廻り始めた。以前のシーナでは履く事さえ叶わなかった、踵の高い、高級な靴の足音…。
「やめてくれ…!」僕は、半ば叫ぶように言った。「もういいよ…放っておいてくれ」
言い終えると、急に涙が出てきた。そして、嗚咽を洩らさずにはいられなかった。非常に悲しかった。否、悔しかったのかもしれない。ただ、自分ではどうすることも出来なかったのが果てしなく悔しかった。やっと、彼女が何を考えていたのかも解ってきたような気もした。けれど、僕自身は、彼女にもう少し優しい声をかけて欲しかった。僕は一体、彼女に何を期待してここにやってきたんだろうか。あの夜、迎えに行きながら、結局彼女の前に姿を表すことが出来なかったように、また、僕は彼女を迎えてやることが出来なかったのだ。そう思うと、嗚咽が漏れた。もう、本当にどうでもよかった。僕の中にいたシーナは、完全に死んでしまった。誰が殺したかはしれない。もしかすると、僕自身の手によって抹消されたのかもしれない。兎に角、今目の前にいるシーナは、僕の知っているシーナとは、物理的にも精神的にも共通点を持たない。全くの別人だった。僕は、こんな女性をしらない。僕はこんな美しい知人を持たない。こんな冷酷な知人を持たない。こんな、優しかった知人を持たない。
そうして咽び泣いているうちに、やがて足音が遠のいていった。そして、扉が閉められる音…。彼女は、奥の部屋に引っ込んでしまったらしい…。
僕は、すぐに小屋から出た。彼女がそれを望んでいることが解ったからだ。
陽のまだ高い道を、僕は独り、泣きながら帰った…。
随分後に、ケイトから、シーナが借金の返済を終えた事を聞かされた。ケイトは僕に、シーナがどんな方法でそれだけの金を作ったのか聞きたいか、と訊いて来たが、断った。
おしまい
今回で最終話となります。いかがでしたでしょうか?
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