67、愛シイ人
その小さな小さな、貴方の手が愛しくて。
その小さな小さな、貴方の瞳が眩しくて。
その小さな小さな、貴方の温もりに安堵した。
私は、貴方と生きている。貴方と、愛する人と共に生きている。大切な人が共にいる。
それだけで、ただそれだけで、私は幸せなんだよ。
涙で滲んだ景色に、ゆらゆらと2つの人影が浮かび上がる。1つは俺と同じくらいの身長で、もう1つは小学生のような姿。きっとあれはヴィオロシィだろうけれど、もう1つは誰のものだろうか。
「な、なんで?」
戸惑ったような、少し上ずったヴィオロシィの声がする。ゆっくりとその場に立ち上がると、傍にあった同じくらいの人影が動き、俺の隣に立った。
「なんで、いるの?」
隣の人物に見覚えがある。だからと言って、彼の事を知っている訳じゃない。だってそれは、俺と同じような背格好で、顔もそっくりだったから。
「消えたからだよ、ヴィオロシィ」
俺より少し高い声が、悲しそうに言葉を紡ぐ。
「でも、生きている訳じゃないよ。僕は、消えたのだから」
何の事だかさっぱり分からないが、しっかりと言葉を続けていく彼に、ヴィオロシィは見とれているようだった。手を伸ばそうとして、けれど躊躇する。表情がなかった顔は、驚きと喜びとで、不思議な表情を浮かべていた。
「でも、君、ここにいる。ソラ、ここにいる」
俺の名前だ。だけど向けられた言葉の先は、俺じゃない『ソラ』がいる。
「『居る』んじゃないよ」
「言葉、話してる」
「『話し』をしている訳でもない」
「君、ソラ、私に見える。見えてる」
「見えるだろうね、幻だとしても」
彼のその言葉に、ヴォロシィは意味が分からないという風に首を横に振った。
「幻、作ったもの、話さない。居る訳でもない。けど、君、居る。話す」
「それは消えたから。僕が消えて、残像だけが残されたから」
突然、俺の方へ手が伸びてくる。驚いてそれを避けようとした。けれど、その必要はなかった。
彼の手は、俺の腕を捕まえる事無く、空を握った。つまり、俺の腕を彼の手は貫通して、何も掴む事はなかった。
「君が強く、強く、強く僕を思うから、完全に消える事が出来なかったんだ」
ニコっと笑うが、とても悲しい笑顔だ。
「ずっと妖精界と人間界の間で、誰に知られる訳もなく、何もない暗闇に置き去りにされた続けてた」
一歩、そしてもう一歩。ヴィオロシィが歩みを進める。
「自分の意志で消える事もできたかもしれない」
彼の目の前まで来た。立ち止まって、彼の青白い顔を見上げる。
「けどね、僕はそうしなかった。待ってたからなんだ」
もう少し、あともう少しで彼の頬に、ヴィオロシィの手が触れる。
「いつかきっと、君はまた同じ過ちを犯すだろうから、それを阻止するために」
その言葉と共に、ヴィオロシィの時が止まった。
「やっぱり、君は変われなかったんだね。ヴィオロシィ」
彼がここに居る。それだけで十分だった。愛しい人が帰ってきた喜びで胸が一杯になった。もう少しで彼に手が届く。そんな時に、彼は言ったのだ。
「いつかきっと、君はまた同じ過ちを犯すだろうから、それを阻止するために」
過ちじゃない。あれは仕方なかったんだ。そう自分に言い聞かせ続けていた偽りが、音を立てて壊されていく。
「やっぱり、君は変われなかったんだね。ヴィオロシィ」
そんな悲しい顔をしないで、そんな残念そうに言わないでよ。
私が変われなかったってどう言う事なの? なぜ、私は変わろうとしないといけなかったの? 分からないよ、分かりたくもない。彼の頬に手を当てた。けれど、何の感触もしない。想いも読み取れない。確かに彼は、ここには居ない存在なのか。
「君の願いは酷く残酷だ。歪んでいて、綺麗じゃない」
厳しい言葉が突き刺さる。私はただ、君の傍にいたかっただけなのに。
「願う事、罪じゃない」
「そうだね。だけど、罪になる願いもあるんだよ」
彼はもう1人のソラを悲しそうに見つめて言った。私も彼を見れば、少したじろいで、一歩下がる。
「君は、僕と同じ過ちを犯す前に、大切な事に気付けた」
ソラと『ソラ』が向かい合う。私に背を向けた彼は少し透けていて、今にも消えてしまいそうだった。
「その気持ちのまま、君は帰るべきだ。大切な場所へ、大切な人が居る世界に」
また、消えてしまうのだろうか。私が大切に思った人は、また私の前から消えてしまうのだろうか。私に何も残さないまま、その姿を消してしまうのだろうか。
そんなの、嫌だよ。嫌だ、絶対に嫌なんだよ。
「ヴィオロシィ」
名前を呼ぶ、愛しい彼が私から離れていく。ソラを庇うように、その背に隠して。
「もう、誰も消えて欲しくない」
それだけを願ってきた。
「もう、『ソラ』、消えるの嫌だ」
それだけ貴方を想ってきた。
「もう、……独りぼっち、嫌」
ずっとずっと、永遠に寂しいなんて私には耐えられないから。終わらせられないこの命が、憎くて憎くて仕方なかった。だから、どうしても誰か傍に居て欲しかったの。
「だから、ごめんなさい」
貴方の言う事を、聞けません。
ヴィオロシィは小さく謝罪すると、手を合わせて何かを念じ始めた。白く澄んでいた世界が、再び歪みだす。
「あ、あの……」
触れられない少年が話しかけてくる。少しだけ目線を動かして彼を見れば、自分と似た顔が不安げに見つめ返してきた。
「俺、何が何だか分からなくって、何がどうなってるのかも分からなくって、何でこんな所にいるのかも分からなくって、俺、どうすればいいんですか?」
似ているのは顔だけで、きっと心は違う。だからきっと、『どうすればいい』と問いかける事が出来たんだと思う。僕がこんな状況に置かれたら、きっと混乱して何も考えられない。
「お、俺、帰ろうって思ったんです。『一緒に行こう』って言われて、嬉しかったから。俺が、俺はあの世界に居て良いって、言ってくれたから」
「……」
「だから、何をすれば良いのかとか、そういう事は分からないけど、行かないといけないんです」
強い瞳。強い意志。強い絆。僕に足りなかった、小さな強さ達。
「大切な人達が、俺を待ってくれてるんです」
「そっか。……ヴィオロシィは、きちんと話せば分かる子だよ。だから、君と僕の気持ちを伝えよう」
こくんと頷いた彼に、僕も頷き返す。そうだ、伝えなければいけない。人は、言葉じゃないと何も伝えられない。目の前に居る、紫色の少女を見た。
彼女はまた魔回廊を呼び寄せるつもりだ。魔力を溜めていた球の鎖を切って、ここには彼女の魔力が充満している。小さな魔法でも、使えば十分あれを容易に呼び寄せられるだろう。
「風よ、瞬け」
金糸を混ぜたような輝く風が、不安定なこの世界に魔回廊をつれて、やってくる。白と黒の狭間。一番不安定で魔力に満ちた場所が、忽然と無に還る。深く深く、光さえ届かない暗闇が、楕円状に広がっていく。
美しい闇。黒の世界。永遠へと導く魔回廊だ。
「いいかい、ソラ君」
自分の名前を呼ぶなんて変な気がしたが、今はそれどころじゃない。
「あれには近づいちゃダメだ。中を覗こうとしてもダメだよ。引きずり込まれるから」
「は、はい」
素直で良い子だ。だからきっと、良い友人達が彼の傍にいてくれるんだろうなぁ。
「行こう、ソラ。妖精界に」
彼にその手は伸ばされる。青白く冷たい手。大切なものを、掴み損ねた小さな手が。
大切な大切な愛しい我が子の、弱々しい灯火の傍に。
全てが消えてしまう前に、あの子の支えになれるように。
この命が尽きてしまうのなら、せめてこの魂だけでも―――。