65、懐カシイ声
『ねぇ、ヴィオロシィ』
懐かしい横顔が、優しい風に前髪を揺らしながら遠くを見つめている。
『この世界は、本当に美しいね』
うん。
そう答えると、その横顔が嬉しそうに笑って、私の目にかかった髪をはらってくれた。そして、少し寂しそうな顔をするのだ。
『けど、なんでこんなに悲しい気持ちになるんだろうね』
悲しくなんかない。――がいれば、私は悲しくない。
少し驚いた表情をして、彼は私の方を見た。背は彼の方が高いから、私が彼を見上げる形になる。
傍に居れば、隣に居てくれれば、悲しくも寂しくもないよ。
君もそうだよね? 続けられなかった言葉は、彼の顔がやっぱりどこか寂しげだったからだろうか。それとも、聞く勇気がなかっただけか。
『そうだね。……寂しく、ないよね』
もう、そう問いかける事も答えを聞く事もできない。
*
帰ろう。
そう思っただけで、人は普通に自分の家へと帰れるが、この場合はそうはいかない。ヴィオロシィという、大きな壁があるかぎりはそう簡単に帰れないだろう。
「ね、本当に帰るよね?」
「うん。俺はウミ達と一緒に行くよ」
隣で右手を握り締めるウミは、少し嬉しそうに微笑んだ。表情が硬いのは、きっと緊張しているからなんだろうな。
「ヴィオロシィ、話は終わったよ」
*
彼の声が聞こえた。閉じていた瞳をゆっくりと開けば、暗闇の世界が一変し、純白の世界が私を向かえた。
変わるはずがない。そんなはずはないの。
彼の目に、孤独が宿っていない。瞳の奥に隠された、小さな小さな影が見当たらない。なぜ見つからない。孤独は確かに宿っていた、不安と共にその瞳に。
「ヴィオロシィ」
彼が優しく名前を呼ぶ。映像が揺ぎ、いつかの光景と重なっていく。
「ごめんね、ヴィオロシィ」
やめて、お願い。その言葉の続きを口にしないで。やめて、お願いお願いお願い!
「俺は―――」
『―――帰りたくなっちゃったよ。人の世界に』
「だから、ごめん」
面影が似ていると思ったその時から、彼は塵になって消えてなどいないんだと思った。あれは戒めの言葉であって、事実ではないんだ。消えたように見えるのは私達だけで、実際は生き続けて寿命を向かえ、そして転生して蘇ったんだ。それが、彼だと思ったんだ。
それなのに、また君は帰ろうとする。なんでなの? 寂しいのは嫌いでしょ? 痛いのも嫌いでしょ? 護るのも疲れたでしょ? どうしてそんな嫌な世界に帰ろうとするの。ここに居ればいいじゃない。私と、ずっと私と居ればいいじゃない。ねぇ、……そうでしょ?
『ヴィオロシィ』
声が重なる。私の中だけで、声が追いかけっこをするように響いていく。
「俺は、なんだかんだであの居心地の悪い世界が好きみたいなんだ」
『僕はね、自分でも良く分からないんだけど、あの人達と居たいんだ』
「ずっと孤独だなんて思ってたりしたけど、それはただ俺が気付こうしなかっただけなんだよ」
『周りに居る人達、みんなの少しずつの暖かさに、気付けなかっただけなんだ』
「だから、俺は」
『……だからね、ヴィオロシィ』
「やめて!」
それ以上しゃべるな。やめろ、やめろ、やめろ! そんな言葉聞きたくて待っていたんじゃない。人の世界を切り捨てると思ったから待ってたんだ。また、また君が帰ってきてくれると思ったから。君が私の傍にずっといてくれると思ったから待ってたのに!
「ヴィオロシィ?」
同じ角度で、同じ暖かさを持って、同じ優しさで、私の頭へ彼の手が伸びてくる。咄嗟に逃げれば、光に満ちた憎い瞳が私を見ていた。
「約束、した! 私、ソラとずっと一緒! 死なない世界、暮らす!」
名、顔、心。全てが同じなら、結末も一緒になってしまうのか。そんなの嫌だ、絶対絶対嫌だ!
「君は死なない。死なせない。生き続けなければならない!」
消えさせはしない。途絶えさせはしない。君の存在は私の傍にあり続けなければならないから。だから、絶対帰らせない。
「ソラ、約束した。私と一緒。約束は守るもの、破る事、許されない!」
「ヴィオロシィ、聞いて」
また手が伸びてくる。優しく肩に手を置かれ、目線を合わせる。揺ぎ無い光が、宿っていた闇を消してしまっている。だけど、残っているはずだ。小さな小さな、ほんの小さな闇でいい。それがあれば、それさえあれば、まだ希望はある。
「俺、君との約束を破るつもりはないよ」
予想外の言葉に少し表情を変えると、ソラは硬い表情をほぐして言った。
「君達はいつでも人の世界に来れるって訳じゃないけど、遊びに来れる時に家へおいで。歓迎するか」
……違う、違うよ。私が求めている答えはそんなものじゃない。
「ずっと一緒じゃないけど、傍には入れるよ。君が、ヴィオロシィが俺を覚えていてくれる限り。俺も、忘れない限りはずっと」
それじゃダメ。それは君が老いて死んでいく事でしょ? 私はそのままの君がいて欲しい。変わらない姿で、声で私を包んでいて欲しいの。そのままで、いなければ意味がないの。死んでしまってはずっと一緒にいられないの!
「だから、俺はあのちょっと汚い世界に帰るよ」
『ヴィオロシィ。僕は帰るよ、この身が塵に変わろうとも』
「嫌だ! ダメ、ダメ、ダメ!」
力任せに手を振り払い、目の前の優しい顔を睨む。あぁ、あぁ。そんな顔をしないで。大丈夫、大丈夫、私が君の全てを護るから。君は何も考えずに、私の傍に居てくれればいいんだよ。
机の上の、魔力の塊に目をやる。追ってくる手をさけて、それを手に取った。ローグ達はこれが何なのかきっと分かってる。何か言いたげに少女達の周りを飛び、注意を自らに向けているが、声を私に奪われて出せない。知らせる手段がないなら、実際にやって分からせればいい。
「約束は、必ず果たされる」
短い呪文を唱え、風の刃で2本の鎖を断ち切る。リーンと清々しい音が鳴り響き、世界がその形を歪ませた。
『知っているかい、ヴィオロシィ。
人はくだらない事で喧嘩して、争いを始めるんだ。
そして、自分の大切なものと引き換えに、相手の大切なものも失うんだよ。
馬鹿な種族だよね、君達みたいに仲良くできればいいのにね。
でもね、人ってすごいんだよ。馬鹿だけど、良い所がそれ以上にあるんだ。
何か分かるかい。……そっか。じゃあ、教えてあげるよ。
人はね―――』