57、心の違い
ガラス細工の天使を握り締めて、今私が立っているのは、立派な門の前。和式のしっかりとした門は、来る物を阻んでいるようにしか思えない。だけれど、この門の向こう側の人に用があるのだから、何としてでも通してもらわなければならない。
「大丈夫、大丈夫よ」
木の板に彫られた『波月』という文字は、金色に塗られて鈍く輝いて見えた。
「大丈夫だって、だいじょーぶ」
一呼吸、もう一呼吸とおいてから、門とは不釣合いなインターホンを押す。
ピンポーン
聞きなれた音が、家中をかけていく。その音が途絶えた頃、低い声が出た。
「どちらさんですか?」
こういう声を、ドスの聞いた声というんだろう。怖くて一歩下がってしまったけど、このまま逃げる訳にも行かない。
「あ、あの。わ、わわ、私、ウミって言います。な、奈津さんの友達なんですけどっ」
「おぉ! 若のご友人さんでしたか!」
急に明るくなった声は、誰かに何かを伝えて、再び話し出した。
「若のお客さんなら、どんな時間に来たって歓迎しやすよ。ささ、門を開きますんで、入ってきてくだせいや」
それを聞き終わるより早く、重い音と共に扉が開かれた。白い飛石が堂々とした玄関へ向けて伸びていて、その脇には誰がどう見ても、『そちら側』の人がずらりと並んでいた。
「ようこそいらっしゃいやした!」
足を踏み入れるのも躊躇われる空気だったけれど、今日の私の行動力は半端じゃない。飛石を無視して、玄関まで全力疾走してしまったのだから。
「怖かったでしょ? ごめんね、ちょうど着替えてた所だったから、迎えに出てあげられなくて」
「い、いえいえ!」
見慣れた櫻台中学の制服を着た波月さんは、まだ寝癖を直していない頭をかきながら謝った。
「まさかこんな早くから、俺に会いにくる人がいるなんて思わなかったから」
必死に寝癖を直そうとする姿がなんとも可愛らしい……。って、何ソラにぃみたいな事考えてるんだろう。
「ウミちゃんが俺に会いに来るなんて珍しいね。何かあったの?」
「あ、あの、そのっ」
正直、怖くて聞きにくかった。『ソラにぃの事、覚えてますか?』って、聞けばいいだけなのに、それがとても難しくて。もし、『知らない』と答えられてしまったら、どうしたらいいんだろう。一緒に探して欲しいと言っても、手伝ってくれるだろうか?
「……それ、ソラがウミちゃんにあげたのでしょ? 喧嘩でもして出てきたけど、帰りにくくなっちゃったの?」
「ひゃ、波月さんはソラにぃの事覚えてるんですか!」
思わず声が上ずってしまった。少し前のめりにもなった。
「覚えてるも何も、一番の友人のつもりだよ」
ふわりと笑う波月さんの顔が優しくて、いつも通りに変わらなくって、嬉しくて仕方なかった。
「ど、どうしたの?」
「お願いです、ソラにぃを助けてください!」
私だけじゃなかった。ソラにぃを覚えているのは、私だけじゃなかったんだ。波月さんもちゃんとソラにぃを知っていてくれている。
まだ、何も出来ない訳じゃない。まだ、ソラにぃをヴィオロシィには完璧に盗られた訳じゃない。そう思えた。
嬉しくて再び流れ出した私の涙に、ただただ戸惑う事しか出来なかった波月さんは、私が話せるようになるまで待っていてくれた。
「じゃあ、いつソラが妖精界に連れ込まれてもおかしくないって事?」
「いえ、私や波月さんがソラにぃの事を覚えている限りは大丈夫なんです。でも、『覚えてる』のではなくて、護られているんです。ソラにぃに」
「どういう事?」
「これもブルゥが教えてくれたんです。『強い絆』や『想い』が詰まったものは、その持ち主を護るって。私は、ソラにぃがくれたこれがそれなんです」
手の中の天使は、旅行から帰ってきた時、机の上に置かれていた物だ。誰がくれたのかなんて、一発で分かったけれど、『神様からの贈り物だ』って喜んでいたら、ソラにぃも嬉しそうに笑っていたのを覚えている。
「波月さんもこういうのないですか?」
「んー、そうだねぇ……」
ごそごそと胸ポケットをあさって取り出したのは、ボロボロになったお守りだった。
「それは?」
「確か、俺とソラが一番最初に会った時に、ソラがくれたお守りだよ」
「へぇ」
照れくさそうに微笑んで、所々解れているお守りを撫でる波月さんは、どこか懐かしそうな顔をしていた。
「これが、俺を護ってくれてるの?」
「そうです。忘却魔法は、人の記憶を操作する魔法で、完璧に消したい記憶だけを消せるそうです。何か引っかかって、思い出せないような時ありますよね? ふとした瞬間にそういうのは思い出せるそうですが、その魔法が消した記憶は一生戻らないそうです」
「……そうなんだ」
「思い出そうとしても、思い出せない。そんな苦しみを味合わないようにと、護ってくれてるんだって、ブルゥが言ってました」
「俺は……いや、俺らかな。ずっとソラに護られっぱなしなんだね」
「……」
苦笑する波月さんは、なんだか悔しそうな顔をして、唇を噛み締めていた。きっと、私と同じ気持ちなんだと思う。自分の知らないうちに、ソラにぃに助けてもらって、護ってもらって。なのに、何も出来なくて。一緒にずっといたはずなのに、ずっと傍にいたのに、気付けなかった事。
ソラにぃが抱えた、その心に降り積もった悲しみと寂しさ。
「今、俺が出来る事は何?」
「え?」
「助けられっぱなしは主義じゃないんだ。受けた分は、きっちり返すタイプでね」
にっこり笑う波月さんは、大切そうにお守りを胸ポケットにしまいながら、そう言った。その後、廊下を黒い影が通る。ちょうど、波月さんの隣くらいにその影は座ると、お辞儀をして言った。
「若、そろそろ学校が……」
「適当に言って誤魔化しておいて。風邪引いたとか、その程度でヨロシク」
「分かりやした」
障子の間だけで会話して、去っていくのが影だけで分かった。
「ウミちゃん」
「は、はいっ」
「『人』と言う字はね、人と人が支えあって出来た言葉なんだよ」
なんだかどこかで聞いた事があるよう台詞だわ。
「人が1人でしかなかったら、1になってしまうんだ。でも、それを助ける人がいれば。2がいれば、孤独じゃないよね。……人は、1人でも生きていけるかもしれないよ。だけど、疲れた時に寄りかかれるように、誰かがいるといいだろうね」
変わらない笑顔で、波月さんはそう言った。優しい笑顔は、乱れた私の心を少し癒してくれた。
「ソラは、まだ1じゃない。願う事、祈る事しか出来ないなら、俺はそれでも構わないよ。それだけだとしても、俺はソラのために、寄り添える2であり続けたいな」
*
ウミさんと別行動で、私達がやってきたのは矢吹さんの家。先頭をローグ、ウネビガラブ、ジャウネが行き、後ろから私やフォンとベートがついて行きました。
「ソラを忘れてんなら、俺らは見えないはずだな」
「あぁ。青年がいなければ、あやつに会う事もなかっただろうからな」
「反応があるかないか、それで結果が分かりますわね」
私達を見るには、特別な力がいる。矢吹さんや波月さん達が私達を見る事ができるのは、ソラさんの不思議な力のおかげです。もし、矢吹さんがソラさんの記憶を失っているのなら、繋がりがなくなってしまっていたら、私達には気付かないはずなんです。
「で、矢吹の家はどこだよ」
「何を言っておる、お主がついて来いと言ったんじゃろうが」
「そうですの!」
で、迷子ですか。またなんですか、いい加減にしてくださりませんかね?
「俺そんな事言ってねぇもーん」
「白を切るつもりかっ」
「ひ、酷いですのっ」
こんな大変な時に、この子達ったら全く……。
「今は、私闘をば致し候刹那ではないであろう! 早う矢吹殿をば探じゃねばならぬのでござるよりな!」
「ん? 私が何だって?」
「げ、矢吹!」
「げって何よ。有澄みたいに言うなら、いくら可愛くたって処刑するわよ?」
「す、すまねぇ」
黒い笑顔でそう言い切った彼女は、私達をその瞳に映し、会話をしている。そしてなにより、『有澄』と言った。
「そ、それどころじゃないんですの! 緊急事態ですのっ」
「何? 火事でもあった?」
「火事の方がまだマシじゃな」
いや、どっちもどっちだと思いますよ。
「んな事より、ソラが攫われたんだ!」
「は?」
「ヴィオロシィがソラ様を妖精界へ連れて行こうとしてるんですの!」
「我らはそれを阻止しなければならないのじゃ」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて、最初から話して」
誰だってそうですよね。突然、誰かがいなくなる。それは信じられない事でしょうから。そして、ローグとジャウネ、ウネビガラブが互いに足りない所をフォローしながら話しました。
「……大体分かったけど、それは有澄が望んだ事なんじゃないの?」
静かにこれまでの話を聞き終えた矢吹さんの答えに、私達は唖然としてしまいました。
「確かに、まだ独りぼっちじゃないわ。けど、ヴィオロシィとの『約束』は自分を独りにしない事でしょ? 有澄が望んだ事じゃなくたって、その子といた方がいいんじゃない?」
正論のようにも聞こえますが、本当にそれでいいのでしょうか。
「私は、有澄の傍にずっといられる自信ないもの」
少し目を伏せて、そう言った。なのに、唇を噛み締め、握り締めた拳が震えていました。
「無理矢理引き離すより、有澄が望んだようにしてあげればいいじゃない。いつもこっちが我侭言ってたんだから、たまにはアイツの我侭も聞いてあげないと」
「ですが、それだと……」
「はっきり言えば、会えないのは寂しいわ。けどさ、この世界で有澄が苦しんでるのを見るくらいなら、違う世界で幸せにして欲しいと思っちゃいけないの?」
「……そうかもしれぬが、本当にそれでいいのか?」
「いいから言ってるの。良くなかったらそんな事言わないわ」
矢吹さんは作ったような笑顔で、震える声で言い切った。
「望みが叶うなら、それでいい。私は……それでいいわ」
背中を向けて歩き出した矢吹さんを止める術を、私達は知りませんでした。止めていいのかも、分かりません。だけど、そんなに寂しそうな背中で去られてしまうのも嫌です。
「有澄さんの事を、好きだったんじゃないですか!?」
立ち止まった矢吹さんは、振り返らなかった。そのまま走り去ってしまい、答えをいただく事も出来ませんでした。