文花 砂漠の夜に
エジプト、と言ったらサハラ砂漠だ。砂漠なんて気温が下がることもないと思っていたから、夜の涼しさは意外だった。
どうやら、砂漠が暑いのは日中だけらしい。砂はもう熱を持っていなかったし、砂吹雪ですごいのかと思えば、風もなく星もよく見える。つい先刻までのカナダの寒さが嘘のようだった。
傍らのコタロウは、もうスヤスヤと寝息を立てている。頭を撫でると、甘え声でかすかに鳴いた。
二冊目のノートには、ピラミッドを見るためにエジプトに行く、と書かれていた。そして、ピラミッドの頂上に登る。それが、隼人という人の夢だったらしい。
(明日になったら、私も登ってみようかな。)
三日月の舟が浮かんだ夜空を眺めているうちに、文花は瞼を閉じた。
「ようこそ。」
はっと目を開けると、そこは広い部屋だった。窓も何も無いのに、真昼のような暖かい光が照らしている。声のした方を振り向くと、そこには賢そうな女性が椅子に深く腰掛けていた。
「……え?」
さっきまで、砂漠に寝転がっていた筈だ。──いや、本当にさっきだったのだろうか。随分前のような気もする。
「大丈夫ですよ。」
胸の内を見透かすように言って、女性は微笑んだ。
「ここは、どこですか? 砂漠じゃ無いですよね。……もしかして、死んだんですか!」
文花の戸惑いように、女性はふふふっと笑った。
「貴女は生きています。大丈夫。」
はあ、と溜め息を吐く。──今は、コタロウを置いて死にたく無い。
「貴女は、タペストリーを知っていますか?」
突然女性に尋ねられ、首を振ると、そうですか、と少し残念そうに俯かれた。
女性はおもむろに立ち上がると、自分の左手にある壁に手をかけた。
「これが、タペストリーです。」
女性がばっと手を引くと、壁──裏返しのタペストリーが取り払われた。
そこには、小さなキャンプ用の椅子に座って足を組み、本をめくる少年が描かれていた。絵画にまるで興味のない文花ですら、この絵は美しいと感じられるような絵だった。
「……誰ですか、この人。」
タペストリーを広げている女性に目を戻すと、女性は歌うように言った。
「貴女の追っている人です。たった一人で旅路を歩んできた少年。そうですね、賢者──と呼んでおきましょうか。彼は本当に聡い。しかしそれは、貴女にも通じることですね、対の賢者よ。」
女性は徐々に言葉に傲慢さを滲ませてきた。しかし、威圧されているという感覚は無い。むしろ、あるべきところにあるべきものが戻った、そんな雰囲気だった。
(対の賢者? 賢者って賢い人でしょ? いやあ、そうでもないんだけど……。)
三年前までしていた勉強の内容はあまり覚えていなかったが、成績が良いわけではないことは覚えていた。そもそも、賢いの意味がよく分からない。サトイってなんだろうか。最後にモをつけたら里芋になるのだが。
「これを見てください。」
女性はそう促して、タペストリーを椅子に置いた。
その先にあるものを見て、文花はおもわず絶句した。
そこには、おびただしい数の時計があった。時計の壁。そのどれもこれもが、針を失い、数字を失っている。
「まあ……、そろそろ時間ですね。」
女性がそう呟いた。それを、文花は聞き逃さなかった。
「ちょっと待って──。」
言い終わる前に、目が覚めていた。