文花 北の街並み
あの瞬間移動能力も、捨てたものでもなかった。抽象的に念じても、そこに飛んでくれるのだ。
(これは便利。でも、どうして瞬間移動なんだろう……?)
この世界の時間が止まったわけではなく、単に人間が消え動物の時間が止まってしまったのであって、地球の物理法則は変わらない筈なのだけれど。瞬間移動なんて、三年前までは空想でしかなかった。
(こんなことがあるんだから、本当は夢だったりして……。)
そうであればいい、と思って、文花はふと、ぎゅっと目を閉じた。瞼の外で、世界が変わっていればいい。──しかし、目を開けてもそこは人っ子一人いないカナダ・ケベックの街並みだった。
やっぱり、これが現実か。
文花は溜息も漏らさずにまた歩き出した。
昨日見つけたノートは、文花の希望だった。あまりに偶然過ぎたが、それもある意味運命なのでは、と割り切ることにした。
そして、ノートの裏表紙に、出来るだけ目立つようにお気に入りの青いペンで『紺堂 文花 カナダに向かいます。』と書いた。
他になんて書いたら良いのか、よく分からなかった。長らく誰とも関わっていないからだろうか、今の状況を伝える術を、覚えていなかった。ただ、あの『瀬尾隼人』という人に、自分の存在を示すことはできる筈だ。
彼と一刻も早く会いたい、とは思ったが、あそこで待つことはしなかった。彼がこの三年間をいかに過ごしたのか、知りたかったからだ。それに、ノートを辿っていったほうが確実だ。
そういう経緯で、文花はカナダに飛んできた。次のノートの場所に行きたい、と念じたところ、叶ってしまったのだ。こんなに抽象的でもいいなら、彼の跡を追うのも難しくない。ラッキーだ。
飛んできた場所は、綺麗なところだった。カナダは、地図上だとアメリカの上に位置する、ということくらいしか知らなかった文花にとって、ここケベックの街並みは衝撃的だった。
レンガ造りの建物が軒を連ねる路はヨーロッパを彷彿とさせ、どこに目を向けても絵になりそうな景色だ。昨日までいたニューヨークがまるで嘘のようだった。
瀬尾 隼人という人の書いたノートには、こう記されていた。
──カナダは、僕が昔から行きたかった場所の一つだ。その中でも──名前が思い出せないことが惜しいけれど、ヨーロッパのような街、あそこに行きたい。あの街は、フランス語が公用語で街丸ごと世界遺産にも登録されているらしい。人がいなくなってしまっても、まだ景観が保たれていればいいけれど......。
彼の祈りが叶った、わけではないが、ケベックの街並みは決して悪くなかった。少なからず暴走した常緑の緑に侵されていたが、街並みを崩すというほどでもない。緯度が高いからかもしれない。
「コタロウ、分かった?」
コタロウは言葉が理解できるかのように顔を上げ、走って戻ってきた。
あのノートの匂いを覚えていたのか、ここにきてからコタロウが時折吠えるようになった。もともと賢い犬だったから、もしかしたら何かあるのかもしれない。
コタロウにはっと立ち止まった。そして、道端の家の窓に走り寄り、吠えた。──ここだ。
家の中に移動すると、文花はノートを取った。
(──次の行き先は……、エジプト? なんでそんなところ……。)
少々呆れたが、動機があまりに単純すぎて笑ってしまった。なんだ、単にピラミッドが見たいだけではないか。
「コタロウ、行こ!」
文花は、コタロウを抱いて念じた。途端、ふうっと景色が揺らいだ。