文花 明け方の廃都
高層ビルは、巨人の影。銀色の体は、鎧の輝き。朝焼けに染まる、かつての摩天楼は見事なまでにもぬけの殻だった。
何の物音もしない街を、コタロウと文花は歩いていた。時折、飼い主を失った不老不死の動物達が姿を見せる。ここもやはり、緑に支配されつつあった。
(あのニューヨークも、もうこんなになっちゃったんだ……。)
こういう景色を新しく目にすると、孤独な自分が、透明なガラスの上に立っているように頼りなく感じる。ガラスが割れて、その破片と一緒に何も無い宙に投げ出されてしまいそうな、不安。前、自分の住む町にあった田んぼがただの草地になっているところを見た時は、自分が消えていくような感覚さえ覚えた。
それでも、心の片隅には必ず、「自分は永遠にこの世界に残されたまま」ということがあって、こういうときは決まって、どちらともつかない悲しみが足取りを重くした。
時計を見ると、もうすぐ7時だった。ふと辺りを見回すと、小さなカフェが見つかった。
「コタロウ、ちょっと休憩しようか。」
そう言って、文花はその扉を開いた。
そのカフェは薄暗かったが、決して悪いところではなかった。常緑の緑に侵されてさえなければ、写真集にでも載っていそうなオシャレなカフェだった。
ボロボロの椅子に座って、カウンターに向かう。前は、こうやってオシャレなカフェに行くことが小さな夢だった。テレビで観る、都市部の店──。今になってそれが叶うなんて、皮肉な話だった。
文花の故郷は、はっきり言って田舎だった。小さな私鉄が田んぼの中を走り、滝があって、海岸があって、古ぼけた商店が並んでいた。学校も小さく、近所は皆顔見知り、そんな町だった。けれど、決してそんな町が嫌いではなかった。
だからこそ、緑に侵されていく故郷を見るのは辛かった。──そして、廃れていく町の中で自分だけが時を超えずに取り残されていることが悲しくて堪らなかった。
突然、店の中に白い光が射した。背の高いビルの隙間から射した、冬の束の間の一筋。その光は、店の窓際のテーブルを照らし出した。
……と、コタロウがその上に載っていた何かに向かって、軽く吠えた。
(……あれ、ノート?)
近付くと、それは自分が使っていたものと同じものであることが分かった。三十枚の、大学ノート。表紙には、綺麗な字で『瀬尾 隼人』と書いてある。
(瀬尾 隼人? 日本人だ……!)
文花はパッとそのノートを手に取ると、夢中で表紙を開いた。
十二月十七日
僕は、幼い頃から音楽を聴くことが好きだった。イヤホンを耳に当てがって、その曲の物語を想いながら、自分の世界に沈む。
本を読むことも好きだった。ページをはらりと捲って、静かな時の中に、誰かが創り出した物語を僕なりに紡ぎ上げていく。
僕はきっと、誰かの物語を考えることが好きなのだと思う。知らない世界、知らない人。その人の周りにいる、誰か。空想の世界でも良かった。僕は多分、人が好きだった。
昔読んだ本に、こんなことが書いてあった。
『世界でたった一人になっても、人はきっと、誰かを探し続ける。』
僕は、十四歳だ。本来なら、部活に汗を流して、勉強をして、友達と楽しく喋って、遊んで、少しだけ怠惰な、それでも充実した日々を送っていたのだろう。来年は受験だな、今、目一杯遊んでおかなくちゃな……。そんなことを思いながら、学校からの課題をこなしていたのだと思う。
実際、僕はそんな中学生だった。ありふれた、本と音楽が好きな中学生──の、筈だった。あの日が来るまでは。
生き物には、時間制限が存在する。死、というものがまず一つ。……そしてもう一つ。普通なら知りえない、時間制限がある。
僕はその、もう一つの時間制限──一つの死から、零れ落ちてしまったのだろう。そして、永遠の時間を、一人で過ごすことになってしまった。不思議な力を植え付けられて。
今、僕は北ヨーロッパにいる。
止まらない、残酷な時間の中で、僕は自分の知らない世界を旅して回った。知りたい世界がたくさんあったから。見たい景色がたくさんあったから。でも、理由はそれだけじゃない。
あの本は、間違っていない。
僕は、まだ希望を探しているのだと思う。半ば諦めながら、それでも、永久に。
空を仰ぐと、緑色の光が見えた。薄く透けた、天空の絹。満点の星空の中で、オーロラは風にはためく旗に見えた。
そろそろ、次の場所へ行かなきゃいけない。誰かを見つけるために。その前に、僕の想いを残しておく。
神様、貴方は本当にいるのですか?
もしも、神様が本当にいるなら、僕は貴方に尋ねたい。
どうして、僕が選ばれたのですか?
文花は夢でも見ているような心持ちで、ノートから顔を上げた。
紛れも無い、彼は自分と同じ残された人間だ。そして彼──隼人という人は、三年前からずっと、人を探して旅をしていた。あの寒い日からずっと──。
彼に会いたい、と思った。
無性に人間に会いたかった。話を聞いて、自分の話をして、とにかくこの長い孤独から解放されたかった。
隙間風が吹いて、コタロウが震えた。抱きよせると、体を摺り寄せて甘え声で鳴く。
彼はヨーロッパにいるのだろうか? でも、この日付は三年前、それも一番最初のページだ。
幾つかページを見てみると、彼はヨーロッパからアメリカに来たことが分かった。そして、最後のページにはカナダに行くと書かれている。
(カナダ……。何か手がかりがあるかもしれない。)
「コタロウ、行こ。なんか、もう一人、私達と同じ人がいるみたい。」
その顔からは、長らく無かった歓喜が滲みでていた。