うちの敷居は跨がせない
そこにあったのは、懐かしいひとの姿だった。
まあ、どなたがいらっしゃったかと思ったらあなただったのね。
お久しぶりね、お元気でした?
今日はどのようなご用件でいらしたの?主人は仕事でおりませんの。
……あらそう、従妹とお約束があったのね。あの子は今、風邪を引いて寝込んでいるわ、ごめんなさいね。
ふふ、でも驚いてしまったわ。お客さまだと家令が言うからお迎えしたら、あなただったなんて。
まるで昔に戻った気分になったわ。
――そうね、ちょうど十年前の出来事だったわ。
あなたが、「いつか、立派になって君を迎えに来るから!だから、それまで待っていて欲しい」と、当時十三歳の私に、十五歳のあなたがそう言って、騎士になるために王都へ旅立っていったのは。
私は、あなたとの別れが辛くて毎日泣いてばかりいて、家族や友人たちにたくさん心配をかけてしまっていたわ。
そんなふうに、無為に日々を過ごしていた私のもとに、初めてあなたからの手紙が届いたの。
嬉しくて嬉しくて、はしたないけれど玄関で手紙を読んでしまったわ。
そこには新しい生活の不安や、あなたの努力、そして私への気持ちが書かれていたの。
『僕も会えないのが辛いけれど、これからもずっと君と一緒にいたいから頑張るよ。だから、素敵な女性になって待っていてほしい』
読み終わる前に手紙に涙が落ちて、きれいに書かれていた字がにじんでしまったけれど、私は読むのをやめられなかったの。
あなたは一体、どんな気持ちでこれを書いてくれたのかしらって、何度も何度も読み返したわ。
私とあなたは年齢が近く、お父様が友人同士でもあったために、家族での付き合いもあったけれど……それはあくまで友人付き合いのうち。
私たちは成長するにつれお互いに恋心を抱くようになったけれど、残念ながら家柄は釣り合っていなかったわ。だから、結婚は許されなかった。
あなたの家は私の家よりも、家格が低かったから。
さらに私は一人娘であり、あなたは三男だった。
条件さえ合えば、あなたが婿入りをして結婚は許される。
だから、あなたは騎士を目指した。騎士として出世することが私との結婚に有利になるからと、そう言ってくれたわね。
だから、騎士になるために頑張っている、あなたに相応しい女性にならなければいけないと思ったわ。……将来、あなたを支えていけるように、家を継ぐものとして知っておかなければならないたくさんのことを勉強しよう、そう誓ったの。
だから私は泣くのをやめたわ。
泣いていても、ただ時間を無駄にするだけだと思ったから。
素敵な淑女になって、あなたを待っていようと決めたの。
あなたと離れ離れになったのは悲しいけれど、いつか一緒に笑い合える未来が来るのを信じて。
――そうして、私たちは違う場所から、同じ目的地を目指して歩きだした……はずだったわ。
最初の一年はこまめに手紙をくれていたのに、少しずつ手紙は減っていった。
最初のうちは帰省するたびに私に会いに来てくれていたのに、だんだんと回数が減っていき、私があなたの家に行っても短い時間しか会ってくれなくなった。
――そうして、別れた時から五年が過ぎて、私は十八歳になり、あなたは二十歳になった。
その間に、我が家には大きな変化があったわ。あなたも知っているでしょう?
皆が待ち望んでいた後継ぎとなる弟が生まれ、私は家を離れて嫁ぐことができるようになったの。
結婚適齢期になった私には、たくさんの縁談が来たわ。
けれど、私はずっとあなたを待っていた。
あなたが正式な騎士となり、迎えに来てくれるのではないかとずっと待っていたのに、……一向にそんな話はなかったわ。
そのうちに、あなたからは手紙もこなくなった。
私はそれが寂しかった、毎日毎日あなたからの返事が来るのを待っていた。
けれど、返事が来ない手紙を書くことに疲れてしまっていたのね。次第に、近況報告のみの簡単な内容になっていったわ。
会いたい、寂しい。そんな気持ちばかり書いた手紙を出したくなかった。
あなたへの気持ちが、あの頃の純粋な好意以外のものに変化しつつあることに、私は薄々気付き始めていたから。
だから、意を決して父と母に相談をしたの。
あなたが、私のことをもう忘れてしまったのではないかって。
ふたりはそんなことはないとは言いながらも、あなた以外の男性との縁談をさり気なく薦めてきたわ。
はっきりとは言われなかったけれど、私を取り巻く状況が変わったのだとその時わかったの。
爵位と領地は弟が継ぐ、私は嫁に行く。
だから、あなたはもう私を好きではなくなったのかもしれないって……そう気が付いたわ。
どうしても、あなたと直接話をしたいと思った。
ただの憶測で疑って、中途半端な気持ちでいたくなかった。迎えに来てくれると信じていたかった。
――だけど、待っていてもあなたからは手紙すら来ない。
待って待って
――それから、さらに二年待って。
私は、とうとう二十歳になった。
そんなときに、叔母が亡くなったの。
母の妹である叔母には、十二歳になる娘が一人いたわ。
叔母の死で、その子が塞ぎ込んでしまい叔父が困っていると、父から相談を受けたの。
年頃の娘で、これから本格的に淑女教育を始めるはずだったのに、部屋に籠もったきり出てこない、と。
そうして、私はしばらく従妹に淑女教育をするという名目で、叔父の屋敷に住むことになったのよ。
従妹は亡くなった叔母にそっくりの容姿で、弟にはない可愛いらしさがあってすぐに仲良くなれたわ。
その上、気が付けば私のことを『お姉様』と呼ぶようになっていて、私たちは本当の姉妹のようになっていったの。
その頃にはもう、はっきり言うと、私はあなたのことをあまり思い出さなくなっていたわね。
手紙を書くこともなくなって、従妹を立派な後継ぎにするための勉強と淑女教育に日々を費やすようになっていたから。あの頃は毎日充実していたわ。
――そうして、瞬く間に二年が過ぎたの。
約束の年からすでに九年が経ち、私は二十二歳になっていた。
……『行き遅れ』と呼ばれても、甘んじて受け入れなければならない年齢よ。
そんな私に結婚話が来たの。
年を経るごとに条件の良い縁談は減り、このまま『行かず後家』かしらと思っていたところだったから、お受けすることにしたわ。
旦那様は亡くなった前の奥様をずっと忘れずに愛していたから、その姿を間近でずっと見ていたから……だから従妹の義母になることにしたの。
なにかしら?言いたいことがあるなら、はっきり口に出して欲しいわ。
え?『立派な騎士になるまで会わないと、誓いを立てていたから会わなかった』?
なに?『手紙はちゃんと読んでいたし、嬉しかった』?。
それで?『君のことは好きだった。でも彼女を愛してしまったんだ』?。
あなたは、私を十年間も放置した上に、よりにもよって私の可愛い従妹……いえ、大切な娘に手を出そうとしたのね?
ねえ、そんなに爵位が欲しかった?私を捨ててから、何人もの貴族の令嬢と恋仲になっていたそうね。
ごめんなさい、私はいつだってあなたの望みを叶えてあげられないの。
――だって、私が生んだのは男の子だもの。
この家の後継ぎとなる男の子なのよ。
どうしたの?顔色が悪いわよ。
今日はもう、帰ったほうがいいんじゃないかしら。
もう二度と来ないでね。
バタン(閉まる玄関の扉)
【注】
彼がこの家に着いてから、まだ十五分も経っていません。