Scene8 ス・レ・チ・ガ・イ
久しく使っていない自宅のキッチンでわたしは野菜の下ごしらえをしていた。
「今日はシチューだよー。」
そんな独り言を漏らしながら彰のことを考える。
最後に逢ったのはいつだろうか?一緒に食事をするのは相当久しぶりだと思う。ましてや、わたしの部屋でだなんて。
正に「仕事中心」の生活を送っているわたしたちは周りの人たちから「よく2人ともそんなんで続くね」と言われるカップルだ。
ここ2年くらいは2、3か月に1回、半日でも一緒に過ごせたらマシな方だと思うし、お互いの誕生日もクリスマスも一緒に過ごした覚えがほとんどない。
そもそもこうやって家にいること自体がわたしからしてみれば相当珍しい。
噂好きのうちの社員の間では「会社に住んでるんじゃないか」と言われるくらいだ。
給料からすれば決して高い家賃ではないと思うが、寝に帰ってくることがほとんどなので、割高というか損はしていると思う。現状で本当に必要な要素だけを押さえれば、最寄駅からもっと近くても2/3くらいの家賃の部屋は普通にありそうだ。
それでもわたしがこの部屋を引き払う気になれないのは、年に数回こうして彰と過ごせる時間があるからかも知れない。普段のバタバタした生活から少しだけ離れて、一緒に質のいい時間を過ごしたいから。
ろくに観もしなにのにテレビだってやたら大きいし、スピーカーもそれなりに値の張る物だ。そして、部屋を見渡せばソファにしろ、テーブルにしろ一緒に使うために買ったサイズの物や、彼がプレゼントしてくれた品々がたくさんある。
映画のブルーレイだってそうだ。
2人で観に行くはずだったが仕事の都合でお互い時間が合わず、上映期間が終わってしまった作品。それを覚えていた彰がレコーダーごと買ってきてくれた。その録画機能はまだ1度も活用されていないが。
「いつか一緒に観ような。」
いつ来るかもわからない、その「いつか」のために用意された物たち。
もしかしたら、こんなわたしたちを繋ぎ止めてくれているのは、こういう物たちなんじゃないだろうか。一緒に過ごす時間を義務化させるような・・・。
そんな錯覚に陥りそうにさえなる。
以前に友達と飲んでるときにも話した記憶があるが、彰のことはちゃんと好きだ。付き合い始めた頃のようにドキドキすることはもうない(というか、それほど逢っていない)が、愛してるのは事実。
きっと彼が浮気をするなどということもないと思う。
それでも不安になるときがあるのは、踏み込んではいけない領域がわたしたちにはあるからだ。それが感覚的にわかるのは同業者だからだろう。
青柳彰と言えば、業界ではちょっとした有名人だ。某大手企業の専属プロダクツデザイナー。たまに雑誌にインタビューが載るぐらいなので、デザイナーとしては勝ち組なのは間違いない。
以前に上司の誕生日プレゼントに彰がデザインしたマグカップをプレゼントしたら、凄く喜んでくれたのを覚えている。彼のデザインしたものは20代半ばから50代くらいには男女問わず好評で、これだけ価値観の多様化した現代でそういった評価を得られるのは稀有なことだと思う。
わたしも以前はプロダクツデザイナーを目指し、専門を卒業してからは彼と同じ会社に同期として入社した。その頃は彼も駆け出しで、わたしと同様に毎日与えられた仕事をこなしているだけだと思っていた。
しかし実際はそうじゃなかった。
当時の彼はあたしなんかよりもずっと野心家で、空いた時間にラフを描いては上司に提出し、評価してもらっていた。
「デザイナーとして食っていくなんて並大抵のことじゃない。チャンスは自分で掴むしかない。」
口癖のように彼が言っていたことの真意をわたし毎日のように会っているのにわかっていなかった。しかも、入社して半年ちょっと経った頃には既に恋人同士になっていたにも関わらず。
そんな彼がデザインした物は入社2年目にして商品化された。これだけ大きな会社では10年に1回あるかないかというレベルの出来事。見事に彼は出世コースに乗り、大きなプロジェクトも任されるようになっていった。
シチューを煮込み終えて、一休みしようかと思った時である。
ケータイを見ると数分前に着信があったので折り返すと、以前にわたしがデザインを担当した案件のクライアントから次の企画も頼みたいという旨で、急に打ち合わせが入ったらしい。
今日はもう退社してるので打ち合わせに参加する義務はないし、話し合ったことを明日引き継いでもらえば何の支障もない。
それでも、わたしの身体は条件反射的に部屋を出ようと動き出していた。
「プロとして、今が1番大事。」
そんな彰の言葉が頭をよぎる。最初の打ち合わせには顔を出してクライアントの意向を直接聞いた方が絶対にいいモノが創れるのは経験上わかっている。
ここで前のめりに行かない理由は今のわたしにはもうない。
後でメールも入れるつもりだが、出来上がったシチューを皿に盛りつけてラップをかけ、彰宛てに走り書きを残してわたしは部屋を出た。
数日前、わたしは社内の廊下を歩きながら、遅めのランチは何にしようかと考えていた。
「あー、お腹空いた。」
15時過ぎ。こんな時間にここを歩いてる人間なんてほとんどいないのがわかっているので、つい独り言が出てしまった。
この会社に引き抜かれてからもう5年。
世間で言うランチタイムに昼食を摂れたことなんて年に数回ほどだ。なので、朝はさすがに何か食べるようには心掛けているが、お昼抜きなんてこともざらにある。歳も歳だし、健康に気を遣いたいのは山々だが、まだまだコンビニとは仲良しこよしする日々が続きそうだ。
「おっす、八城。今からお出掛け?」
会社を出て近所に3件あるコンビニのうち何処に行こうか考えていると、うちに出入りしてるフリーのコピーライターの三村貴未恵さんとバッタリすれ違った。
「ええ、今からお昼を買いに。」
「お昼?3時のおやつの間違いじゃないの?」
ショートの金髪をかき上げながら貴未恵さんは笑った。クリエイターというくくりでは同業者なので、普段から共通の話題で盛り上がったりすることも多く、彼女のサバサバしたキャラクターは、わたしにとって頼れる姉貴分といった感じだ。
「相変わらずよく働くねー。」
「もう慣れっこです。それに、この時間帯のコンビニって品揃えいいんですよ。」
わたしも冗談っぽく切り返す。
「もうコンビニマスターだね。そういえば、旦那のインタビューが雑誌に載ってたよ。」
旦那というのはもちろんわたしに夫がいるという意味ではなく、彰のことだ。
「あ、そういえば近々出るって言ってた気がします。」
「うん、随分男前に写ってたよ。」
「え?本人も写真載ってるんですか?」
「そうだよ。つーか、知らなかったの?」
「まったく。というかここ1か月くらいほとんど連絡とってなくて・・・」
「まぁ、それもいつものことか。」
苦笑いしながら貴未恵さんは言った。
「でも、八城たちはそれで上手くいってるみたいだし、連絡の頻度なんて今更気にならないでしょ。インタビューに『プライベートも充実してます』みたいなこと書いてあったよ。」
「そうなんですね、あと・・・」
彰にとって「プライベートが充実している」とはどういう状態を指しているのか、わたしにははっきりとわからなくて、少し言葉が詰まってしまう。
「独立について・・・とか書いてませんでした?」
「たぶんそういうことは書いてなかったと思うけど、何?2人の間ではそういう話も出てるの?」
「いや、まったく。だから逆に気になって・・・実績や周りの評判を考えたらいつでもフリーになれそうだし・・・」
「ふーん、確かにね。でも、フリーって言っても得することばっかりじゃないしねー。うちらと違って大手で雇われの方がメリットを感じるタイプもいるだろうし。まぁ、そういうことは本人に直接聞きなよ。」
ごもっともな意見だ。それに彼女の付き合っている人もフリーのカメラマンなので、わたしたちのように同業者だからこそ言葉にしなくても伝わる何かがあるのかも知れない。ただ、絶対的に違うのは逢ったり言葉を交わしている頻度だろう。
「・・・そうですね。」
「そうそう、難しく考えないでさ。んじゃ、あたしはこの後打ち合わせだから、そろそろ行くわ。」
そう言って貴未恵さんはその場を後にした。
コンビニまでの道を歩きながら、余計なことを口走ってしまったと後悔した。
確かに彰の評価は年々上がってきているが、独立だの何だのは周りが騒いでいるだけで、本人にその気があるのかなんてわからないのに・・・。
先ほどコンビニで買ったいつものBLTサンドを食べ終えたわたしは納期が近づいてる案件のデザインを一段落させ、出掛ける支度をしていた。モヤモヤしながら食べたからなのか味気なく感じたが、栄養は補給できただろうし、今日はあと2件打ち合わせがあるので乗り切らねば。
時計に目をやると17時過ぎ。必要な資料を再確認してオフィスを出た。
「彩乃ちゃん、お疲れ様。」
営業部の六笠彩乃ちゃんとエレベーターで鉢合わせした。
「ミナミさん、お疲れ様です。」
わたしは中途採用だが、この子とは入社した年が同じなので、一緒に仕事をする機会が増えた2年目くらいからは親しくしている。
仕事のときとはまた違った意味で気合の入ったメイクは、品があって彩乃ちゃんによく似合っていると思った。彼氏は同じ営業部の後輩だと聞いているが、こんなにセクシーで可愛い年上の彼女がいるなんて、きっと他の男の子は羨ましがるだろう。
「今日はもう帰り?」
「はい、今日は定時で上がれたので。今からデートなんです。」
定時。この会社にそんなものあるのか。いや、少なくとも営業部にはあるのだろう。わたしたち製作部は定時どころか、休日の感覚もろくにない。
「そうなんだ。珍しく早いんだね。」
とは言え、彩乃ちゃんもいつも遅くまで働いているイメージがある。
「珍しく?私、そんなに残業してるつもりはないんですけど・・・アポもなるべく17時以降は避けてるし・・・。」
わたしの思い過ごしだったようだ。自分のスケジュールをコントロールして定時に退勤し、プライベートを充実させる。OLの鑑のような仕事の仕方だ。
「・・・すみません。いつも私たちは早く帰らせてもらって。でも、うちの製作部の人たちって雇われっぽくないですよね。」
それは確かに思う。というのも、わたしを含め製作部には新卒で入ったスタッフは1人もいない。わたしみたいに以前は別の会社にいたか、フリーになり損ねたかだ。でも、うちみたいに小さい会社でクリエイターとして給料を貰おうと思ったら、日本人にありがちな組織に依存しきったサラリーマン思考では到底やっていけないだろう。
「まぁ、みんな嫌々仕事してるわけじゃないだろうからね。わたしも今日この後2本打ち合わせがあるし。」
「え?2本も?何時に終わるんですか?」
「早くて22時くらいかなぁ。」
さらっと答えてしまったが、2本目は20時半からなので妥当な時間だと思う。しかし、彩乃ちゃんは目を丸くしている。
「・・・働きすぎじゃないですか?それで明日もいつもの時間に出社するんですよね?」
「でも、うちらは営業ほど厳しくないし。全体ミーティングでもない限りは、各々が納期さえきっちり守ればいいって感じだから。」
エレベーターを降りて会社のロビーを歩きながら、わたしたちは会話を続けた。
「なんか・・・前に聞いたときより労働環境悪化してません?」
「そうかな?わたしが好きでいくつも仕事抱えてるだけなんだろうけど。」
「ミナミさん・・・失礼ですけど、最近・・・してます?ていうか彼氏さんと逢ってます?」
最後に身に覚えがあるのはいつだっただろうか・・・。そもそも最後に彰の顔を見たのは1か月以上前だし・・・。
「あー!すぐに出てこないってことは全然なんじゃないですか?」
「う・・・うん。」
おっしゃる通りです。
「大丈夫・・・なんですか?お互い・・・」
少なくともわたしは慢性的な睡眠不足を除けばいたって健康だ。向こうはどうだか知る由もないが。
「でも、来週逢う予定だし。うちらはうちらのペースっていうか・・・ね?」
「ご、ごめんなさい!私、そういうつもりで言ったわけじゃ・・・。」
余計な気を遣わせてしまった。
「違う違う!そういう意味じゃなくてね。心配してくれてありがとう。本当、大丈夫だから。」
「はい・・・でも、あんまり仕事しすぎて倒れたりしないでくださいね・・・。じゃあ、お疲れ様です。」
そう言って彩乃ちゃんは会社の外で待っている、年下彼氏のもとへ小走りしていった。以前ほど周囲の目を気にしていない様子から、関係の順調ぶりが伺える。
わたしたちはわたしたちで上手くいっている・・・はずだと思うしかない日々がもうどれくらい続いてるだろう・・・。
例の雑誌に掲載された彰のインタビューを読んでいると、いろいろなことを想像してしまった。
この雑誌はデザイナー向けの専門誌ではなく、ライフスタイルの提案などがメインの月刊誌だ。人気の飲食店や、旬の芸能人のインタビューなどは似たような雑誌と大差ないが、わりとマニアックというかディープなネタが多いことで知られている。
以前もコーヒーの特集の際は『豆を焙煎しよう。』とか、アウトドアがテーマのときは『これであなたもダッチオーブンマスター!』など、専門誌一歩手前くらいのラインを素人にもわかりやすく掲載しているのが面白いと思う。さすがに先月の『ツリーハウスの奥深さ。』というテーマは理解に苦しんだが。
そして今月のテーマは『あなたに寄り添うインテリア。』である。
以前から彰は『製品はお客ありき、喜んでもらってなんぼ。』とよく言っていた。そういった旨の発言がこのインタビューからも伺える。出会った頃から芯の部分は変わっていないんだろう。
社会人に成り立ての頃、当時のデザイナー志望の同期の中でも彰の仕事に対する野心は群を抜いていた。
一口にデザイナーと言っても仕事の中身はピンキリで、世間で思われているほど格好いいものではない気がする。ましてや雇われで給料を貰いながらやろうと思うとその門は一気に狭くなる。
その中で他の部署に異動して私たちよりも多く給料を貰っている同期もいたし、他の会社に移った人もいた。入社して半年ちょっとのうちにデザイン部の新人はわたしと彰だけになっていた。
その頃にはもう恋仲になっていたわたしたちは、ハードな環境の中でも励ましあったり、支え合いながら社会人1年目乗り越えてこれたと思う。
しかし、彼はわたしの想像より遥かに早く成果を出し始めた。最初は素直に応援していたが、その思いは次第に嫉妬に変わっていき「彼はデザイナー、わたしはOL」そんな認識が自分の中に芽生え、日に日に重たく圧し掛かってきた。業界的にどんどん評価されていく彼と、まったく進歩した手応えのない自分。
そのジレンマに苛まれ、彼にどう接していいのかわからなくなった時期もあり、わたしは仕事を辞めようと思ったこともあった。
いや、毎日頼まれたことだけをこなしているわたしにはデザイナーを名乗る資格すらない、と。
『例えばこのソファを恋人同士で使うとしたら、とか、家族で過ごすひとときではどんな役割を果たすのか、みたいな発想がないとユーザーは喜んでくれないんじゃないか。みたいなことを僕はいつも考えています。』
インタビューには新進気鋭のデザイナーとして紹介された彰が笑顔を浮かべながらデザインについて語っているであろう写真が添えられていた。
28歳という年齢でこの実績は、業界的に見れば十分やり手なのはわかる。40代でも芽の出ない人がたくさんいるし、少なくとも自分の思い通りのものを創れる環境に身を置いて経済的に安定しているだけでも少数派である。
この発言が本心であるとしたら、やはりわたしはまだまだ彼に及ばないと思った。
いや、こういった場でも彰は嘘を吐くようなタイプでないことはわかっているので、素直に認めるしかないのだが。
そして、『恋人』という言葉から今の自分を、『家族』という言葉から以前の自分を連想してしまった。
彰と同じ会社に勤め始めて2年が経とうとしていたころ、専門の頃からとても親しくしていた先輩が、交際中の上司との間に子供ができたから会社を辞めて専業主婦になると言い出した。
その連絡をもらったとき「おめでとうございます」という言葉と共に、そういう生き方をしても良いんだ、という思いが自分の中に芽生えた。
彼女はいつもモチベーションが高く、学生としてはかなり高い技術も持ち合わせていた。卒業後もわたしのことを気にかけてくれて、小さいデザイン事務所に勤めているから忙しいはずなのに、たまに会っては相談に乗ってくれたりもした。
その頃からその男性と付き合っているとは聞いていたものの、言い方は悪いが、まさかデキ婚とは予想外だった。
彰とのことで悩んでいたわたしにとって社会人のお手本のような人だった彼女が、急に女としての選択肢を広げてくれた気がした。
わたしも妊娠したら、いや、そこまでいかなくても、彰が結婚しようと言ってくれたら・・・小さい頃に無邪気に「お嫁さんになりたい」などとよく言っていた自分を思い出した。
だが、それはわたしの淡い願望でしかない。年齢的にも経済的にも彰にそういうことをまだ求めてはいけないのはわかっている。
ある日、久しぶりに2人で外食をした帰りにわたしは何の気なしに
「専門のときの先輩がデキ婚するんだよねー。」
と彰に漏らした。すると、彼は少し真剣な表情になり
「デキ婚かぁ。まぁ、俺たちもそうなったら、きちんと籍入れようか。」
予想外の返答にわたしの方が慌ててしまった。いや、まるで本心を悟られてるような気がして・・・
「どうしたの?ちゃんと避妊してるし、まだそんなこと考えるような歳じゃないし・・・」
「でも、その先輩も俺らの1コ上だろ?もうガキじゃないんだから在り得ない話じゃないし、まぁ、俺以外の奴の子だったら困るけど。」
彼は冗談っぽく笑いながら続けた。
「ミナミが今どういう気持ちなのかは俺にはわかんねぇからさ。ただ、俺がしてやれるのは逃げないことだから。」
「彰・・・」
「ただ、俺は仕事とかデザインのことでミナミに後悔だけはしてほしくない。これからの時代、家庭があったらこういう仕事は出来ないなんて言うつもりはないけど、間違いなくハードルは上がる。だから、やるだけやりきって、もういいいかなってなってからでも遅くないと思うんだ、専業主婦とか、母親になるっていうのはさ。」
彰の「逃げない」という言葉と、わたしとの今後についての考え方、何より男としての覚悟に胸が締め付けられて涙が零れた。今こここから逃げようとしていたのは他の誰でもないわたし自身だった。
「彰・・・ありがと・・・」
泣きながら彼に抱き付いて言った。
普通に結婚すれば、子供を産めば、女として幸せになれると思い込みたかった。
でも、その前に・・・わたしはデザイナーとして全うに生きてみたいと思った。自分の作品で誰かを笑顔にしたい。
そんなとき知り合いの紹介で今の会社に引き抜かれることになった。
ただし職種としてはプロダクツではなくグラフィック専門だ。出来なくはないが好きでもなければ得意だと自覚したこともない。それでもこのときはもう彰と同じ職場から逃げたいという気持ちではなく、まかりなりにもまだデザイナーとして仕事がしたいという衝動に突き動かされ、わたしは約2年で最初の会社を辞めた。
結果的にこちらの方が小さい会社だということもあって仕事を任される機会も増え、それまで自覚してなかっただけでグラフィックの方が自分には向いているんだと知って自信も持てた。少しずつではあるがわたしの作品を巷で見る機会も増えてきて、転職して正解だったんだと今は思っている。
それでも、彰に追いつきたいという思いは1度も満たされたことはなく、それが忙殺されそうな日常でわたしの原動力にもなっていた。
会社に戻る電車の中、彰には急な打ち合わせが入ったので予定の時間には部屋にはいられないことと、メモに書き忘れたので冷蔵庫にサラダも入ってるよという内容のメールを入れておいた。
せっかく久しぶりに逢えると思ったのに・・・そう落胆している自分と、今から新たに動き出すであろう企画のアイディアをもう既に考え始めている自分が混在している。
車内の吊革広告に書かれたは女性向けファッション誌の「30代のスタートダッシュ。」というコピーが目に留まる。
今2人とも28歳。付き合い始めた7年。いつ結婚しても不思議ではないはずなのに、そのシチュエーションにまったくリアリティを感じられない。
6年前に彰が言っていたことが、気がつくとわたしの中では「結婚も出産もいつでも出来る」という意味に変わっていた。わたしが「もういいかな」となれば、いつでも。今の彼には仕事の面でも経済的なことでも当時のような不安は一切ない。きっと一緒に幸せな家庭を築けると思う。
しかし、わたしにとって「もういいかな」と思える瞬間なんて永遠に来ないんじゃないかと最近では思う。確かにわたし自身もステップアップしている自覚はある。それでも彰とは速度が違いすぎる。追いつくどころか、その距離は時と共に開いていってるのではないだろうか。
「女の子が男並みに仕事に人生を賭けなくていいのに」。
以前に仕事で知り合った中年オヤジにそんなことを言われた記憶がある。さすがにもう25を過ぎていたので
「ほどほどに頑張ります。」
と笑顔で返したが、腹の底では「そんなことを抜かしてるくせにろくな仕事をしない腑抜けた男どもが増えたら、日本は衰退したんだ!」と言ってやりたかった。
きっと、わたしのそういう思いを彰は理解してくれていると思う。
でも、それ故にもしかしたら結婚を躊躇したり、独立に踏み切れないんじゃないだろうか・・・。
打ち合はどんどんヒートアップして気が付くと4時間近く話しており、会社を出たのは23時過ぎだった。ケータイを確認すると彰から
<俺も仕事が長引いて遅くなると思う。先に着いたら連絡するわ。>
というメールと、その2時間後、つまり今から1時間ちょっと前に
<明日も朝早いんだけど、メシは一緒に食いたいから部屋で待ってるよ。>
というメールが入っていた。
駅に着くまでの間に1本電話を入れたが出なかったので、シャワーでも浴びてるかと思ったが、部屋に着くまでに音沙汰なかったのでもう寝てしまっている気がした。
「ただいまー。」
帰ってくると部屋の明かりは着いていたが、案の定、彰はソファで横たわっていた。
「もう、風邪引くよー。」
暖房は点いているが、11月であることに変わりはないし、外はかなり寒い。わたしはブランケットを彼にかけながら、改めてその寝顔を見る。無精髭が疲れを物語っているように感じた。
「遅くなってごめんね・・・。」
テーブルの上の手を付けていないシチューと
<お疲れ様♪ゴハンはチンして食べてね!>
という走り書きに目が留まった途端、久しぶりに一緒に過ごせるはずだったのにわたしはまた彼との時間より仕事を選んでしまったことが、今更申し訳なくなった。
洗面所でメイクだけ落とし、わたしは寝室に向かって部屋着に着替えると
シングルにしては大きすぎるが、ダブルにしてはちょっと小さいベッドに1人で横になった。
ドアの向こうには彰がいるのに言葉にならない寂しさがこみ上げてくる。
わたしたち、このままでいいんだろうか・・・。
朝6時、目を覚ますと彰はもう部屋にはいなかった。「行ってらっしゃい」の一言もかけてあげられなかったことが凄く悔やまれる。
まだ薄暗いリビングの中、ふとテーブルを見ると
<ウマかった!いつもありがとう>
と、彰の字で書かれたメモが残されていた。それとケータイを手に取りソファに寝転ぶと、彼からメールが入ってることに気付いた。
<ミナミ、おはよう。昨日は悪かった!
せっかくメシまで作ってくれてたのに、気が付いたら寝ちまってたよ。ごめんな。
でも、シチューもサラダも本当にウマかったぞ。今度こそ一緒に食いたいな。
本当は昨日開けようと思ってたワインも冷蔵庫に入れてあるから、次こそ乾杯しよう。
それにしても最近ますます忙しくなったなー、お互い。どうやらデザインの神様(笑)はまだまだ俺たちに安息を与えてくれないらしい。
でもな、俺はミナミが今の仕事が好きだから続けられてるんだと信じてる。一緒に仕事してた頃に、いつもしんどそうな顔してるミナミを見てるのが俺は辛かった。
だけど今はたまにしか逢えなくても、仕事やデザインの話をしてるときのミナミの表情が見れるのが凄く嬉しいんだ。やっぱり、同業者としてこの仕事を愛しててほしいから。
それと今まで黙ってたけど、俺はいつかまたミナミと一緒に仕事がしたい。今度は笑いながらさ。
周りはやたら独立、独立って唆すけど、俺はその期が熟すまでは、このままでいいと思ってる。
だから、無駄に焦らず、目の前のことをきちんと形にしていこう。
俺がへこたれずにいられるのは、本当にミナミのおかげだよ。ありがとな。>
思わず涙腺と頬が緩んでしまった。
何を不安になっていたのだろう。わたしたちは間違った道を進んでいるわけじゃない。今はそれぞれ別々の道を歩んでるだけ。でも、この道はいつか絶対に交わるから・・・。
今はそのために、お互いが目指す、なりたい自分になって相手を支えるために。
目尻の水滴を拭いながらわたしはキッチンに向かった。
☆サーモン&ポパイクリームシチュー☆
材料
・サーモン(生鮭)切り身・・・2切れ ・タマネギ・・・1/2個
・しめじ・・・1パック ・ホウレンソウ・・・1束 ・強力粉・・・40g
・白ワイン・・・大さじ2 ・コンソメ(顆粒)・・・大さじ1/2
・オリーブオイル・・・大さじ1 ・バター・・・40g
・牛乳・・・600cc ・塩・・・適量 ・コショウ・・・適宜
① サーモンは一口大に切り塩で下味を付け、強力粉(分量外)をはたいておく。
② タマネギは厚めのスライス、しめじは石づきを取って手でほぐしておく。
③ ホウレンソウは水洗いしたら塩茹でし(茎→葉の順番でお湯に沈める)、氷水に漬けて 粗熱を取ったらキッチンペーパーなどで水気をよく切って食べやすい大きさにカットする。
④ 中火でオリーブオイルを熱した鍋でサーモンを焼き、こんがりしてきたら一旦取り出す。
⑤ ④の鍋にバターを溶かし、タマネギを加え、しんなりしてきたらしめじもソテーする。
⑥ ⑤に強力粉を加え、ぽってりしてくるまで炒め、白ワインを加えたらアルコールを飛ば し、牛乳を少しずつ加えてダマにならないように丁寧に混ぜ、すべて注いだらコンソメと④のサーモンを加え、底が焦げないようにときどき混ぜながら10分ほど煮込む。
⑦ 最後に③を加えてひと煮立ちさせ、塩で味を調える。
⑧ 器に盛り付けたっぷり黒コショウを振る。
MINAMI’s Pointo♪
「ホウレンソウはアクが強い野菜なので必ず下茹でして!④で牛乳を一気に加えるとダマになるので必ず少しずつ注いで丁寧に混ぜてね!」
☆カラフルコールスロー☆
材料
・キャベツ・・・1/4個 ・ニンジン・・・1/4本 ・大根・・・1/8本
・赤タマネギ・・・1/2個 ・水菜・・・適量 ・ミニトマト・・・1個
・ホールコーン(缶)・・・適量 ・塩・・・適量 ・コショウ・・適量
☆レモン汁・・・大さじ1/2 ☆粒マスタード・・・大さじ1/2
☆フレンチマスタード・・・大さじ1/2 ☆マヨネーズ・・・大さじ1
① キャベツ、ニンジン、大根は千切りに、赤タマネギは繊維を断つようにスライスして、 水菜は食べやすいは幅にカットしてそれぞれ水にさらしておく。
② ☆の材料をすべて混ぜ合わせる。
③ しっかりと水気を切った①の野菜と②を混ぜ合わせ、ホールコーンの水気を切って加え て更に混ぜる。
④ 塩、コショウで味を整えたら盛り付けて、仕上げにミニトマトを飾る。
MINAMI’s Pointo♪
「急いでるときは市販の千切り野菜を使えば手間と時間が省けるよ!」
朝方に食べるシチューは何故か凄く温かく感じた。単に温度だけではなく、何かこう心に染みわたってくる感じで。
ベランダの方を見ると朝日が差し込んで今日の始まりを告げようとしている。この光景もいつか彰と一緒に見たいと思いながら、わたしは少し早いが会社に行く支度を始めた。
「おはよーございまーす!」
「お、八城さん、お疲れー。」
いつもより30分ほど早くオフィスに着くと寝ぼけ眼の同僚が出迎えてくれた。
「わたしは昨日はきちんと帰りましたー。それにもうおはようの時間ですよ。」
と、わたしが言い終わると同時に彼は再びデスクに突っ伏していた。
確かに労働環境はハードかもしれないし、このまま何処まで登っていけるかもわからない。それでも、わたしは立ち止まらないし、立ち止まれない。
手帳を開いて今日の予定を確認すると同時に先ほど家を出るときに挟んできた彰の走り書きを改めて見る。
<ウマかった!いつもありがとう>
少しの余韻に浸った後、自分のデスクの引き出しから鏡を出して前髪を軽く直し、そこに映った自分に語りかけた。今日という日を戦い抜くために。
さぁ、頑張って働きますか!
<私たちなら大丈夫。いつもそう信じさせてくれる、
逢えない時間を埋めてくれる、あったかい走り書き>




