Scene11 ヒ・ト・メ・ボ・レ
あたしはたった今「胸が高鳴る」という言葉の意味を体感した気がした。
三学期が始まってしばらくしたある日の放課後、進路指導の先生に呼び出されてはいたが、それを無視して下校しようとしていたときのことである。
校舎から校門に向かう途中で通らざるをえないテニスコートの脇を歩いていると、革製のパスケースが落ちているのを見つけた。
大半の生徒が学生証のケース兼定期入れとして使用しているうちの学校のものとは明らかにデザインが違うそれを拾い上げて中身を見る。
「はい・・・たに・・・ゆうと」
そこにはここから少し離れたところにある大学の学生証が入っていた。「灰谷侑斗」という名前と、写真を見る限りかなりのイケメンであることはわかったが、なんで大学生が高校に学生証を落としていったのかがわからない。
ひとまず交番にでも届けようと思い学校を出ようとしたそのときである。
聞き覚えのある、しかしまったく好きにはなれない声が後ろから聞こえてきた。
「おい!百田!お前、進路指導室に来いと言ったよな!?」
「やばっ。」
最悪だ。しれっと校内からいなくなろうとしていた矢先に進路指導の山羊に捕まってしまった。もちろん「山羊」というのはあだ名だし、本名が「八木」というわけでもない。単に顔が山羊に似ているだけだ。
一瞬振り返りつつもダッシュで逃げようかと思ったが、もう目を合わせてしまったので手遅れだ。
「おー、見つかったんだね、ありがとう。」
すると今度は聞き慣れない声が視界の外から聞こえてきた。
「いやー、助かったよ。まさか定期落として帰れなくなるなんて思わなくてさ。」
声のする方を見ると、そこには先ほど見た写真と同じ顔の男の人が立っていた。
しかし、本物は写真で見るよりも更にカッコよくて、優しそうで、あたしは瞳を奪われてしまった。
「なんで卒業生のお前がここにいるんだ?」
山羊が長身のイケメンに問いかける。
「顧問の先生に頼まれたんですよ、大会が近いから後輩の練習相手になってやってくれって。」
テニスのラケットが入ってるケースをポンポンと叩きながら彼はこちらに歩み寄ってくる。
「まぁ、そんなことはどうでもいい!百田、俺はお前に用があるんだ。」
山羊の視線が再びあたしに向けられる。
「そんな恐い顔しないでくださいよー。彼女が落とした定期と学生証探すの手伝ってくれたんですから。ね?百田さん?」
まったくもってそういう意味ではないのに「彼女」という言葉に過剰に反応してしまい、まさか名前を呼ばれるとも思っていなかったので私は緊張して言葉が詰まり、黙って頷くことしか出来なかった。
「それとこれとは別の話だ。百田には進路指導部からのだな・・・」
「で、俺がこの子の進路相談に乗ろうかって話だったのに。」
あまりにも急展開過ぎて頭が追いつかない。なんで今日初めて会ったこのお兄さんに助け舟を出してもらってるのか。
「そうだよね?」
笑顔を崩さず彼はあたしの方を見る。
「そ、そうなんです!灰谷先輩が大学のこととかいろいろ教えてくれるって言うから・・・その・・・勝手に帰ろうとしてすみませんでしたっ。」
「なんだ、お前ら知り合いだったのか?そしたら、明日の放課後には絶対に進路指導室に来るように!わかったな、百田?」
「はーい。」
「それにしても山羊があんなに簡単に騙されるなんて思わなかったなぁ。」
彼は笑いながらそう言った。どうやら何年も前からあの先生のあだ名は「山羊」らしい。
「あ・・・あの、助かりました!ありがとうございます!」
校門を出てから、あたしは彼にお礼を言った。
「相変わらずうるさいみたいだねー、山羊のヤツ。」
「そうなんですよー。あの・・・灰谷先輩のときもそうだったんですか?」
ついさっきの流れで「灰谷先輩」なんて呼んでしまったが慣れ慣れしかっただろうか。なんせ知り合ったのは今さっきだ。
「お、名前覚えられちゃったね。でも、侑斗でいいよ。在学時に接点があったわけじゃないし。それにしてもその制服を見ると、まだ卒業してから1年も経ってないのに懐かしい感じがするなぁ。」
ダークグリーンのブレザーを見ながら彼は微笑んだ。
「ってことは灰・・・じゃなくて侑斗先輩はあたしの2コ上なんですね。」
「先輩って響きもなんか微妙だなぁ。」
「じゃあ、侑斗さん?あたし、2年の百田雫っていいます。」
「雫ちゃんかぁ。可愛い名前だね。」
可愛いという言葉に鼓動が早くなる。さっきからどうにか普通に会話しているつもりだが、緊張してまさに地に足が着いてないような気分だ。
「め・・・珍しい名前だねってよく言われます。」
「でさ、進路決まってないんだよね?俺で良ければ本当に相談乗ろうか?」
「え?そ・・・そんな悪いですよ・・・・。」
「でも、また山羊に追っかけられるのは御免だろ?」
その笑顔にあたしは再び瞳を奪われてしまった。
「雫、今日はバイト休み?」
侑斗さんと知り合ってから数週間経った2月のある日、仕事を終えて帰ってきた姉の薫が話しかけてきた。「うん」と小さく頷きながら、侑斗さんにメールを返す。
「さっきね、お義母さんから電話があって・・・」
親とケンカして家出してからもうすぐ1カ月、お姉ちゃんの家に転がり込んだものの、両親のことが気にならないかと言えばそれは嘘になる。
「どうかしたの?」
わざと平気なフリをして視線を向ける。
「進路指導の先生から連絡があったらしくてね。雫、最近OBの先輩に相談に乗ってもらってるんだって?」
山羊のヤツ、うちの親に何を吹き込んだんだろうか。
「先生たちもしばらくは雫の様子を見るって言ってるみたいだし、お母さんたちもこの話は当面する気はないから帰っておいでってさ。」
「先輩に相談に乗ってもらってるのは事実だけど、まだ何か決めたわけじゃないし。どうせ帰ったら帰ったでまたいろいろ言ってくるに決まってるよ。」
事実と率直な意見をあたしは述べる。
「まぁ、わたしは別に迷惑してるわけじゃないから、気の済むまでここにいてくれて構わないけどさ。お父さんやお母さんが少なからず心配してるってことは頭に入れといてね。」
そんなお父さんに本気で怒られたのは今回が初めてだと思う。
「雫が進みたい道を選べばいい。」
最初はそんな調子で話してたくせに
「仕事するにしても、あたしみたいなのはきっと結婚するまでの時間潰しでしかないだろうな。」
と、ぼやいた瞬間、態度が豹変した。働くというのはそんなに甘いことじゃないとか、そんな考えの人間がまともな家庭を築けるわけないだろ、などと言い出したので
「17歳でそんなことまともに考えられるわけないじゃん!!」
と半ば逆ギレして家を飛び出してきた。ぶっちゃけ、お姉ちゃんのところに転がり込めなかったら、とぼとぼ家に帰っていただろう。
そのお姉ちゃんが、である。
「ここ月末には引き払うこと決まったから。っていうか、荷物畳んで引っ越すだけなんだけど。サロンはこれまで通り使うから、たまに遊びに来るのは構わないよ。」
急展開とはまさにこれのことだ。「気が済むまでいればいい」なんて言っときながら、自分はすっかり嫁入り前の巣作りに励もうというわけだ。姉の結婚が嬉しい気持ち半分、これからどうしようという不安な気持ち半分の複雑な心境である。
「そんな他人事みたいに言わないでよー。あたし家出してから1度もお父さんとお母さんと会話してないんだよ?」
「だから、間に入ってあげるって言ってるじゃん?」
「でも、どうせ春休みが明けて3年になる頃にはまたぶーぶー文句言われるに決まってるよ。」
「じゃあウソでもいいから、何か表向きの進路決めたら?わたしもそうしてたよ。」
「そっかぁ・・・。」
「ちょっと前にも言ったけどさ、やりたこととか進みたい道が決まってるなんて偉くもなんともないとは思うよ?でもね、そもそもそんなに難しく考えなくていいと思うの。」
「うーん・・・。」
「17、8のうちから『私の人生は!!』みたいな大義名分語らなくたっていいの。今思いつく1番面白そうなことになるべく近い方向に進めばいい。それでわたしはエステティシャンになったんだもん。始めるときに小難しい理由なんていらないんだよ。理由が必要になるのは続けていくとき、ね?」
あたしにはお姉ちゃんが語っていることがまるで人生の真理のように感じられた。
「始める理由なんていらない・・・?」
「厳密には何だっていいって感じ。」
お姉ちゃんは優しく微笑んだ。
「だったら・・・大学行ってみようかな。別にやりたいこともないけど、あと1年でいきなり社会人になれるとも思えないし、サークルとか楽しそうだし。」
自分の発言から無意識のうちに侑斗さんの影響を受けているんだと気付いた。少なくとも1か月前までは白紙だった頭の中に「四大に進学」という選択肢が生まれたのは事実だ。
「そう、今はそれでいいんだよ、雫は。ていうのもね、なんだかんだお父さん寂しがってるみたいなの。だから姉としては早く顔見せてあげてほしいんだ。」
「結局それ?」
ふと寂しそうにしてるお父さんの顔が浮か・・・ばなかった。
ただ、お父さんはあたしが、もっと言えばお姉ちゃんが子供の頃から娘には甘い。最初の奥さん、つまりお姉ちゃんのお母さんと離婚したのが最大の要因だろうとお姉ちゃんは言っていたが、その優しさのおかげか、あたしたちは反抗期らしい反抗期もなかっただけに、寂しがってるのはあながち嘘ではないと思った。
「別に結婚して苗字が変わったからって何がどうってわけじゃばいけど、やっぱり百田薫でいるうちに少しは親孝行しないとさ。」
そう言うお姉ちゃんの顔を改めて見ると、目尻のホクロに目が行った。
お父さんと、そしてあたしにも同じ位置にホクロがある。全然似ていないあたしたち姉妹の僅かな共通点だ。
ここにもうすぐいられなくなるのは事実だし、親のことを考えると何故か少しだけ寂しくなった。
そのときである。
「ところでさ、今日はケーキ焼かないの?」
お姉ちゃんの問いかけにあたしは力なく答えた。
「もうやめよっかなーと思って。」
バレンタインデーまで残すところあと数日。実はあたしは先月末から侑斗さんに渡すためのシフォンケーキを練習していた。
しかし、なかなかうまく焼けないのに輪をかけて、心が折れそうになった出来事があった。
この前、初めて会った時と同じようにラケットを持った侑斗さんをテニスコートで見かけたときである。
いつものように男子テニス部に指導をしてるのかと思ったら、隣にはやけに親しそうにしている女の子がいた。
髪が伸びていたので彼女が誰なのかすぐにはわからなかったが、昨年の女子テニス部のキャプテンだ。
かなりの実力者で大会などの度によく表彰されていたが、あんなにボーイッシュだった彼女がこれほどまでに女らしくなるなんて・・・これが大学デビューってやつか!
それを遠巻きに見てることしか出来なかったのは、2人の距離感が異様に近かったからだ。
まるでカップルみたいに話してる姿はあたしなんかが立ち入れない雰囲気を醸し出していた。
2人が付き合っているのかもわからないくせに、あたしの知らない高校時代の侑斗さんと時間を共有してきた女の子が隣にいただけで、この恋を諦めそうになっていた。
2月に入り、あたしは今日も侑斗さんとお茶をしていた。いや、あたしの中ではこれはもうれっきとしたデートになっていた。
表向きには「進路の相談」と言ってはいるものの、やっていることは2人でカフェに行って他愛もない話をしているだけだった。
大学の話もしないわけじゃないが、たかだか週1で放課後の2、3時間を大学生の男の人と過ごすという行為があたしには凄く大人っぽく感じられて終始ドキドキしっぱなしである。
そこで知ったのは中学からずっとテニスをやっていることや、今は彼女がいないことなどだった。
じゃあ、この前一緒にいたあの親しげな女の子は?と聞きたい気持ちは山々だったが
「雫ちゃんは彼氏いないの?」
という問いにドキッとしてしまい、正直にいないと答えることしか出来なかった。これまで誰とも付き合ったことがないわけじゃないけど、今でも好きという気持ちがどういうことなのかわからないということも付け加えて。
あたしはいつも緊張しているつもりなのだが、彼は逢うたびに「表情が柔らかくなった」とか「今日はよく笑うね」と言ってくれるので、きっと少しずつ慣れてきてはいるんだと思う。
そして、あたしは間違いなく彼のことを好きになっていた。いや、初めて逢った日のあのドキドキは一目惚れなんだと今ならわかる。
待ち合わせをしたカフェに侑斗さんは既に来ていて、いつも通り紅茶を飲んでいた。以前に話してくれたが、コーヒーはあまり好きではないらしい。
「お待たせしました!」
あたしがホットココアの乗ったトレーを持って小走りでテーブルまで駆け寄ると
「慌てなくていいよ。さて、今日はどんな相談に乗ろうか?」
と、彼は悪戯っぽく笑った。この甘い笑顔にあたしは今でも釘付けになってしまう。
少しぼーっとしたまま視線を彼から逸らさずに椅子に腰かけて、カップに口を付けた。
「あちっ!」
「だから慌てなくていいのに。」
ココアで火傷しそうになったあたしを見て、侑斗さんはさっきとは違う笑みを浮かべた。
「でもさ、ココアって要はチョコレートを飲み物にしたやつってことでしょ?よく飲めるよねー、雫ちゃん。」
「あたしは好きですけど・・・」
これが今のあたしの悩みの種である。彼はチョコレートが嫌いだ。しかし、バレンタインは間近。あたしがひねり出した苦肉の策はチョコレートを使わないスイーツをプレゼントすることだった。
そこで自分でも作れそうな範囲でと考えた結果、せっかくケーキ屋さんでバイトしてるんだからと、シフォンケーキの作り方を教えてもらうことにした。
うちのパティシエさんたち曰く、普通のスポンジ生地よりも簡単なんだとか。
ところがもらったレシピ通りに何度挑戦してもこれまで上手くいった試しがない。
そのことを思い出し表情が曇っていたのか
「どうしたの?」
と侑斗さんが聞いてきた。あなたがチョコレートが好きだったらこんなに苦労しなかっただろうに、と思いながら
「何でもないです・・・。」
とココアを再び啜った。
それから数日、あたしは今日も膨らまないケーキに打ちひしがれていた。
「一目惚れの彼のために頑張るんじゃなかったの?」
落ち込んでるあたしの顔をお姉ちゃんが覗き込んでくる。
「もう、その呼び方やめてよー!あたし、お菓子作りのセンスないんだよ・・・。」
紅茶に入れても美味しいと評判のうちの店のリンゴジャムはレシピ通り作って上手くいったのに・・・。
しかも、いつもは向こうが何曜日に逢おうかなどと聞いてきてくれるのに、あたしは何を思ったのかバレンタインデーに逢いたいと自分から言ってしまった。
前から「雫ちゃんのバイト先行ってみたいなー」などと言っていたので、これはチャンスだ!思ったのが運の尽き。だいたいケーキが上手に焼けたところで侑斗さんと付き合えるわけでもなにのに。
「お姉ちゃん・・・ケーキ手作りするって難しいね・・・」
「もーそんなに落ち込まないの!雫らしくないなぁ。わたしも手伝ってあげるから、明日もう1回やってみようよ?」
「もういい・・・嫁入り前のお姉ちゃんに手伝ってもらうのも悪いし・・・」
そのときスマホの画面が光った。
「あ・・・侑斗さんからだ。」
電話がかかってくるのは初めてだったので少し驚いた。
お姉ちゃんが視線で「出たら?」と語りかけてくる。
「もしもし、雫ちゃん?ごめんね、急に。」
2月のこの時間帯はやっぱり寒いが、お姉ちゃんに会話を聞かれるのも恥ずかしかったので、ベランダで電話に出た。
「いや、全然。どうしたんですか?」
「あのさ、14日、本当にお店行って大丈夫なの?ケーキ屋さんには忙しい日でしょ?」
何を言い出すかと思ってドキドキしていたが、そんなことか。
「大丈夫ですよ!テイクアウトの人がほとんどで、イートインは毎年あんまりいないみたいなんで。」
「そっか、それならいいんだけど。さっき兄貴と久しぶりに会ってさ。その辺ちょっとは気にしろよとか言われたから。」
「お兄さん、真面目な人なんですね。」
思わず笑ってしまう。
「真面目っつうか、融通効かないっつうか。雫ちゃんはお姉さんがいるんだっけ?」
「はい。9つ上の。」
ひとまず家庭環境のことは伏せておいた。何気にきちんと兄弟の話をするのは初めてである。
「きっと雫ちゃんに似て綺麗なお姉さんなんだろうね。」
「それが全然似てないんですよ。でも美人ですよー。」
その後も他愛のない会話が続き、気が付けば1時間近く話していた。
「楽しかった?」
部屋に戻るとシャワーを浴びた後なのか髪を拭きながら、お姉ちゃんが声をかけてきた。
「うん!お姉ちゃん、今からケーキ焼こう!」
「えー、今からー?」
決戦の日は来た。
と、大袈裟に心の中で呟いてみたが、現実は2月14日を迎えただけのことだ。
しかし、世の女子たちにとっては凄く重要な日だろう。あたしもその1人だ。
クラスメートには「今どき手作りのスイーツ渡して告白なんて珍しくない?」などと言われたが、今のあたしにはこれくらいしか方法が思いつかなかった。
オーソドックスながら、最もストレートなやり方だと思う。
「侑斗さん、こっちですー。」
最寄り駅で待ち合わせをしたあたしたちは、お店までの道を歩き始めた。
「あー、この辺にサークルの先輩の彼女が住んでるって言ってたなー。なんか美味しいプリンのお店があるんでしょ?」
「たぶんそれ、うちの店のことですよ。」
「え?そうなの?世間って狭いなー。」
「そうですねー。」
ヤバい。緊張して上手く会話が出来ない。正直言うと、あたしはそこから相槌を打つばかりで、何を話したかなんてろくに覚えていなかった。
「ももちゃん、いらっしゃーい。」
バイト先では主に上の名前で呼ばれているので、自然とあだ名がこれになった。
そして、出迎えてくれたみんなにはこっちの事情はカミングアウト済みだ。
下手に隠して茶々を入れられても困るし、もし仮にフラれたとしたらたっぷり慰めてもらうつもりだ。
「へー、オシャレなお店だね。」
「はい、制服もあんな感じで可愛いんですよ。」
そう言って販売係のスタッフの方を見る。彼女はあたしの1コ下だが違う高校に通っている。この店で働きたいと思ったのもこの制服の可愛さと、個人店なのでチェーン店ほど規制が厳しくなかったからだ。
2階のカフェスペースに侑斗さんを案内したあたしはすぐにキッチンに向かった。
ケーキは自宅で焼いたものを今朝のうちに持ってきていたし、ジャムも自分で用意した瓶に詰めて持ってきた。
「紅茶!1番高いのお願いします!!」
ホールの人に声をかけ、あたしはケーキをカットし始めた。
シェフからも「上手に焼けたね」と褒めてもらえただけあって、その出来栄えはあれほど失敗続きだったのが嘘のようである。
「美味しい・・・!」
切れ端をつまんでみると、その味は店で出してるものとほとんど変わらなった。
ホイップクリームとベリーソースを一緒に盛り付け、あとは侑斗さんのところまで運ぶだけだ。
☆バニラシフォンケーキ☆
材料(24cmのシフォン型1台分)
・卵黄・・・6個分 ・卵白・・・7個分 ・グラニュー糖・・・140g
・塩・・・ひとつまみ ・サラダ油・・・90cc ・バニラビーンズ・・・1本
・牛乳・・・150cc ・薄力粉・・・150g
① バニラビーンズは鞘を開き、中の種を取り除いて牛乳と合わせ、鞘も一緒に弱めの中火にかけて、沸騰させずに香りが立つまで煮たら、目の細かいザルなどで濾す。
② 卵黄を割りほぐし、グラニュー糖の半量を加えて白っぽくなるまでしっかり混ぜたら、そこにサラダ油を少しずつ加えながら更に混ぜる。
③ 粗熱の取れた①を②に加えて混ぜ合わせたら、振るった薄力粉を一気に加え、粉のダマがなくなるまで混ぜる。
④ 塩を加えた卵白を軽く泡立てたら、残りのグラニュー糖を3回程度に分けて加えながら混ぜ、しっかりとした8分立てのメレンゲを作る。
⑤ ③に④の1/3を加えてホイッパーなどでしっかり混ぜたら、ゴムベラなどに持ち替えて残りのメレンゲを2回に分けて切るように混ぜ合わせる。
⑥ オーブンを170℃に予熱し始め、薄くサラダ油を塗った型に⑤を流し込み、3cm程の高さから垂直に台などに落として空気を抜く。
⑦ 45~50分ほど焼き、竹串などを刺して中まで火が通ったのを確かめたら型をひっくり返した状態で粗熱を取り、完全に冷めてから型を外す。
SHIZUKU’s Point♪
「難しいイメージのあるシフォンですが、コツさえ覚えれば意外と簡単!重要なのは⑤からで、とにかくメレンゲの泡を潰さずにしっかりと混ぜることがポイント。焼いてる最中に焼き色が付きすぎそうならアルミホイルなどを被せてね♪」
☆リンゴのコンフィチュール☆
材料
・リンゴ(紅玉などがオススメ)・・・2個 ・グラニュー糖・・・80g
・レモン汁・・・大さじ1 ・シナモンスティック・・・1
① リンゴは皮と種を取り除いてすりおろす。
② すべての材料を合わせて弱めの中火でトロっとするまで煮詰める。
SHIZUKU’s Point♪
「砂糖の量はお好みで調節してもいいし、皮は向かなくてもOK♪紅茶に入れてもいいし、もちろんパンに塗っても美味しいよ。」
「凄いねー、これ雫ちゃんが作ってくれたの?」
「は・・・はい。侑斗さん、チョコ嫌いだって言ってたから・・・こういうのなら食べてくれるかな・・・って。ジャムは紅茶に入れてみてください。」
「雫ちゃんが作ってくれたらチョコも食べるのに。じゃ、いただきます。」
冗談っぽく彼は笑った。
「ど・・・どうですか?」
「うん、美味しい!俺、甘いのってそこまで好きじゃないけど、これなら毎日食えそう!!」
「ほ、本当ですか?嬉しいー。頑張って練習した甲斐ありました!」
「ありがとね、雫ちゃんは頑張り屋さんだ。」
店を出た後に気付いたが、完全に告白するタイミングを見失ってしまった。
駅までの道を歩きながら思ったが自分から告白したことがないので、なんて言えばいいのかもよくわかっていなかった。
まずい。今日を逃したら絶対に告白なんか出来っこない。このままみんなに慰めてもらうのだろうか・・・
「あのさ、雫ちゃん?」
急に侑斗さんが言葉を発したので露骨に驚いてしまった。
「はっ、はい!!」
「そんな驚かないでよ。さっきのケーキなんだけどさ、あれって義理?それとも本命?」
そんなにストレートな聞き方をされると思わなかったので、リアクションに困ってしまう。少し間を置いてから彼の方を見て
「本・・・命・・・」
です。とまで言い切ろうとした瞬間、あたしは彼に凄い勢いで引き寄せられた。
正確に言えば抱き寄せられた。
「先に言わせてごめん・・・俺も雫ちゃんのこと、好きだ・・」
「ゆう・・・と・・・さん・・・」
急展開過ぎて思考が追いつかないが、さっきからドキドキが止まらないのは確かだ。嬉しくて、少し恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しすぎて、あたしも彼の背に腕を回した。
2月末日。
「お世話になりました。」
わざとふざけて他人行儀にあたしはお姉ちゃんに挨拶した。
「まったくだよ。でも、いろいろ順調そうで良かったね、雫。」
あれからあたしは晴れて侑斗さ・・・侑斗くんと付き合い始め、彼と同じ大学に進学すると決めた。受験が終わるまでは勉強漬けの日々になりそうだが、今よりもっと侑斗くんと一緒にいられるようになると思うと、それだけで頑張れる気がした。
お父さんやお母さんにも進学すると言ったらやけに安心してくれて、同機は不順かも知れないが、結果オーライだ。
「お姉ちゃんこそ、もうすぐ籍入れるんだよね?おめでとう。」
今日はその旦那さんになる雅人さんが、お姉ちゃんの引っ越しを手伝いに来てくれるらしい。あたしも1カ月ちょっとお世話になったので少しくらいは手伝おうと思っていると侑斗くんに話したら「男手は多い方がいいだろ?」と便乗してくれた。
カッコいい彼氏をお姉ちゃんに見せつけるチャンスだ。
「うん、もうすぐ灰谷薫になります。」
お姉ちゃんが照れ臭そうに笑うと、見覚えのある車が現れた。
「薫、お待たせ。そして雫ちゃん、初めまして。」
雅人さんが車の窓から顔を出した。今まであまりきちんと見たことなかったが、誰かに似てる気がする。
「でも、凄い偶然。あたしの彼氏も灰谷なんだよね。」
「へー、珍しい名前なのに・・・」
自転車のブレーキ音とほぼ同時にあたしの大好きな声が聞こえてきた。
「兄貴、なんでここにいるんだよ!?」
お姉ちゃんの言葉を遮り、たった今ここに到着した侑斗くんの発した一言だ。
「侑斗、お前こそ!何しに来た?」
「俺は・・・彼女のお姉さんが引っ越すっていうから、その手伝いに。」
「灰谷って・・・まさか・・・」
お姉ちゃんが目を丸くする。
「そういうこと・・・?」
あたしも目を丸くしてお姉ちゃんの方を見た。こんなことってあるのだろうか。
「おい、侑斗!お前綺麗な義姉さんができるからって変な気起こすなよ?」
「兄貴こそ、その歳で雫に手ぇ出したら犯罪だからな?」
この歳になってこんなことで兄弟喧嘩をしてる様が可笑しくて、あたしとお姉ちゃんは目を合わせて笑った。
「雫、家族っていいもんだね。」
「うん!」
あたしは笑顔のまま頷いた。
<初めて感じる長い長い一瞬。聞こえてくるのは私の鼓動。
瞳と心に焼き付けたのはあなたの笑顔。>