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路地裏の便利屋は、世界を『10ミリ』調律する  作者: ルツ


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路地裏の助手は、おやすみの前に

王都アルカディアの路地裏には、今日も穏やかな時間が流れていた。

 空から降ってきた災厄や、時空を歪ませる謎の調律といった非日常が嘘のように過ぎ去り、店にはいつもの湿った土の匂いと、パンの香ばしい香りが満ちている。

 しかし、ここ最近、カンタの背中には疲労が滲んでいた。

 夜な夜な街のあちこちで発生する小さな「歪み」を、そのギフトで調律し続けているからだ。誰にも気づかれないところで世界を支えるという仕事は、本人が思っている以上に神経を削るものらしい。

 店先の椅子で、カンタは大きくあくびを噛み殺した。

「兄貴、また眠そうですね……」

 カウンターの向こうでミロが心配そうに呟く。彼女の獣人特有の耳が、心配そうにぺたりと伏せられているのが見て取れた。

 ミロはカンタの役に立ちたいと、毎日一生懸命だった。

 伝票の整理、買い出し、店内の掃除。けれど、不器用な彼女は、計算を間違えて在庫の数を数え違えたり、買い出しの途中で路地裏の猫に気を取られて帰りが遅くなったりと、失敗も多い。それでも、彼女の眼差しはいつだって真っ直ぐにカンタを向いていた。

 その日の午後、ミロは意気込んだ。

「今日は私が、兄貴に最高の休憩をプレゼントするんだ!」

 張り切って台所へ向かった彼女は、母さんから教わった野菜たっぷりのスープを作り始めた。しかし、慣れない火加減に慌て、鍋の中身を少しだけ焦がしてしまう。

「あうう……また失敗しちゃった……」

 彼女は落ち込み、尻尾をだらりと垂らした。カンタのために完璧な助手でありたい、その一心だったのに。彼女の心の中には、自分でも名前を呼ぶのが恥ずかしい、淡い感情が芽生え始めていた。

 日が沈み、店を閉める時間になっても、カンタは椅子の上で深く眠り込んでいた。

 ミロはそっと近づき、彼に温かい毛布をかけた。カンタの寝顔は、普段の「便利屋探偵」としての鋭い表情とは違い、驚くほど幼く見える。

 ミロはその横顔を見つめながら、そっと胸の鼓動が高まるのを感じた。

(兄貴、いつもありがとうございます。私、兄貴の力になりたいんです……!)

 彼女は、少し焦げてしまったスープの鍋を抱え、それでも温かいそれをテーブルに並べた。せめて、目覚めたときにカンタが少しでも元気になってくれるように。

 やがて、カンタがゆっくりと目を開けた。

「……ん。ミロか。俺、寝ちまってたか」

「はい。兄貴、すごく疲れてそうだったから……あの、スープ作ったんですけど、ちょっと失敗しちゃって。それでも、飲んでくれますか?」

 ミロは不安そうに、大きな瞳を揺らす。カンタはそれを見て、小さく笑った。

「お前が作ったスープなら、失敗作でも特級品だ」

 カンタがスプーンでスープを口に運ぶ。ほんのりとした焦げの香りがするが、野菜の甘みが十分に溶け出している。

「美味いな。元気が湧いてくる」

「本当ですか!?」

 ミロの耳がぴょこんと跳ね、尻尾が嬉しそうに左右に振れる。その仕草があまりにも可愛らしく、カンタは思わず彼女の頭を撫でた。

「いつも助かってるよ、ミロ。お前がいてくれるだけで、俺は十分救われてる」

 その言葉だけで、ミロの顔は真っ赤に染まった。

(ああ……もう、兄貴ってば……!)

 淡い恋心は、胸の奥でキュンと音を立てる。兄として慕っているのか、それとも……。ミロ自身にもまだ整理できないその感情が、彼女の顔を熱くさせる。

 夜が深まった。

 カンタは部屋に戻ったミロの様子を、店の中からそっと眺めていた。彼女が疲れ切った様子でベッドに倒れ込むのを見届けると、彼は小さくため息をつく。

(俺のせいで、ミロを無理させているな)

 カンタは再びギフトを起動した。

 だが、今回は街の歪みを直すためではない。彼は指先を動かし、ミロの部屋の空気を調律した。

 窓の隙間から入り込む夜風の温度を、彼女の体温に合わせる。枕の硬さを、彼女が一番安眠できる硬さに微調整する。さらには、彼女が夜中に悪夢を見ないよう、安らぎの波長を部屋全体に張り巡らせた。

 それは、目には見えない、たった10ミリの「加護」だった。

 翌朝、ミロは目を覚まして驚いた。

 いつもなら重い身体が、驚くほど軽く、清々しい。まるで、世界そのものが彼女の安眠を祝福しているかのように、心まで満たされている。

「なんだろう……すごく体が軽い……」

 彼女は部屋を出て、店で忙しく働くカンタの姿を見つけた。

 カンタは相変わらず、涼しい顔で看板の傾きを調整している。ミロは、彼が昨夜、自分のために何かをしてくれたのではないか、とふと思った。確信はない。けれど、彼ならそうやって、誰にも気づかれないところで、ささやかな幸せを整えてくれる人なのだと、彼女は直感した。

「おはよう、ミロ。よく眠れたか?」

「はい! すごくよく眠れました!」

 ミロは満面の笑みで答える。その笑顔の眩しさに、カンタもまた、自然と笑みをこぼす。

 二人の間には、言葉には出さない信頼と、名前を呼ぶのがまだ恥ずかしい淡い絆が流れている。

 路地裏の便利屋に、今日もまた、平和な一日の幕が上がる。

 カンタは指先を動かし、店先の花瓶を10ミリだけ太陽の方へ移動させた。花がより鮮やかに咲き誇り、店全体が明るい光に包まれる。

 世界がどうなろうと、この路地裏だけは守る。

 ミロが笑う場所を、守り続ける。

 それは、世界を調律する調律師としての義務ではなく、ただの便利屋としての「日常」だ。

 カンタの横で、ミロが幸せそうに尻尾を揺らしている。

 その光景こそが、この路地裏で最も最強で、最も平和な風景だった。

 二人の距離は、まだ10ミリも縮まっていないかもしれない。けれど、そんなことは急ぐ必要なんてないのだ。この路地裏で、これからも一緒にパンを食べ、一緒に笑い合えるなら、それだけで充分なのだから。

 風が通り抜け、店のドアについたベルが、チリンと心地よい音を立てる。

 それは、新しい依頼の予感か、それともただの午後の始まりか。

 カンタとミロは顔を見合わせ、声を揃えて笑った。

 便利屋探偵カンタの日常は、こうして今日も、誰にも邪魔されない穏やかな時間の中で、続いていく。

 もし誰かが、この路地裏に来て、何がそんなに幸せなのかと尋ねたら、二人はきっとこう答えるだろう。

「焼きたてのパンがあって、笑い合える仲間がいれば、それだけで十分最強だよ」と。

 そう、これが俺たちの、最強で最高のスローライフだ。

 明日もまた、10ミリの隙間から、世界を優しく整えていこう。そう決意して、カンタは今日も店先の看板を、誰よりも目立つ位置へと、ほんのわずかにずらした。

 路地裏の便利屋、今日も営業中。

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