悪役令嬢になったのは、ずっと王子がクソだったから
マルティナ・グレイヴス公爵令嬢が悪役令嬢と呼ばれるようになったのは、十五歳の春からだった。
理由は単純である。
王太子エドガー・ラグナード殿下が、あまりにもクソ王子だったからだ。
「今年の冬祭りは盛大にしよう。民も華やかな催しを喜ぶだろう。王都の備蓄を一部開放して、菓子と酒を振る舞えばよい」
王太子が爽やかな笑みでそう言った時、会議室にいた財務官が筆を落とした。農務官は顔色を失い、外務官は何かを祈るように目を伏せた。
冬祭りの拡大そのものは悪くない。
問題は、王太子が今「王都の備蓄を開放」と言ったことである。
その年は、北部領で秋雨が長引いた。麦の収穫が落ち、干し肉の流通も滞っている。冬の備蓄は、華やかな祭りのためではなく、春まで人を死なせないためにある。
誰もがそう分かっていた。
ただし、王太子本人だけは分かっていなかった。
そして誰も、真正面から王太子を止められなかった。
国王陛下は別件で不在。宰相は病欠。大臣たちは顔を見合わせるばかり。王太子の機嫌を損ねれば、後々面倒になる。誰もがその面倒を知っていた。
だから、マルティナが口を開いた。
「殿下」
「何だ、マルティナ。君もよい案だと思うだろう」
「いいえ。冬に民を殺すおつもりですか」
会議室の空気が凍った。
エドガーは目を見開き、それから顔を赤くした。
「殺すとは何だ。私は民を喜ばせようと――」
「備蓄を使えば、一時は喜ぶでしょう。ですが、二月以降の配給余力が消えます。北部からの流入民が増えれば、王都周辺の穀物価格も上がります。菓子と酒を振る舞った翌月に、パンが買えなくなる民が出ます」
「大げさだ」
「試算は出ています」
マルティナは手元の書類を開いた。
財務官が息を吹き返したように頷く。農務官が震える手で補足資料を差し出す。
「こちらが北部三領の収穫見込み。こちらが王都備蓄倉の現残量。こちらが昨年同時期との差分です。殿下の案を実行した場合、最悪で王都下層区に配給不足が発生します」
「しかし、祭りは民の心を――」
「空腹の民は、飾り布では生きられません」
エドガーは唇を噛んだ。
「また私を否定するのか」
「案を否定しております」
「同じことだ!」
「同じではございません」
マルティナは静かに言った。
「殿下が民を思うお気持ちまで否定してはおりません。ただ、そのお気持ちの使い方が危険だと申し上げております」
会議室の隅で、農務官が泣きそうな顔をした。
財務官は目元を押さえた。
外務官は小さく息を吐いた。
今年も、王国は滅びずに済んだ。
その日の午後には、王太子の取り巻きたちが廊下で囁いていた。
「グレイヴス公爵令嬢は冷たいな」
「殿下の善意を、あのように踏みにじるとは」
「まるで悪役だ」
「悪役令嬢、か」
その言葉は、ひどく便利だった。
王太子の思いつきを止める女。
王太子の失言を訂正する女。
王太子の無責任を、数字と法と記録で叩き折る女。
そういうものをひとまとめにして、「悪役令嬢」と呼べば、王太子は傷つかずに済む。
自分が間違っていたのではない。
婚約者が冷たすぎるのだ。
自分が学ばなかったのではない。
婚約者が厳しすぎるのだ。
自分の政策が危なかったのではない。
婚約者が夢を理解しないのだ。
そうしてマルティナは、王太子の婚約者でありながら、王太子周辺で最も嫌われる令嬢になった。
ただし、王子と取り巻きからだけである。
財務省では、彼女が来ると茶菓子が増えた。
農務省では、彼女のために暖かい席が用意された。
外務省では、隣国語の礼状を添削しただけで、若手官吏たちが拝むように頭を下げた。
騎士団では、彼女が王太子の「冬山遠征ごっこ」を止めた日から、密かに「命の恩人」と呼ばれていた。
悪役令嬢。
王太子はそう呼んだ。
だが、王国の実務を知る者たちは、心の中で別の呼び方をしていた。
安全弁。
防波堤。
最後の止め具。
マルティナ・グレイヴスは、王太子エドガー・ラグナードが王国を壊さないために置かれた、若すぎる監視装置だった。
そんな日々が続いて三年。
エドガーの隣に、リリア・フェンス子爵令嬢が現れた。
リリアは、悪い娘ではなかった。
少なくとも、最初から悪意で誰かを陥れようとするほど器用ではなかった。
明るく、可愛らしく、人の懐に入るのがうまい。笑えば周囲が和む。難しい話になると首をかしげる。そうすると、誰かが自然と説明してくれる。
彼女は、それを優しさだと思っていた。
そして、説明されないことについては、難しいことを考えずに済むのだから、むしろ楽だと思っていた。
エドガーは、そこに惹かれた。
「君といると、息ができる」
王太子は、リリアにそう言った。
リリアは頬を染めた。
「殿下は、いつも頑張っていらっしゃいますもの」
エドガーは深く頷いた。
「マルティナは、私が何を言っても否定する。君だけだ、私を分かってくれるのは」
リリアは、王太子の寂しげな横顔を見た。
美しいと思った。
苦しんでいるのだと思った。
冷たい婚約者に縛られ、自由な発想を押し潰され、それでも民を思う優しい王子なのだと、彼女は信じた。
いや、信じたかった。
難しい資料を読まずに済む側に立てば、自分も優しい人間でいられる気がしたからだ。
その頃から、エドガーは露骨にマルティナを避けるようになった。
政務の下読みを放り出し、リリアと庭園を歩く。
外交儀礼の練習を抜け出し、リリアに詩を読ませる。
予算会議の前日に、リリアへ花冠を作る。
マルティナはそれを止めた。
「殿下、明日の会議資料をまだご覧になっていません」
「後で見る」
「後では間に合いません。関税改定の話です。隣国側の使節も同席します」
「君はいつもそうだ。なぜ私の時間を奪う」
「王太子の時間だからです」
エドガーは冷たく笑った。
「リリアなら、そんな言い方はしない」
マルティナは、リリアを見た。
リリアは少し怯えたようにエドガーの袖を握っていた。
その仕草を見て、取り巻きたちはマルティナを睨む。
「リリア嬢が可哀想だ」
「また悪役令嬢が殿下を縛っている」
「嫉妬だろう」
マルティナは訂正しなかった。
嫉妬なら、どれほど楽だっただろうと思った。
自分は、愛を奪われた婚約者として怒っているのではない。
王国の政務が止まるから止めている。
外交上の失点になるから止めている。
関税改定を「後で見る」と言った男が将来王になるなど、隣国への脅迫に近いから止めている。
だが、そう説明しても、エドガーは理解しない。
理解しない者に説明するには、時間がいる。
そして、王太子はその時間を、毎回使い潰してきた。
断罪劇が行われたのは、春の王宮舞踏会だった。
招待客の多い夜である。
各領の貴族、官僚、騎士、商人代表、神殿関係者まで集まっていた。王太子がそこで何かを発表するという噂は、事前に広まっていた。
マルティナは、嫌な予感がしていた。
王太子の予定表に空白が多すぎた。
取り巻きたちの動きが妙に華やかだった。
リリアの衣装が、子爵令嬢の身分にしては不自然なほど目立っていた。
そして何より、エドガーが妙に晴れ晴れとした顔をしていた。
人は、自分の間違いに気づいた時、あの顔はしない。
自分の間違いを誰かのせいにできると思った時、あの顔をする。
楽団の音が止んだ。
エドガーが広間の中央へ進み出る。
隣にはリリアがいた。
彼女は震えていた。けれど、その震えは恐怖よりも陶酔に近い。自分が大きな物語の中にいると信じている者の震えだった。
「マルティナ・グレイヴス!」
王太子の声が大広間に響いた。
多くの視線が、マルティナへ集まる。
マルティナは静かに進み出た。
「何でございましょう、殿下」
「お前との婚約を、ここに破棄する!」
広間がざわめいた。
エドガーは勝ち誇った顔で続ける。
「お前はこれまで、私の善意を踏みにじり、私の自由を奪い、リリアを傷つけてきた。王太子である私を否定し続けた罪、決して軽くはない!」
マルティナは瞬きをした。
予想はしていた。
だが、実際に聞くと、なかなかひどい。
自由を奪った。
王太子教育から逃げる自由のことだろうか。
善意を踏みにじった。
冬の備蓄を菓子に変える善意のことだろうか。
リリアを傷つけた。
関税改定の資料を読むよう求めた日に、彼女が泣いた件だろうか。
どれも、言い返す気力が削られるほど雑だった。
エドガーはリリアの手を取った。
「私は真実の愛を選ぶ。リリア・フェンスこそ、私の隣にふさわしい。マルティナ、お前のような悪役令嬢は、王宮から追放されるべきだ!」
財務卿グレン・モルガンが青ざめた。
農務卿ヘンリック・フォードが胸を押さえた。
外務卿バルナード・レイスが「国家自殺」と口の中で呟いた。
騎士団長ローレン・ヴァイスは、腰の剣に手を伸ばしかけて、かろうじて止めた。
広間の奥、玉座に座っていた国王アレクシス・ラグナードは、しばらく息子を見ていた。
王妃ベアトリス・ラグナードも、何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
エドガーは、それを自分の勝利だと受け取ったらしい。
「父上、母上。どうかご裁可を」
国王は、ゆっくりと立ち上がった。
広間が静まり返る。
アレクシス王は笑っていなかった。
「それならば、お前が追放だ」
エドガーの顔から、血の気が引いた。
「……父上?」
「北の塔に放り込め」
広間が完全に止まった。
王は淡々と続けた。
「王太子教育の資料、財務報告、外交儀礼書、農政記録、裁判記録、議事録、過去十年分の政策試算、すべて運び込め」
「な、なぜ私が!」
「読め」
短い一言だった。
だが、その一言には、王としての怒りと父としての失望が両方入っていた。
「マルティナ嬢が十年近く、お前の失敗をどれだけ塞いできたか。自分の目で読め」
「私は失敗など――」
「した」
王は即座に切った。
「冬の備蓄開放案。騎士団雪山遠征案。隣国使節への無礼発言。南部水路予算の祭礼流用案。税徴収簡略化と称した記録破棄案。すべて、マルティナ嬢が止めた。お前は覚えていないだろう。止められた側は、自分が何を壊しかけたか覚えないからな」
エドガーは口を開けたまま固まっていた。
王妃ベアトリスが、静かにリリアへ視線を移す。
「リリア・フェンス子爵令嬢」
リリアの肩が跳ねた。
「は、はい」
「あなたも北の塔へ」
リリアは目を見開いた。
「わ、わたしも、でございますか」
「王妃候補を名乗るつもりで殿下の隣に立ったのでしょう。ならば、学びなさい」
リリアは震えた。
だが、反論はできなかった。
彼女は今、自分が何に立ち会っているのか、ようやく少しだけ分かり始めていた。
マルティナは、リリアを見た。
責める言葉は出なかった。
リリアは軽かった。
確かに軽かった。
だが、今この場で一番醜いのは、彼女ではない。
王子だけだった。
その夜、エドガーとリリアは北の塔へ送られた。
北の塔は、罪人を閉じ込める牢ではない。
王族や高位貴族が、外に出せないほど問題を起こした時、一定期間隔離して教育するための場所である。
窓はある。
食事も出る。
寝具もある。
教師も来る。
ただし、自由はない。
そして何より、逃げ場がない。
翌朝、老教師オズワルド・ケインが二人の前に立った。
白髪の背筋の伸びた男で、淡々とした声をしていた。
「本日より、殿下とリリア嬢には再教育課程を受けていただきます」
「再教育だと?」
エドガーは椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「私は王太子だぞ!」
「現在、王太子としての執務権限は停止されております」
「そんなもの、父上が一時の怒りで――」
「一時の怒りで北の塔は開きません」
オズワルドは静かに書類を置いた。
「まず本日の課題です。殿下が昨年提案なさった全領一斉花祭り計画について、物流、税、労役、備蓄、治安の五項目から問題点を整理してください」
エドガーは顔をしかめた。
「そんなもの、官吏が考えることだ」
「王太子の発案でございます」
「私は方向性を示しただけだ」
「方向性で荷車は増えません」
リリアが小さく肩を震わせた。
その日、彼女は初めて、エドガーの言葉が教師にまったく通じない場面を見た。
王宮の庭園では通じていた。
「民の笑顔が見たい」と言えば、周囲は優しい王子だと微笑んだ。
「難しいことばかり言うな」と言えば、取り巻きたちはマルティナを責めた。
だが、北の塔の机の上では、言葉の飾りは役に立たなかった。
備蓄表は、王子の気持ちを忖度しない。
税収記録は、愛の詩では書き換わらない。
議事録は、誰が何を言い、誰が修正し、誰が止めたのかを、残酷なほど正確に残していた。
初日の午後、合同講義の題目は「冬季備蓄運用と王太子発案の危険性」だった。
リリアは泣きながら資料を読んだ。
そこには、彼女が見たことのないマルティナがいた。
冷たい令嬢ではなかった。
怒ってばかりの婚約者ではなかった。
議事録の中のマルティナは、毎回、理由を説明していた。
数字を示していた。
代案を出していた。
王太子の顔を潰さないよう、最初は柔らかく止めていた。
それでもエドガーが聞かないから、最後に強く言っていた。
リリアは、紙面の同じ箇所を何度も読んだ。
エドガー殿下、冬の備蓄は民の命を春まで繋ぐものです。
殿下、騎士団の移動には補給線が必要です。
殿下、その発言は隣国使節の前では侮辱に当たります。
殿下、税記録を簡略化すれば、不正の発見が遅れます。
殿下、民は物語の登場人物ではございません。
リリアの涙が、資料に落ちた。
「泣いても字は増えません」
オズワルドが淡々と言った。
「はい……」
「泣くなら、読みながら泣きなさい」
「はい」
リリアは泣きながら読んだ。
隣では、エドガーが腕を組んでいた。
「リリア、こんなものを真に受けるな。マルティナが大げさに書かせたのだ」
リリアは顔を上げた。
「でも、殿下」
「何だ」
「こちら、財務卿の署名があります。こちらには農務卿の補足も。こちらは外務省の記録です」
「だから何だ。官吏たちはマルティナに味方している」
「なぜ、みんなが味方したのでしょうか」
エドガーは黙った。
リリアは、自分の声が震えていることに気づいていた。
怖かった。
エドガーを疑うのが怖かった。
王子様を信じていれば、自分は可哀想な恋人でいられた。
悪役令嬢にいじめられた被害者でいられた。
でも記録は、リリアからその安全な場所を奪っていく。
自分は、何も知らなかった。
知らなかっただけではない。
知ろうとしなかった。
その日の夜、リリアは眠れなかった。
翌日も、翌々日も、講義は続いた。
午前は財務。
午後は農政。
夕方は外交儀礼。
夜は議事録の写し取り。
エドガーは怒り、寝転がり、文句を言い、教師を罵った。
リリアは泣き、吐きそうになり、それでも読んだ。
最初は、塔を出るためだった。
次に、エドガーに会うためだった。
だが、数日後には違っていた。
リリアは、マルティナが何をしていたのか知りたくなっていた。
どこまで止めたのか。
どれほど説明したのか。
どんな顔で、あの場に立ち続けていたのか。
それを知らなければ、自分は二度と人を悪役と呼んではいけない気がした。
十日目、オズワルドが課題を出した。
「塔を出る条件をお伝えします」
エドガーが顔を上げた。
「ようやくか」
「反省点、学んだこと、改善点。この三項目を論文化して提出してください。内容が要件を満たした者から、塔を出る許可申請を上げます」
「くだらん」
エドガーは吐き捨てた。
「私は悪くない」
「では、その認識を論証してください」
「そうだな。書いてやる」
エドガーはその日のうちに一枚の紙を出した。
表題は、『私が悪くない理由について』。
オズワルドは一読して、無言で突き返した。
「課題と題名が違います」
「何が違う!」
「反省点がありません」
「反省する点などない!」
「では、本日はここまでです」
エドガーは怒鳴った。
「リリアには会えるのか!」
「合同講義は明日もございます。リリア嬢が修了していなければ」
その頃、リリアは机に向かっていた。
何度も書き直した。
最初の題名は、『わたしが間違えたことについて』だった。
だが、それでは足りないと思った。
自分は、ただ間違えたのではない。
王太子の責任転嫁に加担した。
マルティナを悪役令嬢と呼ぶことで、王子が見なくてよいものを増やした。
だから、最終的に題名はこうなった。
『王太子殿下周辺における責任転嫁構造と、私自身の加担について』
反省点。
私は、殿下の優しい言葉を、正しさと誤認した。
難しい説明を避ける方を自由な方と思い、必要な説明をなさる方を冷たい方と思った。
クラリッサ様――いや、マルティナ様が止めていたものの内容を確認せず、殿下の感情だけを信じた。
信じたというより、信じる方が楽だった。
その結果、私は、殿下が責任を負わずに済む構造へ加担した。
学んだこと。
政務は気持ちだけでは動かない。
備蓄、税、物流、外交、軍の移動、裁判記録、儀礼、文書管理には、それぞれ理由がある。
誰かを悪役と呼ぶ前に、その人が何を止め、何を守っているのかを確認しなければならない。
優しい言葉が必ずしも人を救うとは限らない。
厳しい言葉が、人を守ることもある。
改善点。
今後は、発言者の身分や声の甘さではなく、内容を見る。
感情ではなく記録を確認する。
分からないことを、分かったふりしない。
誰かの言葉をそのまま信じず、複数の資料と関係者の証言を照合する。
そして、自分が傷つけた相手に謝罪し、必要なら下働きからでも学び直す。
リリアは書き終えた時、泣いていなかった。
目は腫れていた。
指はインクで汚れていた。
背中は痛かった。
けれど、泣いて逃げる段階は終わっていた。
提出された論文は、オズワルドから王妃ベアトリスへ届けられた。
王妃は最初、情に流されるつもりではなかった。
リリア・フェンスは、息子の愚行に加担した娘である。
王太子妃候補の重さも知らず、愛という言葉に酔い、マルティナを傷つけた。
それは事実だ。
だが、王妃は最後の頁まで読んだ。
紙には、ところどころ涙の跡があった。
しかし、それは言い訳の跡ではなかった。
書き直しの跡だった。
王妃は長く沈黙した。
侍女長が控えている。
暖炉の火が、静かに音を立てた。
やがて、王妃は表紙に手を置いた。
「出して会わせなさい」
侍女長が顔を上げる。
「どなたにでございますか」
王妃は、論文の題名をもう一度見た。
頼りない字だった。
だが、逃げてはいない字だった。
「悪役令嬢と呼ばれた、あの子に」
リリアが北の塔を出たのは、その翌朝だった。
彼女は飾られていなかった。
髪は簡単にまとめられ、顔色も良くない。ドレスも塔へ入った時のような華やかなものではなく、地味な青灰色のものだった。
手には、自分の論文の控えを持っていた。
王妃の私室に通されると、そこにマルティナがいた。
マルティナは立っていた。
背筋が伸び、表情は静かだった。
リリアは、その姿を見た瞬間、胸が苦しくなった。
以前の自分なら、冷たいと思ったかもしれない。
今は違う。
この人は、立ち続けていたのだと思った。
王子の隣で、誰にも理解されないまま、何度も何度も、国が壊れる手前に立ち続けていた。
「マルティナ様」
リリアは深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
マルティナは答えない。
王妃も口を挟まない。
リリアは続けた。
「わたしは、あなたを悪役令嬢と呼びました。殿下の言葉を信じたのではありません。信じた方が楽だったのです」
声は震えていた。
だが、止まらなかった。
「あなたが何を止めていたのか、知ろうとしませんでした。あなたがどれだけ説明していたのか、聞こうとしませんでした。わたしは、優しい言葉の側に立てば、自分も優しい人間になれると思っていました」
マルティナは、しばらくリリアを見ていた。
やがて、静かに言う。
「謝罪は受け取ります」
リリアは顔を上げた。
「許して、いただけるのですか」
「許すかどうかは、これからのあなた次第です」
「……はい」
「泣いて済ませる癖は、捨てなさい」
「はい」
「分からないことを、分かったふりしないこと」
「はい」
「誰かを悪役と呼ぶ前に、記録を読みなさい」
リリアの目に、また涙が浮かんだ。
けれど今度は、頷くための涙だった。
「はい、マルティナ様」
王妃ベアトリスは、そのやり取りを静かに見ていた。
そして、リリアへ告げた。
「宰相府へ行きなさい。あなたが傷つけた相手の下で、あなたが見なかったものを見てきなさい」
「宰相府、でございますか」
「マルティナ嬢は、王太子の婚約者ではなくなりました」
王妃は、わずかに声を落とした。
「ですが、王国に必要な人であることは変わりません」
マルティナは王妃へ目礼した。
そこへ、若い男が入室した。
オスカー・ヴェイン。
若くして宰相に就いた男である。
年齢はまだ三十にも届かない。だが、その顔には若さゆえの軽さではなく、自分の言葉が誰かの生活を動かすと知っている者の疲れがあった。
オスカーは王妃へ一礼し、それからマルティナへ向き直る。
「グレイヴス公爵令嬢」
「はい」
「あなたを慰めるために呼んだのではありません」
リリアは少し驚いた。
だが、マルティナは表情を変えなかった。
オスカーは続ける。
「王国に必要だからです。宰相府へ来ていただきたい。私の補佐官として」
「わたくしに、王子殿下の後始末を続けろと?」
「いいえ」
オスカーは首を振った。
「王国の仕事をしていただきたいのです」
マルティナは、少しだけ目を伏せた。
婚約者としての部屋。
王子の予定表。
失言の訂正文。
破れた計画書。
謝罪のためだけに覚えた隣国語の言い回し。
それらが、頭の中で静かに遠ざかっていく。
「わたくしは、婚約者の代用品ではありません」
「もちろんです」
「王子を止めるための道具でもありません」
「そうですね」
「必要であれば、宰相閣下の判断も止めます」
オスカーは、そこで初めて少し笑った。
「そのために来ていただきたい」
マルティナは顔を上げた。
「止めても、怒らないのですか」
「怒るくらいなら、最初から補佐官など置きません」
その言葉は、驚くほど静かにマルティナの中へ落ちた。
止めることを求められる。
否定ではなく、補佐として。
邪魔ではなく、必要な役割として。
それは、彼女がずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
「承知いたしました」
マルティナは礼をした。
「お受けいたします」
リリアは、慌てて頭を下げた。
「わ、わたしも、何でもいたします。書類整理でも、聞き取りでも、雑用でも」
マルティナはリリアを見た。
かつて自分を悪役令嬢と呼んだ少女。
王子の隣で、何も知らずに震えていた少女。
今は、泣き腫らした目で、自分の論文を抱えて立っている。
「命令ではありません」
マルティナは言った。
「仕事です」
リリアは一瞬だけ息を止め、それから深く頷いた。
「はい。マルティナ様」
その頃、北の塔では、エドガーが叫んでいた。
「なぜリリアだけ出られる!」
オズワルドは平然と茶を飲んでいた。
「提出物が課題の要件を満たしたからでございます」
「私も書いた!」
「題名が『私が悪くない理由について』でした」
「事実だ!」
「ですから、塔に残っていただきます」
エドガーは机を叩いた。
「私は王子だぞ!」
「現在は、王太子としての執務権限を停止されている学習者です」
「リリアに会わせろ!」
「リリア嬢は修了しましたので、合同講義はございません」
「ならば、マルティナを呼べ!」
「宰相府へ配属されました」
「なぜだ!」
「有能だからでございます」
エドガーは言葉を失った。
オズワルドは、次の資料を机に置く。
「本日の課題は、殿下が過去に提案なさった税記録簡略化案が、なぜ不正温床化を招くかについてです」
「知らん!」
「では、読みましょう」
「私は王子だ!」
「王子であれば、なおさら読みましょう」
北の塔の扉は、厚かった。
王子の叫び声は、外までは届かなかった。
宰相府でのマルティナの仕事は、すぐに始まった。
王太子の後始末ではない。
王国の仕事である。
各省から届く報告書を読み、矛盾を拾い、数字の根拠を確認し、必要なら担当官を呼ぶ。
オスカーは、マルティナの指摘を途中で遮らなかった。
不機嫌にもならなかった。
むしろ、問うた。
「では、代案は?」
「こちらです」
「実行時の反発は?」
「南部商会と一部領主から出ます。先に物流補助の説明を入れるべきです」
「誰を使う」
マルティナは、少し考えてからリリアを見た。
「フェンス子爵令嬢」
「はい!」
「南部商会の若手たちに聞き取りを。公式なものではなく、茶会の形で構いません。何に不安を持っているか、言葉の温度を見てきてください」
リリアは目を見開いた。
「わたしが、でございますか」
「あなたは人の懐に入るのが得意です」
「でも、わたしはまだ」
「だから、記録を取ること。分からないことは分からないと書くこと。推測と事実を分けること。泣いて戻ってくる暇はありません」
リリアは背筋を伸ばした。
「はい、マルティナ様」
その日から、リリアは変わった。
もちろん、急に完璧になったわけではない。
計算を間違えることもあった。
聞き取りで相手の感情に引っ張られることもあった。
報告書の事実と印象が混ざり、マルティナに赤を入れられることもあった。
だが、彼女は逃げなかった。
分からないと言うようになった。
確認しますと言うようになった。
誰かが誰かを悪者にしようとすると、まず記録を見るようになった。
そして、リリアにはマルティナにない強みがあった。
下級貴族の令嬢たちは、マルティナには緊張する。
若手官吏も、マルティナの前では背筋が伸びすぎる。
商家の娘たちは、公爵令嬢に本音を言いづらい。
だが、リリアには話した。
かつて軽かった子爵令嬢。
泣きながら北の塔へ入り、論文を書いて出てきた娘。
失敗したことを隠さない彼女には、弱い立場の者が声を出しやすかった。
マルティナは判断する。
リリアは拾う。
オスカーは通す。
宰相府の中に、新しい流れができていった。
ある日、オスカーが執務室で言った。
「グレイヴス補佐官」
「はい」
「あなたを迎えて正解でした」
マルティナは書類から顔を上げない。
「まだ評価には早いかと」
「そう返すと思いました」
「では、なぜ今おっしゃったのですか」
「必要な評価は、必要な時に伝えるべきです。放置すると、人材は摩耗します」
マルティナの筆が止まった。
少しだけ沈黙が落ちる。
リリアは、部屋の隅で資料を抱えたまま、そっと二人を見た。
オスカーは続けなかった。
慰めでも、口説きでもない。
ただ、実務上必要な言葉として置かれた評価だった。
だからこそ、マルティナは静かに受け取れた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
その数日後、北の塔から再び課題提出があった。
表題は、『私はなぜ理解されないのか』。
オズワルドは、無言で突き返した。
さらに数日後、別の表題が出た。
『マルティナが厳しすぎた理由について』。
これも突き返された。
さらに十日後。
『リリアが私を置いて出たことの不当性について』。
即座に突き返された。
王は報告を聞き、深くため息をついた。
「廃嫡手続きを進めろ」
それは、怒鳴るような決定ではなかった。
長く見続けたものに、ようやく名前をつけるような声だった。
「国を背負わせるには、軽すぎる」
王妃ベアトリスは、静かに頷いた。
「リリア嬢の方が、先に重さを知りましたね」
「ああ」
「マルティナ嬢は?」
「宰相府で働いている。前より顔色が良い」
王妃は少しだけ笑った。
「それは何よりです」
マルティナが悪役令嬢と呼ばれることは、もうほとんどなくなっていた。
それでも、一部の取り巻き崩れはまだ陰でそう呼んだ。
悪役令嬢。
王子を追い落とした女。
真実の愛を壊した女。
冷たい公爵令嬢。
ある茶会で、その言葉が出た時、リリアは静かに振り返った。
以前の彼女なら、笑って流したかもしれない。
あるいは、何も分からず同調したかもしれない。
だが、今は違った。
「どの記録を読んで、そうおっしゃっていますか」
相手の令息は怯んだ。
「記録?」
「はい。マルティナ様が悪役令嬢だと判断された根拠です。議事録ですか。財務報告ですか。外交文書ですか。それとも、殿下のお言葉だけですか」
「いや、皆がそう言って」
「わたしも、以前はそうでした」
リリアは穏やかに言った。
「皆がそう言うから、そうなのだと思っていました。ですが、皆の中に、記録を読んだ方はほとんどいませんでした」
令息は黙った。
リリアは一礼する。
「誰かを悪役と呼ぶ前に、せめて一枚は記録を読みましょう。でないと、またクソ王子の言い訳を増やすだけです」
その場が凍った。
リリアは少しだけ青ざめた。
言いすぎたかもしれない。
しかし、後ろから声がした。
「よく言いました」
マルティナだった。
リリアは慌てて振り返る。
「マルティナ様、今のは、その」
「事実です」
「ですが、言葉が少々」
「少々ではなく、かなり直接的でした」
「申し訳ございません」
「謝る前に、次から場所を選びなさい」
「はい」
マルティナは、周囲を見回した。
誰も何も言わなかった。
それから、リリアへ書類を渡す。
「戻ります。南部商会の報告書、まだ修正が必要です」
「はい、マルティナ様」
二人は並んで歩き出した。
かつて、悪役令嬢と呼ばれた公爵令嬢。
かつて、その悪役令嬢を信じてしまった子爵令嬢。
今では、宰相府で最も忙しい補佐官と、その右腕になりつつある補佐見習いだった。
廊下の向こうでは、若い宰相オスカーが待っていた。
「遅かったですね」
「少し、悪役令嬢についての講義をしておりました」
マルティナがそう言うと、オスカーは微かに眉を上げた。
「それは有益そうだ」
リリアが小さく咳払いをする。
「題目は、責任転嫁構造における悪役認定の危険性、です」
「では、次の研修に入れましょう」
「本気でございますか」
「半分は」
マルティナは、ほんの少しだけ笑った。
リリアはそれを見て、胸が温かくなった。
この人は笑えるのだと思った。
笑う余裕を、ずっと奪われていただけなのだ。
王太子エドガー・ラグナードは、その後も北の塔で学び続けた。
学んだ、というより、教材の前に座り続けた。
彼が本当に反省点を書ける日は、まだ遠い。
もしかすると、一生来ないかもしれない。
だが、それで王国が困ることはもうなかった。
クソなのは王子だけだった。
軽い子爵令嬢は、泣きながらでも学んだ。
悪役令嬢と呼ばれた娘は、悪役ではなく、王国を壊さないために立っていただけだった。
そして今、彼女が止める相手は、もうクソ王子ではない。
国を間違えさせる、あらゆる甘い言葉だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、悪役令嬢と呼ばれているけれど、実際に悪かったのは王子だけ、という話でした。
マルティナは厳しい人ではありますが、意地悪な人ではありません。
ただ、止めなければ国が困る場面で、きちんと止めていただけです。
一方で、リリアは最初から悪女というより、「楽な方を信じてしまった子」として書きました。
王子の言葉を信じたというより、信じた方が自分にとって楽だった。
でも、泣きながらでも学び直せたので、彼女は塔を出られました。
そして王子は……まあ、王子です。
悪役令嬢ものでは「誰が悪役にされたのか」が大事ですが、今回は「誰が責任を見ないまま誰かを悪役にしたのか」を軸にしています。
悪役令嬢という言葉は便利です。
誰か一人をそう呼べば、周りは自分たちの責任を見なくて済む。
でも本当に見るべきなのは、その人が何を止めていたのか、何を背負わされていたのか、なのかもしれません。
楽しんでいただけましたら嬉しいです。




