表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと王子がクソだったから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/05/07

 マルティナ・グレイヴス公爵令嬢が悪役令嬢と呼ばれるようになったのは、十五歳の春からだった。


 理由は単純である。


 王太子エドガー・ラグナード殿下が、あまりにもクソ王子だったからだ。


「今年の冬祭りは盛大にしよう。民も華やかな催しを喜ぶだろう。王都の備蓄を一部開放して、菓子と酒を振る舞えばよい」


 王太子が爽やかな笑みでそう言った時、会議室にいた財務官が筆を落とした。農務官は顔色を失い、外務官は何かを祈るように目を伏せた。


 冬祭りの拡大そのものは悪くない。


 問題は、王太子が今「王都の備蓄を開放」と言ったことである。


 その年は、北部領で秋雨が長引いた。麦の収穫が落ち、干し肉の流通も滞っている。冬の備蓄は、華やかな祭りのためではなく、春まで人を死なせないためにある。


 誰もがそう分かっていた。


 ただし、王太子本人だけは分かっていなかった。


 そして誰も、真正面から王太子を止められなかった。


 国王陛下は別件で不在。宰相は病欠。大臣たちは顔を見合わせるばかり。王太子の機嫌を損ねれば、後々面倒になる。誰もがその面倒を知っていた。


 だから、マルティナが口を開いた。


「殿下」


「何だ、マルティナ。君もよい案だと思うだろう」


「いいえ。冬に民を殺すおつもりですか」


 会議室の空気が凍った。


 エドガーは目を見開き、それから顔を赤くした。


「殺すとは何だ。私は民を喜ばせようと――」


「備蓄を使えば、一時は喜ぶでしょう。ですが、二月以降の配給余力が消えます。北部からの流入民が増えれば、王都周辺の穀物価格も上がります。菓子と酒を振る舞った翌月に、パンが買えなくなる民が出ます」


「大げさだ」


「試算は出ています」


 マルティナは手元の書類を開いた。


 財務官が息を吹き返したように頷く。農務官が震える手で補足資料を差し出す。


「こちらが北部三領の収穫見込み。こちらが王都備蓄倉の現残量。こちらが昨年同時期との差分です。殿下の案を実行した場合、最悪で王都下層区に配給不足が発生します」


「しかし、祭りは民の心を――」


「空腹の民は、飾り布では生きられません」


 エドガーは唇を噛んだ。


「また私を否定するのか」


「案を否定しております」


「同じことだ!」


「同じではございません」


 マルティナは静かに言った。


「殿下が民を思うお気持ちまで否定してはおりません。ただ、そのお気持ちの使い方が危険だと申し上げております」


 会議室の隅で、農務官が泣きそうな顔をした。


 財務官は目元を押さえた。


 外務官は小さく息を吐いた。


 今年も、王国は滅びずに済んだ。


 その日の午後には、王太子の取り巻きたちが廊下で囁いていた。


「グレイヴス公爵令嬢は冷たいな」


「殿下の善意を、あのように踏みにじるとは」


「まるで悪役だ」


「悪役令嬢、か」


 その言葉は、ひどく便利だった。


 王太子の思いつきを止める女。


 王太子の失言を訂正する女。


 王太子の無責任を、数字と法と記録で叩き折る女。


 そういうものをひとまとめにして、「悪役令嬢」と呼べば、王太子は傷つかずに済む。


 自分が間違っていたのではない。


 婚約者が冷たすぎるのだ。


 自分が学ばなかったのではない。


 婚約者が厳しすぎるのだ。


 自分の政策が危なかったのではない。


 婚約者が夢を理解しないのだ。


 そうしてマルティナは、王太子の婚約者でありながら、王太子周辺で最も嫌われる令嬢になった。


 ただし、王子と取り巻きからだけである。


 財務省では、彼女が来ると茶菓子が増えた。


 農務省では、彼女のために暖かい席が用意された。


 外務省では、隣国語の礼状を添削しただけで、若手官吏たちが拝むように頭を下げた。


 騎士団では、彼女が王太子の「冬山遠征ごっこ」を止めた日から、密かに「命の恩人」と呼ばれていた。


 悪役令嬢。


 王太子はそう呼んだ。


 だが、王国の実務を知る者たちは、心の中で別の呼び方をしていた。


 安全弁。


 防波堤。


 最後の止め具。


 マルティナ・グレイヴスは、王太子エドガー・ラグナードが王国を壊さないために置かれた、若すぎる監視装置だった。


 そんな日々が続いて三年。


 エドガーの隣に、リリア・フェンス子爵令嬢が現れた。


 リリアは、悪い娘ではなかった。


 少なくとも、最初から悪意で誰かを陥れようとするほど器用ではなかった。


 明るく、可愛らしく、人の懐に入るのがうまい。笑えば周囲が和む。難しい話になると首をかしげる。そうすると、誰かが自然と説明してくれる。


 彼女は、それを優しさだと思っていた。


 そして、説明されないことについては、難しいことを考えずに済むのだから、むしろ楽だと思っていた。


 エドガーは、そこに惹かれた。


「君といると、息ができる」


 王太子は、リリアにそう言った。


 リリアは頬を染めた。


「殿下は、いつも頑張っていらっしゃいますもの」


 エドガーは深く頷いた。


「マルティナは、私が何を言っても否定する。君だけだ、私を分かってくれるのは」


 リリアは、王太子の寂しげな横顔を見た。


 美しいと思った。


 苦しんでいるのだと思った。


 冷たい婚約者に縛られ、自由な発想を押し潰され、それでも民を思う優しい王子なのだと、彼女は信じた。


 いや、信じたかった。


 難しい資料を読まずに済む側に立てば、自分も優しい人間でいられる気がしたからだ。


 その頃から、エドガーは露骨にマルティナを避けるようになった。


 政務の下読みを放り出し、リリアと庭園を歩く。


 外交儀礼の練習を抜け出し、リリアに詩を読ませる。


 予算会議の前日に、リリアへ花冠を作る。


 マルティナはそれを止めた。


「殿下、明日の会議資料をまだご覧になっていません」


「後で見る」


「後では間に合いません。関税改定の話です。隣国側の使節も同席します」


「君はいつもそうだ。なぜ私の時間を奪う」


「王太子の時間だからです」


 エドガーは冷たく笑った。


「リリアなら、そんな言い方はしない」


 マルティナは、リリアを見た。


 リリアは少し怯えたようにエドガーの袖を握っていた。


 その仕草を見て、取り巻きたちはマルティナを睨む。


「リリア嬢が可哀想だ」


「また悪役令嬢が殿下を縛っている」


「嫉妬だろう」


 マルティナは訂正しなかった。


 嫉妬なら、どれほど楽だっただろうと思った。


 自分は、愛を奪われた婚約者として怒っているのではない。


 王国の政務が止まるから止めている。


 外交上の失点になるから止めている。


 関税改定を「後で見る」と言った男が将来王になるなど、隣国への脅迫に近いから止めている。


 だが、そう説明しても、エドガーは理解しない。


 理解しない者に説明するには、時間がいる。


 そして、王太子はその時間を、毎回使い潰してきた。


 断罪劇が行われたのは、春の王宮舞踏会だった。


 招待客の多い夜である。


 各領の貴族、官僚、騎士、商人代表、神殿関係者まで集まっていた。王太子がそこで何かを発表するという噂は、事前に広まっていた。


 マルティナは、嫌な予感がしていた。


 王太子の予定表に空白が多すぎた。


 取り巻きたちの動きが妙に華やかだった。


 リリアの衣装が、子爵令嬢の身分にしては不自然なほど目立っていた。


 そして何より、エドガーが妙に晴れ晴れとした顔をしていた。


 人は、自分の間違いに気づいた時、あの顔はしない。


 自分の間違いを誰かのせいにできると思った時、あの顔をする。


 楽団の音が止んだ。


 エドガーが広間の中央へ進み出る。


 隣にはリリアがいた。


 彼女は震えていた。けれど、その震えは恐怖よりも陶酔に近い。自分が大きな物語の中にいると信じている者の震えだった。


「マルティナ・グレイヴス!」


 王太子の声が大広間に響いた。


 多くの視線が、マルティナへ集まる。


 マルティナは静かに進み出た。


「何でございましょう、殿下」


「お前との婚約を、ここに破棄する!」


 広間がざわめいた。


 エドガーは勝ち誇った顔で続ける。


「お前はこれまで、私の善意を踏みにじり、私の自由を奪い、リリアを傷つけてきた。王太子である私を否定し続けた罪、決して軽くはない!」


 マルティナは瞬きをした。


 予想はしていた。


 だが、実際に聞くと、なかなかひどい。


 自由を奪った。


 王太子教育から逃げる自由のことだろうか。


 善意を踏みにじった。


 冬の備蓄を菓子に変える善意のことだろうか。


 リリアを傷つけた。


 関税改定の資料を読むよう求めた日に、彼女が泣いた件だろうか。


 どれも、言い返す気力が削られるほど雑だった。


 エドガーはリリアの手を取った。


「私は真実の愛を選ぶ。リリア・フェンスこそ、私の隣にふさわしい。マルティナ、お前のような悪役令嬢は、王宮から追放されるべきだ!」


 財務卿グレン・モルガンが青ざめた。


 農務卿ヘンリック・フォードが胸を押さえた。


 外務卿バルナード・レイスが「国家自殺」と口の中で呟いた。


 騎士団長ローレン・ヴァイスは、腰の剣に手を伸ばしかけて、かろうじて止めた。


 広間の奥、玉座に座っていた国王アレクシス・ラグナードは、しばらく息子を見ていた。


 王妃ベアトリス・ラグナードも、何も言わなかった。


 沈黙が落ちる。


 エドガーは、それを自分の勝利だと受け取ったらしい。


「父上、母上。どうかご裁可を」


 国王は、ゆっくりと立ち上がった。


 広間が静まり返る。


 アレクシス王は笑っていなかった。


「それならば、お前が追放だ」


 エドガーの顔から、血の気が引いた。


「……父上?」


「北の塔に放り込め」


 広間が完全に止まった。


 王は淡々と続けた。


「王太子教育の資料、財務報告、外交儀礼書、農政記録、裁判記録、議事録、過去十年分の政策試算、すべて運び込め」


「な、なぜ私が!」


「読め」


 短い一言だった。


 だが、その一言には、王としての怒りと父としての失望が両方入っていた。


「マルティナ嬢が十年近く、お前の失敗をどれだけ塞いできたか。自分の目で読め」


「私は失敗など――」


「した」


 王は即座に切った。


「冬の備蓄開放案。騎士団雪山遠征案。隣国使節への無礼発言。南部水路予算の祭礼流用案。税徴収簡略化と称した記録破棄案。すべて、マルティナ嬢が止めた。お前は覚えていないだろう。止められた側は、自分が何を壊しかけたか覚えないからな」


 エドガーは口を開けたまま固まっていた。


 王妃ベアトリスが、静かにリリアへ視線を移す。


「リリア・フェンス子爵令嬢」


 リリアの肩が跳ねた。


「は、はい」


「あなたも北の塔へ」


 リリアは目を見開いた。


「わ、わたしも、でございますか」


「王妃候補を名乗るつもりで殿下の隣に立ったのでしょう。ならば、学びなさい」


 リリアは震えた。


 だが、反論はできなかった。


 彼女は今、自分が何に立ち会っているのか、ようやく少しだけ分かり始めていた。


 マルティナは、リリアを見た。


 責める言葉は出なかった。


 リリアは軽かった。


 確かに軽かった。


 だが、今この場で一番醜いのは、彼女ではない。


 王子だけだった。


 その夜、エドガーとリリアは北の塔へ送られた。


 北の塔は、罪人を閉じ込める牢ではない。


 王族や高位貴族が、外に出せないほど問題を起こした時、一定期間隔離して教育するための場所である。


 窓はある。


 食事も出る。


 寝具もある。


 教師も来る。


 ただし、自由はない。


 そして何より、逃げ場がない。


 翌朝、老教師オズワルド・ケインが二人の前に立った。


 白髪の背筋の伸びた男で、淡々とした声をしていた。


「本日より、殿下とリリア嬢には再教育課程を受けていただきます」


「再教育だと?」


 エドガーは椅子を蹴る勢いで立ち上がった。


「私は王太子だぞ!」


「現在、王太子としての執務権限は停止されております」


「そんなもの、父上が一時の怒りで――」


「一時の怒りで北の塔は開きません」


 オズワルドは静かに書類を置いた。


「まず本日の課題です。殿下が昨年提案なさった全領一斉花祭り計画について、物流、税、労役、備蓄、治安の五項目から問題点を整理してください」


 エドガーは顔をしかめた。


「そんなもの、官吏が考えることだ」


「王太子の発案でございます」


「私は方向性を示しただけだ」


「方向性で荷車は増えません」


 リリアが小さく肩を震わせた。


 その日、彼女は初めて、エドガーの言葉が教師にまったく通じない場面を見た。


 王宮の庭園では通じていた。


 「民の笑顔が見たい」と言えば、周囲は優しい王子だと微笑んだ。


 「難しいことばかり言うな」と言えば、取り巻きたちはマルティナを責めた。


 だが、北の塔の机の上では、言葉の飾りは役に立たなかった。


 備蓄表は、王子の気持ちを忖度しない。


 税収記録は、愛の詩では書き換わらない。


 議事録は、誰が何を言い、誰が修正し、誰が止めたのかを、残酷なほど正確に残していた。


 初日の午後、合同講義の題目は「冬季備蓄運用と王太子発案の危険性」だった。


 リリアは泣きながら資料を読んだ。


 そこには、彼女が見たことのないマルティナがいた。


 冷たい令嬢ではなかった。


 怒ってばかりの婚約者ではなかった。


 議事録の中のマルティナは、毎回、理由を説明していた。


 数字を示していた。


 代案を出していた。


 王太子の顔を潰さないよう、最初は柔らかく止めていた。


 それでもエドガーが聞かないから、最後に強く言っていた。


 リリアは、紙面の同じ箇所を何度も読んだ。


 エドガー殿下、冬の備蓄は民の命を春まで繋ぐものです。


 殿下、騎士団の移動には補給線が必要です。


 殿下、その発言は隣国使節の前では侮辱に当たります。


 殿下、税記録を簡略化すれば、不正の発見が遅れます。


 殿下、民は物語の登場人物ではございません。


 リリアの涙が、資料に落ちた。


「泣いても字は増えません」


 オズワルドが淡々と言った。


「はい……」


「泣くなら、読みながら泣きなさい」


「はい」


 リリアは泣きながら読んだ。


 隣では、エドガーが腕を組んでいた。


「リリア、こんなものを真に受けるな。マルティナが大げさに書かせたのだ」


 リリアは顔を上げた。


「でも、殿下」


「何だ」


「こちら、財務卿の署名があります。こちらには農務卿の補足も。こちらは外務省の記録です」


「だから何だ。官吏たちはマルティナに味方している」


「なぜ、みんなが味方したのでしょうか」


 エドガーは黙った。


 リリアは、自分の声が震えていることに気づいていた。


 怖かった。


 エドガーを疑うのが怖かった。


 王子様を信じていれば、自分は可哀想な恋人でいられた。


 悪役令嬢にいじめられた被害者でいられた。


 でも記録は、リリアからその安全な場所を奪っていく。


 自分は、何も知らなかった。


 知らなかっただけではない。


 知ろうとしなかった。


 その日の夜、リリアは眠れなかった。


 翌日も、翌々日も、講義は続いた。


 午前は財務。


 午後は農政。


 夕方は外交儀礼。


 夜は議事録の写し取り。


 エドガーは怒り、寝転がり、文句を言い、教師を罵った。


 リリアは泣き、吐きそうになり、それでも読んだ。


 最初は、塔を出るためだった。


 次に、エドガーに会うためだった。


 だが、数日後には違っていた。


 リリアは、マルティナが何をしていたのか知りたくなっていた。


 どこまで止めたのか。


 どれほど説明したのか。


 どんな顔で、あの場に立ち続けていたのか。


 それを知らなければ、自分は二度と人を悪役と呼んではいけない気がした。


 十日目、オズワルドが課題を出した。


「塔を出る条件をお伝えします」


 エドガーが顔を上げた。


「ようやくか」


「反省点、学んだこと、改善点。この三項目を論文化して提出してください。内容が要件を満たした者から、塔を出る許可申請を上げます」


「くだらん」


 エドガーは吐き捨てた。


「私は悪くない」


「では、その認識を論証してください」


「そうだな。書いてやる」


 エドガーはその日のうちに一枚の紙を出した。


 表題は、『私が悪くない理由について』。


 オズワルドは一読して、無言で突き返した。


「課題と題名が違います」


「何が違う!」


「反省点がありません」


「反省する点などない!」


「では、本日はここまでです」


 エドガーは怒鳴った。


「リリアには会えるのか!」


「合同講義は明日もございます。リリア嬢が修了していなければ」


 その頃、リリアは机に向かっていた。


 何度も書き直した。


 最初の題名は、『わたしが間違えたことについて』だった。


 だが、それでは足りないと思った。


 自分は、ただ間違えたのではない。


 王太子の責任転嫁に加担した。


 マルティナを悪役令嬢と呼ぶことで、王子が見なくてよいものを増やした。


 だから、最終的に題名はこうなった。


『王太子殿下周辺における責任転嫁構造と、私自身の加担について』


 反省点。


 私は、殿下の優しい言葉を、正しさと誤認した。


 難しい説明を避ける方を自由な方と思い、必要な説明をなさる方を冷たい方と思った。


 クラリッサ様――いや、マルティナ様が止めていたものの内容を確認せず、殿下の感情だけを信じた。


 信じたというより、信じる方が楽だった。


 その結果、私は、殿下が責任を負わずに済む構造へ加担した。


 学んだこと。


 政務は気持ちだけでは動かない。


 備蓄、税、物流、外交、軍の移動、裁判記録、儀礼、文書管理には、それぞれ理由がある。


 誰かを悪役と呼ぶ前に、その人が何を止め、何を守っているのかを確認しなければならない。


 優しい言葉が必ずしも人を救うとは限らない。


 厳しい言葉が、人を守ることもある。


 改善点。


 今後は、発言者の身分や声の甘さではなく、内容を見る。


 感情ではなく記録を確認する。


 分からないことを、分かったふりしない。


 誰かの言葉をそのまま信じず、複数の資料と関係者の証言を照合する。


 そして、自分が傷つけた相手に謝罪し、必要なら下働きからでも学び直す。


 リリアは書き終えた時、泣いていなかった。


 目は腫れていた。


 指はインクで汚れていた。


 背中は痛かった。


 けれど、泣いて逃げる段階は終わっていた。


 提出された論文は、オズワルドから王妃ベアトリスへ届けられた。


 王妃は最初、情に流されるつもりではなかった。


 リリア・フェンスは、息子の愚行に加担した娘である。


 王太子妃候補の重さも知らず、愛という言葉に酔い、マルティナを傷つけた。


 それは事実だ。


 だが、王妃は最後の頁まで読んだ。


 紙には、ところどころ涙の跡があった。


 しかし、それは言い訳の跡ではなかった。


 書き直しの跡だった。


 王妃は長く沈黙した。


 侍女長が控えている。


 暖炉の火が、静かに音を立てた。


 やがて、王妃は表紙に手を置いた。


「出して会わせなさい」


 侍女長が顔を上げる。


「どなたにでございますか」


 王妃は、論文の題名をもう一度見た。


 頼りない字だった。


 だが、逃げてはいない字だった。


「悪役令嬢と呼ばれた、あの子に」


 リリアが北の塔を出たのは、その翌朝だった。


 彼女は飾られていなかった。


 髪は簡単にまとめられ、顔色も良くない。ドレスも塔へ入った時のような華やかなものではなく、地味な青灰色のものだった。


 手には、自分の論文の控えを持っていた。


 王妃の私室に通されると、そこにマルティナがいた。


 マルティナは立っていた。


 背筋が伸び、表情は静かだった。


 リリアは、その姿を見た瞬間、胸が苦しくなった。


 以前の自分なら、冷たいと思ったかもしれない。


 今は違う。


 この人は、立ち続けていたのだと思った。


 王子の隣で、誰にも理解されないまま、何度も何度も、国が壊れる手前に立ち続けていた。


「マルティナ様」


 リリアは深く頭を下げた。


「申し訳ございませんでした」


 マルティナは答えない。


 王妃も口を挟まない。


 リリアは続けた。


「わたしは、あなたを悪役令嬢と呼びました。殿下の言葉を信じたのではありません。信じた方が楽だったのです」


 声は震えていた。


 だが、止まらなかった。


「あなたが何を止めていたのか、知ろうとしませんでした。あなたがどれだけ説明していたのか、聞こうとしませんでした。わたしは、優しい言葉の側に立てば、自分も優しい人間になれると思っていました」


 マルティナは、しばらくリリアを見ていた。


 やがて、静かに言う。


「謝罪は受け取ります」


 リリアは顔を上げた。


「許して、いただけるのですか」


「許すかどうかは、これからのあなた次第です」


「……はい」


「泣いて済ませる癖は、捨てなさい」


「はい」


「分からないことを、分かったふりしないこと」


「はい」


「誰かを悪役と呼ぶ前に、記録を読みなさい」


 リリアの目に、また涙が浮かんだ。


 けれど今度は、頷くための涙だった。


「はい、マルティナ様」


 王妃ベアトリスは、そのやり取りを静かに見ていた。


 そして、リリアへ告げた。


「宰相府へ行きなさい。あなたが傷つけた相手の下で、あなたが見なかったものを見てきなさい」


「宰相府、でございますか」


「マルティナ嬢は、王太子の婚約者ではなくなりました」


 王妃は、わずかに声を落とした。


「ですが、王国に必要な人であることは変わりません」


 マルティナは王妃へ目礼した。


 そこへ、若い男が入室した。


 オスカー・ヴェイン。


 若くして宰相に就いた男である。


 年齢はまだ三十にも届かない。だが、その顔には若さゆえの軽さではなく、自分の言葉が誰かの生活を動かすと知っている者の疲れがあった。


 オスカーは王妃へ一礼し、それからマルティナへ向き直る。


「グレイヴス公爵令嬢」


「はい」


「あなたを慰めるために呼んだのではありません」


 リリアは少し驚いた。


 だが、マルティナは表情を変えなかった。


 オスカーは続ける。


「王国に必要だからです。宰相府へ来ていただきたい。私の補佐官として」


「わたくしに、王子殿下の後始末を続けろと?」


「いいえ」


 オスカーは首を振った。


「王国の仕事をしていただきたいのです」


 マルティナは、少しだけ目を伏せた。


 婚約者としての部屋。


 王子の予定表。


 失言の訂正文。


 破れた計画書。


 謝罪のためだけに覚えた隣国語の言い回し。


 それらが、頭の中で静かに遠ざかっていく。


「わたくしは、婚約者の代用品ではありません」


「もちろんです」


「王子を止めるための道具でもありません」


「そうですね」


「必要であれば、宰相閣下の判断も止めます」


 オスカーは、そこで初めて少し笑った。


「そのために来ていただきたい」


 マルティナは顔を上げた。


「止めても、怒らないのですか」


「怒るくらいなら、最初から補佐官など置きません」


 その言葉は、驚くほど静かにマルティナの中へ落ちた。


 止めることを求められる。


 否定ではなく、補佐として。


 邪魔ではなく、必要な役割として。


 それは、彼女がずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。


「承知いたしました」


 マルティナは礼をした。


「お受けいたします」


 リリアは、慌てて頭を下げた。


「わ、わたしも、何でもいたします。書類整理でも、聞き取りでも、雑用でも」


 マルティナはリリアを見た。


 かつて自分を悪役令嬢と呼んだ少女。


 王子の隣で、何も知らずに震えていた少女。


 今は、泣き腫らした目で、自分の論文を抱えて立っている。


「命令ではありません」


 マルティナは言った。


「仕事です」


 リリアは一瞬だけ息を止め、それから深く頷いた。


「はい。マルティナ様」


 その頃、北の塔では、エドガーが叫んでいた。


「なぜリリアだけ出られる!」


 オズワルドは平然と茶を飲んでいた。


「提出物が課題の要件を満たしたからでございます」


「私も書いた!」


「題名が『私が悪くない理由について』でした」


「事実だ!」


「ですから、塔に残っていただきます」


 エドガーは机を叩いた。


「私は王子だぞ!」


「現在は、王太子としての執務権限を停止されている学習者です」


「リリアに会わせろ!」


「リリア嬢は修了しましたので、合同講義はございません」


「ならば、マルティナを呼べ!」


「宰相府へ配属されました」


「なぜだ!」


「有能だからでございます」


 エドガーは言葉を失った。


 オズワルドは、次の資料を机に置く。


「本日の課題は、殿下が過去に提案なさった税記録簡略化案が、なぜ不正温床化を招くかについてです」


「知らん!」


「では、読みましょう」


「私は王子だ!」


「王子であれば、なおさら読みましょう」


 北の塔の扉は、厚かった。


 王子の叫び声は、外までは届かなかった。


 宰相府でのマルティナの仕事は、すぐに始まった。


 王太子の後始末ではない。


 王国の仕事である。


 各省から届く報告書を読み、矛盾を拾い、数字の根拠を確認し、必要なら担当官を呼ぶ。


 オスカーは、マルティナの指摘を途中で遮らなかった。


 不機嫌にもならなかった。


 むしろ、問うた。


「では、代案は?」


「こちらです」


「実行時の反発は?」


「南部商会と一部領主から出ます。先に物流補助の説明を入れるべきです」


「誰を使う」


 マルティナは、少し考えてからリリアを見た。


「フェンス子爵令嬢」


「はい!」


「南部商会の若手たちに聞き取りを。公式なものではなく、茶会の形で構いません。何に不安を持っているか、言葉の温度を見てきてください」


 リリアは目を見開いた。


「わたしが、でございますか」


「あなたは人の懐に入るのが得意です」


「でも、わたしはまだ」


「だから、記録を取ること。分からないことは分からないと書くこと。推測と事実を分けること。泣いて戻ってくる暇はありません」


 リリアは背筋を伸ばした。


「はい、マルティナ様」


 その日から、リリアは変わった。


 もちろん、急に完璧になったわけではない。


 計算を間違えることもあった。


 聞き取りで相手の感情に引っ張られることもあった。


 報告書の事実と印象が混ざり、マルティナに赤を入れられることもあった。


 だが、彼女は逃げなかった。


 分からないと言うようになった。


 確認しますと言うようになった。


 誰かが誰かを悪者にしようとすると、まず記録を見るようになった。


 そして、リリアにはマルティナにない強みがあった。


 下級貴族の令嬢たちは、マルティナには緊張する。


 若手官吏も、マルティナの前では背筋が伸びすぎる。


 商家の娘たちは、公爵令嬢に本音を言いづらい。


 だが、リリアには話した。


 かつて軽かった子爵令嬢。


 泣きながら北の塔へ入り、論文を書いて出てきた娘。


 失敗したことを隠さない彼女には、弱い立場の者が声を出しやすかった。


 マルティナは判断する。


 リリアは拾う。


 オスカーは通す。


 宰相府の中に、新しい流れができていった。


 ある日、オスカーが執務室で言った。


「グレイヴス補佐官」


「はい」


「あなたを迎えて正解でした」


 マルティナは書類から顔を上げない。


「まだ評価には早いかと」


「そう返すと思いました」


「では、なぜ今おっしゃったのですか」


「必要な評価は、必要な時に伝えるべきです。放置すると、人材は摩耗します」


 マルティナの筆が止まった。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 リリアは、部屋の隅で資料を抱えたまま、そっと二人を見た。


 オスカーは続けなかった。


 慰めでも、口説きでもない。


 ただ、実務上必要な言葉として置かれた評価だった。


 だからこそ、マルティナは静かに受け取れた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 その数日後、北の塔から再び課題提出があった。


 表題は、『私はなぜ理解されないのか』。


 オズワルドは、無言で突き返した。


 さらに数日後、別の表題が出た。


『マルティナが厳しすぎた理由について』。


 これも突き返された。


 さらに十日後。


『リリアが私を置いて出たことの不当性について』。


 即座に突き返された。


 王は報告を聞き、深くため息をついた。


「廃嫡手続きを進めろ」


 それは、怒鳴るような決定ではなかった。


 長く見続けたものに、ようやく名前をつけるような声だった。


「国を背負わせるには、軽すぎる」


 王妃ベアトリスは、静かに頷いた。


「リリア嬢の方が、先に重さを知りましたね」


「ああ」


「マルティナ嬢は?」


「宰相府で働いている。前より顔色が良い」


 王妃は少しだけ笑った。


「それは何よりです」


 マルティナが悪役令嬢と呼ばれることは、もうほとんどなくなっていた。


 それでも、一部の取り巻き崩れはまだ陰でそう呼んだ。


 悪役令嬢。


 王子を追い落とした女。


 真実の愛を壊した女。


 冷たい公爵令嬢。


 ある茶会で、その言葉が出た時、リリアは静かに振り返った。


 以前の彼女なら、笑って流したかもしれない。


 あるいは、何も分からず同調したかもしれない。


 だが、今は違った。


「どの記録を読んで、そうおっしゃっていますか」


 相手の令息は怯んだ。


「記録?」


「はい。マルティナ様が悪役令嬢だと判断された根拠です。議事録ですか。財務報告ですか。外交文書ですか。それとも、殿下のお言葉だけですか」


「いや、皆がそう言って」


「わたしも、以前はそうでした」


 リリアは穏やかに言った。


「皆がそう言うから、そうなのだと思っていました。ですが、皆の中に、記録を読んだ方はほとんどいませんでした」


 令息は黙った。


 リリアは一礼する。


「誰かを悪役と呼ぶ前に、せめて一枚は記録を読みましょう。でないと、またクソ王子の言い訳を増やすだけです」


 その場が凍った。


 リリアは少しだけ青ざめた。


 言いすぎたかもしれない。


 しかし、後ろから声がした。


「よく言いました」


 マルティナだった。


 リリアは慌てて振り返る。


「マルティナ様、今のは、その」


「事実です」


「ですが、言葉が少々」


「少々ではなく、かなり直接的でした」


「申し訳ございません」


「謝る前に、次から場所を選びなさい」


「はい」


 マルティナは、周囲を見回した。


 誰も何も言わなかった。


 それから、リリアへ書類を渡す。


「戻ります。南部商会の報告書、まだ修正が必要です」


「はい、マルティナ様」


 二人は並んで歩き出した。


 かつて、悪役令嬢と呼ばれた公爵令嬢。


 かつて、その悪役令嬢を信じてしまった子爵令嬢。


 今では、宰相府で最も忙しい補佐官と、その右腕になりつつある補佐見習いだった。


 廊下の向こうでは、若い宰相オスカーが待っていた。


「遅かったですね」


「少し、悪役令嬢についての講義をしておりました」


 マルティナがそう言うと、オスカーは微かに眉を上げた。


「それは有益そうだ」


 リリアが小さく咳払いをする。


「題目は、責任転嫁構造における悪役認定の危険性、です」


「では、次の研修に入れましょう」


「本気でございますか」


「半分は」


 マルティナは、ほんの少しだけ笑った。


 リリアはそれを見て、胸が温かくなった。


 この人は笑えるのだと思った。


 笑う余裕を、ずっと奪われていただけなのだ。


 王太子エドガー・ラグナードは、その後も北の塔で学び続けた。


 学んだ、というより、教材の前に座り続けた。


 彼が本当に反省点を書ける日は、まだ遠い。


 もしかすると、一生来ないかもしれない。


 だが、それで王国が困ることはもうなかった。


 クソなのは王子だけだった。


 軽い子爵令嬢は、泣きながらでも学んだ。


 悪役令嬢と呼ばれた娘は、悪役ではなく、王国を壊さないために立っていただけだった。


 そして今、彼女が止める相手は、もうクソ王子ではない。


 国を間違えさせる、あらゆる甘い言葉だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、悪役令嬢と呼ばれているけれど、実際に悪かったのは王子だけ、という話でした。


マルティナは厳しい人ではありますが、意地悪な人ではありません。

ただ、止めなければ国が困る場面で、きちんと止めていただけです。


一方で、リリアは最初から悪女というより、「楽な方を信じてしまった子」として書きました。

王子の言葉を信じたというより、信じた方が自分にとって楽だった。

でも、泣きながらでも学び直せたので、彼女は塔を出られました。


そして王子は……まあ、王子です。


悪役令嬢ものでは「誰が悪役にされたのか」が大事ですが、今回は「誰が責任を見ないまま誰かを悪役にしたのか」を軸にしています。


悪役令嬢という言葉は便利です。

誰か一人をそう呼べば、周りは自分たちの責任を見なくて済む。

でも本当に見るべきなのは、その人が何を止めていたのか、何を背負わされていたのか、なのかもしれません。


楽しんでいただけましたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
いやー、これは国王が悪いよ。政府高官が王子に忖度してなんも言わない状況で10年近くマルティナ一人にアホの尻拭いをさせて放置してるんだもん。もっと早く徹底的に教育しなさいよ。重臣達もちゃんと王子に反論さ…
考えない男のとこに考えない女が来ちゃったけど女の方が先に目を覚ましたんだなー。最終的にクソ王子呼ばわり。 王子の廃嫡後も悪役令嬢呼ばわりし続ける取り巻き崩れは後に退けないんだろうけど、地雷原で踊って…
取り巻きは処分されないんですかね。廃嫡一辺倒だからいいのかな。家のダメージは大きいだろうけど
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ