第九話 面白い都市だな
前の大会を終えた翌々日、グランとルシアは街の酒場にいた。
朝だというのに、店の中には昨夜からそのまま座っているような顔が何人もいる。木の卓の上には空になった杯が転がり、床には踏み潰された豆の皮や肉の欠片が散っていた。窓の隙間から差し込む光は白く、二日酔いの人間たちにはやけに厳しそうだったが、酒場の主人はまるで気にした様子もなく鍋をかき回している。
グランは皿の上の肉をひと切れ摘まみ、口へ放り込んだ。
塩が強い。だがうまい。米が無いのだけは気に入らないが、朝から肉が食えるなら悪くはない。
向かいではルシアがいつものように酒を飲んでいた。勝って増えた金が入ってからというもの、酒の質までひとつ上がった気がする。杯を持つ指先まで妙に機嫌が良さそうに見えるのは、そのせいだけではないのだろう。
「で、次は?」
グランが聞くと、ルシアは杯を唇から離し、ちらりと視線を向けた。
「そう急くでない」
「急くに決まってんだろ。あの大会、全然面白くなかったし」
「まあまあじゃった」
「どこがまあまあだよ」
少し前にも言った台詞だ。だが本当にそう思っているのだから仕方がない。
ルシアは喉の奥で笑い、酒をもうひと口飲んだ。
「相手は間違いなく、まあまあじゃったぞ」
「どこがだ」
「よしよし」
子供でもあやすみたいな調子で言われ、グランは顔をしかめる。だがそこで本気で怒るほどでもない。結局、次にもっと面白い相手がいるならそれでいい。
その時、少し離れた卓から、大きめの声が上がった。
「次ならアルトリアだな」
「ひと月はかかるが、規模はでかい」
「賞金もかなり高いらしいぞ」
その名前に、ルシアの目がわずかに細くなる。
グランも肉を噛むのを止めた。
「アルトリア?」
酒を飲んでいた中年の商人ふうの男が、こちらを見て頷く。
「貿易都市アルトリアだ。大河沿いの大都市だよ。人も金も物も集まる」
別の男がそこへ口を挟んだ。
「ただ最近はちょっときな臭いがな」
ルシアが杯を置く。
「きな臭い?」
「周辺の魔獣が増えてる。街道筋でも被害が出てるらしい」
「都市の中じゃ盗賊まで増えてるそうだ」
「だから賞金を上げて人を呼んでんじゃねえかって話だよ」
その言葉に、ルシアは短く息を吐いた。
「……ほう」
グランは腕を組む。
「遠いのか」
「ひと月ほどじゃろうな」
「規模は?」
商人が肩をすくめる。
「この辺で聞くなら一番でかい」
「大会も、賭けも、商売もな」
グランはすぐに決めた。
「行くか」
ルシアも同じ結論に達していたらしい。
「うむ」
それだけで話は終わる。
酒場を出る前に、ルシアはさらに何人かから道筋を聞き出した。街道の状態、途中の宿場、茶屋の位置、大河沿いの通りやすい道。細かいところまで抜かりなく頭へ入れていく。
グランはその横で、ひとつだけ気になったことを口にした。
「魔獣多いんだろ」
「らしいの」
「なら、道中も面白そうだな」
ルシアは少しだけ呆れた目をした。
「おぬしは本当にそこしか見ておらぬ」
「それで十分だろ」
「まあ、そういう時もある」
出発したのはその日の昼前だった。
町を抜けると、空気はすぐに乾いた。街道は広く、荷車の轍が深く刻まれている。ここを大勢の商人たちが行き来しているのだろう。空は高く晴れ、遠くには大河の流れに沿って長い緑の帯が見える。
最初の数日は、比較的穏やかな旅だった。
途中の茶屋で薄い汁をすすりながら、ルシアはまた補足の情報を集める。
「アルトリアの大会、今年は参加者が多いそうじゃ」
「最近は他所の荒くれも流れてきてるとか」
「大商会も何軒も入っておるらしい」
護衛らしい男が笑いながら言う。
「だが近頃は街道が少しおかしいな。魔獣が寄りすぎてる」
「この先の森でも、大熊を見たって話があった」
「河原の方じゃ、巨大な牛みたいな魔獣まで出たらしいぞ」
その話を聞いたグランは、茶屋の皿の上の肉を食い終えてから言った。
「いいな」
「何がじゃ」
「いろいろ出るなら退屈しねえ」
ルシアは一応眉を寄せたが、止めはしない。どうせ見つければ狩るのだ。なら最初から好きにさせた方が早い。
実際、街道を進むにつれて魔獣は増えた。
最初に現れたのは、大熊の魔獣だった。
夕方近く、林を抜ける前に、木々の間から低い唸り声が聞こえた。次の瞬間、黒い巨体が枝をへし折りながら飛び出してくる。普通の熊よりも二回りは大きく、肩の盛り上がりだけで馬より高い。
グランは荷を地面へ放り、笑った。
「でかいな」
大熊はそのまま立ち上がる。前脚の爪が長い。ひと振りで人間なら胴ごと裂けるだろう。だがグランは待たない。真正面から踏み込み、そのまま腹へ拳をめり込ませた。
鈍い音がする。
大熊の巨体が揺れ、次の瞬間には前脚が落ちてくる。
それを腕で受ける。重い。だが耐えられない重さではない。逆にそのまま肩で押し返し、熊の顔へもう一発。鼻骨が砕け、巨体が後ろへのけぞる。
最後は首を掴んで引き倒し、地面に叩きつけた。
土が跳ね、木の葉が揺れる。
動かなくなった大熊を見下ろして、グランが鼻を鳴らした。
「これ食えるか?」
ルシアが近づいて足先で熊の脇腹を軽く蹴る。
「食えるじゃろうが、固いぞ」
「いい。食えるなら」
その夜は熊肉だった。
臭みはある。だが火を通して塩を振れば十分食える。グランは骨ごと齧りながら満足そうだった。
その二日後には、河原近くで巨大な牛の魔獣に遭遇した。
角が異様に長く、脚も太い。群れではなく一頭だけだったが、その一頭だけで十分厄介そうだった。土を踏み鳴らし、低く唸ってから一直線に突っ込んでくる。
グランは避けずに向かう。
角の間に手を差し込み、真正面から押し返した。足の裏が土へ沈む。だが止まる。さらに力を込めると、牛の首がわずかに持ち上がる。そこで膝を折らせ、顔面へ拳を叩き込んだ。
二発目で沈んだ。
この肉はかなりうまかった。
「これ、前の熊よりいいな」
焚き火の前で肉を噛みながらグランが言うと、ルシアも珍しく素直に頷いた。
「脂が良いの」
「もっと狩ればよかったか?」
「持てぬ」
「それはそうか」
さらに進んだ先では、大亀の魔獣も出た。
川沿いの湿った土手で休んでいたところへ、大きな岩が動いたように見えたのだ。最初は本当に岩かと思った。だが次の瞬間、そこから首が伸び、異様に硬そうな嘴が開く。
「なんだあれ」
「亀じゃな」
「でかいな」
「硬そうでもある」
大亀の甲羅は、剣で叩いたくらいでは何も起きそうにない厚みだった。ルシアが剣の先で軽く叩き、乾いた音を確かめる。
「普通に割るのは面倒じゃの」
「じゃあ殴る」
グランは本当に殴った。
最初の一撃では割れない。だが、拳を引いてもう一度、同じ場所へ叩き込む。甲羅が鳴る。三発目でようやくひびが入る。四発目で亀がひっくり返り、五発目で甲羅の一部が砕けた。
中から生臭い匂いが吹き上がる。
グランは息を吐いた。
「割れた」
ルシアが少し引いた目をして言う。
「おぬし、何でも殴ればよいと思っておるじゃろう」
「だいたいどうにかなる」
それは否定しづらい。
その後も、以前に見たことのある猪型の魔獣や、群れになった狼の魔獣とも何度も遭遇した。だが数がとにかく多い。前なら数日に一度でも多い方だったのに、今は一日で二度三度と気配がある。
ルシアはそのたびに違和感を強めていった。
「多すぎる」
野営の火を見ながら、ぽつりとこぼす。
「何がだ」
「全部じゃ。数も、場所も、生態も」
昼に倒した狼の魔獣の牙を木の枝で弄びながら、ルシアは続ける。
「本来なら、あの牛とあの亀があれほど近い範囲で出るのはおかしい」
「猪の群れも、本来ならもっと山の方へ偏る」
「縄張りが崩れておる」
グランは焚き火の前で肉を裏返した。
「いいじゃねえか。どんどん出てくるし」
「おぬしにとってはそうじゃろうな」
「楽しいぞ」
「知っておる」
ルシアはため息をつく。だが、そこで深く追うつもりはまだないらしい。今の二人には、まずアルトリアへ着くことの方が先だった。
旅はそのまま続いた。
宿へ泊まる日もあれば、大河の近くで野営する日もある。街道沿いの村で米を補充し、肉は狩りでどうにかなる。ルシアは酒を飲み、グランは肉を食う。その繰り返しの中で、道は少しずつ東へ伸びていった。
ひと月近くが過ぎた頃、遠くに大きな壁が見えた。
最初はただの灰色の線にしか見えなかった。だが近づくにつれ、それが巨大な都市の外壁だと分かる。塔が立ち、門があり、何本もの道がその一点へ吸い込まれている。大河に沿って広がるその都市は、今まで見てきたどの街よりも大きかった。
「……でけえな」
グランが素直に言う。
ルシアもわずかに目を細める。
「貿易都市アルトリア」
門の前は大混雑だった。
荷車。馬。徒歩の商人。種族も服装もばらばらで、叫ぶ声の種類まで違う。人間だけではない。獣人、ドワーフ、鱗のある旅人、妙に目立つ服を着たやつまで混ざっている。門番たちは槍ではなく、見慣れない細長い筒のような武器を持っていた。
それが何か分からず、グランは眉を寄せる。
「なんだあれ」
ルシアも少しだけ足を止める。
「……見たことのない武器じゃな」
よく見ると、門の上にも同じものが並んでいる。金属と木で出来た長い筒。どう使うのかは分からないが、弓や槍とは違う。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
人の多さだけではない。匂いが違う。香辛料、焼いたパン、革、油、金属、酒、魚。全部が混ざって流れてくる。通りは広く、石畳はきれいに整えられている。看板も大きい。屋台の数も多い。人の声も多い。物の数も多い。
グランは通りの先まで視線を走らせ、それから笑った。
「面白い都市だな」
ルシアも小さく頷く。
「変わった都市じゃな」
だが見物に回る前に、やることは決まっている。
まずは大会のエントリー。
それから賭け。
二人は大通りを抜け、案内板と人の流れを頼りに武道大会の受付へ向かった。さすがアルトリアだけあって規模が大きい。会場も広く、受付にはすでに長い列が出来ていた。賭けの窓口も別にあり、帳面を持った商人ふうの男たちが忙しそうに走っている。
登録を済ませるまでに少し時間はかかったが、問題はなかった。開催までは数日あるらしい。賭けも当然のように受け付けている。
ルシアは迷いなく賭け窓口へ向かった。
「今回もか」
「当然じゃ」
「負けねえけどな」
「知っておる」
そう言って本当に賭けてしまうのだから、ルシアは金の使い方に迷いがない。
それが終わると、二人は高級宿を取った。
アルトリアの宿はやはり質が違う。入口の飾りからして立派で、床も廊下も磨かれている。部屋へ通されると、グランはまず広さに目をやった。大きな寝台、厚い敷物、重そうな机、奥には扉がもうひとつある。
今回は前の宿の時みたいにベッドへ飛び乗ったりはしなかった。そういう騒ぎは前にやったばかりだ。代わりに、奥の扉が気になった。
「なんだこれ」
開ける。
そして、止まった。
中には半透明の塊がいた。
水でもない。獣でもない。ぷるりとした表面がゆっくり揺れ、桶のような石のくぼみの中で脈打っている。見たことのない生き物だった。
「……なんだこれ」
さっきより少し低い声で、もう一度言う。
後ろから覗き込んだルシアも足を止めた。
「……なんじゃこれは」
グランは扉を半分閉め、それから廊下へ顔を出した。
「おい」
すぐに宿の者がやってくる。黒い服をきっちり着た男で、動きに無駄がない。
「何かございましたか」
グランは親指で奥を示した。
「あれはなんだ」
宿の者は少しだけ誇らしげな顔をした。
「アルトリア式でございます」
「スライムを使った処理設備でして」
「処理?」
ルシアが眉を寄せる。
「排泄物を食べさせて処理します」
「水も節約でき、掃除もほとんど不要です」
そこでわずかに声を落とし、言いにくそうに付け足した。
「その、お体も綺麗になりますので」
グランはしばらく無言でスライムを見た。
「……噛まねぇのか?」
宿の者は少しだけ笑みを深くする。
「基本的には問題ございません」
「基本的にはってなんだよ」
「稀に相性がございます」
それはちょっと気になる言い方だった。
グランはさらに一歩下がり、ふと思い出したように言う。
「風呂はどうなってる」
宿の者が一瞬だけきょとんとする。
グランは真顔で続けた。
「まさか、風呂もスライムか?」
一拍。
「極一部にはそのような施設もございますが」
「当宿はごく普通の風呂でございます」
「ご安心ください」
グランは顔をしかめた。
「……あんのか、スライム風呂」
宿の者は丁寧に頭を下げ、必要なら呼んでほしいと言い残して去っていく。
しばらくして、グランはひとりで再び奥へ入った。
数分後、扉が開く。
出てきた顔は微妙だった。
「……どうじゃ」
ルシアが腕を組んだまま聞く。
グランは少しだけ考えてから答える。
「……悪くねえな」
ルシアが少しだけ目を見開く。
「そうなのか」
「なんか変だけど、悪くはねえ」
ルシアは中を見たが、それ以上近づかなかった。
「わらわは使わぬ」
「なんでだ」
「わらわには必要はない」
言い切る声音に迷いはない。高位エルフらしいといえばそうなのだろう。
グランは少しだけ口元を上げた。
「オレ、目も鼻も耳もけっこういいんだぞ」
ルシアは無言でグランを見る。
一拍。
「今度一日中ずっとくっついててやる」
そう言うと、ルシアの動きがほんのわずかに止まった。
「……なんの問題もないがそれはやめよ」
その返しに、グランは小さく笑った。
宿で荷を置いたあとは、街の探索だった。
アルトリアの通りは本当に面白い。
武器屋の軒先には、見たことのない道具がいくつも並んでいる。門番が持っていた細長い筒もそのひとつだった。魔道銃と書かれた札が下がっている。近くには魔道具のムチまであった。金属の芯に宝石が埋め込まれ、持ち手の細工も派手だ。
「あのムチなんかお前に似合うな」
グランが素直に言うと、ルシアが即座に返した。
「ど阿呆」
だが完全に否定もしない顔だった。
別の店には、見慣れない服が並んでいた。短い上着、妙なひだの多い裙、体の線が出る布。どれもこの世界の普通の服とは少し違う。前に別の街で見た時と同じ、妙な既視感が胸の奥をざわつかせる。
菓子屋も変わっていた。見たことのない甘いものが並び、パン屋では柔らかそうな丸いパンに何かを詰めたものまで売っている。よく分からない店もあった。髪を整える場所と、肌を揉んだり香を塗ったりする場所が一緒になっていて、中からは妙にゆったりした音楽まで聞こえる。
ルシアが足を止めたのは、下着屋の前だった。
「……ほう」
少しだけ目を細める。
「入るのか」
「今日は入らぬ」
「気になってんだろ」
「黙れ」
それだけでも十分面白かった。
最後に、二人は生の魚を食わせる店へ入った。
大河沿いの都市だからか、魚の種類まで多い。切ったばかりの身が冷たいまま皿に並び、薬味と一緒に出てくる。最初は少し警戒した。だが、口へ入れた瞬間、グランの目が開いた。
「うめえ!」
魚の脂が舌の上でほどける。火を通していないのに、嫌な生臭さがない。塩でも焼きでもないのに、妙に米が欲しくなる味だった。
ルシアも同じものを食べ、ゆっくりと頷く。
「ほう、なかなかの美味じゃな」
さらに米から醸した酒が出てきた。
白く濁ったものではなく、透明に近く、香りがやわらかい。グランは一口飲んで眉をひそめる。
「米は米で食った方が良くねえか?」
ルシアは魚を摘まみ、酒を口に含んでから言う。
「ふむ、魚に合うな」
「そうか?」
「そうじゃ」
珍しく、その酒でルシアは少しだけ酔ったらしい。
いつもより頬がほんのわずかに熱を持ち、まばたきが少し遅い。足取りも、店を出た頃にはやや怪しくなっていた。
「歩けるか」
グランが聞く。
「歩ける」
その返事の直後に、石畳で少しだけ足がもつれた。
グランはため息をつき、しゃがみ込む。
「歩けねぇだろ」
「やめよ……!」
言うが早いか、ルシアを背に担ぎ上げる。背中へ伝わる体温がいつもより少し熱い。ルシアは最初だけじたばたと暴れたが、本気で振り払うほどではない。酔っているからか、抵抗もすぐ弱くなる。
「降ろせ」
「歩けるならな」
「歩ける」
「嘘だろ」
やがてルシアの声は少しずつ小さくなり、宿へ着く前には完全に聞こえなくなった。
「……寝たか」
背中で感じる呼吸は静かで規則正しい。
宿へ戻り、部屋へ入り、グランはいつもより少しだけ慎重にルシアを寝台へ寝かせた。髪が枕へ広がる。眠っている顔は静かで、酒場で酒を飲んでいた時とも、魔獣を見ていた時とも違う。妙に無防備だ。
雨の日に花束や髪飾りを渡した時も、こんな顔をしていたような気がする。なんとなくこの部屋に似合っていた。
窓の外では、大河の近くの夜風が低く鳴っている。遠くでまだ人の声もする。アルトリアは夜でも完全には眠らない都市なのだろう。
グランはしばらく寝台のルシアを見下ろしてから、小さく息を吐いた。
「……面白い都市だな」
武道大会はまだ始まっていないが、街道の魔獣は妙に多い。見たことのない武器や店も多い。トイレにはスライムまでいた。
面白い。
面白いが、それだけでは終わらなさそうでもある。
だが今はまだ、それでよかった。
グランは椅子へ腰を下ろし、窓の外の灯りをぼんやり眺める。
明日になればまた何かある。
そのくらいの方が、ちょうどいい。




