第八話 まあまあとか言ってたじゃねぇか
朝の空気は澄んでいたが、街はもう静かではなかった。
宿の窓を開けた瞬間、遠くから重なって届くざわめきが耳に入る。石畳を打つ足音。荷車の軋む音。どこかで上がる野太い笑い声。屋台で鉄板を叩く金属音。武道大会の日の街は、朝から熱を持っていた。
グランは窓辺に立ったまま、少しだけ目を細めた。
風に乗って、焼いた肉の匂いと酒の匂いが流れてくる。その奥に、汗と土の匂いまで混じっていた。今日は人が多い。しかも戦うやつが多い。気配が濃い。街全体が妙に騒がしく、妙に楽しそうだった。
後ろでは、ルシアが鏡の前で髪を整えている。白金の長い髪を手早く梳き、いつものようにまとめていく。動きに無駄がない。朝の光を受けた横顔はやたらと整っていて、見慣れているはずなのに、グランはなんとなく口を開いた。
「今日も美しいな」
ルシアの手が一瞬だけ止まった。
「朝から何を言うておる」
「見たままだ」
グランがそう言うと、ルシアは鏡越しにちらりとこちらを見る。呆れたような顔をしているが、完全に嫌そうではない。
「おぬしは本当に、起きてから寝るまで同じことばかり言うのう」
「事実だからだろ」
「そういう問題ではない」
そう言いながらも、髪をまとめる手つきはさっきより少しだけ丁寧になっている。グランはそれを見て、口の端を上げた。
机の上には朝食が並んでいた。大きな器に入った米、肉、汁物。ルシアの前には酒もある。雨の日の酒場で甘いものを買ってこいと言われた翌日だが、今日の朝は普通だった。ルシアはいつものように飲むし、グランはいつものように食う。
米を口へ運びながら、グランは言った。
「今日は面白そうなのいるか?」
ルシアは酒をひと口含んでから答える。
「この大会ではまあまあじゃな」
「それ前にも聞いたぞ」
「今回もじゃ」
「ならいい」
グランにとっては、それで十分だった。
大会に出る。強そうなのを探す。殴る。勝つ。終わったら飯を食う。考えることは少ない方がいい。
食事を終えると、二人はそのまま宿を出た。通りにはすでに人が溢れている。武道大会の会場へ向かうやつ、屋台を開くやつ、賭け札を手に朝から怒鳴っているやつ。大きな地方都市だけあって、前の町とは賑わいがまるで違った。
会場へ近づくにつれ、その熱はさらに濃くなる。
高い石壁で囲まれた闘技場。外の広場にまで人が溢れ、入口付近ではすでに賭け屋が卓を並べていた。木札の擦れる音、金貨の鳴る音、怒鳴り声と笑い声。全部が混ざり合って、朝だというのに空気が重い。
グランはその中を見渡した。
剣を担いだ大男。杖を持った細身の女。肩を回している拳闘士。長い布で指を巻いているやつもいる。みんな顔つきが違う。緊張しているやつもいれば、余裕ぶっているやつもいる。
「いいな」
自然にそう言葉が漏れた。
ルシアが横で言う。
「浮かれるな」
「浮かれるだろ。面白そうなのもいる」
「全部殴れそうか?」
「見りゃ分かる」
「では行くぞ」
会場の中はさらに騒がしかった。
客席はもうかなり埋まっている。石の段に人がびっしりと座り、身を乗り出すようにして下の闘技場を見下ろしていた。焼いた串の匂い、酒の匂い、土埃。日が高くなる前だというのに、もう空気が煮えている。
ルシアは観客席の一角に陣取り、当然のように酒を頼んだ。そこが彼女の定位置らしい。グランは控えの方へ向かいながら、振り返って言う。
「ちゃんと見てろよ」
「見ておるわ」
「賭けるなら負けねえやつにしろ」
「誰に言うておる」
ルシアは笑いもしないで杯を持ち上げた。
控えにはすでに出場者が集まっていた。張り詰めているやつ、落ち着き払っているやつ、やたらと気合だけは入っているやつ。グランがその中へ入ると、何人かが露骨に目を向けてきた。首輪付きの獣人。珍しいのだろう。だが、首輪の有無なんて今さらどうでもいい。
係が組み合わせを読み上げていく。
グランの名前が呼ばれたのは、わりと早かった。
土の上に出る。
歓声が上がる。客席のざわめきが一段深くなる。反対側に立っていたのは、長い杖を持った細身の男だった。魔法使いだ。顔色があまりよくない。だが目は怯えていない。むしろ、最初から距離を取ってやる気満々に見えた。
開始の合図。
男は一歩も前に出なかった。逆に、杖を強く握り込み、低い声で詠唱を吐き出す。次の瞬間、青白い光が走った。
電撃。
空気を裂くような音と共に、閃光が真っ直ぐグランへ落ちる。
観客席から悲鳴に似たざわめきが上がった。
「おい、まともに食らったぞ」
「終わったか!?」
土煙と焦げた匂いが広がる。
けれど、その煙の中から、グランは普通に歩いて出た。髪の先が少しだけ逆立ち、肩から胸にかけて焦げた匂いがする。だが、それだけだ。
「なんだこれ」
本気で不思議そうに言う。
魔法使いの顔が引きつった。
もう一度杖を構えようとしたが、指が震えている。詠唱の最初の一音がうまく出ない。さっきまであった余裕が一気に消えていた。
グランが一歩前に出る。
それだけで、男がびくりと肩を震わせた。
「……降参だ!」
叫ぶようにそう言った。
一瞬、場内が変な静けさに包まれる。次いで、客席のあちこちから怒号と笑い声が混ざった音が上がった。
「おい、早すぎるだろ!」
「何もしてねえじゃねえか!」
係が慌てて勝者を告げる。
グランは少しだけ眉をひそめて、控えへ戻った。
観客席からルシアの笑いを含んだ声が飛ぶ。
「どうした」
「なんだあれ。殴る前に終わったぞ」
ルシアは杯を傾けながら言う。
「電撃をまともに受けて平気な顔をするやつがおかしいのじゃ」
「そうか?」
「そうじゃ」
グランは納得していない顔をしたが、すぐに次の相手へ興味が移った。
二戦目は、斧使いだった。
大きい。肩も腕も太い。両手で持つ大斧を軽々と構え、最初から殺す気の顔をしている。客席の空気も少し変わった。さっきの魔法使いとは違う。この男が強いのだと、周囲が知っている空気だ。
開始前に、斧使いはにやりと笑った。
「獣人だろうが何だろうが、頭を割りゃ終わりだ」
グランはその斧を見て、少しだけ口元を上げる。
「面白そうだな」
開始の合図。
斧使いは迷わず突っ込んできた。踏み込みが重い。土が鳴る。両手で振り上げた斧は、そのまま真上からグランの頭を狙って落ちてくる。
客席がざわついた。
「殺す気か!?」
「死んじまうぞ!」
だがグランは避けない。
その場に立ったまま、大きく口を開いた。
「は?」
という顔をしたのは相手の方だ。
次の瞬間、グランは振り下ろされる斧の刃へ、そのまま喰らいついた。
金属を噛む嫌な音が鳴る。
場内の空気が止まる。
そして、ばきり、と鈍い音が続いた。
斧の刃が砕けた。
噛み砕かれた金属片が土の上へ散り、斧使いの顔から色が消える。
「……マズい」
それは誰に向けた言葉でもなく、グラン自身の本音だった。
次の瞬間には、斧使いは後ろへ飛び退いていた。さらに下がる。もっと下がる。そのまま場外の外まで一気に逃げる。
観客席から盛大なブーイングが飛んだ。
「おい逃げんな!」
「戻れ!」
「金返せ!」
グランは口から金属片をぺっと吐き出し、不満そうな顔で係を見る。
「終わりか?」
係は慌てて場外を確認し、勝者を告げた。
客席の上では、ルシアがついに声を出して笑っていた。いつものように小さくではなく、はっきり分かるくらい肩を揺らして笑っている。
控えへ戻ったグランが、少しむっとした顔で見上げる。
「なんで笑ってんだ」
「斧を噛み砕くやつは見たことがないからのう」
「頭に当たる前に止めただけだろ」
「そういう問題ではない」
次の試合まで少しだけ間が空いた。
客席のざわめきはさっきまでよりさらに大きい。賭け札を持った連中が何か叫びながら走り回っているのも見える。グランには細かいことはどうでもいい。ただ、周囲の目がさっきよりずっと面白くなっているのは分かった。
三戦目の相手は拳闘士だった。
体格はグランほどではないが、無駄な肉がなく、両拳には分厚い布が何重にも巻かれている。肩の動かし方を見るだけで、殴り慣れているのが分かった。入場の時の歓声も大きい。人気があるらしい。
開始前、拳闘士は真正面からグランを見た。
「今度は逃げねえ」
「逃げたのはオレじゃねえぞ」
それはそうだ。
開始の合図と同時に、拳闘士は低く踏み込んできた。一直線だが、いい踏み込みだ。腰から肩、肩から腕へ力がまっすぐ乗っている。右の拳がグランの顔を狙って伸びた。
グランは受けた。
避けない。払わない。ただ、その場で受ける。
鈍い音がして、拳闘士の動きが止まった。
「ぐっ……!」
拳闘士がその場で膝をつく。握り込んだ右拳を左手で押さえ、顔を歪めている。巻いていた布の隙間から、赤くなった皮膚と不自然な膨らみが見えた。
医者役の男が飛び込んできて、手首を取る。
少し見ただけで首を振った。
「止めだ!」
拳闘士は悔しそうに歯を食いしばったが、立てなかった。
係が勝者を告げる。
グランは本気で不思議そうだった。
「何もしてねぇぞ」
客席から笑いが起きる。
「してねえのが怖ぇんだよ!」
「拳が先に折れるとかなんだよ!」
戻ってくると、ルシアは酒を飲みながらまだ少し笑っていた。
「おぬし、今日は一人もまともに殴れておらぬな」
「そうなんだよ」
「珍しい」
「つまんねえ」
四戦目、準決勝の相手は、いかにも女にモテそうな優男だった。
細身の体に無駄のない服。長い脚。手に持ったレイピアも上等そうだ。客席から黄色い声まで飛んでいる。顔もいいのだろう。グランにはよく分からないが、ルシアより美しいわけではないのでどうでもいい。
ただ、そのレイピアの扱いだけは少し面白そうだった。
開始の合図と同時に、優男は距離を詰めるのではなく滑るように動いた。細い刃が閃く。胸、肩、脇腹、太腿。全身を小刻みに突いてくる。速い。しかも、無駄がない。
キィン、キィン、と金属に似た音が続く。
だが、それで終わりだ。
グランの体に当たるたび、レイピアの先が微妙に弾かれる。闘気を通した筋肉へまともに通らない。何度も何度も突き込むうちに、細い刃が少しずつ曲がり始めた。
客席がざわめく。
「曲がってるぞ」
「おい、止めろ」
「嘘だろ」
優男の額から汗が落ちる。息も少しずつ上がっていた。だが手は止まらない。止めた瞬間に終わると分かっているのだろう。
グランはしばらく突かせたあと、首を傾げた。
「続けるか?」
優男の手が止まる。
曲がったレイピアを見下ろし、苦笑いした。
「……降参だ」
それを聞いた瞬間、客席の上でルシアが堪えきれずに吹き出した。
その笑い方があまりにも楽しそうで、周囲の観客までつられて笑っている。準決勝だというのに、妙な空気だった。
控えへ戻ると、グランは不満そうな顔で見上げる。
「なんでそんなに笑うんだよ」
ルシアは笑いを収めきれず、目尻を指で拭った。
「だってのう、全身を突かれておるのに、相手の剣の方が先に悲鳴を上げるとは思わぬじゃろう」
「オレは何もしてねえぞ」
「それが一番おかしい」
決勝戦の前には、会場全体の空気がもう別物になっていた。
客席のざわめきは熱を持ち、賭け屋の声もやたらと張っている。控えにいる他の参加者たちは、もう誰もグランを面白半分には見ていない。妙なものを見る目と、本気で嫌がる目が混ざっていた。
グランは拳を開いて閉じ、肩を回す。
ここまで来て、ようやく少しだけ期待が出てきた。決勝だ。ここまで残ったやつなら、さすがに殴れるかもしれない。
「よし」
小さく呟く。
「これで殴れる」
その時、係が中央へ出てきた。
ざわめきが少しだけ静まる。
決勝の相手の名を呼ぶのだろうと思っていた。だが、係の顔は妙に引きつっている。
「決勝戦……」
一拍。
「対戦相手、棄権」
場内が一瞬だけ静まる。
次の瞬間、客席から一斉にざわめきと笑い声と罵声が上がった。
「はあ!?」
「逃げたぞ!」
「決勝でかよ!」
グランは係を見たまま固まった。
少し遅れて、勝者が告げられる。
「よって、優勝者、グラン!」
歓声は上がる。だが、グランは納得していなかった。
「納得いかねえ!」
客席の視線が全部集まる。
グランは場内に響く声で怒鳴った。
「オレまだ一人も殴って無いぞ!」
一瞬の静けさのあと、場内が爆笑した。
客席が揺れる。酒を吹くやつ、腹を抱えるやつ、椅子を叩くやつまでいる。ルシアも完全に笑っていた。さっきまでのような上品な笑いではない。杯を持ったまま肩を震わせ、声を出して笑っている。
それが余計にグランの不満を煽った。
優勝賞金を受け取っても、機嫌は戻らない。首にかけられた勝者の布まで鬱陶しく思えた。
会場の外へ出ると、ルシアはそのまま賭けの回収へ向かった。
賭け屋の男はすでに上機嫌だった。帳面をめくりながら、重そうな袋をいくつも引っ張り出してくる。
「やっぱり昨日から張ってたやつが一番得したな」
男が笑う。
「最初が一番うまかった。だいたい二十倍だ」
そこで袋を持ち上げて、続ける。
「途中から一気に落ちてな。決勝の頃にはニ倍切ってた」
ルシアは平然と受け取る。
「当然じゃ」
「お前さん、本当に見る目あるな」
「元から分かっておった」
賭け屋の男が肩をすくめる。
「だが決勝が棄権とはな。あれは予想外だったぜ」
「わらわは大変満足じゃ」
その横で、グランは腕を組んだまま不機嫌だった。
「全然面白くねえ」
ルシアはちらりとそちらを見るが、今はまだ笑いが残っている。
「優勝は優勝じゃ」
「殴ってねえのにか?」
「勝ちは勝ちじゃ」
「納得いかねえ」
そのまま二人は会場近くの屋台通りへ出た。
ルシアはそこで、まるで機嫌取りでもするみたいに大量の肉を買った。焼いた串、香草をまぶした肉、厚く切った燻製肉まである。全部まとめてグランの前へ置く。
「ほれ、食え」
グランは串を受け取ったが、不満げな顔はそのままだ。
「全然面白くねえ!」
肉を噛みながら言うせいで、少しだけ間抜けだ。だが本人は本気だった。
ルシアは笑いながら杯を傾ける。
「分かった、分かった」
「分かってねえ」
「では明日は魔獣狩りじゃ」
その一言で、グランの動きが少しだけ止まった。
「……ほんとか?」
「本当じゃ。面白そうなのを探してやる」
「殴れるやつか?」
「殴れるやつじゃ」
「逃げねえやつか?」
「たぶんの」
グランは少しだけ考え、串の肉をもう一口食った。
「ならいい」
簡単だった。
ルシアはその様子を見て、小さく笑う。
「おぬしは本当に単純じゃのう」
「強えやつとやれりゃいいんだよ」
「よく分かっておる」
雨の日のゆるい時間も悪くなかったが、やはりグランにはこっちの方が効くらしい。肉を食い、次の狩りの話を聞いた途端、機嫌が戻る。分かりやすいにもほどがある。
屋台通りの喧騒の向こうで、夕方の光が石壁を赤く染めていた。酒と肉と人いきれの匂いが混ざる中で、グランは最後の串を噛みちぎる。
「まあまあとか言ってたじゃねぇか」
改めて言う。
ルシアはすぐに返した。
「相手は間違いなく、まあまあじゃったぞ」
「どこがだ」
「よしよし」
子供でもあやすみたいな口調で言われて、グランは顔をしかめる。
「適当だな、お前」
「そうでもない」
ルシアは杯の底に残った酒を飲み干し、空になった串を持つグランの手元を見る。
「ほれ、もう一本食うか?」
「食う」
「そうじゃろうと思った」
そうしてさらに肉を持たされる頃には、さっきまでの不機嫌もだいぶ薄れていた。
明日は魔獣狩りだ。
なら今日はこれでいい。
グランは肉を噛みながら、少しだけ口元を上げた。
結局、面白いのはこれからだった。
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