第七話 雨の日は花でも買って来い
地方武道会を終えた翌朝、町はまだ前日の熱を少しだけ残していた。
会場の周囲には昨日の賭け札が風に転がり、酒場の前には潰れた木杯がいくつか転がっている。勝って騒いだやつ、負けて騒いだやつ、そのどちらの匂いも朝の冷えた空気に薄く残っていた。
そんな町の一角、昨日も使った酒場の片隅で、グランは皿の上の肉をかじっていた。朝から出された塩気の強い肉はうまいが、米がないのが気に入らない。だから機嫌はそれほど良くない。
向かいの席ではルシアが酒を飲んでいる。
朝だろうが関係ないらしい。細い指で杯を持ち、何事もない顔で喉へ流し込む。その横顔には昨日の賭け金を回収した余裕がそのまま残っていた。
「で、次は?」
肉を噛みちぎりながら、グランが聞く。
ルシアは杯を卓に置き、わずかに目を細めた。
「そう急くでない」
「急くに決まってるだろ。弱かったんだからよ」
「地方大会じゃ。あの程度のもんもある」
「つまんねえ」
「だが金にはなった」
それはそうだった。
優勝賞金もある。ルシアが賭けで増やした分もある。金の音は嫌いじゃない。食い物と宿が良くなるからだ。
酒場の奥では、昨日の大会の話をまだ続けている連中がいた。
「次は東の方が熱いらしいぞ」
「少し離れた大きめの地方都市だ」
「今年は集まりがいいって話だな」
その言葉に、ルシアの耳がぴくりと動く。
グランも肉を噛むのを止めて、そちらへ目だけ向けた。
「東?」
「うむ」
ルシアは何のためらいもなく席を立った。
グランもすぐに立つ。二人でその卓へ向かうと、酒臭い男たちが少しだけ姿勢を正した。昨日の勝者と、その主人の顔は覚えているらしい。
「次の大会の話じゃな」
ルシアが言う。
年配の男が頷いた。
「ああ。ここから数日だ。街道を東へ行った先の都市だよ。でかい町でな、武道会もこの辺じゃかなりマシだ」
「賞金は?」
「悪くねえ。去年より少し上がったって話だ」
別の男が口を挟む。
「賭けも大きいぞ。人も集まる。地方じゃ上の方だな」
グランは腕を組んだ。
「面白そうなのいるか?」
卓の男たちが顔を見合わせる。
「そりゃ行ってみねえと分からんが、この町のよりは期待できる」
「東や南から流れてくるやつもいる」
「金目当ての荒くれも多い」
それを聞いて、グランは鼻を鳴らした。
「いいな」
ルシアも同意するように頷く。
「ではそこへ行く」
それだけで決まった。
酒場を出る前に、ルシアは主人へ金を払い、そのついでのようにさらに細かい道筋を聞き出す。真っ直ぐ行けば三日から四日。天気次第。途中の茶屋は二つ。街道は広く、荷車も多い。情報はそれで十分だった。
昼前にはもう町を出ていた。
外へ出ると、昨日までの喧騒が少しずつ遠くなっていく。街道の両脇には草地と低い林が続き、風が吹くたびに乾いた葉の音がする。天気は悪くない。日差しも強すぎず、歩くにはちょうどいい。
「で、そこへ行ってまた出るのか」
グランが言う。
「そうじゃ」
「勝つ」
「金も増える」
「増える」
「いいな」
単純だった。
ルシアは一度だけ笑ってから、いつもの平坦な顔へ戻る。
「その間に魔獣も狩る。訓練はするが、実戦優先じゃ」
「分かってる」
「分かっておる顔には見えぬのう」
「うるせえ」
街道を歩きながら、二人は途中の茶屋でも補足の話を拾った。
一つ目の茶屋では、荷車を引く商人が言った。
「その都市の武道会か。ああ、今年は人が多い。でかい商会も来るそうだ」
「商会?」
グランが眉を寄せると、商人は当然みたいに頷いた。
「賭けも賞金も動くからな。金の匂いがするところには商人も寄る」
二つ目の茶屋では、護衛風の男が笑った。
「前の町で優勝した獣人がいるって噂、もう流れてるぞ」
「早えな」
グランが言うと、男は木杯を傾けた。
「街道を舐めるなよ。話なんて人より速く走る」
ルシアは茶屋の奥に掛かっていた簡単な地図を見て、都市までの距離を改めて測っていた。賞金の話、集まる人間の話、開催日、会場の場所。そういうものを黙々と頭へ入れている。
グランはそういう細かいことはどうでもいい。
強いやつがいるなら行く。それだけだ。
街道を進んでいく途中、風向きが変わった。
獣臭い。
グランの鼻が先に反応する。足を止め、顔を少しだけ横へ向けた。
「いるな」
ルシアも気づいていたらしく、ゆっくりと頷く。
「肉の確保にはちょうどよい」
「行くか」
二人は街道を外れて、浅い林の方へ入った。
踏み荒らされた草、抉れた土、そして生臭い匂い。あまり大きな群れではない。だが数はいる。食うには十分だ。
最初に飛び出してきたのは、黒い毛並みの四足の魔獣だった。牙が長く、背中の毛が逆立っている。イノシシに似ているが、それよりずっと凶暴そうな目をしていた。
グランは笑う。
「飯だな」
正面から行く。
突進を受ける。踏ん張る。肩へ鈍い衝撃が入るが、そのまま頭へ拳を叩き込む。骨の砕ける音が腕へ伝わった。魔獣の巨体がよろめく。だがまだ終わらない。前脚を掴み、持ち上げ、そのまま近くの木へ叩きつける。幹が大きく揺れた。
横から別の影が飛ぶ。
グランが振り向くより早く、ルシアの足が動いた。
細い脚がまっすぐ伸び、魔獣の喉へ入る。巨体が浮き、横へ転がった。
グランがすぐに顔をしかめた。
「……オレの獲物だぞ」
ルシアは涼しい顔で答える。
「死んでおらぬ。おぬしが仕留めよ」
「ならいい」
グランはすぐに機嫌を直し、転がった魔獣の頭を踏みつけて、そのまま拳を落とした。
そのあとも二体、三体と出てきたが、どれも大したことはなかった。殴って沈め、投げ飛ばし、最後は喉を潰して終わる。ルシアは基本見ているだけで、邪魔になる時だけ一度だけ蹴りで転がした。
使える肉を切り出し、余計なものは捨てる。
その夜の野営はかなり豪華になった。
焚き火の上で肉を焼く。脂が落ちるたびに火が跳ね、香ばしい匂いが辺りへ広がる。ルシアは酒を飲み、グランは肉を食う。いつもの形だ。
「次の都市、でかいんだろ」
肉を噛みながらグランが言う。
「前の町よりはずっと大きい」
「いい宿あるか」
「金ならある」
ルシアが袋を軽く揺らした。
金属が触れ合う音に、グランの口元が少しだけ上がる。
「でかいベッドとかあるかもな」
「壊すなよ」
「まだ何もしてねえだろ」
「おぬしはする前から分かる」
「偏見だな」
「経験じゃ」
翌日も、その次の日も、街道はゆるやかに続いた。
途中で小川を越え、丘を回り、野営を繰り返す。茶屋に寄れば追加の話が聞ける。商人は都市の規模を語り、護衛は集まる武闘派の噂を流し、旅の芸人まで武道会の客で町が賑わうと教えてくれた。
数日後、ようやく目的の都市が見えてきた。
遠目でも分かる。壁が高い。塔がある。出入りする荷車が多い。門の前に並ぶ人の数も、前の町よりずっと多い。
門をくぐった瞬間、町の空気が押し寄せてきた。
石畳の湿った匂い、荷馬の匂い、香辛料、革、酒、焼いたパンの匂いまで混ざっている。通りが広く、店の数も多い。武道会の旗もあちこちに出ていた。
「でけえな」
グランが素直に言う。
「都市じゃからな」
ルシアは当然みたいに答え、そのまま歩き出す。
まず向かったのは、大きな商会だった。
石造りの立派な建物で、入口の上には大きな紋章が掲げられている。出入りしている人間の服も、他の店より明らかに上等だった。
「飯じゃねえのか」
グランが言うと、ルシアは振り返りもせず答えた。
「先にこれじゃ」
中へ入ると、空気まで違った。磨かれた床。落ち着いた香。声を抑えて話す商人たち。机の上には帳簿と札。金貨そのものではなく、薄い紙を丁寧にやり取りしている。
「何だ、あれ?」
グランは眉を寄せる。
「なんで紙に変えるんだ」
ルシアは袋の一つを机に置きながら当然みたいに言う。
「手形じゃ」
「持ち運びが楽じゃ」
「紙だぞ」
「紙ではあるな」
「燃えたら終わりだろ」
「燃やさぬ」
「金の方がいいだろ」
ルシアはちらりとグランを見る。
「おぬしはそう思っておれ」
結局、ルシアは現金の一部だけを手形に換えた。全部ではない。滞在費と食費、それから賭けに回す分はちゃんと残しているらしい。その辺はきっちりしていた。
商会を出たあとも、グランは不満そうだった。
「やっぱ金の方がよくねえか」
「おぬしには分かりやすい方が良いのじゃろ」
「そうだよ」
「だが便利なのはあっちじゃ」
そう言われると、少し黙るしかない。
次に向かったのは武道会の受付だった。
建物の前にはすでに列ができている。剣士、槍使い、拳闘士、獣人の姿も少しだけある。前の町より確かに面白そうだ。
「いいな」
グランが言う。
「前よりはましじゃ」
ルシアも認める。
登録はあっさり済んだ。ルシアが用紙を書かせ、グランが横で腕を組んで立っているだけだ。受付の女は首輪付きの獣人を見て少しだけ目を留めたが、それ以上は何も言わなかった。
開催は数日後。
それが分かったところで、ルシアは宿へ向かった。
そして、そこでグランは本気で笑った。
「なんだここ」
前の宿よりずっと立派だ。入口からして違う。床は磨かれ、柱には細工が入り、廊下の灯りまで妙に柔らかい。部屋へ入って扉が閉まった瞬間、グランはもう我慢しなかった。
まず目についたのはベッドだった。
でかい。厚い。沈みそうなくらい柔らかそうな寝具。
荷を放り、助走もつけずに飛び乗る。
ぼふ、と音がした。
「おお!」
もう一度跳ねる。今度はさらに沈む。柔らかい。戻る。沈む。面白い。
「すげえなこれ!」
ルシアが荷を下ろしながら言う。
「壊すなよ」
「壊れねえだろ」
「おぬしは壊す」
「まだ何もしてねえって」
ベッドから転がり降りた次は照明だった。壁に埋め込まれた魔導灯。つまみをひねると明るくなり、戻すと暗くなる。
「おお」
ひねる。明るい。戻す。暗い。もう一度ひねる。明るい。
「すげえなこれ」
「知っておる」
ルシアは興味なさそうに言う。
だがグランは面白くなった。速くひねる。明るい。暗い。明るい。暗い。だんだん速くなる。
「見ろこれ」
「やめよ」
「いや、もっと速くすると――」
そこで、ぱちん、と乾いた音がした。
一瞬だけ強く光り、そのまま灯りが消える。
部屋が半分ほど薄暗くなった。
グランはつまみを何度かひねる。反応しない。
「……あれ?」
後ろから足音。
「グラン」
低い声。
振り返ると、ルシアが笑っていなかった。
「壊したな」
「いや、ちょっといじっただけで――」
「壊したな」
間を詰められる。
グランは一応言い訳を試みる。
「そんな簡単に壊れる方が悪いだろ」
次の瞬間、頭に拳が落ちた。
ごつん、と鈍い音。
「痛っ!」
「当たり前じゃ」
ルシアが腕を組む。
「これは高い宿じゃぞ」
「知らねえよ」
「知れ」
ため息をひとつ吐き、それから壊れた灯りを睨む。
「……修理代を取られるかもしれぬ」
「金あるだろ」
「あるが無駄に使うな」
「……すまん」
珍しく素直に謝ると、ルシアは少しだけ眉を動かした。
「もう触るな」
「分かった」
少し間があってから、グランがぼそっと言う。
「でもあれ面白かったぞ」
間髪入れず、もう一発落ちた。
「痛え!」
「反省しておらぬな」
翌朝、雨の音で目が覚めた。
屋根を打つ音。窓の外を流れる音。石畳へ落ちて跳ねる細かい音が、ずっと途切れずに続いている。
グランは寝台の上で目を開け、鼻を少しだけ動かした。
「雨だな」
向かいの寝台でルシアが目を開ける。
「見れば分かる」
「匂いするだろ」
「……ああ」
濡れた石と土と木の匂いが、宿の中まで入り込んでいる。嫌いではない。
朝食のあと、グランは当然のように言った。
「修行するか」
「休みじゃ」
ルシアは匙でスープをすくいながら、あっさり答える。
「は?」
「雨じゃからな」
「関係あるか?」
「ある」
「修行はできるだろ」
「億劫じゃ」
その正直すぎる理由に、グランは一瞬黙った。
「それで休むのかよ」
「休める時に休むのも大事じゃ」
「引きこもりみてえなこと言うな」
「うるさい」
結局、そのあと二人は近くの酒場へ行った。
雨のせいで客は多い。出立を諦めた行商人、荷を下ろして暇そうにしている護衛、朝から常連面で飲んでいる男たち。外が暗いせいで、昼前だというのに店内の灯りがやけに温かく見える。
ルシアは席に着くなり酒を頼んだ。
グランも少しだけ付き合うが、軽く飲む程度だ。肉のつまみがある方がよかった。ルシアは最初から上機嫌で、雨の音を聞きながら静かに飲んでいる。
何杯目かの酒が空になると、ルシアが杯を卓へ置いた。
「酒」
命令だった。
グランは立ち上がる。
「へいへい」
カウンターへ行くと、酒場の親父が目を細めた。
「追加か」
「一番強いのくれ」
親父の眉が少しだけ上がる。
「誰にだ」
グランは振り返り、奥の席を指差した。
「……あれ」
ルシアは卓で酒を飲んでいる。
給仕女がその先を見て、小さく眉を動かした。
「あのお連れのエルフさんですか?」
「そうだ」
少しだけ間があってから、グランは続けた。
「酒飲めば女は抱かれたくなるんだろ?」
空気が止まった。
給仕女の視線が一瞬で冷たくなる。
「は?」
それは親父ではなく、給仕女の声だった。
グランは少しだけ首を傾げる。
「違うのか?」
近くの常連が吹き出しかけ、別の男が咳払いをした。
「やめとけ」
「その知識は危ねえぞ」
「後で揉める」
口々に言われて、グランは眉を寄せる。
「揉める?」
行商人ふうの男が指を一本立てた。
「抱けても酔いが覚めりゃうるさい」
別の常連が頷く。
「翌朝になって大騒ぎするぞ」
奥の席からさらに声が飛ぶ。
「下手すりゃ慰謝料とか言い出す」
「最悪、そのまま結婚だな」
その言葉に、給仕女の視線がさらに冷たくなった。
グランは本気で分からない顔をする。
「じゃあ、どうすんだ?」
常連たちが顔を見合わせる。
「普通は花だな」
「指輪とかだろ」
「ちょっと親しいなら服や下着とかもあるぞ」
グランは顔をしかめた。
「食えないもん送って喜ぶのか?」
そのあまりに真っ直ぐな疑問に、給仕女の顔がわずかに緩んだ。さっきまでの冷たさが少しだけ薄れる。
「最初は花束ぐらいがいいですよ」
静かだが、今度は明らかに優しい声だった。
グランはそちらを見る。
「花か」
「ええ。重すぎなくて、でもちゃんと気持ちは伝わります」
給仕女の視線はグランには優しいままだが、横で笑っていた常連たちにはまだ冷たい。
「お前らは黙って飲んでてください」
「ひでえな」
「急にこっちだけ冷たいぞ」
「うるさいです」
グランは少しだけ考えた。
花。食えない。意味はよく分からない。だが、ルシアに渡せば何か変わるのかもしれない。
「じゃあそれでいい」
親父が勧めてきた強めの酒を瓶で受け取り、卓へ戻る。
ルシアは瓶を見る。
「遅いのう」
「ちょっと用ができた」
「何じゃ」
「すぐ戻る」
それだけ言って、グランは雨の中へ飛び出した。
石畳の上で雨が跳ねる。軒下に逃げ込んでいる連中の間を抜け、花屋を探す。
大きな通りの角に、色とりどりの花が並ぶ店があった。濡れた花びらが雨に光っている。
「どれだ」
店の女が目を丸くした。
「どれとは?」
「ルシアに似合いそうなの」
白金の髪。少し冷たい目。高くて偉そうな顔。そういうものを頭に浮かべながら言うと、女は少しだけ考え、白と青を中心にした花束を作り始めた。
「この辺りなら外さないわ」
「じゃあそれで」
次に目についたのはアクセサリー屋だった。
店先に並んだ髪飾りの中で、青い石がついた銀細工がなんとなく気になった。白金の髪に青は悪くない。そう思う。
「これも」
ついでのつもりで服屋も覗いた。
普通の服はよく分からない。だが奥の一角に妙な服が並んでいた。布の切り方も形も、どこか変だ。体に沿うように細く、妙に目に残る。
グランは一着をつまんだ。
深く入った切れ込み。首元から胸元へ流れる線。腰で締まり、そのまま下へ落ちる形。
「……なんだこれ」
見たことがある気がする。だが、どこで見たのか分からない。頭の奥が少しざわつく。
理由は分からない。
だが、ふと思う。
これ、ルシアに似合いそうだな。
なんでそう思うのかも分からない。ただ、そう思った。
しばらく見てから、グランは手を離した。
「……まあいいか」
買うものはもう決まっている。花と、飾り。それで十分だ。
酒場へ戻ると、服は少し濡れていた。雨はさっきより強い。店へ入った瞬間、給仕女が目を丸くした。
「本当に買ってきたんですね」
「言われたからな」
卓へ戻ると、ルシアが酒を飲みながらこちらを見る。花束と髪飾りを前へ出すと、一瞬だけ本当に意味が分からない顔をした。
「何じゃこれは」
「花と、なんか飾るやつ」
「見れば分かるわ」
「どうだ」
グランは胸を張るように言う。
「オレに惚れたか?」
酒場の空気が一気にこちらへ向いた。
常連も行商人も給仕女も、みんな見ている。ルシアは花束と髪飾りを交互に見て、そこでようやく意味を察したらしい。
少しだけ間があった。
それから、口元がわずかに緩む。
「……まあ、及第点じゃな」
その返事に、酒場のあちこちから妙な声が漏れた。
「おお」
「通ったぞ」
「及第点だってよ」
給仕女は腕を組み、満足そうに頷く。
「よかったですね」
グランは意味は半分くらいしか分かっていなかったが、とりあえず悪くない返事らしいことは分かった。
「じゃあ惚れたのか」
「そこまでは言うておらぬ」
「ちぇ」
ルシアは花束を受け取り、濡れた花びらを指先で軽く整える。その横顔が、少しだけ機嫌よさそうに見えた。
宿へ戻る頃には、二人ともかなり濡れていた。
部屋へ入るなりルシアが言う。
「風呂じゃ」
「そうだな」
湯浴み場へ入り、濡れた服を脱ぐ。湯気が立ち、冷えた肌が少しずつ緩む。グランがいつものように自分で洗おうとしたところで、ルシアが後ろから言った。
「貸せ」
「は?」
「今日はわらわがやる」
珍しいことだった。
ルシアが桶の湯をすくい、グランの肩へかける。温かい湯が流れ、雨の冷たさがようやく消えていく。そのまま手を伸ばし、背中を洗い始める。
「おい」
「黙っておれ」
「珍しいな」
「花の礼じゃ」
グランは少しだけ笑った。
「安い礼だな」
「ど阿呆。これでも十分じゃ」
背中、肩、腕。湯を流し、石鹸を泡立て、意外と丁寧に洗う。いつものルシアなら背中を洗わせる側なのに、今日は逆だ。それが少し不思議で、少しだけ面白かった。
風呂を上がると、今度は大きな布で髪ごと頭を掴まれた。
「痛っ」
「大人しくしておれ」
ルシアが容赦なくゴシゴシ拭く。頭、肩、背中。大型犬でも乾かすみたいな勢いだ。
「雑だな」
「水気が残ると面倒じゃ」
「お前も濡れてるだろ」
「わらわは自分でやる」
そう言いつつも、手つきは妙に手慣れている。髪まで大まかに拭き終えたところで、ルシアは満足そうに息をついた。
部屋へ戻ると、花束は卓の上の水差しに活けられた。髪飾りもルシアが一度だけ手に取り、光にかざして、それから脇へ置く。ちゃんと取っておくらしい。
グランはその様子を寝台の上から眺めていた。
「気に入ったか」
「及第点じゃと言うたじゃろう」
「じゃあ次はもっと上だな」
ルシアは振り返り、少しだけ笑う。
「なら今度は甘いものも買ってまいれ」
「甘いもの?」
「食えば分かる」
「よく分かんねえな」
「おぬしは分からぬことだらけじゃのう」
雨はまだ外で降っている。
だが、部屋の中は妙に静かで暖かかった。卓の上には花。窓の外には雨。柔らかな寝台と、湯上がりの熱がまだ残る体。
戦わない日も、悪くない。
グランは窓の向こうの灰色を眺めながら、鼻を鳴らした。
まあいいか。次は甘いものでも買ってくるか。




