第六話 まず何人いるんだ?
朝の部屋に、妙に腹に響く音が鳴った。
ぐぅぅぅ、とやたらと景気よく鳴って、まだ薄暗い空気が一気に目を覚ましたような気がした。窓の隙間から差し込む朝の光は細く、宿の木の床も壁もまだ夜の冷えを残している。そんな静けさの中で、その音だけがやけに生々しい。
向かいの寝台で起き上がりかけていたルシアが、ゆっくりとこちらを見る。白金の髪が肩を滑り、寝起きだというのに妙に整っていた。
「……デカい音じゃな」
グランは毛布を蹴飛ばして起き上がり、腹を押さえた。
「腹減った」
「見れば分かるわ」
「なら飯だ」
即答だった。
昨日の夜、風呂に入ってそのまま寝台へ倒れ込んだ記憶はある。酒も飲んだ。だが頭は重くない。視界もはっきりしている。体も、思っていたよりずっと動く。膂力の訓練で肩や腕は張っているし、腰にも重さは残っている。首元から胸、腕へ走る奴隷紋にもまだ少しざらつくような違和感があった。けれど、どれも起き上がれないほどではない。
むしろ問題は腹だけだ。
完全に空っぽで、そこにしか意識が向かない。
「朝からうるさい獣じゃの」
ルシアが言いながら外套を肩へかける。
「腹減ってる時に静かにできるかよ」
「できぬのう」
「できねえ」
短くやり取りして部屋を出る。
階段を下りると、食堂はもう動いていた。武道会の日だからか、宿の朝にしては客が多い。武器を背負った男、腕を組んで黙っている女、寝癖もそのままに肉を齧っている大男。誰も彼も、これから戦うか、誰かの戦いを見に行く顔をしている。
焼いた肉の脂の匂いに、煮た汁の湯気、穀物の甘い匂いまで混じっていた。
腹が鳴るのも当然だ。
空いた卓へ座るなり、グランは給仕へ言う。
「米あるか」
給仕の女は少しだけ目を丸くしたが、昨日の夜に見ていたおかげか、すぐに頷いた。
「あります。肉もつけますか?」
「つける」
「どれくらい?」
「多めで」
少し考えてから、付け足す。
「かなり多めで」
向かいに座ったルシアが、器へ朝から少しだけ酒を注ぎながら喉の奥で笑った。
「食うのう」
「腹減ってるからな」
「いつも減っておる気もするが」
「強いからだろ」
「雑な理屈じゃ」
そう言う割に否定はしない。
すぐに運ばれてきた器から、白い湯気が立つ。米だ。昨日の朝は野営で自分で炊いたが、やっぱりこうしてちゃんとした宿の飯として出てくるのは悪くない。肉も皿いっぱいに盛られている。塩の利いた焼き肉だ。汁物には香草が浮いていて、朝の胃にはちょうどいい匂いがした。
グランは箸を手に取る。
迷いはない。指先で自然に挟み、肉を摘み、米を口へ運ぶ。熱い。だが、その熱さが腹の奥へ落ちるだけで機嫌が戻ってくるのが分かった。
ルシアがその手元を見て、少しだけ目を細める。
「やはり器用じゃな」
「またそれか」
「感心しておる」
ルシアの前には匙と叉と小さなナイフが並んでいた。高位エルフらしく、そういう道具の扱いは滑らかだ。昨日、箸を試した時のぎこちなさは今日はもう見せない。最初から匙を使い、肉を切り、静かに口へ運んでいる。
「普通だろ」
「わらわは使わぬ」
「覚えりゃいい」
「今のままで困らぬ」
「それもそうだな」
ルシアは少しだけ酒を含み、肉を噛む。朝から飲んでいるのに顔色ひとつ変わらない。グランはそれを見ながら、米をもうひと口かき込む。
「お前、今日はあんま飲まねえんだな」
「昨日ほど喉は渇いておらぬ」
「ふうん」
グランは自分からは酒へ手を伸ばさない。嫌いじゃない。だが今は米と肉の方が優先だ。うまいものが目の前にあるならそっちを食う。それだけのことだった。
器を空にして追加を頼む。給仕も慣れたもので、すぐに持ってくる。
ルシアはそんなグランを眺めながら、少しだけ呆れたように言った。
「本当に分かりやすいのう」
「何がだ」
「米があると機嫌が良い」
「うまいからな」
「安い男じゃ」
「安くねえよ。高いぞ」
言い返すと、ルシアが笑う。
食べ終えた頃には、部屋の外のざわめきはさらに大きくなっていた。通りを行き交う人の数が増え、外からは遠くの歓声まで聞こえてくる。武道会の日の町は、朝の時点でもう落ち着いていないらしい。
部屋へ戻って支度を整える。
グランに武器はない。最初から拳だけだ。ルシアも今日は見ているだけのつもりらしく、軽い外套を羽織る程度で済ませている。出る前に、ルシアがふとグランの首元へ目をやった。衣の隙間から覗く奴隷紋の線が、昨日よりさらに落ち着いているのを見たのだろう。
「なかなか良い感じじゃな」
何でもないようにそう言う。
グランは首筋を指先でなぞった。
「気持ち悪いけどな」
「そのうちもっと沈む」
「沈まなくていい」
「もう遅い」
短く言い切られ、グランは舌打ちした。気に食わないが、反論しても消えるわけではない。
ルシアはそのまま、当然みたいに先の話を続ける。
「完全に馴染んだら長く走らせる」
「またか」
「その間に地方の武道会を回る。魔獣も狩る。訓練はするが、実戦優先じゃ」
それを聞いて、グランの口元が少し持ち上がる。
「いいな」
「金にもなる」
「もっといい」
「賞金も取る。実戦で鍛える。効率が良い」
「片っ端から潰していくか」
ルシアは半ば呆れた顔をしながらも、否定はしなかった。
「そういうことじゃ」
町へ出る。
空気が昨日より熱い。通りのあちこちに旗が増え、屋台が増え、賭け屋の声が朝から腹へ響く。武器を下げた参加者らしき連中が通りを歩き、そのまわりを見物人がぞろぞろとついていく。
焼き串の匂い、甘い菓子の匂い、酒の匂い、人いきれ。
武道会の日の町そのものが、朝から酔っているみたいだった。
会場へ近づくにつれて、その熱はさらに濃くなる。通りの端に立つ連中の目つきも変わる。昨日の登録で絡んできたやつらの何人かも見かけたが、こちらと目が合うと露骨に視線を逸らした。奴隷だ獣人だと笑っていた相手が、今日はもう面白半分では見られないらしい。
会場の入口をくぐった瞬間、空気が変わった。
熱い。
ただ人が多いだけじゃない。ざわつきが地面から立ち上ってくるみたいに、肌にまとわりつく。怒鳴り声、笑い声、金の鳴る音、全部が混ざって耳の奥で響いていた。
円形の闘技場はすでに半分以上が埋まっている。石で組まれた観客席に人がぎっしり詰まり、身を乗り出して下を覗き込んでいた。まだ試合は始まっていないのに、場の空気だけが先に出来上がっている。
下では参加者たちが思い思いに体を動かしていた。
剣を振るやつ。
拳を握って肩を回すやつ。
無言で座り、目を閉じているやつ。
似た顔はひとつもない。
グランはその中をゆっくりと見渡した。
「いいな」
口の端が自然に上がる。
血の匂いまではまだしない。だが、それに近いものがある。殴り合いになる前の、あの重い空気だ。
ルシアが横で言う。
「浮かれるな」
「浮かれるだろ」
視線は動かしたまま答える。
「面白そうなのもいるな」
控えの一角を顎で示す。体の大きい人間が一人、剣をゆっくり振っていた。動きに無駄がない。別の場所では小柄なやつが軽く跳ねている。足運びが速い。どっちも悪くない。
全部まとめて見て、グランは思う。
少なくとも、昨日の街道で見かけた連中よりはいい。
「……まあ、どうせ潰すけどな」
ぼそりと呟く。
ルシアがそれを聞いて、小さく笑った。
「その通りじゃ」
視線だけで会場をなぞりながら、続ける。
「殺さぬようにな」
「知らねえ」
即答だった。
ルシアはそれ以上は言わない。ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
やがて係の声が響き、最初の組み合わせが呼ばれる。控えの空気が一気に締まった。グランの名もすぐに呼ばれる。
土の上へ足を踏み入れる。
客席のざわめきが一段上がった。
「首輪付きだぞ」
「本当に出るのか」
「獣人か」
向かい側には最初の相手が立っていた。剣士だ。背が高く、よく鍛えられている。肩に力は入っているが、腰は引けていない。悪くない。緊張はしているが、逃げる気はないらしい。
開始の合図。
剣士は迷わず踏み込んだ。上からの一閃。重さを乗せた真っ直ぐな剣だ。
グランは避けなかった。
そのまま左手を出し、刃を掴む。闘気を通した掌に鉄の冷たさが触れた次の瞬間、金属が不快な悲鳴を上げた。
ぐしゃり、と鈍い感触。
剣が手の中で潰れる。
剣士の目が開く。
その顔へ、グランの右拳がそのまま入った。
体が浮く。
後ろへ吹っ飛び、土の上を転がって、それで終わりだった。
一拍遅れて客席がどよめく。
「本当に獣人だな」
「剣が……」
「握り潰したぞ」
係が慌てて中へ入り、相手の状態を確かめ、勝者を告げる。グランは鼻を鳴らしてさっさと控えへ戻った。
ルシアが腕を組んだまま言う。
「剣を握り潰すやつはおらん、普通は」
「弱かった」
「そういう感想にしかならぬのが獣じゃな」
「何だよ」
「褒めておる」
別に褒められている気はしなかったが、悪い気もしなかった。
二試合目の相手は短剣使いだった。細身で、足が速い。最初から真正面では来ない。左右へ散りながら隙を見て刺すつもりらしい。
面倒だ。
開始と同時に短剣が胸元へ走る。グランは半歩だけ引き、それから逆に前へ出た。相手の進路へ自分から入る。短剣が肩を掠める。浅い。
そのまま首を掴む。
持ち上げる。
地面へ叩きつける。
それで終わりだった。
歓声が上がる。派手だからだろう。どうでもいい。勝てば同じだ。
三試合、四試合と続く。
槍持ちは懐へ入って殴り潰し、拳闘士は殴り合いでそのまま沈めた。魔法を使うやつもいたが、距離を取らせる前に詰めれば関係ない。どれも悪くはない。だが、面白いほどではない。
控えへ戻って水を飲んでいた時、グランはふと思ったことを口にする。
「なあ」
「なんじゃ」
「あと何人いるんだ?」
ルシアは涼しい顔で答えた。
「知らぬ」
グランは少しだけ黙り、それから鼻を鳴らす。
「……まあ、いいか」
水を飲み切って器を置く。
「全部倒すし」
ルシアが小さく笑った。
「そうじゃな」
その頃には客席の空気も変わっていた。最初は珍しさ半分だったものが、今は明らかな期待に変わっている。賭け屋の怒鳴り声も、最初とは違う熱を帯びていた。グランの名を口にする声も増えている。どうせ勝つと思われているらしい。
準決勝の相手は、今までで一番まともだった。
長剣を持った人間の男。姿勢が崩れず、間合いの取り方も悪くない。構えも綺麗だ。開始前に一度だけ目を合わせた時の殺気も、これまでの連中よりはずっとましだった。
ルシアがちらりと見て、低く言う。
「この大会ではまあまあじゃな」
「へえ」
「殺さぬようにな」
「知らねえ」
始まってみると、男は確かに良かった。最初の斬撃は肩を狙う。速い。次は脚。そこから喉元へ繋げてくる。人間らしく、無駄なく、綺麗だ。前の連中みたいに勢いだけではない。
だから少しだけ面白い。
グランは最初の二太刀を手と身の捻りで流し、三太刀目の喉狙いへ腕を差し込む。刃が闘気に止まり、そこでわずかに食い込む。浅い。血は出たが問題ない。
そのまま男の手首を掴む。
引く。
体勢が崩れる。
拳を叩き込む。
胸の真ん中へめり込んだ拳で、男の体が折れた。二歩、三歩とよろめいて膝をつく。立ち上がろうとしたが、そこで終わった。
勝者の声が響く。
グランはもう振り返らない。
「悪くない」
戻るなりルシアが言う。
「ちょっとだけな」
「その程度でよい」
決勝戦の相手は、前回大会の優勝者だった。
名が呼ばれた瞬間、客席から大きな歓声が上がる。地元で人気があるのだろう。体格もいい。目にも落ち着きがある。ここまで勝ち上がってきた顔だ。
開始前の土の上で向かい合うと、男の視線が一度だけグランの首輪へ落ち、それからすぐに拳へ戻った。もう首輪付きだからと笑う段階は過ぎている。そこは少しだけ良かった。
合図が出る。
男はすぐには飛び込まなかった。半歩引き、剣を低く構え、様子を見る。慎重だ。正しい。
だからグランは歩いた。
走らない。慌てない。ただ前へ出る。土を踏みしめ、間合いを詰める。男の剣先が揺れ、牽制が飛ぶ。肩を浅く裂くつもりの一撃。グランは半身を少しずらし、わざと浅く通させた。
痛みはある。だが浅い。
そこで男の目が動く。
通った、と思ったのだろう。
その瞬間にはもう遅い。
グランは踏み込んだ。
剣の柄を握る。闘気を通した指が金属を軋ませる。男が引こうとしたが遅い。刃が根元から折れる。
そのまま拳。
頬骨から顎までまとめて打ち抜き、体が後ろへ吹き飛ぶ。転がって止まり、動かない。
会場が静まる。
ほんの一瞬だけ、歓声も怒号も全部消えた。
そのあと、爆発した。
歓声。罵声。笑い声。金の鳴る音。全部が重なって会場全体を揺らす。係が慌てて中へ入り、勝者を宣言した。
グランは倒れた前回優勝者を見下ろし、口の端を下げる。
「……つまんねー」
客席で誰かが笑い、誰かが怒鳴った。どうでもいい。本音だから仕方がない。前回優勝者だろうが何だろうが、この程度ならつまらないものはつまらない。
控えへ戻ると、ルシアが肩をすくめた。
「地方大会じゃからな」
「もうちょいマシかと思った」
「賞金は悪くない」
「それはそう」
そこで切り替わるのがグランだった。
優勝賞金の袋はそれなりに重かった。だがそれ以上に大きいのは、ルシアが回収する賭けの配当だ。
賭け屋の男が帳面を見ながら重い袋を二つ卓へ置く。金属が鳴る音が鈍く響いた。
「やっぱり昨日から張ってたやつが一番得したな」
男が肩を回しながら言う。
「最初が一番うまかった。だいたい二十倍だ」
そこで顎をしゃくって、続ける。
「途中から一気に落ちてな。決勝の頃には三倍切ってた」
ルシアは平然と袋を受け取る。
「当然じゃ」
男は笑う。
「見る目はあったってことか」
「元から結果は見えておった」
涼しい顔で言い切るのが、いかにもルシアだった。
グランはその袋を見て、まず思ったことを口にする。
「飯食えるか?」
賭け屋の男が吹き出し、ルシアも笑う。
「好きなだけ食わせてやる」
「ならいい」
金の細かい計算はどうでもいい。食えて、強いやつとやれて、その上で金も増えるなら文句はない。
会場の外へ出ると、さっきまで奴隷だ獣人だと面白がっていた視線が、今は違うものに変わっている。首輪はそのまま。紋も見える。なのにそれでも、勝者として見るしかない。そういう目だ。
嫌いではない。
町の夕方の匂いが漂う。焼き肉、酒、土、汗。全部混ざって悪くない。
ルシアが横で賭け金の袋を鳴らした。
「次へ行くぞ」
「強えやつがいるならな」
「武道会だけではない。魔獣も狩る。実戦優先じゃ」
「分かってる」
グランは肩を回し、さっきの決勝の感触をもう一度思い出そうとした。だが、もうほとんど残っていない。弱かったわけではない。だが、引っかかるほどでもなかった。
だから、次だ。
それだけだった。
「まあいいか、次だな」




