第五話 全員倒せばいいんだろ
静かな朝だった。
草の葉先に残った露が光り始める前、焚き火の灰の中にまだ赤い火がわずかに埋もれている。風は冷たく、湿った土の匂いが薄く漂っていた。
その静けさを破ったのは、獣の唸りでも鳥の鳴き声でもなく、腹の虫の音だった。
ぐぅぅぅ、と腹の底から響くような大きな音がして、ルシアが火の始末をしていた手を止める。白金の髪を肩越しに流したまま、ゆっくりと振り向いた。
「……デカい音じゃな」
毛布代わりの外套から顔を出したグランは、少し顔をしかめる。
「腹減った」
「見れば分かるわ」
「だから言ってんだろ」
言いながら起き上がる。朝の空気に肌が触れると、まだ少しだけ昨日の酒の匂いが自分から立ちのぼる気がした。だが頭は妙にすっきりしていた。二日酔いというやつにはならないらしい。獣人だからなのか、自分が強いからなのかは知らないが、悪いことではない。
悪いことではないが、腹は減っていた。
空っぽだ。
昨日、グレイウルフの群れを潰して、町へ戻って、米と鍋を買って、酒場で樽まで飲んで、それからまた野営地へ戻った。動いた量も食った量も多かったはずだが、起きた瞬間に腹が減っているのだからどうしようもない。
グランは立ち上がって大きく伸びをした。肩が鳴り、背中が少しだけ軋む。腕の内側には昨日噛みつかれた跡が残っているが、もう出血は止まり、赤黒い傷になっていた。首筋から胸、腕へ走る奴隷紋も、前よりずっと落ち着いている。刻まれたばかりの頃みたいな焼ける熱はなく、今は肌の下へ沈んだ硬い線みたいな感触だけが残っていた。
だが、それより腹だ。
「飯」
短く言うと、ルシアが肩をすくめた。
「待て」
「待てるけど待ちたくねえ」
「わがままじゃのう」
「腹減ってる時に優しくなれるわけねえだろ」
ルシアは笑いもせず、鍋を取り出して水を汲みに行く。グランもそれについて小川まで歩いた。冷たい水で米を洗い、鍋に入れる。前にやった時よりは手が覚えていた。水の量も、火の強さも、何となくだが分かる。前世の知識の残りか、それとも単に昨日やったばかりだからかは知らない。
火にかけた鍋から湯気が上がり始めると、柔らかい匂いが広がった。
米の匂いだ。
それだけで少し機嫌が良くなる。
肉も焼く。昨日買った塩を振り、脂の落ちる音を聞きながら火を見ていると、ルシアが横から覗き込んだ。
「昨日よりはましじゃな」
「お前ほんと上からだな」
「上からじゃ」
当然のように言われると腹も立たない。いや、少しは立つが、それより腹の方が大事だった。
炊けた米を器に盛る。グランは指先で箸をつまみ、そのまま何の迷いもなく使った。肉を摘み、米を掴み、口へ運ぶ。熱い。だがうまい。肉の塩気と米の甘みがちゃんと合う。
向かいで見ていたルシアが目を細めた。
「器用じゃな」
「何がだ」
「それじゃ」
視線は箸へ向いている。
ルシアは試すようにそれを一本手に取ったが、普段使い慣れていないらしく、肉を持ち上げる前に滑らせた。少し眉をひそめ、持ち直してもう一度試す。今度は掴めたが、ぎこちない。
「面倒な食い方だな」
「便利だぞ」
「匙で足りる」
「それはそうだけどよ」
言いながらグランは米を口へ運ぶ。やっぱりこっちの方が食いやすい。理由まできちんと説明できるほど前世を覚えているわけではないが、手が勝手に動く。
ルシアは結局箸を置き、いつものように匙で食べ始めた。だが米の味は気に入ったらしい。肉より先にもう一口食べ、それから塩を少し足した。
脇に置いた酒袋へ手を伸ばそうとしたところで、グランがちらりと見た。
「今日はあまり飲まぬのう」
ルシアは酒袋の口を軽く開け、小さく含む程度で止める。
「朝から樽で飲む趣味はない」
「昨日は樽だったな」
「おぬしが付き合うからじゃ」
「お前酒強いからな」
「わらわのような高位エルフは酔わんのじゃ」
さらりと言う。
高位エルフ。こういう時のルシアは、自分が上であることを隠そうともしない。別に嫌いではなかった。強い女が偉そうなのは自然だ。弱いくせに威張るやつは殴りたくなるが、こいつはちゃんと強い。
腹が満ちるにつれて、ようやく頭も回り始めた。
米を食い終えたあと、グランは首元へ手をやった。奴隷紋の線を指先でなぞる。前より馴染んでいる。動かした時の引っかかりが減り、皮膚の上から触ってもただの痕みたいに思えるくらいだ。
ルシアもそれに気づいたらしく、じっと見て言う。
「かなり馴染んできたな」
「気持ち悪いけどな」
「そのうちもっと沈む」
「沈まなくていい」
「もう遅い」
短く言い切られ、グランは舌打ちした。
だが動きの邪魔が減るなら悪いことばかりでもない。昨日までみたいに熱が邪魔して一瞬遅れる感じも薄くなっていた。
ルシアは食べ終えた器を洗いながら、当たり前みたいに先の話をする。
「奴隷紋が完全に馴染んだら、長く走らせる」
「またか」
「その間に地方の武道会を回る」
グランの眉が上がる。
「いいじゃねえか」
「その間に魔獣も狩る。賞金も取る。訓練はするが、実戦を優先する」
「もっといい」
単純な話だった。
走って、殴って、魔獣を殺して、賞金を取る。地方の武道会で勝てば、強いやつともやれる。分かりやすい。
「片っ端から潰していくか」
何気なく言うと、ルシアが小さく笑う。
「そういうことじゃ」
否定はしないらしい。
野営地を片づけ、荷をまとめて歩き出す。昨日泊まった場所から次の町までは半日もかからない、とルシアが言っていた。街道はほどよく踏み固められ、荷車の轍が乾いた土に残っている。風は昨日より穏やかで、空も高かった。
道中、商人の一団とすれ違った。
荷車を何台も連ね、色のついた旗まで立てている。酒樽や布の束、鉄の武具らしきものまで積んであって、どう見ても祭りか見世物に向かう商売人だ。
その一団の中の男たちが大声で話しているのが耳に入った。
「今年は賞金も上がるらしいぞ」
「そりゃ賭けも集まるわけだ」
「この地方の武道会、荒っぽいのが多いからな」
グランの足が止まる。
「ここらでもやるのか」
前に武道会の話自体は聞いている。だが、それが今向かう町であるとは思っていなかった。
ルシアも止まり、商人へ軽く声をかけた。短いやり取りで十分だった。開催は明日から。主催はこの辺りの有力者。賞金は去年より上がる。参加者も多い。さらに賭けの対象になるから、見る側まで熱が入る。
それだけ聞けば十分だ。
「悪くない」
ルシアが言う。
グランは口の端を上げる。
「全員倒せばいいんだろ」
商人の男が少し笑った。
「簡単に言うな、兄ちゃん」
「簡単だろ。最後まで立ってりゃいいんだ」
その答えに、商人は面白がったような顔をした。ルシアは何も言わずに歩き出す。グランもそのあとを追った。
しばらく進むと、街道脇の地形が変わった。岩が増え、木も太くなる。そこでルシアが唐突に立ち止まる。
「今日は力じゃ」
そう言って指さした先にあったのは、腰どころか肩の高さまである大岩だった。
グランは少し笑う。
「持てってか」
「持て」
「やっぱりな」
文句を言いながらも、グランは岩の前にしゃがみ込んだ。指をかけ、腰を落とし、脚に力を入れる。ずしりと重い。地面へ半分沈んでいるみたいな感触だ。だが、持てないわけではない。
唸りながら引き上げる。
土が剥がれ、石がきしみ、ようやく持ち上がった。
「そのまま走れ」
「ふざけんな!」
「止まるな」
言葉が短い。無駄がない。いや、無駄がないというより、最初から細かい説明をする気がないのだろう。
グランは岩を抱えたまま走った。
最初の数歩で腕が笑う。肩へ重さが食い込み、背中が張る。だがそのまま進む。地面が沈み、足裏に草と土の感触が潰れるみたいに伝わる。息が荒くなる。けれど止まらない。
「遅い」
「重いんだよ!」
「だから力じゃ」
言い返されると、まあそうかとしか思えないのが腹立たしい。
岩を置かされたあとは、大木だった。
根元を掴んで引き抜け、とルシアが言う。そんなもの無理だろと思ったが、やってみると本当に少しずつ動く。土が裂け、根が音を立てて切れ、やがて大木が傾いた。
そのまま引き抜く。
担ぐ。
「走れ」
「だからおかしいだろ!」
「おぬしならできる」
言い切られると、できる気がしてしまうのが業腹だった。だが実際、できる。肩へ幹が食い込み、木の皮が肌を擦る。重い。とにかく重い。だが、踏み出せば進む。進めば慣れる。慣れればもう少し行ける。
何度か繰り返したところで、今度はまた岩だ。
今度はただ持ち上げるだけではなく、胸の高さまで上げたまま保てと言われた。
全身が悲鳴を上げる。
腕だけでは無理だ。腰、背中、脚、全部で支える。足元の石が砕け、腕に血管が浮く。歯を食いしばって耐えていると、ルシアが腕を組んだまま見下ろしていた。
「止まれ」
「止まってるだろうが!」
「心の話じゃ」
「意味分かんねえ!」
それでも笑いが漏れた。
単純だ。
重いものを持ち上げる。担ぐ。走る。それだけなのに、妙に楽しい。体がどう動けば持てるか、どこへ力を入れれば倒れないか、そういうものを考える前に体が掴んでいく。
訓練が終わる頃には、腕も肩も足も熱でいっぱいだった。
グランは大木を放り投げ、その場に胡坐をかく。息が荒い。手のひらは赤く擦れていた。だが気分は悪くない。
ルシアが近づき、短く言う。
「少しはましじゃ」
「毎回それだな」
「事実じゃ」
確かにそうなのかもしれない。実際、昨日より重いものが持てた。止まらず走れた。自分でも分かるくらいには、体が前より使えている。
夕方、町へ着く。
昨日の町より少し大きい。通りには旗が出ていて、中心広場らしき場所には木の柵が組まれている。遠目にも会場だと分かった。武器を下げた荒くれ、筋骨の太い男、軽装の女、魔術師らしい杖持ちまでいる。そこら中から強い匂いがした。血と汗と酒と、勝つつもりのやつらの匂いだ。
「いい空気だな」
グランが言うと、ルシアも頷く。
「強いのも混ざっておる」
登録所にはすでに列ができていた。受付の男は首輪付きの獣人を見て少し眉を上げたが、ルシアが前へ出るとすぐに態度を整えた。
「出場者はこの獣人で?」
「そうじゃ」
「従者ではなく?」
「違う。戦うのはこやつじゃ」
グランは横で腕を組み、列の向こうにいる参加者を見ていた。自分より小さいやつ、大きいやつ、雰囲気だけは強そうなやつ。数は多い。だがどうでもいい。どうせ全部殴るだけだ。
登録が終わると、ルシアは受付の横にいた別の男へ声をかけた。どうやら賭けを扱っているらしい。木札と帳面を前に、勝敗へ金を張るやつらが集まっている。
ルシアは迷いなく袋を出した。
「おぬしに全額賭ける」
グランがそちらを見る。
「おう」
「負ければ飯抜きじゃぞ」
淡々と言われて、グランは鼻で笑った。
「負けるわけねぇだろ」
その会話に、賭け屋の男が面白そうに目を細めた。
「随分自信があるな」
「自信がなきゃ出ねえよ」
そのまま場を離れたところで、背後からわざとらしい笑い声がかかった。
「奴隷が出るのかよ」
振り向く。
体格のいい男が二人、その後ろに似たような連中がいる。肩幅はあるが、目つきが軽い。舐めている匂いがした。
グランの口の端が上がる。
「殺すぞ」
一歩出ようとしたところで、ルシアの声が横から飛んだ。
「明日まで我慢せよ。今殴れば失格じゃ」
「つまんねえ」
「飯を抜くぞ」
その一言で足が止まる。
男たちはそれを見て、こいつ本当に止まるのかとでも言いたげな顔をした。グランは睨みつけたまま舌打ちだけを残し、ルシアについて歩き出す。背後で何か言っていたが、もう興味はない。明日、会場で会えばいいだけだ。
宿は町の中心に近い、少し大きめの建物だった。風呂付きの部屋がある、とルシアが当然のように言い、実際そういう部屋を取る。高そうだが、今日賭けにも金を出したくらいだから気にしていないのだろう。
夕食が運ばれてくる。
グランが真っ先に見たのは量だった。
「米は?」
給仕が少し驚きながらも蓋を開ける。白い湯気。器いっぱいの米。肉もある。これなら悪くない。
ルシアは酒も頼んだ。だが今日は昨日ほどではない。器に少しずつ注ぎ、味を確かめるように飲む。
「今日はあまり飲まぬのう」
昼と同じことを言うと、ルシアがこちらを見る。
「おぬしが米に夢中なだけじゃ」
「米と肉の方がいい」
「らしいのう」
食事をしながら、翌日の武道会の話になる。
「何人倒せば優勝だ」
グランが聞くと、ルシアが呆れたように眉を上げる。
「形式も知らぬのか」
「知る必要あるか?」
「少しはある」
「全員倒せばいいんだろ」
言い切ると、ルシアは小さく笑った。
「まあ、雑に言えばそうじゃな」
「なら問題ねえ」
本当にそう思っているから困る。いや、別に困らないが。
食後、部屋付きの風呂へ向かう。
湯気が立ち、木桶と石の床がしっとり濡れている。大浴場ではない。部屋に付いた風呂だから、他人の目はない。
この世界に混浴の習慣があるわけではないらしい。だがルシアはそんなことを気にした様子もなく、さっさと衣服を脱いで湯へ入った。グランもそのまま続く。
変に意識する空気はない。
ルシアにとって、今のグランはまず奴隷でしかないのだろう。異性としてどうこうではなく、自分の所有物に近い。だから平然としている。グランも別に気にしない。目の前に強い女の裸があるからといって、急に照れるような性格でもない。
湯に浸かると、昼の訓練で溜まった熱がほどけるようだった。
肩の奥までじんわり温まる。腕の噛み跡も、足の張りも、少しずつゆるむ。グランは息を吐いて縁に背を預けた。
ルシアが近づいてくる。
視線は胸でも腹でもなく、首元から肩、腕へ走る奴隷紋へ向いていた。濡れた肌の上で、その線が薄く浮いて見える。指先で首の付け根をなぞり、肩、胸、腕へと軽く触れていく。
「なかなか良い感じじゃな」
「だから触るな」
「問題ない」
まるで道具の具合でも見ているみたいな口調だ。だが実際、ルシアにとってはそれに近いのだろう。グランの体がどこまで動くか、紋がどれだけ馴染んだか、それを見ている。
触れられるのは少し気に障るが、嫌悪感まではない。単に偉そうだなと思うだけだ。
そのままルシアが背を向けた。
「背中を洗え」
「は?」
「届かぬ」
「使用人かよ」
「奴隷じゃろうが」
言われてみればその通りだ。しかもルシアは妙に自然だった。名門出身とか高位エルフとか、そういうの全部ひっくるめて、人に背中を洗わせることへ何の抵抗もない顔をしている。
「やれ」
グランはため息をつき、湯をすくってルシアの背へかけた。白い肌の上を水が流れ、肩甲骨の形が動く。
手を伸ばして背を洗おうとした瞬間、ルシアが振り返らずに言う。
「爪を立てたら殺すぞ」
「分かってるって」
言い返しながら、グランは手のひらで背を擦る。雑だが、力加減はしている。引っ掻いたところで面倒なだけだ。湯気の向こうでルシアの首筋が少し揺れた。
「ほんと偉そうだな」
「高位エルフじゃからな」
あまりにも当然のように返されて、グランは鼻を鳴らした。
背中を流し終えたところで、自然と視線が下へ滑る。腰のくびれ、その下の丸み、しっかりした脚。前から見ても綺麗だが、後ろから見ても隙がない。ついでに正面も改めて見る。胸の大きさも十分だ。
思ったまま口に出した。
「乳もデカいし尻もデカい!」
ルシアが半分だけ振り向く。
「褒めておるのか」
「かなりだ」
グランは胸を張るように言い切った。
「たくさん産めるぞ!」
獣人の感覚では相当高い褒め言葉だ。強い女で、体が良くて、たくさん子を産めそう。それ以上何を褒めろという話になる。
ルシアは額に手を当てた。
「ど阿呆」
声は呆れている。
けれど本気で嫌がってはいないのが分かった。目つきがきつくもならず、奴隷紋を灼く気配もない。
むしろ、少しだけ機嫌がいい。
自分でもそれを隠しているつもりらしいが、グランには分かった。
ここまで真正面から褒められることが、今までなかったのだろう。高位エルフだ何だと持ち上げられてきても、こんな風に生々しく、真っ直ぐに言われることはなかったに違いない。
アホじゃが、悪い気はせん。
なんだかそんな顔をしていた。
グランは湯へ肩まで沈みながら言う。
「倒しまくって強くなって、お前を必ずオレの嫁にする」
ルシアはしばらく黙っていた。
湯気が二人の間を流れる。外では風が窓を鳴らし、湯の表面が小さく揺れた。
やがてルシアは小さく息を吐く。
「単純じゃのう」
「分かりやすいだろ」
「嫌いではないがな」
最後の言葉は小さかった。聞こえなかったふりをしても良かったが、グランは聞こえたまま胸へ入れた。
風呂を出て、髪と体を拭き、部屋へ戻る。寝台は昨日の野営よりずっと柔らかい。だが柔らかさより、明日のことの方が気になった。
武道会。
強いやつがいる。
勝てば金になる。
地方の武道会を回りながら、魔獣も狩る。訓練もする。単純だ。分かりやすい。そういうのは好きだ。
グランは寝台へ仰向けになり、天井を見上げた。
「全員倒せばいいんだろ」
口に出すと、それだけで十分だった。




