第三十一話 もっと楽しませろ
肉が鳴っていた。
骨がきしみ、裂けた筋が無理やり縫い合わされるように蠢く。魔法陣の中心で膨れ上がる異形は、まだ立ち上がりきっていない。にもかかわらず、その場の空気だけはもう変わっていた。地下の湿った冷気に、腐臭と血の匂いが重く混じり、吸い込むだけで胸の奥がざらつく。
だが、グランはそんなものを気にした様子もなく、その異形を見つめていた。
口元が吊り上がっている。
獲物を前にした獣の笑みというには、あまりに楽しげだった。肩は自然と持ち上がり、腕の筋がじわりと浮く。今すぐ飛びかかりたいのを、自分でも面白がるように堪えている顔だ。
「こんなに滾るのは久しぶりだな」
低く漏らした声に、老女の詠唱も、肉の軋む音も、一瞬だけ遠のいた気がした。
グランは目を細めたまま、何でもない事のように続ける。
「ルシアを抱く時以外じゃ、ほんと久しぶりだ」
地下空間の空気が、今度は別の意味で固まった。
次の瞬間、ルシアががっと顔を上げる。
「な、何を言うんじゃ、この馬鹿者!」
声がひっくり返りかけた。
本人もそれに気づいたのか、すぐに咳払いでごまかそうとするが、もう遅い。耳までしっかり赤くなっている。いつもの冷ややかな余裕はどこへやら、眉はつり上がり、目元は怒っているのに、頬は見事なくらい熱を持っていた。
「こんな場で言う事ではなかろうが!」
「なんでだよ。本当だぞ」
「本当かどうかの話をしておるのではない!」
グランは心底不思議そうに首をかしげる。からかっている顔ではなかった。本当に思ったから口にしただけ。そのどうしようもない真っ直ぐさが、余計にたちが悪い。
護衛の衛兵たちは、老女の儀式より今の会話にどう反応すべきか分からぬ顔をしていた。市長でさえ、ほんのわずかに目を細めて口元を押さえる。
だが場はすぐに現実へ引き戻される。
魔法陣の光が強まったのだ。
中心の肉塊が、ぐしゃりと一度大きく脈打つ。小さく悲鳴のような音が混じった。肉が悲鳴を上げるのか、それとも取り込まれた死体のどこかにまだ名残があるのか、分からぬ気味の悪い音だった。
衛兵の一人が、はっと我に返ったように市長へ顔を寄せる。
「市長。今のうちに止めた方が良いのでは」
声は小さい。だが震えていた。
至極まともな進言だった。目の前で何かまずいものが生まれようとしている。ならば完成する前に断つ。考えとしては自然だ。
市長はすぐには答えなかった。老女、魔法陣、膨れ続ける異形、そしてその前で嬉しそうに立つグラン。その全てを一度に見て、短く息を吐く。
その沈黙を裂いたのはルシアだった。
「やめておけ」
ぴしゃりと言い切る。
衛兵が目を剥いた。
「しかし」
「そんな事をすれば、今度はグランが怒るぞ」
その言葉は冗談ではなかった。
ルシアの顔から先ほどの照れが薄れ、代わりにいつもの現実的な眼差しが戻る。ほんの少し前まで真っ赤になっていた女とは思えぬ切り替えだったが、耳の先だけはまだわずかに赤かった。
市長が苦く笑う。
「どっちがより危険だと思う?」
問いかけは半分確認で、半分は覚悟のためだった。
ルシアは即答する。
「間違いなく、怒り狂ったグランじゃな」
その断言に迷いは一切なかった。
市長は一瞬だけ天井を仰ぐように目を上げ、それから小さく頷く。
「下がれ」
命令は短かった。
だが若い衛兵は食い下がる。
「しかし市長、このままでは」
「死にたくはないだろう」
市長の声は静かだったが、妙に現実味があった。
衛兵が言葉を詰まらせる。市長はそこで肩をすくめるように続けた。
「正直、私も死にたくはない。妻に怒られるからね」
その言い方があまりに淡々としていて、緊張の糸が少しだけ緩んだ。衛兵たちの顔に、引きつった苦笑ともため息ともつかぬものが混じる。
ルシアは鼻を鳴らした。
「まともな判断じゃ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
市長はそう返し、護衛たちへ手を振る。衛兵たちはなお不安げだったが、命令には従った。数歩、さらに数歩と後ろへ下がる。
ルシアも視線を中心の異形から外さぬまま言う。
「わらわたちもちと下がった方がよかろう」
グランは動かなかった。
「俺はこのままでいい」
「おぬしはそうじゃろうな。わらわはおぬしの拳の余波で吹き飛ばされたくはない」
「吹き飛ばさねえよ」
「信用できん」
口ではそう言いながらも、ルシアは完全には下がらない。巻き込まれぬ位置まで横へ移るだけだ。市長たちはさらに距離を取った。
それを見た老女が、ぎりりと歯を鳴らすような音を漏らした。
「神の偉大さも理解できぬ愚かな獣め」
「まだか、ばあさん」
グランはまったく相手にしていなかった。
老女のこめかみに筋が浮く。これほどの儀式を前にしながら、畏怖も敬意もなく、ただ待ちきれぬ子どものように急かしてくる。その態度が許し難いのだろう。
「神罰を受けよ!」
叫びと同時に、魔法陣全体が眩く輝いた。
線に流し込まれた黒い液が一斉に燃えるような光を放ち、地下空間の石壁に不気味な赤を反射させる。中心の肉塊が、どろりと溶けたかと思うと、次の瞬間には形を持って盛り上がった。
立ち上がる。
それは歪な人型だった。
右腕だけが異様に巨大で、ぶら下がっているだけで地面を叩き割れそうなほど太い。左肩からは枝分かれするように腕が二本伸び、それぞれ長さも太さも違う。胸と背は不自然に膨れ、幾人分もの筋肉を無理やり押し込めたように盛り上がっていた。対して下半身は頼りなく細く、腰から下だけを見れば、その上半身を支えられるようには到底見えない。
肉の継ぎ目が随所にある。
色の違う肌。縫い目のような裂け。まだ閉じきっていない傷口から、黒ずんだ液がとろりと垂れる。顔もまた歪だった。大男の面影を残しながら、頬の一部は別人の骨格に引っ張られ、口は片側だけ異様に裂けている。
それが、立った。
ただ立ち上がっただけで空気が重くなる。
衛兵たちは言葉を失っていた。誰も剣を抜く音すら立てない。市長もまた口を閉ざし、その異形を見つめるしかない。
その沈黙を破ったのは、やはりグランだった。
「おお」
目を輝かせる。
「面白そうだ」
あまりに嬉しそうな声だった。衛兵だけでなく、市長の視線さえ少し冷たくなる。
「……本当に嬉しそうだな」
市長がぼそりと漏らすと、ルシアが肩をすくめる。
「少々変わっておるが、グランは大丈夫じゃぞ」
「そういう問題ですか?」
衛兵が思わず聞き返す。
「今さらじゃろう」
ルシアの答えは実にあっさりしていた。
古き神と呼ばれたそれが、喉の奥からひしゃげた咆哮を上げた。
鼓膜を叩く音だった。人の声ではない。獣とも違う。何人もの絶叫が一つに押し込められたような、耳障りな咆哮だ。
次の瞬間、巨大な右腕が振り下ろされる。
空気が唸った。
まともに食らえば、人どころか石床ごと砕ける。そんな質量の拳だった。
だがグランは逃げない。
腰を落とし、真正面から両腕を上げる。避けるという選択肢が最初から頭にない動きだった。
激突。
轟音が地下を揺らした。
拳と腕がぶつかった瞬間、石床にひびが走る。周囲の埃が跳ね、風圧だけで衛兵の髪が乱れた。グランの足元も沈み込む。だが、それで終わりだ。巨大な拳は止まっていた。
グランは受け止めていた。
それどころか、その顔は驚きと喜びで輝いていた。
「すげぇ、すげぇ!」
心の底から楽しそうな声が響く。
古き神がさらに押し込む。右腕に重みが乗り、筋肉の塊のような上半身全体が前へ傾く。グランの腕がきしみ、床がさらに割れる。
衛兵の一人が青ざめた顔で市長へ身を寄せた。
「市長。もっと下がりましょう」
今度の提案に、市長は一瞬も迷わなかった。
「……そうだな」
さすがに巻き添えは御免だと判断したのだろう。護衛たちと共に、さらに距離を取る。だがルシアは下がらない。足場と余波の届き方だけを見て、一番よく見える位置で腕を組んだ。
グランは押されながら笑っていた。
「おおっ、すげぇぞ!」
拳を受けたまま、踏みしめた足が石にめり込む。押し返そうとしているのではない。押される力そのものを味わっている顔だ。
古き神が左の二本腕も振るう。片方が横薙ぎに、もう片方が頭上から落ちる。グランは巨大な右拳を弾くように押し戻すと、半歩ずれて横薙ぎを肩で受け、頭上からの腕は肘で叩き落とした。
それでも体が少しよろめく。
やや、力負けしていた。
だがグランの口はますます開く。歯を剥き出しにし、喉の奥から笑いが漏れる。
「がはっ。いいな!」
楽しすぎて笑いが止まらない。
衛兵たちはその様子に、古き神よりグランの方へ寒気を覚え始めていた。あれほどの怪物に押されているのに、喜んでいる。戦いの最中に声を上げて笑っている。まともな感覚ではない。
ルシアは鼻を鳴らした。
「ふん」
その目は細く、口元にはわずかな満足がある。
「ようやく本気になったか」
その言葉の通りだった。
グランの体が、目に見えて変わる。
肩がさらに盛り上がる。上腕が太くなり、背の筋が縄のように浮き出る。胸板が一段と厚みを増し、首筋まで筋肉が詰まっていく。もともと大柄な体が、一回りも二回りも威圧感を増したように見えた。
笑いながら膨れ上がる筋肉。
その異様な光景に、衛兵の一人が思わず後ずさる。
「なんだ、あれは」
「グランじゃ」
ルシアの答えは簡潔だった。
グランは踏み込み直す。
今度は押されない。巨大な右拳を受けたまま、ぐぐ、と少しずつ押し返していく。古き神の上体がわずかに揺れた。
「どうした!」
吠える。
「もっと楽しませろ!」
そのまま左の二本腕をまとめて掴んだ。
片方だけではない。二本を一度に、手首も肘も関係なく、ただ腕という腕を一塊にして握り込む。古き神が咆哮する。だがグランは構わず腰を落とし、そのまま全身で引いた。
肉が裂ける。
骨が砕ける。
湿った嫌な音が地下に響き、左肩から伸びていた二本の腕が、まとめて千切れ飛んだ。黒い液が噴き、壁にも床にも飛び散る。
衛兵の誰かが息を呑む。
市長もさすがに目を見開いた。
グランは千切った腕を放り捨て、笑ったまま古き神へ踏み込む。
「どうした。こんなもんか!」
古き神はなお暴れた。
残った巨大な右腕を振り回し、上半身ごとぶつけてくる。下半身が細い分、動きは荒っぽいが、その一撃一撃は重い。肩口から飛び出した骨がグランの腕をかすめ、胸板の肉塊が突進に乗って押しつぶそうとしてくる。
だが、流れはもう変わっていた。
グランは殴られてもよろけぬ。押されても踏み止まる。古き神の巨体を受け止め、そのまま肩を入れて持ち上げるように崩す。怪物の足が一瞬浮いた。
「おおっ!」
グランはますます笑う。
古き神の腹へ膝を叩き込み、上体の揺れたところへ拳を打ち込む。肉の塊のような胸がへこみ、古き神の巨体がずるりと後ろへ下がる。
老女の顔から血の気が引いた。
「……か、神よ」
ついさっきまで絶対の確信に満ちていた声が、今は細い。
グランはその古き神の胴を両腕で抱え込み、そのまま持ち上げた。
巨体が浮く。
衛兵たちの目が丸くなる。古き神も咆哮し、巨大な右腕を振り回そうとするが、遅い。グランは腹の底から力を込め、そのまま怪物をぶん投げた。
轟音。
古き神の体が床へ叩きつけられ、石が砕けて跳ねる。魔法陣の線が一部で割れ、光が乱れる。
完全に力負けしていた。
グランが喉の奥で獣じみた笑いを漏らす。
「ガッガッガッ!」
喜びがそのまま音になったような笑いだった。人の上げる高い笑いではない。低く、荒く、牙のある声だ。
古き神がなおも立ち上がる。巨体がぐらつきながら起き上がり、残った右拳を振りかぶる。最後の主力だとでも言いたげな、渾身の一撃だった。
グランは真正面から迎えた。
拳を握る。
右足を踏み込み、全身の筋を通す。
ぶつかったのは一瞬だ。
だが、その一瞬で決着はついた。
砕けた。
巨大な右拳が、グランの拳に真正面から打ち抜かれ、骨も肉も関係なく粉々に裂け散る。肘まで一気に潰れ、古き神の右腕はそこで役目を失った。
両腕を失っても、古き神はまだ動いた。
頑丈だった。体を揺らし、噛みつくように上半身ごと迫る。下半身の細さが嘘のようにしぶとい。
ルシアが目を細める。
「ふん。頑丈さだけは認めてやろう」
評価はそれだけだった。
グランは笑いながら踏み込んだ。
一発。
二発。
三発。
拳が止まらない。
顔へ、胸へ、腹へ、顎へ。形を崩すように、いや、形そのものをどうでもよくするように、ただひたすらに叩きつける。
古き神の体が少しずつ後ろへ、いや下へ押し込まれていく。
床が割れる。
魔法陣の線が砕ける。
石が沈み、怪物の巨体が地面へめり込んでいく。
グランの拳の衝撃で、神殿の床そのものが陥没し始めていた。古き神は抵抗しようにも、もう押し返せない。両腕を失い、上半身を打ち砕かれながら、それでも暴れようとする体を、グランの連打がさらに埋めていく。
最後には、ほとんど首から上だけが見えるほどまで沈んだ。
そこへ、もう一度。
深く、重く、叩き込む。
轟音と共に石片が跳ねた。
古き神の頭が沈む。
完全に埋まった。
沈黙が来る。
さっきまであれほど暴れていた異形は、魔法陣の砕けた床の底で、もう動かなかった。
グランはそこでようやく拳を止めた。
肩がゆっくり上下する。呼吸は荒い。だが疲れた顔ではない。むしろ、ひどく満ち足りていた。
「ああ」
口の端が上がる。
「楽しかった!」
心底そう思っている声だった。
老女はその言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。
目の前で自分の神が叩き潰され、地面へ埋め込まれ、それをやった獣人が満足げに笑っている。信じていたものがあまりに無惨に壊れ、理解が追いついていない顔だ。
ようやく漏れた声は震えていた。
「……バ、バカな」
唇が痙攣する。
「神が。我らの神が、穢らわしい獣ごときに」
グランは埋まった古き神を一瞥したあと、老女の方を向く。
「おい、ばあさん」
老女の肩がびくりと震えた。
「これもっと出せ」
「な」
「十個ぐらい」
老女の目がぐるりと揺れた。
その要求は、もはや恐怖すら通り越して理解不能だったのだろう。神を呼ぶために積み上げたもの全てが、その男には面白い玩具にしか見えていない。しかももっと寄越せと言う。
「じゅ、十」
そこで言葉が切れる。
白目がちに目が上がり、老女の体がぐらりと傾いた。
そのまま、前触れもなくぱたりと倒れる。
完全に失神していた。
地下空間に、妙な静けさが戻る。
砕けた石の匂い。流れ出た黒い液の臭い。粉塵。戦いの熱。まだ耳の奥に残る衝撃音。その中で、ルシアが小さく息をついた。
「しょうがないやつじゃ」
呆れた声だった。
だが、その口元には微かな笑みがあった。
グランはそんなルシアをちらと見て、肩を回す。
「もう終わりか」
「十分すぎるほど終わっておる」
「もっとやれそうだったんだがな」
「おぬしはそうじゃろうよ」
ルシアは埋まった古き神を見下ろし、それからグランを見る。拳にはまだ黒い液がつき、腕には細かな傷と打ち跡がある。だが、その程度だ。あれほどのものを相手にして、結局最後まで崩れもしなかった。
予想通りではある。
予想通りだが、実際に目の前でやられると、やはり少しだけ笑いたくなる。
市長と衛兵たちが、おそるおそる近づいてくる。さきほどよりさらに足取りは慎重だった。戦いが終わったのに、まだ何か起こるのではないかと警戒している顔だ。
市長が埋まった古き神と失神した老女を見比べ、最後にグランへ視線を向ける。
「……終わった、のか」
「見りゃ分かるだろ」
「分かるんだが、気持ちが追いつかないだけだ」
衛兵たちは誰もすぐには喋れなかった。先ほどまで強大な怪物と呼ぶしかなかったものが、今は床に埋まっている。ただ埋まっているだけではない。拳で叩き埋められたのだ。その事実が重すぎる。
ルシアは市長の横を通りながら、倒れた老女をつま先で軽くつついた。
「こやつはまだ生きておる」
「失神ですか」
衛兵の一人が聞く。
「そうじゃろうな。都合のよい頭をしておるからの」
グランがそのやり取りを聞きながら、なおも床の陥没した中心を見下ろしていた。
「なあ」
「なんじゃ」
「ほんとにもう出ねえのか」
「知らん」
「つまらんな」
「つまらぬのは老女の方じゃ。せっかくあれだけ大層にやっておいて、一つで終わりとは」
ルシアがそう返すと、グランが少しだけ笑う。
「分かる」
「冗談じゃ」
市長がその会話を聞き、額に手を当てた。
「君たちは本当に」
その先は言葉にならなかった。衛兵たちも似たような顔をしている。もう何から突っ込めばいいのか分からないのだろう。
ルシアはそんな周囲の空気も気にせず、グランの横に立つ。砕けた床、沈んだ怪物、倒れた老女、呆然とする市長たち。その全部を見渡してから、ふっと笑みを深くする。
しょうがないやつだ。
本当に。
だが、こういう時にこそ頼もしいのだから、なおさら始末が悪かった。




