第三十話 やっと少しは楽しめそうだな
高級住宅街を抜けるころには、夜の色がほんのわずかに薄まり始めていた。
まだ朝と呼ぶには早い。空は暗いままで、家々の窓にも灯りはほとんどない。それでも、張りつめていた夜の底がどこか緩み始めているのが分かる。冷えた空気の中に、もう少しすれば鳥が鳴き始めるだろうという気配だけが、かすかに混じっていた。
グランは足を止めない。
屋敷を出てからというもの、振り返りもせず真っ直ぐ走っている。鼻先が時おり動き、行く先を選んでいるようにも見えるが、迷っている様子は一切なかった。隣を走るルシアは、その横顔をちらと見てから前へ向き直る。
「おぬし、本神殿とやらへそのまま突っ込む気じゃったろう」
「今もそのつもりだ」
「じゃろうな」
言いながらも、ルシアの口元は少しだけ緩んでいた。こやつは本当に分かりやすい。強いものがいるかもしれぬと分かれば、それだけで頭がそちらへ引っ張られる。裏に誰がいるだの、街がどう動くだの、そんなものは後回しだ。
「だが先に市長じゃ」
「面倒だな」
「面倒でもじゃ。おぬしがさっき半殺しにした連中を、あのまま屋敷に積んだまま森へ向かっても後が面倒になる」
「しばらく動けねえぞ」
「そういう話ではない」
グランは鼻を鳴らしただけで、それ以上は言わなかった。
石畳の通りを抜け、まだ眠っている店々の前を通る。二人が向かう先は、この間も足を運んだ市長夫妻の店舗兼自宅だ。昼ならば人の声と物音が絶えぬ場所だろうが、この時間はさすがに静まり返っている。戸は閉まり、窓の向こうも暗い。
ようやく目当ての建物が見えたところで、グランが先に歩を緩めた。
「叩き起こすのか」
「この時間に来た時点で、そういう事じゃろう」
「なら早くしろ」
「待て。おぬしが最初に戸を叩くと壊す」
「壊さねえよ」
「信用ならん」
ルシアが先に前へ出る。扉の前に立ち、ノッカーを数度、はっきり聞こえるように叩いた。静かな通りに音が響く。少し間を置いて、もう一度叩く。
中からすぐ返事はない。だが、少ししてから何かが軋む音がした。寝具を離れた足音。小さく咳払いする気配。さらに間が空いて、戸の向こうから低い声が聞こえる。
「こんな時間に誰だ」
「わらわじゃ。ルシアじゃ」
しばし沈黙があり、それから戸の向こうで誰かが小さく息を吐いた。
「今開ける」
閂の外れる音がして、戸が開いた。
寝起きの顔をした市長が立っている。髪は少し乱れ、上着も急いで羽織ったのだろう、いつものきっちりした姿よりずっと隙がある。だが目だけはすぐに覚めたらしい。戸口に立つ二人の顔を見た瞬間、眠気より先に何事かを量る顔になっていた。
「その顔は、ただの立ち寄りではなさそうだな」
「当たり前だろ」
グランが即答すると、市長は苦笑するでもなく、ただ半歩だけ体を引いた。
「入ってくれ。外で話す内容でもないんだろう」
二人が中へ入ると、店とつながった居間の方から、小さな呻き声のようなものが聞こえた。
「うう、まだ暗いじゃないの」
寝間着の上に上着だけ引っかけたエリナが、目をこすりながら出てくる。髪は片側だけ跳ね、いかにも眠そうだ。だがルシアとグランの顔を見たところで、その眠たげな目が半分だけ開く。
「ああ、これは面倒な顔だわ。何かやったわね」
「何かやったのは事実じゃが、やられた方でもある」
ルシアが答えると、エリナは欠伸を噛み殺しながら椅子へ手を掛けた。
「座って。立ったまま聞く気にはならないし、どうせ長くなるんでしょ」
「長くはせん。必要な事だけじゃ」
市長はもう完全に仕事の顔に切り替わっていた。卓の上の灯りに火を入れ、二人へ向き直る。
「話してくれ」
ルシアが短く息を整える。
深夜に自宅を襲撃された事。襲撃者の足取りを辿って高級住宅街の大きな屋敷へ踏み込んだ事。中に黒ずくめの連中が詰めていた事。地下に祭壇があり、盗賊どもと邪教徒が繋がっていた事。魔薬と引き換えに生贄を集めていた事。本神殿の場所を吐かせた事。
言葉は簡潔だった。余計な前置きはない。だが内容は軽くない。市長の目つきは、話が進むごとに鋭くなっていく。
途中でエリナが、眠そうな声のまま小さく呟いた。
「やっぱりあの盗賊だけで終わる話じゃなかったのね」
「じゃろうな」
「で、その屋敷は今どうなってるの」
ルシアがちらとグランを見る。
市長とエリナの視線もそちらへ向いた。
グランは腕を組んだまま、なんでもない事のように言う。
「中のやつらも地下のやつも、死なねえ程度には潰してきた」
エリナが目を細めた。
「死なねえ程度って、どの程度」
「しばらく動けねえ程度」
「それを普通みたいに言うのやめてくれる?」
グランは首をかしげただけだった。エリナは頭を押さえ、それから夫の方を見る。
「ねえ、あなた、今すぐ衛兵を起こす話よね」
「ああ」
市長は迷いなく頷いた。
「屋敷の押さえと拘束が先だ。それと同時に本神殿へ動く」
言い終えるや否や、椅子を引いて立ち上がる。その動きに一切の躊躇がなかった。市長という立場ゆえの責任感もあるのだろうが、それだけではない。この男は、厄介事を前にして尻込みする類ではないらしい。
「エリナ、使いを出す。灯りを増やしてくれ」
「はいはい。こういう時だけ声がしゃんとするんだから」
言いながらもエリナの動きは早い。さっきまで眠いとこぼしていたのが嘘のように、棚から灯りを取り、火を移し、奥へ引っ込んでいく。しばらくすると店の裏手から誰かを起こす声がした。
居間に残った三人の間に、わずかな静けさが落ちる。
最初に口を開いたのはルシアだった。
「屋敷の方は衛兵を回せばよい。生きておる連中を押さえれば、あとは吐かせようが調べようが好きにできる。じゃが本神殿の方は、あまり置くと面倒になるかもしれん」
「あちらが動く前に叩きたい、という事か」
「そうじゃ。屋敷を潰されたのが知れれば、森の方も構えよう」
市長は腕を組み、短く考える。
「屋敷と本神殿、両方に手を回すには人が要るな」
「足りぬか?」
「足りなくはないが、楽ではない」
そのやり取りを聞きながら、グランが露骨に退屈そうな顔をした。
「で、いつ行くんだ」
ルシアが肩をすくめる。
「今その話をしておる」
「話してる間に逃げられるぞ」
「おぬしが壊した連中がまともに合図を送れるとは思えんがの」
「思わねえ。でも強いやつがいるかもしれねえなら、早い方がいい」
グランの声には本気の不満が混じっていた。市長はその顔を見て、ようやく少しだけ口元を緩める。
「お前は本当にそこだけだな」
「何が悪い」
「悪くはない」
そう言ってから、市長はルシアへ向き直った。
「正直に言えば、君たちの力を借りたい。屋敷だけなら衛兵でも押さえられるだろうが、本神殿の方は何がいるか分からん。盗賊どもの背後にいる連中なら、ただの物好きな集まりでは済まないはずだ」
「じゃろうな」
「同行してくれるか」
ルシアは即答しなかった。少しだけ顎を上げ、市長の目を見る。
「無償ではやらんぞ」
市長もまた、表情を変えずに返した。
「当然だ」
その返答に、ルシアの目がわずかに細くなる。
「本神殿への同行と制圧の協力。それと首領らしきやつを潰す事。ついでに器とやらが本当にあるなら、それを壊す事。そこまで含めて報酬を出せ」
「分かった」
「それだけではない」
ルシアは淡々と続ける。
「わらわたちの家を壊した件も、曖昧に流すつもりはない。修理費と迷惑料も別にきっちり取る」
隣でグランの耳がぴくりと動いた。
「修理費は取れるのか」
「取らせるために今話しておる」
「ならいい」
市長はそのやり取りを聞き、今度こそ少しだけ笑った。
「分かった。屋敷の件も含めて、正式に話を通そう。こちらも君たちをただ便利に使うつもりはない」
「よろしい」
話がまとまりかけたところで、エリナが戻ってきた。手には湯気の立つ杯が二つと、もう一つ少し大きめの器がある。
「眠気覚まし代わり。熱いからこぼさないで」
市長へ杯を置き、ルシアの前にも一つ置く。グランの前には大きめの器をどんと置いた。
グランが器を覗き込む。
「なんだこれ」
「薄いスープ。空腹で機嫌が悪くなられても困る」
「別に悪くねえ」
「今もう十分悪い顔してるわよ」
エリナは言いながら、自分も卓の端へ腰かけた。まだ完全には目が覚めきっていないのだろう。だが、その目には緊張もある。街の長の妻として、事情の重さは理解しているらしい。
「森の中って言ってたわね」
「ああ」
「気味が悪いわね。屋敷の中で祭壇だの生贄だの聞いた後に、それの本体が森って」
ルシアが杯に口をつける。温かさが喉を通ると、ようやく体の芯の冷えが少しだけ薄れた。
「気味が悪いのは今さらじゃ」
「そうだけど」
エリナは小さく肩をすくめたあと、グランを見る。
「で、あなたはもう飛び出したくてたまらない顔してるわね」
「そうだ」
「素直すぎるのもどうかと思うわ」
「強いやつがいるかもしれねえんだろ」
「いても、勝手に突っ込んで全部壊したら後で困るのはこっちなんだけど」
「壊すのは強いやつだけだ」
「その言い方が怖いのよ」
やがて外で足音が増え始めた。眠そうな声、武具の触れ合う音、急いで支度したらしい荒い息。伝令が戻り、衛兵が一人、また一人と店の前に集まってくる。
市長は杯を空け、立ち上がった。
「行くぞ」
それからルシアを見る。
「屋敷の方には別に人を回す。本神殿へは私も行く」
ルシアはほんの少し眉を上げた。
「おぬしもか」
「自分の街で起きた事だ。人に任せきりにはできん」
「無茶はするなよ。おぬしは殴り合い向きの顔ではない」
「自覚はある」
その返しにルシアは少しだけ笑った。
店の外へ出ると、空はさらに白んでいた。まだ太陽は見えないが、東の低い位置だけ色が薄い。衛兵が数人、武装を整えた姿で待っている。中には欠伸を噛み殺している者もいたが、市長が出てきた途端に姿勢が変わった。
簡潔に指示が飛ぶ。
高級住宅街の屋敷へ向かう班。現場の確保と拘束を優先し、屋敷の中身には勝手に触れるなという事。こちらへ同行する班。森まで入るため装備を整え、長く歩ける支度をしてこいという事。
その最中、グランが衛兵たちを眺めながらぽつりと言った。
「邪魔だけはするなよ」
場の空気が一瞬止まる。
若い衛兵の一人がぎくりとした顔をし、市長が軽くこめかみを押さえた。ルシアは何も言わない。代わりにグランが続ける。
「強いのがいたら俺がやる。勝手に手を出すな」
数人の衛兵が顔を見合わせる。反論したそうな気配もあったが、市長が先に口を開いた。
「お前たちは自分の命を優先しろ。無理に前へ出るな」
それで場は収まった。収まったというより、強引に流されたという方が近い。衛兵の一人が小声で隣へ囁く。
「なんなんだ、あいつは」
「知らん。だが強いのは本当らしい」
ルシアの耳にも入ったが、特に咎めはしなかった。知らぬ者から見れば、そういう感想にもなる。
出発した頃には、空が完全に朝へ向かっていた。
街の門を抜け、人家を離れ、まだ湿り気の残る道を進む。朝露を踏む音が一定の調子で続く。やがて日が昇り、冷たかった空気に少しずつ温度が混じり始める。
最初のうちは会話も少なかった。眠気の残る衛兵たちは黙って歩き、市長も必要な指示以外は口を閉ざしている。ルシアは淡々と足を進め、グランだけが最初から最後までほとんど変わらぬ歩調だった。
日が高くなるにつれ、街道は細くなり、やがて森へ入る脇道へ分かれる。そこから先は、人の手の入った道とは言い難かった。草は伸び、枝が張り出し、土は湿って滑る。だがグランは迷わず進む。森の匂いを嗅ぎ分けるように、ただ前へ前へと歩いていく。
「本当にこの先なのか」
後ろから衛兵の一人が不安げに言う。
「匂う」
グランが短く答える。
「何がだ」
「嫌なやつらの匂い」
それで説明になっているのかどうか、衛兵はますます困った顔になった。市長は苦笑し、ルシアは肩をすくめる。
「そういう男じゃ。慣れろ」
「慣れられるんですか、これ」
「さあの」
昼を回るころには、森の空気がはっきり変わっていた。鳥の声が減り、獣の気配も薄い。風はあるのに葉擦れの音が妙に小さく、湿った土の匂いの奥に、長く放置した石と腐りかけた何かの臭いが混じってくる。
衛兵たちの顔つきが固くなる。
市長も足を止めはしないが、視線だけは周囲へ配っていた。ルシアはその横顔を見て、少しだけ感心する。こういう場所に慣れている訳ではないはずだ。それでも腰が引けぬのは、街の長としての意地か、元々の性分か。
グランは逆に機嫌がよくなっていた。
「近いな」
「分かるのか」
「匂いが濃くなってる」
それだけ聞いて、若い衛兵の一人が喉を鳴らした。森の奥へ進むにつれ、日の傾きも見えてくる。長い移動だった。普通の人間なら足も重くなるころだが、グランの歩みは変わらない。ルシアもまた、息を乱した様子はない。
やがて木々の向こうに、灰色の塊が見えた。
石造りの建物。
近づくほど、その輪郭がはっきりしていく。古い神殿だ。かつてはそれなりに整っていたのだろう。だが今は、壁の一部が崩れ、石段は欠け、蔦と苔に食われている。屋根の端も落ちており、正面の柱にもひびが走っていた。
それでも完全な廃墟ではない。
中に人がいる気配がある。息づいている、と言うには不快すぎるが、少なくとも死んだ場所ではなかった。
神殿を見上げ、グランが露骨に嫌そうな顔をした。
「またか」
ルシアが横で鼻を鳴らす。
「よくよく地下が好きなやつらじゃのう」
「上でやれよな」
「人目につくから嫌なのではないか」
「弱そうな考えだ」
「おぬし基準で物を言うな」
市長は神殿を見上げたまま、護衛の衛兵たちへ指示を飛ばす。
「半数は外を押さえろ。逃げ道を見張れ。中から飛び出してくる者がいても深追いはするな。合図があるまで持ち場を離れるな」
「はっ」
衛兵たちが散る。残ったのは市長と護衛役の数人、そしてグランとルシアだ。
「中へ入る」
市長の声に異論はなかった。
正面の石段を上がる。崩れた入口をくぐると、内部は薄暗かった。長く打ち捨てられていたはずの空間に、人の出入りの跡がある。床の埃は踏み荒らされ、壁際には新しい灯りの台が置かれ、雑に運び込まれた箱や布が積まれていた。
祈る場所ではない。
隠れるための殻だ。
奥へ進むと、案の定、床の一角に下へ続く穴が口を開けていた。石段が暗がりへ沈んでいる。
グランがうんざりしたように鼻を鳴らす。
「ほらな」
「当たっても嬉しくないのう」
ルシアが言うと、後ろの衛兵の一人が小さく乾いた笑いを漏らした。緊張で口元が引きつっている。
グランが先に降りる。
ルシアが続き、その後ろに市長と衛兵たち。石段の途中から、下の方で足音が響いた。気づかれたらしい。
「来るぞ」
グランの声と同時に、暗がりから黒い影が跳ねた。
短剣を持った男が二人。さらにその奥から槍を構えた者が一人。狭い石段を利用して足止めするつもりなのだろう。普通なら厄介な場所だ。
だが、グランは普通の相手ではない。
一人目の短剣を前腕で弾き、そのまま顔面へ拳を叩き込む。鼻も口もまとめて潰れた男が後ろへ飛び、二人目を巻き込んで転がる。そこへ槍が突き出されるより早く、グランは一段飛ばしで踏み込み、槍の柄ごと持ち主の腹を殴り抜いた。
息が詰まる音と共に、男が石段の下へ転げ落ちる。
狭い場所での乱戦になりかけたが、あまりに早く終わりすぎて、衛兵が剣を抜ききる前に道が開いていた。
「……」
誰かが何か言おうとして、結局言葉にならなかった。
地下へ降り切る。そこから先は通路になっていた。石の壁、低い天井、ところどころに吊るされた灯り。湿った空気の中に、血と香と腐臭が混じる。
通路の先から、さらに敵が現れる。
今度は数が多い。剣、棍棒、短槍。服装はばらばらだが、目つきは同じだ。まともな理性より、どこか別の熱に焼かれている顔。
グランが笑う。
「遅えな」
言った次の瞬間には、もう突っ込んでいた。
最初の一人の胸ぐらを掴み、そのまま壁へ叩きつける。石が割れ、男の体がずるりと崩れる。横から棍棒が振り下ろされるが、グランは受けもせず正面から頭突きを返した。相手の顔面が潰れ、棍棒が手から落ちる。
さらにもう一人を蹴り飛ばし、後続ごとまとめて転ばせる。通路が狭いせいで、倒れた者が邪魔になり、後ろの連中まで前へ出られなくなる。その塊へ、グランがそのまま突っ込んだ。
殴る。掴む。叩きつける。
動きに迷いがない。敵の武器も位置も関係ない。前にいるものを、そのまま正面から潰していく。
ルシアは横へ流れて、グランが漏らした相手だけを沈める。喉、顎、鳩尾、膝。最小限の動きで崩し、床へ転がす。市長たちはその後ろから来るが、手を出す間がない。いや、出せたとしても出さぬ方が賢いと分かってしまう。
護衛の衛兵の一人が、小さく呟いた。
「まるで魔獣だ」
それを聞いたルシアが、わずかに口元を上げる。
「失礼な。あれはあれで獣人じゃ」
「そういう意味ではなく」
「分かっておる」
市長は苦笑しながらも視線を外さない。慣れつつあるのか、引いてはいても腰は引けていなかった。
通路を抜け、広めの空間へ出る。そこにも敵がいる。祭具めいた刃物を持った女が叫びながら飛びかかってくるが、グランはその叫びごと拳で潰した。脇から二人が同時に来る。片方を掴んで投げ、もう片方は肩からぶつかって壁へ押しつける。
何人もいるのに、誰も一瞬たりとも優位に立てない。
衛兵たちは唖然としたまま、それでも遅れぬように後を追う。自分たちが守るべき対象なのか、ついていく側なのか、もう分からなくなっている顔だった。
「市長」
護衛の一人が不安げに言う。
「このまま前に出なくても」
「前には出る。だが無理には出るな」
市長の答えは短い。眼前の異様な光景を見ても、声だけはぶれなかった。
やがて通路の先が開けた。
そこだけ空気が違う。
広い地下空間だった。天井も高い。床一面に大きな魔法陣が刻まれ、その線の溝に何か黒い液が流し込まれている。血かどうかは、近づけば分かるだろう。分かりたくもないが。
魔法陣の中心には、筋肉質な大男の死体が横たわっていた。
裸に近い姿で、全身に傷がある。生きていれば相当な体格だっただろう。だが今は色が悪く、まったく動かない。周囲にも、等間隔で幾つもの死体が並べられている。男も女も、若いのも老いたのも混じっていた。どれももう、生者の気配はない。
その奥で、老女が一人、ぶつぶつと呪文を唱えている。
背は低く、腰は曲がり、見た目だけならただの干からびた婆だ。だが、その場を支配している気配は間違いなくこの老女から出ていた。湿った地下の空気が、あの呟きに合わせて重く波打っている。
市長と衛兵が息を呑む。
最初に動こうとしたのは護衛の衛兵だった。首領と見て取ったのだろう。老女を押さえようと一歩踏み出しかける。
その前に、グランが片手を上げて止めた。
「待て」
衛兵がぎょっとして足を止める。
グランは老女を見たまま、真顔で言った。
「そいつは強いのか?」
場の空気が妙な方向へずれた。
市長が一瞬だけ目を閉じる。苦笑なのか呆れなのか分からぬ表情を浮かべ、衛兵たちはぽかんと口を開けた。ルシアだけが、ああいつものかという顔で肩をすくめる。
老女は呪文を止めぬまま、濁った目をグランへ向ける。
「古き神が降りる。選ばれた器へ、御身が宿る」
グランは眉をひそめた。
「なんだって?」
ルシアが横で淡々と訳す。
「多分、強いと言っておるんじゃろう」
その一言で、グランの顔がぱっと明るくなった。
「ほんとか」
「保証はせん。じゃが少なくとも、弱いとは言っておらん」
グランの口元が吊り上がる。
老女の目が怒りで見開かれた。
「穢れた獣ごときが、神の御業を前に」
「やかましいのう」
ルシアが呟く。だが止めない。止める必要も感じていない顔だ。
老女の声が次第に大きくなる。ぶつぶつとした呟きが、節を持った詠唱へ変わっていく。魔法陣の溝に流し込まれた黒い液が、内側からじわりと光り始めた。
床に横たわっていた死体が、びくりと震える。
衛兵の一人が息を呑んだ。
「動いた」
次の瞬間、等間隔に並んでいた死体が、ずるりと魔法陣の中心へ引き寄せられた。
肉の擦れる音。
骨が軋む音。
乾いた何かが砕ける音。
人の体が人の形を失いながら、真ん中の大男の死体へと絡みついていく。腕が、脚が、胴が、ぐしゃりと潰れ、溶け、無理やり混ざる。大男の胸が膨れ、その肩に別の肩が重なり、背中へ誰かの肋骨が沈み込み、肉が盛り上がっては裂け、またくっつく。
見ていて気分のいいものではなかった。
衛兵たちの顔色が目に見えて悪くなる。誰かが吐きそうな息を漏らし、市長の目つきも完全に変わった。先ほどまでの苦笑は消え、真剣そのものの顔になる。
「これは」
そこで言葉が切れる。
軽い摘発だの、邪教徒の巣だの、そんなものではない。今、目の前で行われているのは、もっと露骨で、もっとまずい何かだと、誰の目にも分かった。
だがグランだけは違った。
その異形の融合を見て、嬉しそうに歯を見せる。
「いいな」
まるで待ち望んでいた玩具をようやく見つけた子どものような顔だった。肩が少しだけ上がり、拳が鳴る。
ルシアはその横顔を見て、深く呆れるように息をつく。
「少しは落ち着け」
「なんでだよ。やっと少しは楽しめそうだろ」
「分かるが、顔に出すぎじゃ」
「いいだろ別に」
老女は怒りに震えながらも詠唱をやめない。むしろ、その怒りごと儀式へ注ぎ込んでいるようだった。魔法陣の光はさらに強くなり、肉の塊は大男の形を基礎にしながら、そこへ別の死体を取り込んで膨れ上がっていく。
片腕が二本分ほどの太さになり、胸板は不自然に盛り上がり、首筋には別の筋肉が幾重にも重なる。顔の輪郭はまだ大男のそれに近いが、頬の一部が裂け、別人の顎が食い込んだような歪み方をしていた。
衛兵の一人が後ずさる。
「市長」
「下がるな」
市長の声は低かったが、芯があった。怖じてはいる。だが逃げる気はない。
ルシアはちらとその横顔を見る。大したものだ。あの異形を前にしてなお、足が前を向いている。
グランはもう、老女よりも中心の塊しか見ていなかった。
「楽しませてくれよ」
肉が軋み、骨が鳴り、魔法陣の光が脈打つ。
その音の中で、ルシアが呆れ半分の声を落とす。
「ほんに、おぬしは」




