第三話 遅いなら速くなれって話だろ
まぶたの裏がまだ暗いうちに、腹へ軽い衝撃が入った。
反射で目が開く。
同時に、体が勝手に跳ね起きた。焚き火はほとんど灰になっていて、夜の冷気がまだ地面の上に薄く残っている。湿った草の匂いと、消えかけた炭の匂い。空は東の端だけがかすかに白んでいた。
目の前にはルシアが立っている。
白金の髪を夜明け前の風に揺らしながら、昨日と同じ涼しい顔でこちらを見下ろしていた。
「起きろ」
声は短い。
グランは首を鳴らし、まだ重い背中を起こした。全身のあちこちが鈍く痛む。昨日刻まれた奴隷紋の線も、熱は引いたがひりつきだけは皮膚の下に残っていた。胸も脇腹も脚も、寝ている間に勝手に治るような軽い疲れではない。
だが不機嫌になるほどじゃない。
むしろ、何をさせる気か少しだけ気になった。
「まだ暗いぞ」
「だから何じゃ」
「いや、別に」
ルシアはそれ以上何も言わず、背を向けた。
「来い」
それだけ言って歩き出す。
理由も説明もない。どこへ行くとも言わない。だが足取りに迷いがないところを見ると、最初から頭の中では全部決まっているのだろう。
グランは大きく息を吸って立ち上がった。草の上に落ちていた上着を引っかけ、昨日の残りの水を一口だけ飲む。喉へ落ちる冷たさが気持ちよかった。
「飯は?」
「後じゃ」
「ふうん」
腹は減っている。だが空腹くらいで文句を言うほど子供でもない。足首に残る鎖を軽く蹴って感触を確かめ、グランはルシアの背中を追った。
野営地を少し離れると、地面はすぐに荒れた。背の低い木々を抜けた先は緩い斜面になっていて、夜露を吸った土がわずかに柔らかい。遠くで鳥の鳴き声がひとつ。まだ朝には早い、そんな時間だった。
ルシアが振り返る。
「走れ」
そこでようやく、今日最初の言葉の意味が見えた。
グランは鼻を鳴らす。
「どこまでだ」
「死なぬ程度までじゃ」
言い終わるより早く、ルシアが地を蹴った。
風が動く。
長い髪が一度だけ大きく流れ、そのまま白い背が斜面の向こうへ走り抜けた。
「はっ」
笑いが漏れる。
面白い。
グランも足に力を込めた。爪先が土を抉り、体が前へ飛ぶ。朝の冷たい空気が頬を切り、夜露の残る草が膝を払った。
最初のうちは軽い。
体を温めるにはちょうどいい速さで、ルシアは前を走る。グランも余裕でついていく。まだ眠りの重さが残る筋肉が、二歩三歩と踏み込むうちに目を覚ましていくのが分かった。肺が広がり、鼓動が少しずつ上がる。獣の体はこういう時に気持ちいい。重くも軽くもなれる。
だが、しばらくするとルシアの背中がわずかに遠ざかった。
それも、気のせい程度ではない。
最初は木一本分。次は岩ひとつ分。その次は、踏みしめた土の匂いひとつ分だけ確かに差がつく。グランは眉を寄せ、自然と歩幅を広げた。
前へ。
もっと前へ。
それなのに、白い背中は離れる。
斜面を駆け下り、浅い沢を飛び越え、木の根が這う地面を踏み抜くように進む。ルシアは一度も足をもつれさせない。草地も岩場も水辺も変わらず同じ速さで抜けていく。その背中がやけに腹立たしかった。
「遅い」
振り返りもせずに、ルシアが言った。
グランは奥歯を鳴らした。
「うるせえ」
「事実じゃ」
言葉の終わりと同時に、ルシアの速度がもう一段上がる。
地形が変わる。森の縁を抜けた先、岩の多い斜面へ入った。むき出しの石が朝露で滑り、踏み損ねれば足を取られる。普通のやつなら速度を落とす場所だ。だがルシアは逆だった。足場の悪さなんて最初から存在しないみたいに走る。
なら、落とす理由はない。
グランも上げる。
足裏の感覚を研ぐ。硬い石、湿った苔、浮いた砂。ひとつひとつを考えていたら遅れる。だからもう考えない。見えたところへ踏み込む。滑ったら次で取り返す。その繰り返しだ。
距離はまだ縮まらない。
だが、広がる速さは鈍った。
その時、ルシアが低い岩棚をひと息で飛び越えた。次いでその先の崖縁へ。普通の歩幅なら三歩は要る距離を、軽々と跳ぶ。
グランは迷わず踏み切った。
着地の瞬間、足元の岩が砕ける。石片が転がり、崖下へぱらぱらと落ちていった。浅ければ脚を取られるし、深ければ骨を折る高さだ。それでもルシアは止まらない。崖沿いの細い出っ張りを蹴り、その先の突き出た大岩へ飛ぶ。
グランも追う。
胸の奥で熱が膨らむ。
いい。こういうのは嫌いじゃない。いや、むしろ好きだ。考える間もなく体が先に動く。届くか届かないか、その一瞬だけに全身がまとまる感覚がある。
ルシアがまた言った。
「相手が速いのなら、より速く」
風に乗って届く声は、妙にすっきりしていた。
「それだけじゃ」
「分かってる!」
吠え返し、グランはさらに踏み込む。
そこで初めて、ほんの少しだけ距離が詰まった。
白い背中が近い。
いや、近いと言うにはまだ遠い。それでもさっきよりはましだ。自分の呼吸音の向こうに、ルシアの足音の間隔が少しだけ大きく聞こえる。それだけで十分だった。
崖を抜け、低木の多い平地へ出る。ここでルシアが急に止まった。
土を滑るように回り込み、そのまま正面を向く。
「来い」
言われる前から行っていた。
グランは勢いを殺さず、そのまま拳を叩き込む。走って溜まった熱をぶつけるみたいな、まっすぐな一撃だ。空気が鳴る。地面を抉るほど踏み込んだ感触が脛まで伝わる。
だが、当たらない。
ルシアの体がわずかにずれた。ほんの指二本ぶんくらいの動きなのに、拳は頬の前を空しく切る。そのまま腹へ膝が入った。
息が詰まる。
続けて顎へ手の甲が当たり、視界が揺れた。
「遅い」
舌打ちし、腕を振り回す。今度は肘。次は裏拳。続けて回し蹴り。全部本気だ。だがどれも薄く空を裂くだけで、ルシアには届かない。
届いたと思った瞬間には、もういない。
逆に肩へ、脇腹へ、胸へ。短い打撃が無駄なく刺さる。重さはそこまでじゃない。なのに嫌に効く。芯へ入る。雑に殴りつけるのではなく、ちゃんと潰す場所を選んでいる感じだ。
「浅い」
「うるせえ!」
「足が止まっておる」
言われた瞬間、自分でも分かった。
止まっている。
拳を振るうたび、一瞬だけ足が地面へ縫われる。その一瞬をルシアに取られている。
なら止めなきゃいい。
グランは拳を引かず、そのまま体ごとぶつけるつもりで前へ出た。肩で押し切る。腕力で潰す。細かいことはいい。とにかく前へ。
その瞬間、首筋から胸へかけて奴隷紋が灼けた。
熱い。
昨日の刻印の時とは違う、内側から裂けるような痛みだ。首の下で眠っていた線が一斉に目を覚まし、肩、腕、脇腹、背中へ焼けた刃を走らせる。筋肉が一瞬だけ強張り、踏み込みが鈍る。
「……邪魔だな」
歯の間から吐き出した言葉を、ルシアはちゃんと聞いていたらしい。
彼女は半歩下がって目を細める。
「当然じゃ。おぬしは危険すぎる」
答えながらも容赦はなかった。
次の打撃が胸の中央へめり込み、グランの体が数歩分だけ吹き飛ぶ。背中から地面を擦り、草と土の匂いが一気に鼻へ入った。だが寝たままでは終わらない。片膝で踏ん張り、すぐに立つ。
胸が痛い。脇腹も軋む。奴隷紋も鬱陶しい。だが、まだ動ける。
ルシアが白い指をひとつ立てた。
「止まるな」
「言われなくてもそうしてる」
再び踏み込む。
さっきより速く。
さっきより近く。
考えずにいく。届かないなら届くまで踏み込む。避けられるなら、その先に体ごと突っ込む。そうやって何度かぶつかるうち、ルシアの口元がわずかに上がった。
けれど褒めてはいない。
そのまま右の拳を紙一重で流され、返しの肘が耳の後ろへ刺さった。世界が横に跳ぶ。次に視界が戻った時には、ルシアの足先が顎の前にあった。
まともにもらう前に身をひねり、衝撃を逸らす。なおさら地面に転がったが、首までは持っていかれない。
自分の喉の奥で笑いが出た。
「楽しそうじゃの」
「お前もな」
「当たり前じゃ」
どれくらい殴り合ったか分からない。
空が少しずつ明るくなり、風が冷たさを失っていく。汗が首を伝い、紋の線に入り込むたびにひりついた。足は重い。拳も痺れる。なのに、まだ足りない気がしていた。
ようやくルシアが手を引き、近くの岩へ腰を下ろしたのは、太陽が完全に顔を出してからだった。
「休め」
唐突な言葉に、グランは舌打ちしながらもその場へ座り込む。膝に肘を乗せ、何度か深く息を吐いた。肺が熱い。背中は汗で濡れ、頬には乾ききらない土が張りついている。
ルシアが水袋を投げてよこした。
受け取り、口をつける。冷たい水が喉を落ちていく感触が、今は妙にうまかった。昨日の残りらしい肉も投げられる。塩気も何もない、ただ焼いて余っただけの肉だ。それでも腹に入ればありがたい。
「最初からこれやる気だったろ」
噛みちぎりながら言うと、ルシアは平然と頷いた。
「当たり前じゃ」
「昨日の夜から決めてた顔だな」
「甘やかして何になる」
それはそうかもしれない。
グランは肉を呑み込み、水をもうひと口飲んだ。
「嫌いじゃねえ」
その一言に、ルシアがほんの少しだけ眉を寄せる。
「気持ち悪いのう」
「褒めたんだよ」
「要らぬわ」
やり取りの最中にも、風が草を揺らし、朝の光が少しずつ強くなる。さっきまで殺し合いみたいに殴り合っていたのに、こうして座っていると妙に静かだった。
ルシアはしばらく空を見ていたが、不意に立ち上がった。
「行くぞ」
「今度は何だ」
彼女は顎で前方の森をしゃくる。
「肉の礼をしてやる」
言われた意味はすぐに分かった。
森の空気が少し濃い。獣の匂いが乗っている。
グランも立ち上がり、口の端を上げた。
「やっとか」
低い森だった。背の高い木ばかりではなく、幹の太い木々の間に茂みが多い。踏み入ると土は柔らかく、落ち葉の下に湿り気が溜まっている。鼻を利かせれば、獣だけでなく血の匂いまで混じっていた。
ルシアが足を止める。
少し先の空き地に、魔獣がいた。
四つ足。肩の高さだけでもグランの胸近くある。黒い剛毛と盛り上がった筋肉、口元から突き出た長い牙。鼻先を地面へ擦りつけながら、こちらの匂いを嗅いでいる。猪に似ているが、あれよりずっとでかく、ずっと凶暴だ。背の毛が逆立ち、目が血で濁っていた。
ルシアが短く言う。
「倒せ」
それだけ。
指示と呼ぶにはあまりにも短い。だが十分だった。
グランは笑う。
「言われなくても」
次の瞬間には地を蹴っていた。
魔獣も吠えた。喉を震わせる低い咆哮が森を揺らし、土を蹴って突っ込んでくる。速い。重い。真っ向からぶつかれば、普通の人間なら骨ごと持っていかれるだろう。
だからこそいい。
グランは避けない。
正面から行く。
踏み込み、拳を振るう。牙の付け根を狙った一撃はまともに入り、鈍い音と一緒に魔獣の頭が横へ流れた。だが倒れない。逆に勢いそのままで肩からぶつかってくる。受けた腕が痺れ、体が半歩押された。
重い。
けれど押し負けるほどじゃない。
グランは低く唸り、両腕を回して首へ絡みつく。魔獣も全身を使って押し返す。前足が土を掻き、後ろ脚が地面を抉る。鼻息が熱い。口から獣臭い唾が飛ぶ。互いの力がぶつかり合い、足元の土がぐしゃぐしゃに潰れた。
疲れているのは事実だった。
朝から走らされ、殴られ、紋も焼けている。腕も肩も万全じゃない。なのに、体の奥に残っていた熱がここで一気に燃えた。
もっと強く。
もっと速く。
それだけだ。
魔獣が首を振り、グランを振りほどこうとする。なら、もっと前へ。脚を踏み込み、肩を押し込み、頭を下げる。正面から力で勝つ。押されるなら押し返す。
膝が滑りそうになった瞬間、朝の走りの感覚が蘇った。
考えるな。
足場を読むな。
感じて踏め。
足が勝手に位置を変える。力の流れに合わせて踏み直す。崩れかけた体勢が、その一歩だけで立て直る。次の瞬間には腰が前へ入っていた。
グランは魔獣の首を無理やり下へ押し込む。
地面へ。
土が爆ぜ、前脚が沈む。
そこへ片膝を乗せた。さらに腕に力を込める。喉元の分厚い毛皮越しに脈打つ熱が伝わってくる。魔獣は暴れた。背がうねり、前脚が土を掻き、牙が横へ振り抜かれる。頬が少し裂けた。だが離さない。
「暴れんな」
笑いながら、さらに押さえつける。
片腕で首を、もう片方で前脚を潰すように押し込む。巨体がじたばたと跳ねるたび土と血が飛んだ。鼻へ生臭い匂いが入る。耳元では荒い息と唸り声が混ざっている。
それでも、押さえた。
完全に。
喉元が無防備になる。
なら終わりだ。
グランはためらわなかった。
顔を寄せ、そのまま喉へ噛みつく。
分厚い毛皮の下の皮膚は固い。だが顎へ力を込め、首をひねる。肉が裂ける感触。血の味。熱い液が口の中へ流れ込み、鉄臭さが舌に広がった。さらに噛み、さらに引く。
ぶち、と嫌な音がした。
魔獣の体が大きく跳ね、次の瞬間には力が抜ける。
喉が裂け、血が噴いた。
グランは口を離し、魔獣の頭を地面へ叩きつける。そのまましばらく押さえ続けたが、もう動かない。森の中に残るのは血の匂いと、自分の荒い呼吸だけだった。
ゆっくり立ち上がる。
口元を拭うと、手の甲が赤く染まった。
ルシアは少し離れた場所に立ち、静かにこちらを見ていた。その目が、いつもよりほんの少しだけ細い。
「さすがじゃのう」
短い一言だった。
けれど軽くはなかった。
グランは手の甲の血を舐め取り、口の端を吊り上げる。
「今日ので惚れたか?」
ルシアが間を置かず返す。
「アホか」
白い足が血の近くまで一歩だけ進む。魔獣の死骸とグランを見比べるように視線が動いて、それから真っ直ぐこちらへ戻った。
「もっと強くなれば惚れてやる」
その言い方が、妙に気に入った。
どうせ無理だと笑うでもなく、今のままでは足りぬと切るでもなく、その先をちゃんと見ている声だったからだ。
グランは肩を回す。朝から溜まった痛みがそこで一度に顔を出したが、それでも機嫌は悪くない。
「じゃあやるしかねえな」
「最初からそう言うておる」
ルシアは死骸を一瞥し、背を向ける。
「戻るぞ」
帰り道、森を抜ける風は昼の熱を含み始めていた。陽が高くなり、木漏れ日が地面へ斑に落ちる。グランは魔獣の血を多少浴びたまま歩き、ルシアはそれを特に気にも留めない。
しばらく無言が続いたあと、ルシアがぽつりと言った。
「朝よりはましじゃ」
グランは視線だけを向ける。
「そりゃどうも」
「だがまだ遅い」
「抜かすな」
「事実じゃ」
「お前が速すぎんだよ」
その愚痴に、ルシアが小さく笑う。
「ならもっと速くなれ」
それはそうだ。
気に食わないほど、そうだった。
野営地へ戻る頃には、陽は少し傾き始めていた。焚き火を起こし、水場で血をざっと流す。口元の傷は浅く、もう止まっている。体のあちこちが重いのに、不思議と不快ではない。
ルシアがまた肉を出した。
昨日の残りに加えて、今日の魔獣から切った分もある。分厚い肉塊を見て、グランは喉を鳴らした。
「今日はまともな飯になりそうだな」
「奴隷が働いた結果じゃ」
「うるせえ主人だな」
焚き火へ肉をかざす。昨日より火加減が分かる。脂の落ち方、焼ける匂い、肉汁の浮き方。美味く焼こうと思ったわけではないが、適当にやっても昨日よりはましだと分かった。
先にルシアへ渡す。
彼女は一口噛み、少しだけ頷いた。
「昨日よりは良い」
「上からだな」
「上からじゃ」
堂々と言われると、逆に笑えてくる。
グランも肉を食う。今日の方がうまい。焼けた表面の香ばしさと、中に残った汁の熱さがちゃんと分かる。腹が減っていた分もあるが、それだけじゃない。走って殴って血を浴びたあとだから、なおさらうまかった。
食事が進み、焚き火がぱちりと弾ける。
夜は昨日より少しだけ静かだった。互いの呼吸の間が、ほんのわずかに自然になっている。
だからだろう。
グランは肉を噛みながら、ふと思ったことをそのまま口にした。
「今日ので少しは見直したか」
ルシアが杯代わりの金属椀へ水を注ぎながら視線を上げる。
「何をじゃ」
「将来の夫候補としてだよ」
一拍遅れて、ルシアが呆れたように息を吐いた。
「まだ言うか」
「言うだろ。約束したしな」
「約束の意味を勝手に捻じ曲げるでない」
「捻じ曲げてねえ。優勝したら嫁でも奴隷でもなってやるって言ったのはお前だ」
「言った」
「なら問題ねえ」
ルシアはしばらくグランを見ていたが、やがて火へ視線を戻した。
「まだ雑魚じゃ」
その一言に、グランは鼻で笑う。
「雑魚じゃねえ」
「ほう」
「お前より少し弱いだけだ」
ルシアの口元がわずかに動く。
「その差が天と地ほどあるのじゃ、愚か者」
「埋めりゃいいだけだろ」
「軽く言うのう」
「軽くやるつもりはねえよ」
その返しに、ルシアは珍しく何も言わなかった。
焚き火の明かりが白金の髪を赤く染める。長い睫毛の影が頬へ落ち、その横顔はやっぱり妙に綺麗だった。偉そうで、腹が立って、強くて、そして手に入れたいと思わせる顔だ。
グランは肉を食い終え、背中から草の上へ転がった。
夜空には星が広がっている。昨日よりもよく見える気がしたのは、体の奥に余計なもやもやがないからだろう。全身は重い。肩も脚も胸も痛む。奴隷紋は汗を引いたあとでじくじくと熱を返し、噛みついた時に裂けた頬も触ればまだ少し沁みた。
なのに、口元は勝手に緩んでいた。
悪くない。
むしろいい。
理屈はいらない。速いなら速くなればいい。強いならもっと強くなればいい。目の前に分かりやすい壁があって、それを叩き壊すだけなら話は簡単だ。
ルシアが横で火を見ながら言う。
「明日も同じと思うなよ」
「同じの方が珍しいだろ、お前は」
「分かっておるならよい」
少しの沈黙のあと、グランは空を見たまま答える。
「なあ」
「何じゃ」
「もっと強くなったら、本当に惚れるのか」
ルシアはすぐには返さなかった。
ぱちり、と薪が鳴る。その火の音を挟んでから、彼女は静かに言う。
「少なくとも今よりは、見る目も変わろうな」
曖昧な返事だ。
けれど、それで十分だった。
雑にはぐらかしたわけじゃない。今の自分では足りないが、その先に何かがあると認めた声だったからだ。
グランは喉の奥で小さく笑う。
「ならいい」
もうそれ以上、言うことはなかった。
風が流れ、火が揺れ、草の匂いが夜露と混ざる。目を閉じると、朝の走りの感触がまだ脚の中に残っていた。岩を蹴った感触、ルシアの背中が遠ざかる腹立たしさ、追いつきかけた時の熱。魔獣の喉を食い千切った時の血の味まで、まだ口の奥に薄く残っている。
こういうやり方なら、どこまでも行ける気がした。
考えなくていい。迷わなくていい。ただ前へ出て、届かないなら届くまで速くなればいい。押し返されるなら、もっと強く押し返せばいい。
それなら分かる。
それなら、オレはどこまでも強くなれる気がした。
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