第ニ十九話 やっぱりこっちか
夜のアルトリアは、昼の賑わいが嘘みたいに静かだった。
石畳の上を、二つの影が続けざまに走る。前を行くのはグランだ。迷いのない足取りで、角を曲がり、細い通りを抜け、広い道へ飛び出す。その背を、ルシアがぴたりと追っていた。
夜気は冷えているのに、グランの吐く息は熱い。鼻先がわずかに動くたび、進む方向が決まる。躊躇はなかった。一瞬でも立ち止まれば匂いが散るなどと考えている訳でもないのだろう。ただ、この先にいると分かっているから走っている。そんな走りだった。
ルシアは何も聞かなかった。
問う必要がない。グランがこうして真っ直ぐに走る時は、だいたい外れない。理屈を積み上げて辿るやり方ではないが、だからこそ強い。人の目が届かぬところ、人の頭が見落とすところを、こやつは平然と拾い上げる。
家並みが変わった。
建物と建物の間に余白が生まれ、塀が高くなる。門は飾り立てられ、灯りは少ないくせに、窓枠や壁の細工だけが闇の中でも分かるほど上等だ。昼ならば、行き交う荷車の軋みや召使いらしき者の出入りで、いかにも金持ちの住まう一角と知れるのだろう。だが今は、整いすぎた静けさばかりが目についた。
高級住宅街。
アルトリアでも、選ばれた連中だけが住める場所だ。
グランが不意に足を止めた。
石畳を軽く滑り、肩で息をすることもなく、真っ直ぐ前を見据える。ルシアも一歩遅れて並び、その視線の先を追った。
通りの奥に、大きな屋敷がある。
周囲の家も十分に大きい。だが、その中でも明らかに格が違った。敷地は広く、塀は高く、門は重厚だ。庭木の影が塀越しにのぞいている。昼に見れば手入れの行き届いた見事な庭なのだろうが、夜の今は黒々とした塊にしか見えない。それでもなお、金のかかった屋敷だと分かるだけの圧があった。
グランが短く言った。
「あれだ」
ルシアは、ふっと口元を緩めた。
「ほう」
それだけで十分だった。
門の前まで行く。門番の姿はない。詰所らしき小屋はあるのに、気配がない。灯りもない。これほどの屋敷なら、夜であろうと見張りの一人や二人いて当然だ。いや、屋敷の大きさを思えば、二人や三人では足りぬだろう。
それなのに、誰もいない。
グランが門を一瞥する。
「開いてるな」
言葉どおり、門は閉じてはいるが、錠は掛かっていない。押せばそのまま開きそうだった。
ルシアは門柱に軽く指を当て、目を細めた。冷たい石の感触の向こうに、人の気配は確かにある。屋敷の中に、それなりの数がいる。息を潜めている気配だ。静かすぎる。
「ふむ、誘われたか」
グランは鼻で笑った。
「別にいいだろ」
「そうじゃな」
ルシアが門を押すより早く、グランが手を掛けた。重い門が軋みながら開く。音はした。だが、それで慌てて飛び出してくる者はいない。むしろ、その音を待っていたような、そんな静けさが敷地の中に満ちていた。
二人はそのまま足を踏み入れた。
砂利が鳴る。正面には広い前庭と、石畳の道。その先に大きな玄関扉。左右に植え込み、壁際には彫像じみた飾り。金をかけて整えられた屋敷特有の、嫌味なくらいに行き届いた景色だ。だが、今はどこにも人の温度がない。
グランが鼻を鳴らした。
「中にはそれなりにいるな」
そのまま歩き出そうとする背へ、ルシアが声を投げる。
「待て」
グランが振り向いた。
「ん?」
ルシアは扉を見たまま言った。
「くれぐれも殺すな」
グランの眉がわずかに動く。
「なんでだよ」
「きちんとわらわたちの家の修理費と迷惑料を取り立てねばならんからのう」
一拍置いて、グランが本気で考える顔になった。
「半殺しならいいか?」
「死んでおらねばかまわん」
「分かった」
返事は実に軽かった。
次の瞬間には、グランの脚が玄関扉へ叩き込まれていた。
分厚い扉が、破裂するような音を立てて内側へ吹き飛ぶ。蝶番が千切れ、木片が散り、夜の静けさをまとめて叩き壊した。
同時に、殺気が弾けた。
正面の広間の奥から矢が来る。一本ではない。二本、三本、続けざまに空気を裂く。左右の扉の影からも黒ずくめが飛び出し、剣だか短刀だか分からぬ刃が闇を走った。
グランは一歩も引かなかった。
正面から飛んできた矢のうち一本を、顔だけわずかに動かして咥える。牙で挟まれた矢が、ぴたりと止まる。そのまま前へ出る。左右から来た黒ずくめの一人の顔面を拳で潰し、もう一人の腹へ膝を叩き込み、さらに踏み込んで肩から突っ込んできた相手の首根っこを掴んで床へ叩きつけた。
床板が割れる音がした。
矢を放った者が、引きつった顔でさらに弓を引く。だが遅い。グランはまだ口に矢を咥えたまま、そのまま突っ込む。弓ごと胸を殴りつけられた男が、息を吐く暇もなく壁へ吹き飛んだ。
ルシアは少し遅れて屋内へ入る。
飛び散った扉板を軽やかに跨ぎ、倒れた黒ずくめのそばで足を止める。つま先で脇腹を軽く蹴った。苦しげな呻きが返る。
「うむ、生きとるな」
確認を終えると、今度は背後から短剣を振り下ろしてきた別の黒ずくめの手首を、体を半歩ずらすだけで避け、そのまま肘を顎に打ち込む。相手の頭が跳ね上がり、膝が崩れた。そこへさらに足払いを掛け、床へ転がした。
正面から潰す。
それだけで足りていた。
広間にいた連中が次々と襲いかかる。数で押し切るつもりなのだろう。だが、グランの前では数など形をなさない。拳が一つ振るわれるごとに、一人か二人がまとめて転がる。掴まれた者は投げられ、ぶつけられた者同士で絡まり、立ち上がろうとしたところへまた拳か脚が落ちる。
黒ずくめの一人が、腹を抉られたはずなのに立ち上がってきた。普通なら息もできぬはずの傷だ。それでも歯を食いしばり、目を血走らせて刃を振るう。別の一人は肩が外れたようにだらりと垂れているのに、反対の手で短刀を握り、低く駆けてくる。
グランが顔をしかめた。
「つまんねーな、こいつら」
前から来た男の顔を掴み、そのまま柱へ押しつける。骨のきしむ音がした。男は悲鳴も上げずに刃を振ったが、その手首をグランが逆の手で捻り上げると、ようやく獣じみた声を漏らして崩れた。
ルシアが階段の方から飛び込んできた女を蹴り落としながら答える。
「まぁ、弱い訳ではないがの」
その言葉どおりだった。
動きは悪くない。踏み込みも速い。刃に迷いもない。痛みを忘れたように前へ出てくるし、倒れても倒れてもまだ来る。まともな相手なら、かなり厄介だったはずだ。
だが、相手が悪い。
グランは腕ごと斬りかかってきた男の懐へ正面から入り、拳を一発だけ胸へめり込ませた。鈍い破裂音がして、男の体がくの字に折れる。そのまま後ろへ吹き飛び、後続の二人をまとめて巻き込んだ。
ルシアも、必要以上に飾らない。しなやかにかわし、打ち、崩す。喉や顎、鳩尾、膝。効く場所だけを淡々と叩き、相手を積み上げるように沈めていく。床へ転がった者の脇腹を足先でつつき、息があることを確かめてから先へ進むその姿は、妙に手慣れていた。
広間を抜ける。長い廊下へ出る。
廊下の両側に扉が並び、壁には高価そうな絵や飾り皿が掛かっている。絨毯も厚い。踏みしめる足音が沈むほどだ。だが、今はその上に黒ずくめが転がり、血ではなく唾や汗を撒き散らしていた。
角を曲がったところで、また二人。
上から一人。
扉の陰から一人。
グランは天井近くの梁から飛びかかってきた男を片手で受け止め、そのまま廊下の壁へ叩きつけた。壁の漆喰が砕ける。扉の陰から突いてきた短槍は、握ったまま横へ逸らし、持ち主ごと引き寄せて頭突きで沈めた。
廊下の先で、ルシアが片眉を上げる。
「おぬし、もう少し加減せい。あまり壊すとやっかいじゃ」
「知らねえよ。向こうが勝手に壊れてるだけだ」
「おぬしが壊しとる」
言いながら、ルシアは横から飛び込んできた一人の足首を払った。宙に浮いた体へ、返す足で腹を打つ。相手はそのまま絨毯の上を滑っていき、壁際の花台にぶつかって止まった。
グランが鼻を鳴らす。
「とりあえず動けなくしときゃいいんだろ」
「それはそうじゃがの」
階段を上がる。二階にもいる。扉が開くたびに黒ずくめが出てくる。寝室らしき部屋、書斎らしき部屋、客間らしき広い部屋。どこにもまともな住まい手の気配はない。使われているようで、使われていない。見せかけだけ整えて、中身を別の何かに食われた屋敷の匂いがした。
グランが書斎らしき部屋の扉を蹴り開ける。中にいた二人を見つけるなり踏み込み、机ごと薙ぎ倒した。本棚が揺れ、本がばらばらと落ちる。片方の男が懐から小瓶を取り出しかけたが、グランがその手を握り潰す方が早い。瓶が砕け、妙な臭いが散った。
ルシアが鼻をしかめる。
「魔薬か」
床でもがく男の目は、焦点が合っていない。痛みより命令だけで動いているような目だ。もう一人も、肋を折られているくせに立ち上がろうとして、足がもつれてまた転ぶ。
「鬱陶しいのう」
ルシアはその背中を軽く蹴り、再び沈めた。
二階を一通り潰しても、肝心の頭らしき者は出てこない。
広い屋敷にしては、妙だ。
グランが階下へ戻りながら言った。
「まだ下にいるな」
ルシアも同じことを感じていた。正面から叩き込み、広間も廊下も部屋も二階もひっくり返した。それで終わりなら、あまりに間抜けだ。これだけの屋敷を使い、これだけの数を潜ませておいて、肝心の奥がないなどありえない。
広間の奥へ進む。
壊れた扉の破片を踏み越え、壁際の飾り棚を一瞥し、床の上の傷や汚れを追っていく。屋敷の造りは上等だが、隠し事は下手らしい。ある一角だけ、床板の擦れ方が違った。
グランが立ち止まる。
「ここだな」
大きな絨毯が敷かれている。いかにも隠していますと言わんばかりだ。ルシアが口元を吊り上げた。
「分かりやすすぎるのう」
グランは答えず、絨毯の端を掴んで引き剥がした。重い絨毯が丸まり、下に現れた床板の一部を露わにする。取っ手らしき金具が埋め込まれていた。グランはそれを掴み、乱暴に引く。床板が持ち上がり、暗い穴が口を開けた。下へ続く石段がのぞいている。
湿った空気が上がってきた。
土と石の冷たさに混じって、油と香の入り混じったいやな匂いがする。血に似た鉄臭さも、わずかにあった。
グランが先に降りる。
ルシアは後ろに続いた。躊躇はない。止まる理由もない。
石段は思ったより長かった。屋敷の地下というより、最初からここへ何かを作るために掘られた空間だ。壁には灯りが等間隔に掛けられている。炎は小さいが、地下の闇に慣れた目には十分だった。
やがて視界が開ける。
広い地下空間だった。
床には複雑な紋様が描かれ、中心に巨大な祭壇が据えられている。黒ずんだ石を積み上げて作られたそれは、上へ行くほど幅が狭くなる段状の造りで、頂には器物がいくつも置かれていた。燭台、杯、皿、短剣めいた儀礼具。どれも無駄に装飾が多く、金や銀の光を鈍く返している。壁際にも棚や台があり、布を掛けられた何かが並んでいた。
ルシアが目を細める。
「ほう、なかなかじゃな」
声音には感心と軽蔑が半々混じっていた。手間だけは掛けたらしい。薄気味悪さと金の臭いが、気に入らぬ具合に同居している。
グランは祭壇そのものにはほとんど興味を示さない。視線はその前に立つ男へ向いていた。
祭壇の前に、ひとり。
白ではなく灰色がかった法衣のようなものを着た男がいる。年は中年ほど。痩せ気味で、頬がこけ、目だけが妙にぎらついていた。その目が今は驚愕で見開かれている。まさかここまで踏み込まれるとは思っていなかった顔だ。
男の唇が震える。
「あ、あれほどの使徒たちを」
グランが首をかしげた。
「使徒?」
ルシアが肩をすくめる。
「黒ずくめの事じゃろ」
男は後ずさる。だが、祭壇を背にしているせいで逃げ場がない。グランが一歩近づいただけで、足がもつれた。
「おい」
低い声が地下に響く。
「強いのはどこだ?」
男の喉がひゅっと鳴った。問いの意味が分からぬのか、分かっていて答えられぬのか、一瞬口をぱくぱくさせるだけで言葉にならない。
その横で、ルシアが別の問いを投げる。
「そういえば、なんでわらわたちを襲ったのじゃ?」
男はルシアを睨んだ。怯えと憎悪がごちゃ混ぜになった目だった。
「穢れた亜人風情が、偉大なる御業の場に」
そこまで言ったところで、グランの拳が頬へめり込んだ。
男の体が真横へ弾かれ、床を転がる。祭壇の段に肩をぶつけ、声にならぬ呻きを漏らした。歯が何本か飛び、石床に転がる。
グランが歩み寄る。
「答えろ」
男は血を吐きながら顔を上げた。何か言い返そうとした口へ、今度は腹へ蹴りが入る。空気が全部抜けたような声を上げ、体が折れた。
ルシアは止めない。半殺しでよいと言ったのは自分だ。
男が震えながら、ようやく言葉を絞り出す。
「ぬ、盗賊どもと、取り引きしていた」
グランが眉をひそめる。
「盗賊?」
「魔薬を流していたのじゃろうな」
ルシアが先を読むように言うと、男の目が揺れた。図星らしい。
「そ、それが何だ……何が悪い……あやつらは生贄を集める。こちらは祝福を与える。それだけの事」
グランの拳がもう一度落ちた。今度は鼻骨が潰れる音がした。
「回りくどい」
男は鼻血と涙をぐしゃぐしゃに垂らしながら呻く。
「魔薬を、渡していた……盗賊どもが人を攫う。金で売れぬ者は、こちらへ回す……神へ捧げるために」
ルシアの瞳が冷える。
あの薄汚い連中の背後に、これがいた訳だ。力を与え、飢えた獣をけしかけ、価値のあるところだけ掬っていた。街の中でぬくぬくと金を使いながら。
「それで」
ルシアが一歩前へ出る。
「わらわたちを狙った理由は?」
男の口元が、血にまみれたまま歪んだ。
「盗賊どもが潰れた……流れが止まった……せっかく整えた仕込みが台無しになった……だから殺すつもりだった」
グランが露骨にがっかりした顔をする。
「逆恨みかよ」
「逆も何も、貴様らが」
そこでまた蹴りが飛び、男は床へ這いつくばる。
グランはしゃがみ込み、男の髪を掴んで顔を上げさせた。
「ここに強いのはいねえのか?」
男の目が泳ぐ。
「つ、強い……?」
「お前らの親玉でも何でもいい。殴り応えのあるやつだ」
男は一瞬、唖然としたように口を開けた。次いで、理解できぬものを見る目になった。自分の命が潰れかけているというのに、こいつはそこしか見ていないのかと、そんな顔だ。
ルシアが呆れ半分で息をつく。
「おぬし、そこしか興味がないのか」
「ない」
「そうじゃろうな」
話しながら、ルシアは祭壇へ歩み寄った。
近くで見ると、置かれた器物は想像以上に露骨だった。金の燭台。金の杯。金の皿。宝石のはめ込まれた短剣。神聖さを装ってはいるが、実のところは成金趣味の寄せ集めにすぎぬ。権威を気取るために金を塗りたくっただけの代物だ。
ルシアは燭台の一つを持ち上げる。
ずしりと重い。本物だ。表面だけでなく、芯まで金でできている。
「ふむ」
くるりと手の中で回し、細工を確かめる。
「鋳潰せば使えるかの」
床に這いつくばっていた男が、そこで突然目を剥いた。
「さ、触るな!」
声が裏返るほどの怒鳴り声だった。
「穢らわしい亜人め! それは神へ捧げる」
最後まで言わせず、グランが男の頭を掴んで持ち上げ、そのまま石床へ叩きつけた。
鈍い音が、地下の空間に重く響く。
男の体がびくりと跳ね、それきりしばらく動かなくなった。まだ息はある。あるが、もう自分で立てる形ではない。
グランが手を離し、つまらなそうに言う。
「うるせえ」
ルシアは燭台を元の場所へ戻した。今ここで持っていく必要はない。後でまとめて押さえればよい。証拠でもあるし、換金の余地もある。何より、これだけの巣を見つけて二人だけで抱え込むのは面倒だ。
グランが男を足先でつついた。
「おい、本神殿ってのはどこだ」
男は半ば気を失いながらも、かすかに唇を動かした。
「も、森……ここから少し離れた、森の中……器は、そこに……」
「器?」
ルシアの問いに、男は薄く笑った。血の泡が口元で弾ける。
「選ばれた器……偉大なる降臨のための……」
グランが男の胸板を踏みつける。笑い声が潰れ、咳き込んだ。
「だからそういうのはいい。強いのがいるかどうかだけ言え」
男はもうまともに答えなかった。呻き声とも笑いともつかぬ音を漏らし、白目を剥きかけている。
グランが立ち上がる。
「ここに強いのはいねえな」
落胆が隠れていない声だった。せっかく匂いを辿って走ってきたというのに、出てくるのは半端な雑魚と気持ちの悪い教徒ばかり。屋敷の外見だけが立派で、中身は拍子抜けにもほどがある。
「本神殿とやらに行こうぜ」
もう気持ちは次へ向いている。拳を軽く握り、今すぐでも飛び出しそうな顔だった。
ルシアは祭壇の周囲を見回した。壁際に並ぶ棚、布の掛かった箱、香の壺、床の紋様。転がる黒ずくめども。潰れた男。ここを放って森へ走るのは、どうにも収まりが悪い。
何より、この手の連中は証拠も人も残っていれば、その分だけ後で使える。市長へ回せば、表向きの処理も進む。屋敷の所有も洗えるだろう。高級住宅街に堂々と巣を張っていた以上、裏で繋がっている奴も出てくるかもしれぬ。
ルシアは少しだけ考えた。
ほんの短い間だ。だが、グランにはその間さえ長く感じたらしい。
「おい」
「待て」
「なんでだよ」
「まずは市長に連絡してからじゃ」
グランの顔が露骨に曇る。
「今から行った方が早いだろ」
「こやつらを放っておく訳にもいかん」
ルシアは床へ視線を落とす。黒ずくめどもは、ここへ来るまでの道中を含めて、あちこちに積み上がっている。誰一人として無事ではない。だが、誰一人として死んでもいない。これだけ綺麗に半殺しにしたのだ。使わぬ手はない。
「市長に回せば、屋敷ごと押さえられる。証拠も残る。金も流れも辿れる。ついでにわらわたちの家の修理費も請求しやすくなる」
最後の一言に、グランの耳がぴくりと動いた。
「修理費」
「そうじゃ」
「ちゃんと取れるのか」
「取らせる」
ルシアの言い方に迷いはなかった。そう言われると、グランも少しだけ考え直したらしい。むすっとしたまま地下のあちこちへ視線を飛ばし、最後に足元の男を見る。
「しばらく動かねえぞ、こいつら」
「そうじゃろうな」
「じゃあ早く行こうぜ」
ルシアはくすりと笑った。
「落ち着きがないのう」
「落ち着いてたら逃げられるかもしれねえだろ」
「この有様で、どこへ逃げる」
祭壇の前の男は白目を剥き、黒ずくめどもも床に散っている。上の屋敷に転がした連中も、少なくとも今すぐには立てまい。階段を上がれる者がいたとしても、その前に苦痛で動けなくなる。
グランが鼻を鳴らした。
「それもそうか」
二人は地下を後にした。
石段を上がる。湿った空気が背中へ絡みつくようで、地上へ出るほどにそれが薄れていく。広間は相変わらず壊れた扉と倒れた黒ずくめでひどい有様だった。月明かりが玄関の向こうから差し込み、砕けた木片の上に白く落ちている。
ルシアは一度だけ振り返った。
豪奢な屋敷。上等な調度。高い塀。そこへ詰め込まれた薄汚い信仰と金欲と人攫いの匂い。見た目だけ整えても、中身まで飾れる訳ではないらしい。
グランはもう外へ歩いていた。
「で、市長んとこだろ」
「そうじゃな」
「話したらすぐ森だぞ」
「おぬしが市長の話を最後まで聞ければの」
「聞く必要あるか?」
「ある」
短く言い切ると、グランは少しだけ不満そうに口を尖らせた。だが足は止めない。前へ出る。
二人は壊れた玄関を抜け、前庭を横切り、門の外へ出た。
夜気が、地下の湿りを洗い落とすように頬を撫でる。高級住宅街は相変わらず静かだ。何事もなかった顔で並ぶ屋敷のひとつが、その内側で潰されている。だが今はまだ、誰も気づかない。
グランが拳を鳴らす。
「次こそ、少しはマシなのがいるといいんだがな」
ルシアは隣を歩きながら、ちらりとその横顔を見た。
「おぬしはほんに、それしか言わぬの」
「他に何言えばいい」
「たとえば、わらわが上手く動いたとか」
「ちゃんと動いてた」
「雑じゃな」
「金の話してた」
「大事じゃ」
「知ってる」
そこでルシアはふっと笑う。
知っている。こやつは乱暴で真っ直ぐで、細かいことなど気にしていないように見える。だが、本当にどうでもいいと思っている訳ではない。自分が言ったことを、案外ちゃんと拾っている。
だから面倒なのだ。
だから頼れるのでもある。
月明かりの差す石畳を、二人の影がまた伸びる。今度は屋敷へ向かう時よりも、わずかに急いていた。止めるためではなく、次へ進むための足だ。
市長へ知らせる。
屋敷を押さえさせる。
その上で森へ行く。
流れは決まった。
グランがちらりと横目で問う。
「おい、森の方に強いのいると思うか?」
ルシアは肩をすくめた。
「知らん。じゃが、これよりはましではないかの」
「ならいい」
答えはそれで足りたらしい。グランの口元に、ようやく楽しげな笑みが浮かぶ。
夜のアルトリアを、二つの影がまた駆け出した。
今度は高い塀の内側を暴くためではない。
その先に隠れている、もっと面倒で、もっと潰し甲斐のありそうなものへ辿り着くために。




