第ニ十八話 ……弁償させるぞ、神とやらに
広場を離れてからも、街の空気は妙にざわついていた。
通りを歩けば視線が刺さる。露店の前に立つ女が話を止め、荷車を引く男が振り返り、酒樽を運んでいた若者があからさまに足を緩める。大商会の正面から首領や幹部が縄を打たれて引き立てられ、街の真ん中で吐かされたのだ。耳の早い者ならもう知っている。遅い者でも、ただならぬことが起きたくらいは察しているのだろう。
そんな通りを、グランは何も気にせず歩いていた。
気にしていないどころか、周囲など目にも入っていない顔だ。大股でずんずん進みながら、広場を離れてから四度目になる不満をまた口にする。
「弱かった」
ルシアは横目で睨んだ。
「まだ言うか」
「弱かった」
「しつこいわ」
吐き捨てるように返しても、グランの顔は少しも変わらない。いや、曇っているのは最初からだ。期待していたほどではなかった。その一点だけで、あの男は本当に不機嫌らしい。
盗賊の首領だろうが幹部だろうが、こやつにとっては相手として足りなかった。それだけのことなのだろうが、こちらからすれば知らぬ話だ。
「盗賊に何を求めておるのじゃ」
「もう少しマシなのがいると思った」
「おらぬわ」
そう言った瞬間、通りの端にいた果物売りの親父が肩を揺らした。こちらの声が聞こえたらしい。ルシアは小さく息を吐く。広場の余波で街がざわついているだけでも面倒なのに、隣の大男がこの調子では、余計に人目を引く。
グランはそんなことには一切頓着せず、通り沿いの食事処へ足を向けた。いつもの酒場ではない。昼に差しかかるにはまだ少し早い時間だったが、店は開いており、職人や荷運びの男たちが早めの食事を取っている。焼いた肉の匂いと、濃い煮込みの湯気が入り口から流れ出ていた。
二人は奥の卓へ座った。
店の女が水と粗いパンを置き、少しだけ緊張した顔で注文を取る。広場の噂を耳にしているのか、それともただグランの空気に圧されているだけか、その両方かもしれぬ。グランは肉を頼み、酒を頼み、ルシアに睨まれて少し薄い酒へ変えた。
しばらくして、皿に山のように盛られた肉が運ばれてくる。焦げ目のついた表面から脂が滲み、香草の匂いが立ち上る。それを見た瞬間、グランの眉間の不機嫌がわずかに緩んだ。
だが一口食って、また言う。
「弱かった」
ルシアは器の縁へ指をかけたまま、ゆっくりそちらを見た。
「知っておる」
それ以上は言わぬ。
ここでまた怒鳴れば、周囲の客まで巻き込んでしまう。そもそも、同じことしか言わぬ男に、同じ怒り方を何度繰り返しても仕方がない。
グランは肉を裂き、酒を一口飲み、また肉を食う。黙っているかと思えば、口を開く。
「でも弱かったぞ」
「それ以上は申すな」
「本当だろ」
「知っておると言うておる」
店の隅の卓では、広場のことを話しているらしい声が少しずつ大きくなっていた。誰の名が出た、どの商会の荷が怪しい、魔薬まで絡んでいたらしい。噂はもう止まらない。市長と衛兵がどう押さえようと、今日一日でかなりのところまで広がるだろう。
だがそれは、今ここでルシアが追うべきことではなかった。あの場で人前に晒し、吐かせるべきことは吐かせた。そこから先の細かい動きは市長たちの役目だ。自分たちまであれこれ走り回れば、かえって面倒になる。
食事を終え、自宅へ戻る。
扉を閉めると、ようやく外のざわめきが薄くなる。昼へ向かって街はまだ騒がしいはずなのに、木の扉一枚隔てるだけで、ずいぶん遠くへ退くものだった。
ルシアは椅子へ腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……やっと静かじゃ」
広場からこっち、ずっと気が張っていた。表で騒ぐ群衆、連行される首領、広がるざわめき。人に囲まれるのは嫌いではない。だが、ああいう濁った熱の中に長くいるのは疲れる。
その横で、グランが腕を組む。
「弱かった」
「それはもうよい」
さすがに少し低い声になった。
グランは不服そうに口を曲げる。だが次の瞬間、床板がきしんだ。視線を上げると、あの大きな体がもう目の前にある。
「……なんじゃ」
ルシアは警戒を滲ませた。
グランは答えない。ただ距離を詰める。昼の光はまだはっきりと差し込んでおり、窓辺の卓も、壁に掛けた布も、何もかもがよく見えている。そんな時間帯に何をする気か、顔を見れば分かった。
「待て、まだ昼じゃぞ」
「関係ねえ」
短い。
そのまま腕が伸び、腰を抱え上げられた。
椅子の脚が床を擦る音がして、ルシアは反射的にグランの肩を掴む。落とされぬためでもあるし、単純に腹立たしかったからでもある。
「昼じゃぞ!」
「知ってる」
「知っておって何故こうなる!」
言い返しても、こやつが止まるはずもない。寝台へ押し倒され、肩へ落ちてくる体温の重さに、ルシアは歯を食いしばる。
最初は押し返した。
胸へ手を当て、腕を突っぱね、唇を避ける。だが力が違いすぎる。押しても押してもびくともしない。しかも今日は朝から広場で気を張り、戻るまで歩き詰めで、食事を終えた今になってどっと疲れが出ていた。
その上、こやつの不機嫌の抜きどころが今ここへ向いているのだと分かってしまうと、余計にたちが悪い。
「っ、待て……!」
「待たねえ」
短い言葉と一緒に、体の奥へ熱が落ちてくる。
昼の光はまだ強い。窓の隙間から差し込む明るさが、寝台の縁も、乱れた布も、何もかもを妙にくっきり見せている。そんな時間にこうして乱されることへの羞恥もあった。あったのだが、怒鳴り返す気力が長く続かぬ。
グランの動きは乱暴なのに、迷いだけはない。だから押されるたび、こちらの抵抗の形が崩れる。噛みつくように睨んでも、唇が触れると息が揺れ、肩を押していた手がいつの間にか掴む方へ変わっている。
「この……」
言葉が最後まで続かない。
昼は思ったより短く過ぎたのかもしれぬ。
だが終わった時には、ルシアの体から力はほとんど抜けていた。寝台へ横になったまま、荒い呼吸を整えるので精一杯だ。腕も脚も重く、指先までじんと痺れているようだった。
「……この大馬鹿者……」
ようやく出た声は、叱責というよりほとんど呻きに近い。
グランは隣で息を吐き、表情だけはすっかり満足している。ついさっきまで広場の相手が弱かっただの不機嫌を引きずっていた男とは思えぬほど、分かりやすく機嫌が直っていた。
そこからさらに時間が流れた。
日が傾く。差し込む光の色が変わる。床へ落ちる影が長くなり、やがて壁を這い、部屋全体がゆっくり暗くなっていく。外では昼の喧騒が一度膨らみ、それから少しずつ緩んでいった。荷を片付ける音、家へ戻る足音、遠くの笑い声。そういうものが一つずつ薄れ、夜が深くなっていく。
ルシアはしばらく動けなかった。
ようやく身を起こせるようになった頃には、もう外は夜だ。窓の外の灯りも少なくなり、通りの気配はかなり薄い。グランは水を飲み、何事もなかったような顔で横になり、そのまま眠りへ落ちた。
その寝顔を見ていると腹が立つ。
だがこちらも疲れていた。広場から続く気疲れと、昼の強引な流れとで、体も頭も重い。結局、怒りきる前にまぶたが落ちた。
深夜。
部屋は暗い。
窓から差す月の光が床を薄くなぞる程度で、家具の輪郭は半分ほど影の中に沈んでいた。ルシアは深く眠っていた。だが、その底へ落ちてくる違和感ははっきりしていた。
建物の上。
重みが移る気配。
人の気配を完全に消しきれてはいない。音はわずかだが、静まり返った深夜の家では逆にはっきり分かる。
隣で寝ていたグランが、何も言わずに目を開けた。
上体を起こし、視線だけを上へ向ける。その動きで、ルシアも目を覚ます。
「……こんな時間に迷惑じゃのう」
低く呟いた直後、上部で固定してあった板がずれた。誰かが外から押し外したのだろう。木がこすれる微かな音と共に、そこに開口部が生まれる。冷たい夜気が落ちてくる。
影が一つ落ちた。
続いて二つ、三つ。
さらに遅れて一つ。
合計で五つの影が室内へ降りる。
全員が黒い布で顔を隠している。足音は殺しているが、殺意は隠していない。室内へ降り立った瞬間から、まっすぐこちらへ向く意識がある。
グランが踏み込んだ。
一言もない。
拳が先に出る。
最初に降りた男の顔面へめり込み、そのまま体ごと壁際まで吹き飛ばす。短い鈍音。床へ落ちた男はもう動かない。
残りが一斉に動く。
短剣の光が暗がりで走る。
ルシアは寝台から身を起こし、手を払った。細い水の刃が二筋走り、近づいてきた男の腕と首筋を浅く切り裂く。血が飛び、男が呻く。その横から飛び込んできた別の男は、グランに胸ぐらを掴まれ、そのまま床へ叩きつけられた。
残る二人も迷いなく突っ込んでくる。
躊躇がない。
だが、それだけだ。
ルシアは足を床へ下ろし、近づいた男の手首を払った。短剣が逸れ、そのまま水の塊で顔面を打つ。よろめいたところを蹴り飛ばせば終わりだ。
最後の一人は、仲間が崩れるのを見ても退かない。むしろ笑った。
不気味な笑いだった。追い詰められた者の強がりではなく、何かを信じきっている者の顔だ。
「神は……目覚める……」
血を吐きながら、それでも笑う。
「この街は……捧げられる……」
ルシアの眉が寄った。
「……なんじゃそれは」
男の目は開いたままだった。
「我らは……そのためにある……」
言葉の意味より、その顔の方が気味が悪い。痛みも死も、自分の外へ押し出しているような顔だ。
さらに唇が動く。
「選ばれた器が……目覚めれば……」
グランがその男を見下ろす。
「その神、強いのか?」
男の口が笑みの形に歪んだ。
「神は……絶対……だ……」
そこで力が抜ける。
床へ崩れた。
静けさが戻る。
だが、それは先ほどまでの静けさではなかった。血の匂い、荒れた室内、倒れた家具。自分たちの寝床がはっきりと踏み荒らされたあとの静けさだ。
ルシアはゆっくり立ち上がり、室内を見回した。
倒れた椅子。
横へずれた卓。
落ちて割れた器。
床に散った木片。
「……わらわの家を」
低く漏れる。
そして、さらに一歩踏み出す。
「好き勝手に荒らしてくれたのう」
声に怒りが乗る。
グランは倒れた男の一人を足で軽くつついた。
「川に捨てるか」
「ふむ」
ルシアは一瞬だけ、それでよいと思った。
だが次の瞬間、先ほどの言葉が引っかかった。
神。
器。
そして、自分の家を荒らしたこと。
捨てるだけでは足りぬ。
「待て」
グランが首を傾げた。
「ん?」
ルシアはまだ息のある一人の襟を掴み、無理やり起こした。半分意識が飛んでいるが、生きている。ならば使える。
「おぬしらの神とやらはどこにおる」
男は口の端を吊り上げた。
「……言うか……!」
ルシアは答えない。
棚の奥から酒瓶を掴み、栓を抜く。立ち上る匂いは鋭い。火を近づければそのまま燃えそうな強さだ。
「飲め」
顎を掴み、口をこじ開け、そのまま流し込む。
男がむせる。喉を焼かれたように顔を歪め、息を詰まらせる。
「がっ……!」
「まだ足りぬ」
さらに流し込む。
呼吸が乱れ、目が泳ぐ。酒の熱が一気に頭へ回ったのか、抵抗の形が崩れ始める。
「や、やめ……ろ……!」
「吐け」
止めない。
もう一度、容赦なく酒を流し込む。火を飲み込んだような顔で男が体を震わせる。横でグランが無言で見下ろしているだけなのに、その視線もまた十分な圧だった。
男の理性が崩れる。
焦点が合わぬ目が揺れ、口が勝手に動き始めた。
「地下に……ある……!」
ルシアの手が止まる。
「どこじゃ」
「集いの場所が……!」
息を乱しながら、それでも言葉が落ちる。
「器が……そこに……!」
ルシアは手を離した。男は床へ崩れ落ち、咳き込みながら丸まる。
「最初からそう言えばよい」
冷たく言い放つ。
そして立ち上がった。
「行くぞ」
グランが問う。
「どこに」
「弁償させる」
それだけで十分だった。
だが出る前に、襲撃者どもを室内へ放置するわけにもいかぬ。
グランは言葉もなく、近くの男たちの足をまとめて掴んだ。そのまま床を引きずる。木片と血の混じった汚れがわずかに伸びる。ルシアも別の二人をまとめて寄せた。重い。だがその程度で息が上がるほどではない。
扉を開ける。
深夜の外気が流れ込む。
自宅の裏手へ回る。通りから少し外れた角に、普段は壊れた箱や割れた陶器、使い物にならぬ木片を一時的に積んでおく場所がある。街の者なら誰もが知っている、いわばゴミ捨て場に近い場所だ。
そこへ一人、二人、三人。
グランが淡々と放る。ルシアも続く。残りの二人もまとめて引きずり、石壁の陰へ寄せた。生きている者もいるが、逃げる気力はない。仮にあっても、起き上がる前にこちらが戻ってこよう。
ルシアは軽く水を走らせ、扉の前から血の筋だけを流した。完璧ではない。だが今は十分だ。
「よし」
短く言う。
グランが頷いた。
「殴っていいか?」
「金を出させるまでは殴ってはならんぞ」
「金を出させる為になら殴っていいか?」
ルシアはほんの一拍だけ考えた。
「うむ、それならかまわん」
それで話はついた。
扉を閉めもせず、そのまま深夜の街へ出る。
石畳は冷え切っている。人の気配はなく、灯りも少ない。だが今はそれでいい。余計な目がない方が、地下の集いの場所とやらへ乗り込むには都合がよい。
グランが少しだけ口元を上げた。
「やっとマシなのが出てきたな」
ルシアは何も返さず、その背を追った。
壊れた家は後ろに残る。
その分の弁償は、これから取らせる。




