第ニ十七話 ……ここで全部吐かせるぞ
首領らしき男の腕へ縄が食い込み、幹部どもの足首にも次々と縄が回されていく。
広間の中にはまだ、砕けた卓の木片と、倒れた男たちの呻き声が散っていた。表の立派な商会の姿からは想像もつかぬ有様だ。転がった椅子の脚が折れ、床には酒の染みと血の薄い筋が残り、壁際には運び込まれたままの荷が山を作っている。
信頼できる衛兵たちは黙々と動いていた。
口数は少ない。
だが手は速い。
ブレイクが連れてきた連中だけあって、足もとの荒れた空気に呑まれてはいない。もっとも、完全に平然としているわけでもなく、誰もがちらちらとグランの方を見ていた。
その視線に気づいておらぬわけでもあるまいに、当の本人は不機嫌そうに腕を組んだまま、広間の真ん中に立っている。
「なんでこんなに弱い」
またそれを言う。
床に転がっていた幹部のひとりが、その声だけで肩を跳ねさせた。首領も顔色が悪い。縄で腕を縛られたまま座り込まされているが、こちらへ目を向けるたび、喉の奥がひくりと動く。
ルシアは小さく息を吐いた。
「そこを何度も言うな」
「だって弱かったぞ」
「知っておる」
「期待してたんだぞ」
「盗賊に何を期待しておるのじゃ」
返しながら、ルシアは周囲を見回した。
表の商会と繋がっていた隠し通路、その奥の広間、荷、帳面、武器、酒、男たち。証拠としては十分すぎる。問題は、これをただ押収して終わらせぬことだった。
首領と幹部を詰所へ運ぶだけなら簡単だ。
だが、それだけでは足りぬ。
向こうはこの商会を表の顔として使い、街の中へ根を張っていた。ならば、その根を晒さねばならぬ。ここでこっそり運び出したところで、裏へ潜っていた連中が別の顔を作るだけだ。
ルシアの視線が自然に通路の方へ向く。
この先は商会の表へ繋がっている。朝の準備中だった人々も、今ごろは騒ぎを察しているだろう。もう秘密裏には済まぬ。
ならば、いっそ。
ブレイクがひとりの衛兵へ指示を出し終え、こちらへ来た。
「一通り押さえた」
低い声だった。
「首領格と幹部らしいのはこれで全部だ」
「生きておるのう?」
ルシアが確認すると、ブレイクは苦い顔で頷いた。
「かろうじてな」
かろうじて、で済むあたりがあの大男らしい。
ルシアは改めて首領を見る。
まだ震えている。
顔は腫れ、口端に血がついていた。威勢は跡形もない。だが意識ははっきりしている。ならば使える。
「どうする」
ブレイクが問う。
ルシアはすぐには答えなかった。
その場にいる衛兵たちの顔を一人ずつ見る。皆、信頼できる者ばかりだろう。だが街全体へどう見せるかは別だ。表の商会から首領と幹部を引っ張り出す。そこまでは決まっているとして、そのあとをどうするか。
詰所に放り込むだけでは、また裏で噂が歪む。
向こうは口を閉ざすつもりだろう。
ならば、閉ざす前に開かせる。
ルシアは目を細めた。
「ブレイク」
「なんだ」
「こやつらをこのまま表へ引き出すぞ」
ブレイクは眉をひそめた。
「それはいい。だが、そのあとどうする」
「吐かせる」
「詰所でか?」
「違う」
ルシアは首領の前へ歩いた。
しゃがみ込むでもなく、ただ見下ろす。
「ここで終わらせぬ」
首領の喉が動く。
声が出ない。
ルシアはわざとゆっくり言葉を継いだ。
「おぬしらが何をしておったか、誰と組んでおったか、どの荷をどこへ流しておったか、それを全部、街の者の耳へ入れる」
首領の顔色がさらに悪くなる。
理解したのだろう。
自分たちの首だけでなく、背後の流れごと、日の下へ引きずり出されると。
「街の真ん中でか」
ブレイクの声は低かった。
「そうじゃ」
ルシアは頷いた。
「ここは中心部に近い。人の集まる場所までそう遠くない」
言い終えたところで、視線の端に大きな影が動いた。
グランだ。
腕を組んだまま、まだ不機嫌そうにしている。
だがその不機嫌さが、今はむしろ使える。
ルシアの口もとがわずかに歪んだ。
「……うむ。よいな」
ブレイクがそれを見て、少し嫌そうな顔をした。
「またろくでもないことを考えついた顔だな」
「失礼な」
「ろくでもない時にしかせん顔だ」
「役に立つならよかろう」
そう言って立ち上がり、ルシアは衛兵たちへ向き直った。
「こやつらを引き立てる。表へ出せ」
衛兵たちが一斉に動く。
首領と幹部たちが乱暴すぎぬ程度に立たされ、縄を掴まれて引かれる。すでに転がっているだけだった盗賊どもは、立たされるたび顔を歪め、呻き声を漏らした。
その時、首領がようやくかすれた声を出した。
「ま、待て……」
ルシアは見下ろす。
「なんじゃ」
「お前ら……何を」
「申したであろう。全部吐かせる」
首領の目が血走る。
「ふざけるな……!」
「ふざけておるのはおぬしらの方じゃ」
ルシアの声が冷える。
「商会の顔で街へ根を張り、裏で盗みと薬を流し、まだ隠し通せると思うておったのか」
首領が歯を食いしばる。
だが、その怒りも威勢を取り戻さぬ。目の前にはグランがいる。倒れた幹部たちもいる。自分が何を喚こうと、もう何も覆せぬと分かっている顔だった。
「出すぞ」
ブレイクが低く言う。
通路を戻る。
広間から通路、通路から表の壁穴へ。先ほどは静まり返っていた商会の表も、今は完全に空気が変わっていた。店員たちは仕事を続けようとしているが、視線は隠しきれぬ。何人かは顔面蒼白で立ち尽くし、何が起きているのか分からぬまま荷の前で止まっている。
ルシアはそんな彼らへ短く言った。
「おぬしらはそのままでよい。ここから先は別の話じゃ」
若い店員のひとりが震える声を漏らす。
「う、うちは……」
「知っておらなんだのだろう?」
ルシアが問うと、男は何度も頷いた。
「し、知らない……本当に」
「ならば仕事を続けよ」
それ以上は詮索しない。
今は表の顔を全部潰すのが目的ではない。隠れていた汚れを引っ張り出すことが先だ。
そのまま正面の大扉をくぐる。
外へ出た瞬間、朝の光が少し強くなっていた。人通りも増えている。まだ昼には遠いが、商いの始まりを目当てに歩く者、荷を運ぶ者、近くの店へ向かう者たちが、それなりに通りを埋め始めていた。
大商会の正面から、縄で繋がれた男たちが引き出される。
目立たぬわけがない。
「なんだ?」
「おい、あれ……」
「商会から出てきたぞ」
ざわめきが、石畳の上を波のように広がる。
首領と幹部たちは顔を伏せようとするが、縄を握る衛兵が止める。下を向ききれぬまま、惨めに引き立てられる。その姿だけで、すでに十分な絵になっていた。
通りの向かい側にいた女が足を止め、果物を運んでいた若者が荷を下ろし、近くの露店の親父が口を半開きにする。話は一瞬で広がる。大商会から盗賊が出てきた、というだけで十分すぎた。
ルシアは歩きながら周囲を見た。
人が一番集まりやすいのは、この先の小さな広場だ。通りが交わり、商人も客も立ち止まりやすい場所。そこまで行けば、見る者はさらに増える。
「そのまま広場まで行くぞ」
衛兵のひとりが頷いた。
首領が呻く。
「やめろ……」
「やめぬ」
ルシアは一切振り向かぬ。
その後ろで、グランが黙ってついてくる。相変わらず不機嫌そうな顔だ。戦いを期待していたのに弱すぎた、という不満がまだ体の外へ漏れているらしい。通りの人間たちは、縄で引かれる盗賊どもより、後ろから歩いてくる大男の方へ本能的な恐れを向けていた。
それがちょうどよかった。
広場へ着く頃には、かなりの人がついてきていた。
露店の者、荷運び、買い物へ来た女、半端な時間に暇を持て余す若者。中心部に近いこの場所では、人の集まりが早い。大商会から盗賊が引き出されたとなればなおさらだ。
衛兵が首領と幹部たちを広場の真ん中へ立たせる。
縄で繋がれたままの男たちは、逃げ場もなく視線に晒された。ざわめきはさらに大きくなる。
「なんだ、あいつら」
「盗賊だって?」
「商会から出てきたって聞いたぞ」
「まさか」
「いや、見ろ、あの顔……」
ざわめきの質が変わる。
単なる見物から、現実味を帯びた悪寒へと。
ルシアはその空気が十分に膨らむのを待った。急ぎすぎる必要はない。皆が耳を向けるのを待ち、その上で言葉を落とす方がよい。
隣でブレイクが小さく問う。
「ここでやるのか」
「ここでやる」
「街中だぞ」
「だからじゃ」
ブレイクは少しだけ目を細めたが、止めはせぬ。必要だと分かったのだろう。
ルシアは首領の前へ出た。
「さて」
声を張り上げるでもなく、だが広場の真ん中でよく通る声を出す。
「おぬしらが何をしておったか、聞こうかの」
首領は黙る。
顔を逸らそうとする。
縄を握る衛兵がそれを許さぬ。
「言いたくなければ言わなくてよい」
ルシアはそう言って、わざとゆっくり横を見た。
グランを見る。
広場の空気が一瞬だけ冷える。
グランは腕を組んだまま、不機嫌な顔でそこに立っているだけだ。だがその視線は十分だった。首領だけでなく、幹部どもまで顔色を変える。
ルシアは平然と続けた。
「そちらの獣人が何をするか、わらわは知らぬがな」
それだけでよい。
脅す声色はいらぬ。事実だけで足りる。
首領の喉が鳴る。
幹部のひとりがすでに顔面蒼白になっていた。
「やめろ……!」
首領がようやく怒鳴ろうとした。
グランがその方を見る。
ただ、それだけ。
首領の体が強張った。
喉が止まり、言葉が死ぬ。
ひと睨みで終わりだった。
ざわめく広場の中で、その沈黙は妙に目立つ。
ルシアはその間を逃さず、幹部どもの方へ向き直った。
「聞こう。おぬしらは何をしておった」
最初は誰も答えぬ。
歯を食いしばり、目を伏せ、唇を引き結ぶ。
だがその沈黙は長く続かなかった。
端にいた幹部のひとりが、先に折れた。
「お、俺たちは……」
声が震える。
首領が睨みつけようとするが、さっきの一瞥で体が固まっているのか、うまく動けぬ。
ルシアは静かに待つ。
「商会を使って……荷を……」
「どんな荷じゃ」
「盗んだ品と……それから、薬も……」
広場がざわめく。
「薬?」
「魔薬だってよ」
「おい、本当か……?」
ざわめきはすぐに広がった。魔薬という言葉の響きは、それだけで人の顔色を変える力がある。
ルシアは声を重ねる。
「どこへ流しておった」
「裏の連中に……いや、裏だけじゃねえ……」
男の呼吸が荒くなる。
「名を言え」
低く、しかしはっきりと言う。
「どこの誰じゃ」
男は首を振ろうとした。だがグランの方へ一瞬視線が流れた瞬間、顔が引きつる。
「言う……言うから……!」
そして、名が落ちた。
倉庫番。
荷の記録を抜く者。
帳面を改ざんする小役人崩れ。
いくつかの店の名。
街の外れだけでなく、中心部に近いところまで点々と繋がる名前。
人々のざわめきがさらに大きくなる。
「おい、それ、知ってるぞ」
「あそこの倉庫か?」
「嘘だろ……」
「いや、だから商会から出てきたんだろうが」
ルシアは首領を見た。
「止めぬのか?」
首領は歯を食いしばっている。怒りと恐怖とで、顔がぐしゃぐしゃだった。だが止められぬ。止めるだけの力がもう残っていない。
「おぬしは何をしておった」
問いを向ける。
首領は黙る。
ルシアは少しだけ首を傾げた。
「おぬしの口から言えぬなら、周りから全部落ちるぞ」
沈黙。
その後ろで、別の幹部が耐えきれずに声を上げた。
「盗品の仕分けだ!」
半ば叫ぶような声だった。
「街の外から入る荷に混ぜたり、商会の荷へ偽の札をつけたり……!」
それが引き金になった。
もう一人が吐く。
「魔薬は小分けにしてた!」
別の男が続く。
「金は首領へ集めてた!」
「誰が金を動かしておった!」
ルシアが畳みかける。
「答えよ!」
次々に名が出る。
荷を隠す場所。
受け渡しの相手。
夜だけ開く裏口。
商会の印を使ってごまかしていた帳面の流れ。
それらが広場の真ん中で剥がされるたび、人々のざわめきは大きくなり、通りの端からさらに新しい者たちが集まってきた。
もう十分だった。
十分すぎた。
情報は人の口へ乗る。
この場で耳にした者が、昼になれば店で話す。夕方には酒場で広がる。誰が捕まり、どの商会が使われ、何が流れていたか。街全体へ火がつく速さは、こういう時の方が衛兵の伝令より早い。
ブレイクがその様子を見て、小さく息を吐いた。
「一気に広がるな」
「狙い通りじゃ」
ルシアは答える。
市長がなぜ早朝に動いたのか。なぜ信頼できる衛兵だけを選んだのか。その意味が、今ようやく形になる。押さえるべきを押さえ、隠すのではなく晒す。街にとって必要なのは、見えぬ汚れをまた暗がりへ戻すことではない。
首領がようやく声を絞り出した。
「お前ら……!」
怒鳴るつもりだったのだろう。
だがグランが一歩だけ前へ出た瞬間、その先が続かなかった。
「まだ何かあるのか」
低い声だった。
首領は完全に黙る。
幹部どもも同じだ。
もう限界なのだろう。体だけでなく、心まで。
ルシアは首領を見下ろしながら言った。
「街の真ん中で商会を隠れ蓑にしておったのじゃ。こうなる覚悟ぐらい、しておるのかと思うたが」
首領は返せぬ。
その代わり、群衆の中から罵声が飛んだ。
「最低だな!」
「薬まで流してたのか!」
「ふざけるな!」
怒りは早い。
それだけ、街の者にとって商会という表の顔は信用の土台だったのだろう。その土台へ泥を塗られたと分かった時の怒りは、盗賊相手のそれより深い。
衛兵たちは周囲を警戒しつつ、首領と幹部どもをさらに縛り直した。これ以上ここへ留めておけば、今度は市民の怒りが暴れ出す。
ブレイクがルシアへ寄る。
「もう十分だろう」
「うむ」
「連れていくぞ」
「そうせい」
だが、その前にルシアは最後のひと押しをした。
「聞こえたであろう」
広場を囲む人々へ向かって言う。
「商会の表の顔へ騙されるな。中で何が流れておったか、誰の名が出たか、忘れるでない」
誰かが頷き、誰かがすぐ隣の者へ今聞いたばかりの名を繰り返し始める。もう十分だ。この場で種は撒かれた。
衛兵が首領を引っ張る。
首領は足を引きずり、幹部どもは半ば倒れるようにして連行されていく。その惨めな背中を見送りながら、群衆のざわめきはまだ止まらなかった。
グランはその横で、まだ不機嫌そうに腕を組んでいる。
「終わりか」
その声に、ルシアは横目をやる。
「終わりではない」
「じゃあ次はどこだ」
「今は詰所へ運ばせるのが先じゃ」
「弱かったな」
「まだ言うか」
「本当だろ」
「本当でも何度も言うな」
だが、その不機嫌さも今は少し役に立っていた。通りの者たちは、盗賊どもよりそちらを警戒している。もし首領が最後の最後で妙な真似をしても、あの視線ひとつで足が止まるだろう。
ブレイクが衛兵たちとともに列の後ろへつく。
「俺はこのまま行く」
「頼む」
「お前らはどうする」
ルシアは少しだけ考えた。
詰所へついていくのもよい。だが、あの場で何を吐いたかはもう街へ流れ始めている。ならば、自分たちは少し引いた方がよい。
「わらわは一度引く」
そう言って、グランの方を見る。
「こやつをこのまま連れて行くと、余計な方へまた空気が荒れる」
ブレイクが苦笑する。
「否定できんな」
「弱すぎるのが悪い」
「おぬしの基準で語るな」
首領と幹部どもが通りの向こうへ消えていく。
縄のこすれる音、衛兵の靴音、群衆のざわめき。それらがしばらく広場に残り、やがて、代わりに噂だけが広がっていく気配が濃くなった。
あちらでも、こちらでも、同じ言葉が繰り返されている。
大商会から盗賊が出た。
魔薬が流れていた。
誰々の名が出た。
広がるのはもう時間の問題ではなく、速度の問題だけだ。
ルシアは小さく息を吐いた。
「これで隠しきれまい」
グランが隣で鼻を鳴らす。
「最初から隠す意味が分からん」
「街というものは、そう単純ではないのじゃ」
「面倒だな」
「面倒じゃな」
だが、その面倒を少しでも早く表へ引きずり出したのは、他ならぬこの大男だった。見つけ、壊し、殴り飛ばし、震え上がらせる。手順としては乱暴極まりない。にもかかわらず、結果だけを見れば最短に近い。
そこがほんに厄介だ。
ルシアは広場のざわめきを背にして歩き出した。
「行くぞ」
「どこに」
「少し落ち着けるところじゃ」
「飯か?」
「違う」
と言いつつ、違いきらぬのが悔しい。早朝から動き詰めだった。酒場で朝食は食べたが、こういう朝は妙に腹が減る。
グランは一歩ついてきて、なおも不満そうな声を出した。
「次はもう少し強いのがいい」
「知らぬわ」
「盗賊の首領なら強いだろ」
「その理屈を捨てよ」
振り返って睨む。
グランは本気で納得していない顔をした。
「強いやつが上なんじゃねえのか」
「そういう単純な話なら世はもっと楽じゃ」
「弱かったぞ」
「知っておる!」
通りの端にいた者たちが、ルシアのその声へ思わずこちらを見る。しまった、と思ったがもう遅い。グランは気にした様子もない。
ほんに疲れる。
だが、その疲れの底には妙な軽さもあった。やるべきことの一つは終わった。隠れていた巣は引きずり出され、名は広がり始めた。まだ根は残っているだろう。だが、朝のうちにこれだけやれたのなら上出来だ。
ルシアは歩きながら、広場の方を一度だけ振り返る。
人はまだ集まっている。さっきのざわめきがさらに外へ流れていくのが、遠目にも分かった。街はもう知ったのだ。商会の中に巣食うものがいたことを。
その事実は、じきに別の動きを呼ぶだろう。
市長も、衛兵も、表の商人たちも。
面倒は増える。
だが、増えるべき面倒だった。
「おぬし」
ルシアが前を向いたまま言う。
「先ほどは役に立った」
「当たり前だ」
「礼ぐらい驚いて受け取れ」
「なんでだ?」
「少しは可愛げを見せよ」
「弱かった」
「またそこへ戻るな!」
グランが少しだけ笑った。
ほんのわずかだ。だが、その不機嫌さが一段だけ薄れたのが分かる。
ルシアは大きくため息をつき、それでも口もとが少し緩むのを止められなかった。
街の朝は、もう完全に始まっている。
荷車の音も、人の声も、店の呼び込みも、先ほどよりずっと濃い。そこへ新しい噂が混ざり込んでいく。今日のアルトリアは、いつもより少しざわつくだろう。
そのざわつきの種を蒔いた一端が、自分たちであることを思うと、妙な気分だった。
だが、必要なことだった。
必要なことをした。
その実感だけは、朝の冷えが抜けたあとの街の熱の中でも、たしかに残っていた。




