第ニ十四話 ……おぬし、ほんに盗賊退治に向いておらぬのではないか?
朝の空気はまだ少し冷えていた。
夜の名残を引きずる石畳は乾いているのに、踏みしめるたび靴底へ薄い湿り気のような感触が返ってくる。店の戸板を外す音、荷車の車輪が軋む音、早くから開く屋台の鍋から立ち上る匂い。人の気配はすでにあるが、昼の雑踏ほど濃くはない。街が本格的に動き出す直前の、そのわずかな隙間を縫うように、グランはずんずん歩いていた。
迷いがない。
いや、迷いがないどころではない。最初から行き先が決まっている者の足取りだ。角を曲がる時にも立ち止まらず、目の前へ壁がでも現れぬ限り、そのまま突っ切っていきそうな勢いがある。
ルシアは横を歩きながら、何度目かの疑問を口にした。
「おぬし、心当たりでもあるのか?」
グランは前を向いたまま答える。
「いや?」
即答だった。
ルシアは眉を寄せる。
「……適当に歩いておるだけか?」
「いや?」
否定しているのに説明がない。
ルシアは一度だけ口を閉じ、次に開くまでのあいだ、頭の中で言葉を並べ直した。心当たりはない。適当に歩いているのでもない。だが進む先には迷いがない。
どういうことじゃ。
「おぬし、自分が何を言っておるか分かっておるか?」
「分かってるぞ」
「分かっておるなら、もう少し分かるように言え」
「そのうち着く」
「何にじゃ」
「盗賊のとこ」
あまりにも当然の口ぶりだった。
ルシアはしばし無言になる。あやつが本気でそう言っていることは分かる。冗談を言っている顔ではない。だが、どうしてそうなる。盗賊のねぐらがどこか、昨夜の段階で市長たちから具体的な話があったわけでもない。魔獣ならまだしも、人間相手にこうも真っ直ぐ歩いていける理屈が、ルシアには見えなかった。
グランは歩きながら、時折ふっと足を止める。
立ち止まる時間は短い。
路地の先を見たり、風向きを確かめるように首をわずかに動かしたり、通りを横切った人影へ一瞬だけ目をやったりする。それだけして、また歩き出す。鼻を利かせているようにも見えるが、あまりにも露骨ではない。知らぬ者が見れば、ただ辺りを眺めているだけだと思うだろう。
だがルシアは、その僅かな間にあやつの感覚が何かを拾っているのだと感じていた。
「何を見ておる」
「別に」
「別に、で分かるなら苦労せぬわ」
「分かんなくてもついて来れてるだろ」
「理屈になっておらぬ」
グランはそれ以上答えなかった。答えぬまま、また一つ角を曲がる。
人の流れが少し変わり始める。
表通りから離れたのだと、石畳の音と建物の並びが教えてくる。朝の賑わいを前面に押し出す商店街の空気が薄れ、代わりに、荷を抱えた者や、仕事帰りともつかぬ顔色の悪い男たちや、目を合わせぬように歩く者の気配が増えていく。建物の壁は少し古び、塗り直された跡も雑だ。路地へ捨てられた箱や縄が、通りに漂う空気をわずかに荒れたものへ変えていた。
ルシアは辺りを見回した。
「この辺りは初めてじゃな」
歩き慣れた区域ではない。危険というほどではないが、進んで来る場所でもない。暮らしの匂いはある。だが、陽の当たる場所から半歩だけ外れている。そんな空気だった。
グランは短く鼻を鳴らした。
「別に美味そうな匂いもしねえしな」
「おぬしの街の記憶は食い物基準しかないのか」
「大事だろ」
「否定はせぬが、それだけではなかろうが」
だが、その言い分が妙にこの街らしくもあった。美味い肉、強い酒、うるさいほど人がいる通り。グランにとってアルトリアの輪郭は、そういうものから出来上がっているのだろう。だから逆に、食欲を刺激する匂いの薄いこの区域へ、あまり縁がなかったのかもしれぬ。
そのまま二人は、さらに一本細い道へ入った。
表へ看板を出した店は少なく、壁に寄りかかった男や、早い時刻から酒臭い息を吐く者がちらほら見える。だが露骨な殺気はない。まだ昼でも夜でもない、半端な時間だからだろう。隠れたつもりの薄汚さが、かえって気配を濃くしていた。
グランがふいに足を止めた。
路地の片側に、小さな商店があった。
広くはない。木の棚が見える程度の開き戸。軒先にぶら下がる看板も大した飾りはなく、雑貨と日用品を扱うだけの、どこにでもありそうな店だ。箒、布、縄、安っぽい器、小袋に分けられた干し物。表から見える範囲には怪しい品などない。
なのに、グランはそこへ迷いなく入っていった。
「おい」
呼び止める暇もなく、である。
ルシアは小さく息をついて後を追った。
店の中には、乾いた布と木の匂いが満ちていた。棚には日常で使う雑貨が並んでいる。安物だ。粗末というほどではないが、値札代わりの板をちらりと見れば、相場より少し低い。質の割にではなく、妙に安い。利益が薄すぎるか、仕入れが不自然か、そのどちらかだろう。
ルシアは棚の一つへ手を伸ばし、布を指先でつまんだ。
「ちと安いかの」
織りは雑ではない。だがこの値で出すには、何かがおかしい。
グランはすでに店の奥を見ている。
「買わねえけどな」
「誰も買うとは言うておらぬ」
返しながら、ルシアは店の中へ注意を向けた。
そこにいる人間の数が多い。
店主らしき中年の男がひとり。帳面らしきものの前に立っている。そこまではよい。だが、それとは別に男が三人、四人、店内のあちこちにいる。客ではない。買い物をしている気配がまるでない。棚の近くに立っているが商品を見ているわけでもなく、手持ち無沙汰にしているようでいて、実際には視線の端で出入口とグランを見ている。
小さな店だ。
こんなに働き手が要るとは思えぬ。
しかも、誰も商売人の手ではない。節くれだった指。肩の厚み。立つ時の重心。布や器よりも、人を殴る方が馴染んでいる体だ。
ルシアが違和感を覚えた瞬間、グランは店主らしき男へ歩いていった。
ゆっくりではない。だが急ぎもせぬ、普段通りの足取りだ。
男の前まで行ったところで、グランがくるりと振り向いた。
ルシアを見る。
その目が妙に真面目で、次に出た言葉はさらに妙だった。
「盗賊なら殴っていいな?」
店の空気が変わった。
棚の間にいた男たちの視線が一気に集まる。何でもない顔をしていた中年男の目も、わずかに細くなった。息が詰まるほどではない。だが、こちらの一言で奥に隠していたものが揺れたのは分かる。
ルシアはそこで、ようやく理解した。
「……ふう、そういうことか」
自然にため息が漏れる。
歩きながら、こやつは探っていたのだ。顔でもなく、噂でもなく、もっと生き物じみた感覚で。
匂いか。
ルシアは棚へ置いた布から手を離した。たしかに、言われてみれば、この店の空気には雑貨屋の匂いより別のものが混じっている。汗、油、埃、乾いた血の名残。だが自分がそれを商店として不自然だと即断できるほどかと言えば、そうではない。街で生きる者なら、この程度の汚れや荒事の匂いは日常に混ざる。
そこから先を、こやつは獣の勘で越えてしまうのだろう。
店主が口を開いた。
「……なんかようですか?」
声は穏やかだ。だが喉の奥が少し硬い。
グランは何の遠慮もなく答えた。
「お前盗賊だろ。仲間はどこだ?」
道を聞くような口調だった。
その軽さのせいで、かえって場が冷える。
店主の唇がわずかに歪む。
「何か証拠でもあるんですか?」
当然の返しだ。街の中で、商売の顔をしている以上、まずはそう来るだろう。棚の影にいた男たちも、すぐには動かない。こちらがどこまで確信しているのか、測っている。
グランは肩をすくめた。
「あると言えばあるし、無いと言えば無いな」
「なんですか、そりゃ」
「お前ら、こんなに血生臭い匂いがなんで分からんのだ?」
凶暴な笑みが浮かんだ。
牙を見せるような笑みだ。
店主の目がわずかに揺れる。周囲の男たちも表情を硬くした。自分たちが隠しているつもりのものを、鼻で暴かれた。その事実が思った以上に堪えたのだろう。
グランは一歩近づいた。
「お前ら盗賊のくせに知らねえのか?」
「……なにをです?」
店主はまだ崩れぬ。だが声にわずかな掠れが混じり始めている。
グランの目が細くなった。
「強いやつは弱いやつから奪っていいんだぞ」
その一言とともに、空気が変わった。
見えない何かが店内へ流れ込んだのではない。最初からそこにいた獣が、本気の顔をしただけだ。だがそれだけで、棚の間へ満ちる圧が一変する。
殺気。
言葉にすればそれだろう。だが実際にそこへ立つ者にとっては、もっと直接的だった。喉を掴まれるような圧迫感。呼吸が浅くなり、足が床へ縫いつけられる。殴られてもいないのに、殴られるより先の未来が脳裏へ浮かぶ。
店主の顔から血の気が引いた。
男たちも同じだ。腰へ差していたらしい短剣へ手を伸ばしかけた者がいたが、その指先は柄に届く前に止まる。動けば死ぬ。そう直感で理解した顔だった。
ルシアだけは平然としていた。
慣れている。
この男の殺気など、魔獣との戦いや、あやつが本気で暴れかけた場を何度も見てきた身には、今さら怯えるほどではない。何より、自分へ向いてはいない。だからこそ、少しばかり余裕を持って眺められる。
とはいえ、そのまま放っておけば店ごと潰れそうでもある。
「……やめよ」
ルシアは落ち着いた声で言った。
グランが半眼で振り向く。
「なんでだ?」
「街の法では証拠が先じゃ」
「めんどくせえな」
「めんどうでもじゃ。街に住むには街の法は守らねばならん」
言いながら、ルシアは店主たちから一度も目を離さなかった。今にも崩れそうな顔。だが、まだ完全には落ちていない。こやつらのような連中は、追い詰められれば追い詰められるほど、嘘と開き直りで時間を稼ごうとする。ここで本当に潰してしまえば楽だ。だが楽で済ませてよい話でもない。
グランは少しだけ考える顔をした。
その沈黙が妙に不穏だ。
「バレなきゃいいだろ?」
ルシアは数拍、真顔のまま止まった。
理屈としては、一理ある。
その一理があるから困るのだ。
「……一理あるのう」
思わず本音が漏れた。
店内の空気がさらに冷えた気がする。店主たちからすれば、希望の糸が見えたと思った瞬間に切れたようなものだろう。法を口にした側が、ほんの一瞬でその外へ足を出しかけた。
ルシアの口もとに、わずかに冷たい笑みが浮かぶ。
「じゃが、今は駄目じゃ」
その声とともに、ルシアの中からも少しだけ殺気がにじんだ。
店主たちの顔色が変わる。目の前にいる獣じみた男だけでも十分に災害なのに、その隣に立つ女まで、自分たちより遥かに理不尽な側の存在だと知ってしまった顔だった。
グランが腕を組む。
「とりあえず一人以外は潰そう」
さらりと言う。
ルシアは頷いた。
「そうじゃな。話は一人おればよいの」
店主の喉が鳴る音がした。
男の一人が小さく後ずさろうとして、棚へ背をぶつける。器が一つ、かちりと鳴った。その小さな音さえ、今はやけに響いた。
グランの殺気がさらに濃くなる。
拳がゆっくり持ち上がる。速さはいらない。振り上げるだけで十分だった。本当にやる者の動きは、妙に静かだ。だからこそ、見ている側には終わりがはっきり見える。
限界だった。
「わ、分かった!」
棚の脇にいた若めの男が、ほとんど悲鳴のような声を上げる。
「認める! 認めるから命だけは助けてくれ!」
膝が折れ、その場へ崩れ落ちる。顔面は土気色だ。腰が抜けたのだろう。店主も目を見開き、唇を引き結んだあと、観念したように肩を落とした。
「……分かったから助けてくれ」
それで終わりだった。
凄むでもなく、殴るでもなく、話はそこから急に進んだ。どこで荷を受けているか、何人いるか、顔の通る連中はどこへいるか。震え声のまま吐き出される言葉を、ルシアは一つずつ聞き取り、嘘を混ぜていないか目を見ながら見極めていく。
グランは途中で一度も口を挟まなかった。
ただ立っているだけだ。
だが、その立ち方が一番効いている。店主たちは、ルシアの問いへ答えながらも、意識の半分以上をグランの拳へ向けていた。次に嘘を吐いたら、その拳が落ちてくる。そう確信している顔だ。
ひと通り聞き終えたあと、ルシアは店内を見回した。
「縄はあるか」
店主が震える指で棚の下を示す。店の商品でもある縄で、自分たちが縛られるのは皮肉だった。ルシアは一本投げ、グランが捕まえ、男たちの手首を乱暴すぎぬ程度にまとめていく。逃がさぬ程度の力加減なのに、相手には骨まで軋むように感じたらしい。呻きがいくつか漏れた。
「おぬし、少しは手加減せい」
「してる」
「いつもの言い分じゃの」
店を出る頃には、朝の空気はすっかり薄れていた。通りへ出た盗賊たちは俯き、顔を上げようとしない。近所の者が何人か視線を向けたが、面倒ごとだと察すると、すぐに目を逸らした。
ルシアたちは、そのまま衛兵詰所へ向かった。
無論、どこでもよいわけではない。昨夜の話を聞く限り、買収や内通の可能性は捨てきれぬ。だから、顔馴染みの衛兵がいる詰所まで行く必要があった。
「めんどくせ」
縄を握ったままグランが言う。
「買収でもされておっては無駄になるからのう。我慢せよ」
ルシアが返すと、盗賊のひとりが顔を上げかけ、すぐまた俯いた。自分たちが買収を期待して逃げ道を作れる余地まで、最初から潰されているのだと知った顔だ。
詰所へ着くと、顔馴染みの衛兵がすぐに出てきた。
最初は驚いた顔をしたが、縛られた男たちと、その顔ぶれを見て眉を上げる。
「おいおい、朝から大漁だな」
「店の顔をしとったが、中身は腐っておった」
ルシアが言うと、衛兵は盗賊たちを順に見て、鼻を鳴らした。
「知ってる顔もいるな」
「だったら話は早い」
グランは縄を突き出した。
衛兵は受け取りながら、ちらりとルシアへ目をやる。
「こいつら、どこまで吐いた?」
「知っておる範囲は一応」
「助かる」
その言い方に嘘はなかった。信頼できる相手へ預けられると分かっただけで、ルシアは胸のあたりの緊張が少し緩む。詰所の奥へ引きずられていく盗賊たちは、もはや店の顔ではなかった。怯えた、ただの弱い者の顔だ。奪う側へ慣れた者が、奪われる側へ回った時の無様さがそこにあった。
手続きを終え、詰所を出た頃には、日がかなり傾いていた。
街の色が変わっている。朝の薄さは消え、通りには酒場帰りを気取るにはまだ早い者たちと、仕事上がりで肩を回す者たちが混じり始めていた。匂いも変わる。焼かれる肉、煮込み、発酵した酒、汗と埃と人の熱。アルトリアの夕方だ。
グランが迷いなく向かった先は、いつもの酒場だった。
扉を開けると、馴染みのざわめきが迎えてくる。木の卓、油で艶の出た床、煮込みの匂い、肉を焼く音。見知った顔もちらほらいる。中にはこちらを見て、縛られた盗賊を引きずっていた時のことをすでにどこかで聞きつけたらしい顔もあったが、今は誰も余計なことを言わなかった。
二人はいつもの席へ腰を下ろした。
店主が何も言わずに肉と酒を持ってくる。注文を取る必要がないのは、もはやこの店では当たり前らしい。
皿が置かれる音が妙に心地よかった。
ルシアは杯を持ち、まず一口飲む。喉を通る酒の熱が、張っていたものを少しずつほどいていく。盗賊たちを締め上げていた時は平気だったのに、終わってみれば肩に力が入っていたらしい。
その向かいで、グランはすでに肉を食っていた。
いつも通りである。
その変わらなさを見ていると、あの店の空気も、殺気も、盗賊どもの青い顔も、急に遠い出来事のように思えてくるから不思議だった。
だが遠くはない。現に、面倒はこれからだ。捕まえただけでは終わらぬ。裏にいる者、流れ、残った仲間。今日のは入口にすぎない。
だからこそ、今のうちに言っておかねばならぬことがある。
「うまくいったから良いものの、無茶をしすぎじゃ」
ルシアが言うと、グランは口へ運びかけた肉を止め、きょとんとした顔をした。
「?」
本気で分かっていない顔だった。
ルシアは杯を机へ置く。
「……おぬし、あやつらを脅して認めさせようと考えたのではないのか?」
「?」
まだ分かっていない。
嫌な予感がする。
ルシアは眉間を押さえそうになるのをこらえ、もう一歩踏み込んだ。
「本当に本気で、一人以外は殺すつもりじゃったのか?」
グランは肉を噛み、飲み込み、それからあっさり言った。
「その方が早いだろ」
ルシアはしばらく黙った。
酒場のざわめきが耳へ入る。隣の卓の笑い声。皿の触れ合う音。女給が歩く足音。全部が普通に流れているのに、自分の周囲だけ少し取り残されたような気分になる。
「……脅しではなかったのか」
「なんで脅しにするんだ」
「なんで本気でやるのじゃ」
「盗賊だろ」
理屈としては成立している。成立しているのが厄介だ。
ルシアは深く息を吐いた。
「おぬし、ほんに盗賊退治には向かんような気がするのう……」
がっくりした声になったのは、もう仕方がない。盗賊退治には、捕まえる、吐かせる、流れを辿る、背後を探る、そういう面倒な段階がある。魔獣の巣を見つけて正面から叩き潰すのとは違う。なのに、目の前の男は最初から最後まで魔獣狩りの理屈で動いていた。
グランは首を傾げる。
「なんでだ?」
「なんで、ではない。盗賊は人じゃ。何人もおれば繋がりもある。誰が仕切り、どこで物が流れ、誰と組んでおるか、吐かせねば分からぬことが山ほどある」
「一人残せばいいだろ」
「残したあとの話もあるのじゃ!」
言いながら、だんだん自分でも何を当然のことへ力を入れているのか分からなくなってくる。こやつにとっては、群れを見つけ、一番弱いか焦ったやつを残し、そこから巣を辿る方がよほど自然なのだろう。
ルシアは肩を落とした。
「ほんに疲れる……」
グランは皿を少し押し出してきた。
「どうした? 肉食うか?」
「話が繋がっておらぬ」
「疲れたなら食え」
「理屈になっておらぬ」
だが、皿の上の肉はうまそうだった。湯気が立ち、脂が光り、焼けた表面から香草の匂いが立ち上る。空腹ではないつもりでも、目の前へ出されれば食欲は刺激される。
ルシアはため息をつきつつ、結局その肉を一切れ取った。
「……食うがの」
「だろ」
グランは満足そうだ。
その顔が腹立たしい。
だが、肉はうまかった。噛めば肉汁が広がり、酒が欲しくなる味だった。こういうところがこの街の悪いところでもあり、良いところでもある。
しばらく二人は黙って食った。
酒場の喧騒が、卓と卓の間を流れていく。誰かが笑い、誰かが負けた話を大きな声で語り、どこかでは恋の話が始まっている。いつもの夜だ。盗賊の店で漂っていた血の匂いとは、同じ街の中とは思えぬほど違う。
ルシアは杯を傾けながら、ちらりとグランを見た。
「次からはもう少し考えて動け」
「考えたぞ」
「どこがじゃ」
「一人は残した」
ルシアは本気で頭を抱えたくなった。
「最初から潰す前提なのが駄目なのじゃ!」
「なんでだ。早いぞ」
「早さだけで物事を決めるでない!」
「でも今日うまくいっただろ」
「それはそうじゃが!」
否定しきれぬのがまた腹立たしい。今日のは、たしかにうまくいった。しかも思った以上に早く落ちた。あの店の連中が脆かったのもある。だが、それ以上に、グランの本気が本気として通じてしまったのが大きい。
脅しではなく、本当にやる。
その確信が相手へ伝わる時、人は案外あっさり崩れる。
ルシアは杯を机へ置いた。
そう考えると、盗賊どもが少しだけ不憫にも思えてくる。いや、あやつらはあやつらでろくでもない連中なのだが、それでも、自分たちよりさらに上の理不尽へ正面から踏み込まれた時の顔を思い出すと。
グランがふと、胸を張った。
さっきまでの会話の流れとは関係なさそうに見えて、こやつの中では繋がっているらしい。
「こういった群れを狩る時はな」
肉を持ったまま、得意げな声を出す。
ルシアは嫌な予感しかしない顔で視線を上げた。
「一匹だけ残すんだ」
やはりその話か。
グランは自信満々だった。自分のやり方を教えてやる、とでも言いたげな顔である。
「そうすりゃボスのとこに逃げ込む」
酒場のいつもの喧騒の中で、その言葉だけが妙に物騒に浮いている。
だがグランは気にしない。
「後はボスを潰せばいい」
言い切った。
迷いも疑いもない。これが一番早く、一番確実で、一番当然だと言わんばかりの口ぶりだった。
ルシアはしばらく黙った。
目を閉じる。
小さく息を吐く。
そして一言だけ、心底から漏れた感想をそのまま口にした。
「……盗賊たちが哀れに感じるのう」
グランはきょとんとした。
「なんでだ?」
「おぬしに目をつけられたからじゃ」
「そりゃ弱いやつが悪いだろ」
「おぬしの理屈はそうじゃろうがの……」
ルシアはそう言って、また杯を持ち上げた。
酒が少しぬるくなっている。だが喉を通る熱は十分だった。
この先も、きっと楽ではない。今日吐いた名から辿れば、さらに面倒な話が出てくるだろう。裏で魔薬がどう流れ、誰がそれを支え、規制派とやらがどこまで絡んでいるかも、まだ何一つ見えていない。
それでも、ひとつだけはっきりしていることがある。
盗賊どもにとって、今日からこの件は、もっとろくでもない話になった。
グランは肉を食い、酒を飲み、何の気負いもなく明日も同じように歩き出すだろう。その横で自分は頭を抱え、止め、怒り、ため息をつき、それでもついて行くのだろう。
なんだかんだで、それが今の自分たちだ。
酒場の灯りが卓へ落ちる。皿の上の肉はまだ残っている。向かいの大馬鹿者は、もう次の一切れへ手を伸ばしていた。
ルシアはそれを見て、もう一度だけため息をついた。
だが、そのため息にさっきまでの疲れはあまり混じっていなかった。代わりにあるのは、呆れと、諦めと、少しばかりの親しさだ。
「次は、最初から殺す気で入るでないぞ」
「考えとく」
「考えるだけでは不安なのじゃが」
「大丈夫だ」
「何がじゃ」
「一匹残す」
「そこではない!」
卓の向こうで、グランが少しだけ笑った。
それを見てしまうと、もう怒鳴りきれぬからずるい。
ルシアは酒を飲み干し、皿の肉へ手を伸ばした。
夜はまだ長い。
アルトリアの喧騒も、面倒も、しばらくは尽きそうになかった。だが少なくとも今夜の卓には、いつも通りの肉と酒があり、隣には相変わらずの男がいる。
それだけで、まあよいかと思えてしまう自分が、少しだけ悔しかった。




