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最強獣人に転生したのに女王様エルフに調教されるオレの話  作者: ねこ丸


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第ニ十三話  ……ほんに、あやつは加減を知らぬのか


 家の扉が閉まると、ようやく音が落ち着いた。


 ついさっきまで周囲を満たしていた笑い声も、杯の触れ合う音も、遠慮なく飛んでくる野次も、厚い板一枚を隔てただけで急に遠くなる。静けさが戻ったというより、外の熱気が一気に引いて、室内に本来の空気が戻ってきたのだろう。木の匂い。布の匂い。壁に残るわずかな陽のぬくもり。慣れた家の中は、いつも通りのはずなのに、今夜は少しだけ違って見えた。


 ルシアは扉の前で立ち止まったまま、長く息を吐いた。


 体が重いわけではない。


 疲れてはいる。式の最中も、その後の宴でも、思っていた以上に人の視線を浴びた。飲みもした。喋りもした。笑いもした。だがそれ以上に、自分の中へ残っているものの方が厄介だった。


 祝福の熱。


 視線。


 歓声。


 あの白い衣装の感触。


 そして、唇に残る、まだ消えきらぬ熱。


「……ふう」


 もう一度、小さく息を吐く。


 すでに二人とも普段着へ着替えていた。帰る前に脱いだあの衣装は、丁寧に畳まれて家の中へ運ばれている。白い布は今、寝台の端へ仮に置かれているだけなのに、そこだけが妙に目立って見えた。


 その横で、グランは何事もなかったように肉を食っていた。


 片手で骨付き肉を持ち、もう片方の手で別の皿へ伸びる。祝宴の席でもかなり食っていたはずなのに、帰ってきて早々これである。噛みちぎる音がやけに遠慮なく室内へ響き、脂の香ばしい匂いがふわりと広がった。


 ルシアはその様子を横目で見て、こめかみを軽く押さえる。


「……まだ食うのか」


 問いかけると、グランは肉から目を離さずに答えた。


「腹減ってたからな」


「式でも宴でも食っておったであろうが」


「途中でいろいろ来たからな。落ち着いて食えてねえ」


 その言い分が妙にもっともらしいのが腹立たしい。たしかに祝宴の席では、祝いの言葉だの、からかいだの、酒だの、周囲からひっきりなしに絡まれていた。あやつが腰を据えて食えた時間は多くなかっただろう。


 だが、それにしても。


 ルシアは肩を落とし、近くの椅子へ腰を下ろした。背もたれに体を預ける。木の感触が心地よい。ようやく足が止まり、目の前の光景が自分の日常へ戻ってきた気がした。


 家だ。


 二人の家だ。


 今夜はその当たり前が、妙に胸へ沁みた。


 グランは黙々と肉を噛み、ルシアはしばらく何も言わなかった。外のざわめきはもうかなり遠い。ここには二人ぶんの息づかいと、肉を噛む音と、時折ゆらめく灯りの気配しかない。


 その静けさの中で、ルシアの視線は自然と寝台の端へ置かれた白へ吸い寄せられた。


 白い布。


 丁寧に畳まれている。


 それでも、一目見ればあれだとわかる。さっきまで自分がまとっていた衣装。胸元を妙に意識させ、背に触れる空気まで記憶へ残した、あの衣装だ。


 ルシアは少しのあいだ目を逸らしたが、結局立ち上がった。


 寝台の端へ近づき、手を伸ばす。指先が布に触れた瞬間、指の腹に柔らかな感触が返ってくる。軽いのに頼りなくはなく、なめらかで、少しひんやりとしている。式の最中は余裕がなくてそこまで意識できなかったのに、今こうして静かな部屋で触れると、布地の良さがよくわかった。


「……まったく、余計なものを」


 誰へともなく呟く。


 文句の形をしているが、手つきは雑にならない。むしろ逆だった。


 ルシアは布を持ち上げ、皺を確かめた。浅く入った折り目を指先でそっとなぞり、崩れたところを整える。胸元の形を思い出させる部分では一瞬だけ手が止まり、すぐに何事もなかったように指を動かす。裾の重なりを崩さぬよう整え、細い紐のような飾りが絡まっていないか確認し、端と端を丁寧に合わせて折る。


 動かすたびに、あのときの感覚がよみがえる。


 背中に触れる空気。


 肩口をなぞる髪。


 無防備な胸元へ落ちる自分の視線。


 そして、鏡の中に立っていた、見慣れているはずなのに見慣れぬ自分の姿。


 ルシアは目を伏せた。


 思い出せば思い出すほど、耳が熱くなる。


 だが手は止めない。白い布を丁寧に重ね、形を崩さぬよう畳み直す。適当に棚へ押し込む気には、とてもなれなかった。贈り物として渡されたものだ。それも、ただの布ではない。あの場の空気ごと、一緒にここまで運ばれてきたもののように思える。


 しまう場所も選んだ。


 日用品に混ぜるのは違う。かといって奥へ押し込むのも違う。ルシアは小さく迷ってから、寝台脇の収納箱を開けた。普段あまり使わぬ、だが粗末にも扱わぬ場所だ。中を少しだけ整え、そこへ白をそっと納める。布の端がつぶれていないか確かめ、蓋を閉めかけて、また少し開く。気になって、もう一度だけ中を見た。


 白い布は静かに収まっていた。


 それを見つめたまま、ルシアは小さく息を吐く。


「……似合っておったか」


 聞かせる相手のいない声だった。


 自分でも、何を言っているのかと思う。


 すぐに顔を背けた。


「……馬鹿者」


 今度は誰へ向けた言葉なのか、自分でもはっきりしている。


 背後から、肉を噛む音が途切れた。


「なんか言ったか?」


 グランの声に、ルシアは一瞬肩を揺らす。だが振り返らずに箱の蓋を閉じ、鍵を軽くかけてから、ようやく横目で睨んだ。


「なんでもない」


「そうか」


 本当にそれで終わる。


 あっさりしすぎていて、少し拍子抜けする。もう少し何か言えと言いたいような、何も言われぬ方が助かるような、妙な気分だった。


 ルシアは椅子へ戻った。腰を下ろすと、膝の力が少し抜ける。


 グランはまた肉へ戻っている。


 どこまでもいつも通りだ。


 その姿を見ていると、先ほどまでの華やかな場が本当に同じ日の出来事だったのか、妙に曖昧になる。だが、口の中に残る酒の気配や、胸の奥にくすぶる熱が、それを夢ではないと教えてくる。


 しばらく、肉を食う音だけが続いた。


 ルシアは机の上へ置かれた杯を手に取ったが、飲む気にはまだならず、そのまま指先で縁をなぞる。ふと、祝宴の終わり際に交わされた言葉が頭へ浮かんだ。


 市長。


 あの男の目。


 グランへ向けた言葉。


 また相談を。


 軽く流してよいものではない気がする。だが、グランに聞いたところでどうせ。


 そう思いながらも、ルシアは聞かずにはいられなかった。


「なあ」


「ん?」


 今度は骨を皿へ置く音とともに返事が来る。


「そういえば、市長の相談とはなんじゃ」


 グランは少し考える顔をした。


 考えると言っても、肉を飲み込んでから口を開くまでの短い間だ。


「知らね」


 予想通りの返答だった。


 ルシアは数拍、言葉を失う。


「……知らぬのか」


「聞いてねえし」


「聞いておらぬのか」


「なんか後でって感じだったぞ」


 その程度である。


 ルシアは額へ手を当てた。


「ほんにおぬしは……」


「なんだよ」


「気にならぬのか」


「気になるなら来た時聞けばいいだろ」


 あまりにもそのままで、ルシアは反論の言葉を一度呑み込んだ。たしかに、来るならそのとき聞けばよい。そういう話ではある。そういう話ではあるのだが、少しくらいは考えてみぬか、この大男は。


 しかし、こういうところが妙に助かることもある。余計な不安へ転がっていく前に、足場のない考えをあっさり地面へ落としてしまう。腹立たしいが、無駄に緊張を増やさぬという意味では悪くない。


「……まあ、よい」


 そう言って椅子へ深く座り直した途端、別のことが頭をもたげてきた。


 静かだからだ。


 人がいないからだ。


 ごまかせぬからだ。


 祝宴の最中は、次から次へと声が飛んできた。野次も、笑いも、杯も、視線も、全部が一度に押し寄せてくるから、羞恥も勢いの中へ埋もれていた。


 だが今は違う。


 二人きり。


 家の静けさ。


 呼吸の音まで聞こえる近さ。


 その条件が揃ってしまうと、あの場で押し流していたものが、一つずつ形を持って戻ってくる。


 吟遊詩人たちのこと。


 奴隷紋の獣人と高位エルフの恋物語だの何だのという、とんでもない話。


 本国へまで伝わるかもしれぬという話。


 知らぬどこかで、知らぬ誰かが、自分とグランのことを面白おかしく歌にしているかもしれぬという現実。


 そして。


 何よりも。


 皆の前で。


 あれほど大勢の視線の中で。


 抱き寄せられて。


 口づけられて。


 あまつさえ、自分がそれを拒まなかったこと。


「……っ」


 ルシアは杯を机へ戻し、顔を片手で覆った。


 熱い。


 じわじわと顔へ血が上る。


 今になって、どんどん恥ずかしくなってくる。あのときは流れに呑まれていたのだ。エリナが勝手を言うから。グランがあんなことを平然と言うから。場の熱がああも強かったから。


 だが、どれだけ理由を並べても、起きたことは起きたことだ。


 そしてその一つ一つが、今こうして静けさの中で妙に鮮やかに蘇る。


 抱き寄せられた腰の熱。


 背へ回った腕の力。


 近づいた顔。


 まっすぐすぎる目。


 いつも美しいが、今日はより一層美しいぞ。


 あの厚かましい言葉。


 あのときの自分の息。


 目を閉じたのか、閉じさせられたのかも曖昧な、あの一瞬。


 唇の熱。


 歓声。


 大歓声。


「……うう」


 声にならないうめきが漏れる。


 グランが手を止めた。


「どうした」


「どうしたではない……」


 ルシアは顔を覆ったまま、しばらく沈黙した。聞くべきか。聞かぬべきか。聞いたところでまともな返答が来るのか。だが、この男の頭の中にあれがどう残っているのか、知らずにはいられない。


 おそるおそる手を下ろし、ルシアはグランを見た。


「おぬしは、恥ずかしくないのか」


「なにがだ?」


 本当にわからぬ顔で返してくる。まっすぐすぎるその顔に、ルシアはますます言いづらくなった。


「……吟遊詩人どものことや、その……式での、くちづけのことじゃ」


 言いながら、自分の声が少し小さくなるのがわかった。


 くちづけ。


 口に出すと、余計に生々しくなる。言わねばよかったと思ったが、もう遅い。


 グランは一瞬だけ黙り、それから首を傾げた。


「なにか恥ずかしいことあったか?」


 ルシアは息を呑んだ。


「……あったであろうが!」


「そうか?」


「そうか、ではない!」


 椅子から少し身を乗り出す。頬が熱いまま、ルシアは言葉を重ねた。


「あんなに大勢に見られたのじゃぞ!」


「だから?」


 何を言っているのかわからぬ、と本気で思っている顔だった。


 ルシアはしばし絶句する。


 だから、である。


 だから恥ずかしいのだ。


 だから顔が熱くなるのだ。


 だから吟遊詩人の話など聞かされたら死にたくなるのだ。


 だがその当然が、グランには当然ではないらしい。


「おぬしは、あの場の視線とか、そういうものを気にせぬのか」


「気にしてたらあんなとこで戦えねえだろ」


「戦いの話ではない!」


 思わず声が大きくなる。


 グランはぱちりと瞬いたあと、ようやく手にしていた肉を皿へ置いた。骨が皿の端へ当たり、小さく乾いた音を立てる。


 その音とともに、部屋の空気が少しだけ変わった。


 グランが立ち上がる。


 木の床がきしむ。


 大きな影が近づいてくるだけで、ルシアは反射的に背筋を伸ばした。何をするつもりか、言われる前から体が警戒する。その警戒の半分は身構えで、半分は別のものだ。


「お、おい」


 言う間に、グランはルシアの前まで来ていた。


 視線が上から落ちてくる。


 あやつの目は、こういうとき妙に静かだ。戦う前の獣のような鋭さとも違う。獲物を見る目でもない。だが、いつもよりずっと雄の気配が濃くなる。何も言わぬうちから、それだけで胸がざわつく。


 グランの手が伸び、ルシアの腕を軽く取った。


 力任せではない。だが逃がすつもりもない、そんな掴み方だった。


「オレはお前を愛してる」


 低い声が、近い。


 ルシアの心臓が一つ跳ねる。


「お前はオレを愛してる」


 その言い方があまりにも当然で、ルシアは息を詰めた。


 否定できぬ。


 したくもない。


 それをわかっていて、こやつはこういうことを言う。


「なにも恥ずかしくないだろう」


 真正面から言い切られる。


 理屈がない。


 飾りもない。


 だが、その単純さがずるい。あれこれ考えて、自分で自分を絡め取っていた糸を、太い指でまとめて引き千切るような言葉だった。


 ルシアはしばらく何も言えなかった。


 胸の中で、さっきまで渦を巻いていた羞恥が、別の熱へ押しやられていく。恥ずかしい。恥ずかしいのだ。だが、それだけではなくなってしまう。


「馬鹿者……」


 ようやく出た声は、いつもよりずっと弱かった。


 グランが腕を引く。


 ルシアの体が自然とその方へ寄る。拒もうと思えば拒めた。だが、そうしなかった。肩から力が抜ける。体の重みを少し預ける。あやつの胸の厚みが、服越しにわかる。


 グランの腕が背へ回った。


 背中に添えられた大きな手が熱い。


「覚悟しろよ」


 耳元に落ちる声が低い。


「今夜は眠らせん」


 ルシアは固まった。


 一拍遅れて、その意味が胸へ落ちてくる。


「……は?」


 間の抜けた声が出た。


 グランは真面目な顔をしている。冗談ではないらしい。


「お、おい、待て」


「待たねえ」


「待てと言っておる!」


「無理だ」


「無理とはなんじゃ!」


 抗議しながら、体がすぐには離れられないのが余計に悔しい。背へ回った腕の力は強すぎるほどではないのに、そこから逃げる気にはなれない自分がいる。


 グランはルシアの顔を覗き込んだ。


 近い。


 あまりにも近い。


 ルシアは視線を逸らしかけ、結局逸らしきれずに睨むような形になる。だが、その睨みが十分な鋭さを持たぬことは自分でもわかっていた。


「恥ずかしいんだろ」


「そ、それとこれとは話が違う!」


「違わねえよ」


「違うわ!」


「じゃあ慣れろ」


 その返しに、ルシアは本気で言葉を失った。


 こんな男がいるか。


 いるから困る。


 そして、そんな理屈とも言えぬ言葉に胸が鳴ってしまう自分は、もっと困る。


 グランがルシアを抱え上げるのは、その直後だった。


「なっ、お、おい!」


「軽いな」


「感想を言うでない!」


 抗議はする。するが、腕を首へ回すのが遅れるほどには動揺していた。視界が高くなる。寝台が近づく。ルシアはそれだけで、今夜の自分の先行きを察して頭が痛くなった。


 灯りが揺れる。


 扉の隙間から入る外気は冷たくない。


 なのに背中はじんわり熱く、頬はそれ以上に熱かった。


 そのあとのことを、ルシアはあまり細かく思い返したくなかった。


 思い返せば、また顔が持たぬ。


 ただ、たしかなのは、グランが宣言通りだったということだけだ。


 ひどい。


 ほんにひどい。


 加減を知らぬにもほどがある。


 だが同時に、自分が途中から完全に拒めなくなっていたことも、ルシアは知っていた。


 だから余計に腹立たしい。


 だから余計に、朝になってからぐったりしているのは自分ばかりなのが納得いかなかった。


 薄い光が窓から差し込んでいる。


 何刻なのか、正確にはわからぬ。体の感覚からすれば朝に近いのだろうが、まともに眠った気がまるでしない。寝台の上で、ルシアはぐったりと横たわっていた。


 髪は少し乱れ、肩には毛布が半ばずり落ちている。


 腕を持ち上げるのも少し億劫だ。


 なのに、その横では。


 グランが妙に元気そうだった。


 寝台の端へ腰かけ、もう起きる気配でいる。むしろよく寝たあとのような顔をしているのが腹立たしい。どういう体力をしておるのだ、この男は。


 ルシアは枕を引っ掴んだ。


 狙いを定める余力もなく、そのまま投げる。


 枕は鈍い音を立ててグランの肩へ当たった。


「この大馬鹿者!」


 グランが振り向く。


「どうした?」


「どうしたではない!」


 起き上がろうとしたが、腰に変な力が入らず、途中でぐったりと戻る。情けない。だが無理なものは無理だ。


「本当に眠らせないやつがおるか!」


 言った途端、声の端へ羞恥が混ざる。


 だが今は怒りの方が勝っていた。


 グランは少し考える顔をした。


「言っただろ」


「言ったからといって、本当にあの通りにする馬鹿がどこにおる!」


「ここにいる」


「胸を張るな!」


 ルシアはもう一つ枕があれば投げつけていたところだった。あいにく、今の自分にはそれを探す気力もない。


 グランは悪びれない。


「でもお前、途中から」


「言うでない!」


 即座に遮る。


 そこだけは言わせぬ。


 あれを口に出されたら、本当に穴でも掘って入りたくなる。


 グランは少しだけ口もとを緩めた。笑ったのか、ただ息を吐いただけなのか曖昧な程度の変化だが、それがまた悔しい。


 ルシアは毛布を胸元まで引き上げ、睨みつける。


「加減というものを知れ」


「加減したぞ」


「しておらん!」


「してた」


「しておらぬ!」


 言い切ると、グランは本気で不思議そうな顔をする。どうしてこう、この男は自分の基準でしか世界を見ぬのか。


「ほんに、おぬしは力任せすぎるのじゃ。人がどれだけ疲れるか、考えぬのか」


「疲れたなら寝ればいい」


「その寝る暇を与えぬから言うておる!」


「そうか」


「そうじゃ!」


 やっと伝わったかと思いきや、グランは大して反省している顔ではなかった。どうやら理解と反省は別らしい。


 ルシアは枕へ顔を埋めたい気分になったが、そんなことをしたら余計に悔しいのでやめた。


 しばらくの沈黙のあと、グランがあっさり言った。


「そろそろ寝るか」


 ルシアは目を見開いた。


「不健全じゃ!」


「なんでだ」


「一晩中起きておいて、今から寝るなぞ不健全以外の何でもなかろう!」


「眠いし」


「わらわも眠いわ!」


 言いながら、実際ひどく眠い。まぶたは重い。体も重い。だがそのまますぐ眠りに落ちる気にもなれなかった。汗を流したい。体を温めたい。呼吸を落ち着けたい。そのあたりが整わぬうちは、毛布をかぶったところで妙にそわそわするだけだろう。


 グランが首を傾げた。


「眠らんのか?」


「寝る。寝るが、このままでは眠れん」


 ルシアが言うと、グランは少しだけ考え、それから当然のように口を開いた。


「風呂入るか?」


 その一言に、ルシアは救われた気分になった。


「うむ……」


 返事はしたが、そこで問題が生じる。


 立てぬ。


 立つ気力がないのではない。本当に足腰へ力が入りづらいのだ。


 ルシアは寝台の上で少しもぞもぞと動いてみせたあと、観念してグランへ手を伸ばした。


 グランが眉を上げる。


「?」


「立てん」


「そうか」


「そうか、ではない。風呂まで連れていけ」


 言ってしまったあとで、頬が少し熱くなる。だが今さら妙な意地を張る方が面倒だった。疲れている時に助けを求めるくらい、もう構わぬだろう。少なくとも、この男に対しては。


 グランはあっさりうなずいた。


「分かった」


 そのまま抱き上げようとしたので、ルシアは慌てて毛布を押さえる。


「ま、待て、せめてこれを整えるまで」


「おう」


 短く返して待つあたりは素直だ。


 ルシアは体勢を整え、グランの腕へ身を預ける。抱えられると、やはり少し落ち着くのが悔しい。歩くより早い。揺れも少ない。風呂場までの短い距離が、今は妙にありがたかった。


「洗うか?」


 風呂場の前で、グランが何気なく言う。


 ルシアは一瞬だけ黙った。


 返すべきか。流すべきか。断るべきか。


 だが、ここまで来て取り繕っても仕方がない。


「……隅々まで優しく洗うのじゃぞ」


 小さく言うと、グランは素直に答えた。


「分かった」


 その素直さがまた危ういのだが、今はもう言わなかった。


 風呂へ入ると、熱が体に沁みた。張っていた筋肉が少しずつ緩み、呼吸が深くなる。湯気の向こうで揺れる灯りを見ているだけで、ようやく長かった夜が終わりへ向かっている気がした。


 洗われる手つきは意外なほど丁寧だった。


 力が強いのは変わらぬ。だが、乱暴ではない。こちらの反応を見ながら、強すぎぬよう手加減しているのがわかる。昨夜の件でそれを最初から発揮せぬのかと言いたい気もしたが、口にすればまた余計な方向へ転がりそうなので黙っていた。


 湯の中で肩の力が抜けきった頃には、ルシアの瞼はもう半ば閉じていた。


 風呂から上がり、二人は少しだけ寝た。


 ほんの少し、のつもりが、それでも体は正直で、ルシアは深く眠りに落ちた。起きた時には光の色が変わっている。窓から差し込む明るさは朝のそれではなく、昼とも夕ともつかぬ柔らかな色合いだった。


 夕方より少し遅い頃だろうか。


 ルシアは寝台の上でゆっくり目を開けた。体はだいぶ楽になっている。だが、まだ少し気だるい。腕を伸ばし、指を動かし、寝返りを打つ。隣を見ると、グランはすでに起きていた。


 平常運転である。


 毛皮のような丈夫さを持つ男め、と心の中で毒づきながら、ルシアは身を起こした。


 その時、扉が叩かれた。


 軽い音ではない。遠慮はあるが、知った者の叩き方だ。


 グランがすぐに立ち上がる。


「来たな」


「誰じゃ」


「匂いで分かる」


「分かるな」


 言いながらも、ルシアも身支度を整えた。髪を手早くまとめ、襟元を正す。完全に普段通りとはいかぬが、人前へ出られぬほどではない。むしろ、この家へ来るような面々なら多少の気だるさなど見抜かれるだろう。それがまた少し面倒だった。


 扉が開く。


 入ってきたのは、予想通りの顔ぶれだった。


 ブレイクとイリス。


 そして市長とエリナ。


 エリナは入ってくるなり、にやにやした顔で包みを持ち上げた。


「これ、リナから」


 机の上へどさりと置かれた包みから、すぐに良い匂いが立つ。肉料理だ。酒の瓶も見える。


「店があって来られないから、差し入れだけでもって」


 そこでエリナの口もとがさらに意地悪く緩む。


「とても料理なんかしてるヒマないだろうから、だって」


 ルシアは固まった。


 次の瞬間、頬へ熱が上る。


「……っ」


 言い返そうとして言葉が出ない。


 その沈黙だけで、すでに図星だと認めているようなものだった。


 イリスが穏やかな顔で一歩進む。


「大丈夫ですか? 新婚でも、やりすぎてはいけませんよ」


「い、イリスまで何を申す」


 声が少し裏返る。


 イリスは本気で心配している顔に見えるのがまた厄介だ。からかいではない。だから余計に逃げ場がない。


 その横で、ブレイクと市長は聞こえなかったふりをした。


「よう」


 ブレイクがグランへ向かって気軽に手を上げる。


「おう」


 グランも同じくらい気軽く返す。


「お邪魔します」


 市長は穏やかに頭を下げた。


 男どものこの聞こえないふりが、かえってルシアには堪えた。聞こえておるだろうが。絶対に聞こえておるだろうが。なのに何も言わぬ。何も言わぬからこそ、余計にわかっておる感じがするではないか。


 ルシアは拳を膝の上で握ったが、今ここで爆発しても自分が損をするだけだと理性が告げる。ぐっと堪え、代わりに包みの方へ視線を向けた。


「……差し入れはありがたく受け取る」


「素直でよろしい」


 エリナが笑う。


 その笑みを殴れぬ自分が少し悔しい。


 やがて皆が席につき、差し入れの肉料理が皿へ移された。香草の匂いが立ち上り、焼いた肉の香ばしさが部屋へ満ちる。酒の瓶も開き、軽く杯が回る。祝宴の延長のようでいて、あの大きな場とは違う。ここは家の中だ。人数も少なく、声も近い。椅子を引く音も、皿の置かれる音も、どこか落ち着いて聞こえる。


 ルシアは少しずつ気持ちを立て直していった。


 家の中で、知った顔ばかりと囲む食卓は悪くない。いや、かなり良い。からかいがなければもっと良いのだが、それをこの面々に望むのは贅沢だろう。


 グランは差し入れの肉へさっそく手を伸ばしている。


「うまいな」


「そりゃリナの差し入れだし」


 エリナが胸を張る。お前が作ったわけではなかろうが、とルシアは思ったが、口には出さなかった。


 市長も杯を傾け、イリスは穏やかに皆へ料理を回し、ブレイクはどっしり座って肉を切り分けている。こうして見ると、変わった顔ぶれだ。獣人、エルフ、街の長、そしてその伴侶たち。だが、それが同じ卓を囲んでいることに違和感がないのが、この街らしかった。


 少し酒が回り、空気が落ち着いてきた頃、ルシアは市長へ視線を向けた。


 この男はさっきから、いつ本題へ入るかを静かに測っているように見えた。祝宴の場でもそうだったが、場の空気を読むのが上手い。だが、それを逆手に取ることもできる。


 ルシアは杯を持ったまま、少しだけ口もとを緩めた。


「市長がこんなところにおってよいのか?」


 やり返しのつもりだった。


 結婚式の場であれこれ面白がっていた分、少しくらいこちらから刺してもよいだろう。


 市長は一瞬だけ目を細め、それから苦笑した。


「痛いところを突かれますね」


 そこでエリナが横から口を挟む。


「なんか二人にお願いがあるんだって」


 軽い言い方だったが、その一言で場の空気が少し変わった。


 食卓の和やかさが消えたわけではない。だが、皆が自然に耳を向ける程度には、空気が整う。ルシアも杯を置いた。グランは肉を飲み込んでから市長を見る。ブレイクは腕を組み直し、イリスは静かに姿勢を正した。


 市長は一度だけ息を吐き、口を開く。


「まず、現状からお話しします」


 その声は、先ほどまでの冗談めいた軽さを少し引いたものだった。


「魔獣の異常な増加については、皆さんもよくご存じでしょう」


 ブレイクが低くうなずく。


「街道も周辺も、以前より多い」


「はい。ですが、それはあなた方の働きで少しずつましになってきています」


 市長は視線をグランとブレイクへ向けた。


「正直に言えば、もっとひどくなると覚悟していた時期もありました。ですが、大型のものを早めに叩けている。周辺で増えた群れも放置されていない。おかげで街そのものへ流れ込む数は、最悪のところまでは行っていません」


 グランは褒められていることには気づいたらしいが、さほど気にした様子はない。肉をもう一切れ取りながら「そうか」とだけ答えた。


 市長は苦笑しつつ続ける。


「問題は、街の中です」


 ルシアの目が細くなる。


「盗賊どもか」


「ええ。正確には、盗賊と、その背後で動いている者たちかもしれません」


 市長の言葉に、イリスが静かに眉をひそめた。


「魔薬の件ですね」


「その通りです」


 市長は杯へ指を添えたまま、しばらく酒を飲まなかった。


「都市内部で動く盗賊の数が増えている。表通りで堂々と暴れるわけではありませんが、裏で人を襲い、荷を奪い、流し、時には若い者を取り込む。そこへ最近、妙な薬が絡み始めています」


 魔薬。


 その言葉だけで、卓の空気が少し冷える。


 ルシアもその名くらいは知っている。体を無理やり高ぶらせ、力を歪め、正気を削り取るようなろくでもない代物だ。戦いへ使えば一時的に力は上がるのかもしれぬが、その先に残るものはろくなものではない。


「厄介なのは、それがただの裏商売では済まぬところです」


 市長が言う。


「アルトリアは、人も物も大量に流れ込む街じゃ」


 ルシアが先に口を開いた。


「良いものも悪いものもな」


 市長は少しだけ笑った。


「さすがです。まさにその通り」


 ルシアは肩をすくめる。


「見ておれば分かる」


 この街は開いている。門を閉ざして守る街ではない。人が来る。物が来る。金が動く。種族も立場も様々な者が混ざり合い、そこで商いが生まれ、情報が回り、時には揉め事も起きる。


 だから賑わう。


 だから栄える。


 そして、だからこそ、ろくでもないものまで流れ込む。


「ですが、それこそがアルトリアの魅力であり、原動力なのです」


 市長は真っ直ぐ言った。


「閉じてしまえば安全になる部分はあるでしょう。ですがそれでは、この街はこの街でなくなる」


 その言葉には、街の長としての覚悟が見えた。


 ブレイクが低く問う。


「それで、規制派か」


 市長はゆっくりうなずいた。


「はい。最近、一部で規制を強めるべきだという声が大きくなっています。通行の制限、商いの制限、出入りする者の監視強化。表向きの理由は単純です。治安の悪化、魔獣の増加、街の混乱。それらを抑えるためだと」


 グランが肉を咀嚼しながら眉を寄せた。


「いちいちめんどくさくねえか?」


「めんどうです」


 市長は即答した。


 それが少し可笑しくて、ルシアの口もとがわずかに緩む。だが笑って済む話ではない。


 ブレイクが続けた。


「それだけでは終わらんだろう。規制が始まれば、獣人もエルフも、そのほかの連中も、面倒な目に遭う」


「その可能性は高いでしょう」


 市長の声は落ち着いているが、内容は軽くない。


「街へ入る異種族を制限すべきだ、という意見もすでに出ています。表立ってはおりませんが」


 ルシアの指先が杯の縁を強く押さえた。


 なるほど。


 そういうことか。


 グランは政治の細かな話は好まぬ。だがこれなら伝わる。


「治安の悪化や魔獣増加を、規制の大義名分にするのじゃな」


 ルシアが言うと、グランがこちらを見た。


「ああ」


 市長がうなずく。


「しかも、こちらとしては気になる点がある」


 そこでブレイクが声を落とした。


「盗賊や魔薬の件、その裏に規制派の影が見える」


 市長は苦い顔で笑う。


「断定はできません。ですが、あまりにも都合が良い」


「荒らしておいて、荒れているから締めろと言い出すわけか」


 ルシアの声は少し冷えていた。


「その可能性があります」


 市長は静かに認めた。


 グランはそこまで聞いて、ようやく全体像が見えてきたらしい。だが理解の仕方は、やはりこの男らしいものだった。


「めんどうだな」


 短く言い、それから本気の顔になった。


「そいつらまとめてブン殴ろう」


「絶対やめよ!」


 ルシアが即座に言う。


「絶対やるな」


 ブレイクも重ねる。


「お願いですからやめてください」


 市長が珍しく切実な顔になった。


 場が一瞬静まり、それからエリナが堪えきれずに吹き出した。


「だめだよ、いきなりそれは」


「なんでだ」


 グランは本気で分かっていない。


 ルシアは額へ手を当てた。


「なんで、ではない。証もなく殴れば、規制派の思う壺じゃ。見ろ、やはり獣人は乱暴だ、とでも言われればどうする」


「ルシアも巻き込まれるぞ」


 ブレイクが低く言うと、グランは少しだけ顔をしかめた。


「それは嫌だな」


「嫌なら我慢せい」


「む」


 不満そうではあるが、少なくともルシアが絡むと止まる。その単純さがありがたい場面だった。


 少し笑いが落ち着いたところで、市長が改めて言った。


「お願いしたいのは、盗賊たちの討伐と、その流れの見極めです。表で暴れている連中だけを叩いても、根が残ればまた生えてくる。ですが今のところ、表に出てくる手足を折るだけでも意味はある」


 ルシアは黙って聞いていた。


 この街を守るため、などという綺麗な言葉だけでは動かぬつもりだった。だが、今の話は他人事ではない。この街が閉じ、締め上げられ、種族で線を引かれるようになれば、自分も、グランも、そして今この卓を囲んでいる者たちも、無傷では済まぬ。


 何より。


 ルシアは、この街が嫌いではなかった。


 どころか、かなり気に入っている。


 騒がしい。雑だ。荒っぽい。だが、だからこそ息がしやすい。余所者だろうが、獣人だろうが、エルフだろうが、力と働きと、少しの運と図太さがあれば居場所を作れる。そういう街だ。


 ルシアは杯を置いた。


「盗賊どもの討伐には協力しよう」


 自分でも、思ったよりはっきりした声が出た。


 市長の目が少しだけ柔らかくなる。


 ルシアはそのまま続けた。


「わらわも、この街は気に入っておる」


 言い切った瞬間、少し照れがきた。だがもう遅い。


 グランが横で頷く。


「肉も酒も美味いしな」


 ルシアはそちらを睨んだ。


「……それだけではないぞ」


「分かってる」


 本当に分かっているのか怪しい返事だったが、妙に穏やかな声だった。


 市長は杯を持ち上げた。


「心強い」


 ブレイクも低くうなずく。


「なら動ける」


 イリスは小さく微笑み、エリナは肘をついてにやにやしていた。


「やっぱりこうなると思ってた」


「なんじゃその顔は」


「いや、ルシアが街を気に入ってるって、ちゃんと言ったなって」


「悪いか」


「悪くない。すごくいい」


 そう言われると返しづらい。


 ルシアは軽く咳払いして誤魔化し、代わりに酒を一口飲んだ。喉を滑る熱が、少しだけ心地よい。


 話は一応まとまった。


 これから先、また面倒なことが増えるのだろう。盗賊、魔薬、規制派。ろくでもない匂いしかしない。だが、その面倒を前にしても、卓の空気は必要以上に重くならなかった。


 それがこの面々の良いところかもしれぬ。


 市長は街の長でありながら気負いすぎず、ブレイクは必要な時だけ重くなり、イリスは静かに場を整える。エリナは最後まで楽しそうだ。グランは相変わらず短絡的だが、余計な濁りがない。


 そして自分は、そんな連中と一緒にここで酒を飲んでいる。


 不思議な縁だ。


 だが、悪くない。


「じゃあ食ったらぶっ倒すか」


 グランが肉へ手を伸ばしながら言った。


 ルシアは即座に眉をひそめる。


「盗賊を、じゃぞ?」


「分かってる」


「本当に分かっておるか……?」


 疑わしい。


 だが、グランは気にした様子もなく、ただ肉を噛んだ。その横顔を見ていると、妙な不安と、妙な安心が同時に湧いてくる。


 面倒は山ほどある。


 だが、この男が隣にいる限り、最後にはなんとかなる気がしてしまうから困る。


 卓にはまだ酒が残っている。


 肉の匂いも、笑い声も、灯りのぬくもりも、まだ消えぬ。


 家の中には人の気配が満ちていた。


 少し前までは二人きりの静けさがあったが、今はそれとは別の温かさがある。式の熱が静かな余韻になり、その余韻がこうして次の話へ繋がっていく。その流れの中に自分がいるのだと、ルシアはふと実感した。


 そして、その実感の奥底には、まだ名残のようにあの夜の熱が残っている。


 視線を感じたので横を見ると、グランがこちらを見ていた。


「なんじゃ」


「いや」


「なんじゃ」


「なんでもねえ」


 そう言ってまた肉へ戻る。


 さっきの仕返しか、とルシアは思った。


 まったく、ほんに、こういうところまで似たようなことをするようになってきたのかもしれぬ。少しだけ可笑しくなり、ルシアは杯を持ち上げる。


 窓の外では、夜がゆっくり深くなっていた。


 この街には、明日もまた人が流れ込み、物が流れ込み、良いものも悪いものも入り混じって動くのだろう。面倒ごとも増えるに違いない。


 それでも。


 それでも、この街は悪くない。


 この家も悪くない。


 そして、隣のこの大馬鹿者も、まあ、悪くない。


 そう思いながら、ルシアは酒を口に運んだ。

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