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最強獣人に転生したのに女王様エルフに調教されるオレの話  作者: ねこ丸


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第二十二話 ……ほんに、こんなものを着る日が来るとはな


 薄い布が擦れる音は、葉が触れ合う音に少し似ていた。


 閉じた控室の中には外の賑わいがやわらかく届いていて、壁の向こうで交わされる声や、誰かが椅子を引く気配や、笑いを堪えきれずに漏らした短い息までが、遠く近く重なっている。そのざわめきに混じって、白い裾が床を撫でるかすかな音だけが、妙に耳に残った。


 鏡の前に立つルシアは、しばらく瞬きすら忘れていた。


 白金の髪が、背に流れ落ちている。


 普段は凛と結い上げるか、動きを邪魔せぬよう後ろへ払うことの多いそれが、今日は丁寧に整えられ、柔らかく波を打ちながら肩の線をなぞっていた。光を受けた髪は、白に近い色を宿したかと思えば、次の瞬間には冷たい銀にも見える。胸元から肩へかけてはなだらかに開き、白い布地はただ体を隠すためではなく、その輪郭を際立たせるためにそこにあるかのようだった。


 腰のあたりで細く絞られた生地が裾へ向かって静かに広がり、足もとの布は重なり合う花弁のようにやわらかな影をつくっている。腕を少し動かすだけで、胸元から背へ流れる線が、控えめなのに妙に目を引いた。


 戦場で矢を避ける時のルシアを知る者が見れば、同じ女だとは一瞬で結びつかぬかもしれぬ。


 だが、鏡の中のその姿はたしかに自分だった。


「こ、これは少々……」


 やっとこぼれた声は、思ったよりも小さい。


 自分の声にすら落ち着かず、ルシアは喉をひとつ鳴らした。胸元へ触れようとして上げた手が、途中で止まる。指先は宙を迷い、結局そのまま下りていった。


 目が、どうしてもそこへ行く。


 深すぎるというほどではない。


 だが浅くもない。


 隠しているはずなのに、布の縁がかえってその下を強く意識させてくる。呼吸のたびに胸元がわずかに持ち上がり、落ち、そのたびに白い布地が体に沿って、何をどう隠しているのかをむしろ丁寧に教えてくるようで、落ち着かなかった。


 背も気になる。


 首の後ろから肩甲骨のあたりまで、ひやりと空気が触れている。剣を背負う時には何も思わぬその場所が、今は妙に無防備に感じられた。


「ううむ……」


 低く唸ったところへ、すぐ後ろから明るい声が飛んだ。


「大丈夫大丈夫」


 振り向くより先に、エリナが鏡越しに笑っているのが見える。


「それくらい普通だよ。むしろ隠しすぎる方が野暮なくらい」


 反対側からリナがひょいと顔を出した。遠慮のない視線が、ルシアの肩から胸元、腰の線へと流れていく。


「とても良くお似合いですよ」


 イリスは少し離れた場所に立ったまま、静かな声でそう言った。その言い方が妙に断定的で、慰めでも気休めでもないのがわかるぶん、余計に逃げにくい。


 三方向から押されて、ルシアはもう一度鏡へ向き直った。


「そ、そうか……」


 口にすると、不思議とその言葉が自分の中へ少しだけ入ってくる。


 似合う、と言われて悪い気はしない。


 むしろ嬉しい。


 それを認めるのが少し悔しいだけだ。


 だが嬉しいことと、落ち着かぬことは別だった。ルシアの視線はまた自然に下がり、胸元の線に引き寄せられる。


「だがやはりこの胸元は……」


 言いかけて、そこで違和感に気づいた。


 いつもならあるはずの感覚が、ない。


 布の内側に、何か一枚隔てた気配がないのだ。


 数拍遅れて、その意味を理解した瞬間、耳まで熱が上がった。


「その……下着もつけておらぬし」


 言った途端、リナが吹き出した。


「今さらそこ?」


「そこじゃろうが!」


 ルシアが反射的に言い返すと、エリナが肩を震わせながら近づいてくる。


「だってその作りだもん。線が出る方がみっともないし、そこは仕方ないって」


「仕方ないで済む話ではなかろう!」


「いいじゃん、せっかく大きいんだから」


 あっけらかんとした言葉に、ルシアの眉が跳ねた。


「り、リナ!」


「だって本当のことだし」


 悪びれもせず、リナはさらに胸元を指さしそうな勢いで言う。


「隠すより出した方が綺麗なんだよね。いや、出すってほどじゃないけどさ。見せるところは見せるっていうか」


「なんじゃその言い方は!」


 熱くなった頬を誤魔化すようにルシアが睨むと、イリスが静かに止めを刺した。


「グランさんも喜ばれますよ」


 その一言で、控室の空気が少し変わった。


 ルシアの唇が開きかけて、閉じる。


 目が逸れ、また鏡へ戻る。


「……う、うむ……」


 否定しきれぬ。


 あやつなら、きっと喜ぶ。


 隠しても隠さなくても、どうせ真っ直ぐ見てきて、恥ずかしくなるようなことを平然と言うに決まっている。あの厚かましさには慣れたつもりでいたが、こうして改めて思い浮かべると、胸の奥がくすぐったくなってしまうから腹立たしい。


 エリナが背後へ回り込み、ルシアの髪を指先で整えた。


「ほら、そんな顔しない。せっかく綺麗なのに」


「綺麗とか、そういうことを軽々しく言うでない」


「軽々しくないよ。今のルシア、ほんとにすごいから」


 鏡の中で、エリナの笑顔はいたずらっぽいのに嘘がない。


 リナもうんうんと頷いている。


「普段のルシアもきれいだけど、今日はなんかこう、すごい。近寄りがたいのに目が離せない感じ」


「まったく褒めておるのかけなしておるのか……」


「褒めてるに決まってるでしょ」


 イリスはルシアの肩から裾へと一度静かに眺め、やはり柔らかく言った。


「背筋を伸ばして立っているだけで十分です。余計なことはなさらなくてもよろしいかと」


「余計なことをするつもりはないわ」


 言い返してから、ルシアは鏡の中の自分を見る。


 白。


 柔らかい色だ。


 だが、ただ頼りないだけの白ではない。芯の通った白だと、見ているうちに少しずつ思えてくる。軽やかな布に包まれていても、自分の中の強さまで失われたわけではないのだと、鏡の中の女が黙って示していた。


 その事実が、ほんの少しだけルシアの胸を落ち着かせた。


 だが同時に、別の不安が頭をもたげる。


「本当に、これでよいのじゃな……」


 呟くと、三人がほとんど同時に頷いた。


「大丈夫」


「ばっちり」


「ええ」


 逃げ道を塞ぐような肯定だった。


 ルシアは長く息を吐き、観念するように目を閉じた。


 その胸の奥では、緊張と、戸惑いと、それでも隠しきれぬ高鳴りが、静かに入り混じっていた。


 こういう装いをする日が本当に来るとは、以前の自分なら笑って一蹴しただろう。自分の身に起こるとは思わぬもののひとつだった。


 なのに今、自分はここに立っている。


 鏡の前で、白い衣装をまとって。


 そして、あやつの隣へ行こうとしている。


 その事実が改めて胸に落ちた途端、喉が少し渇いた。


 ルシアは目を伏せ、胸元に手を当てるふりをして、その震えを押さえた。


 その頃、別の部屋ではまるで違う空気が流れていた。


「腹減った」


 開口一番、グランの口から出たのはそれだった。


 控室代わりの部屋には男たちが何人も集まっていて、着替えを手伝う者、ただ面白がって見に来ている者、酒が出る前から騒ぐ気満々の者まで入り混じっている。その中でグランだけは、普段の朝と大差ない顔をしていた。


 硬さのある衣装の肩をぐいと引き、首元を指で広げようとして、すぐにブレイクに手を叩かれる。


「やめろ。形が崩れる」


「ちょっと苦しいぞ」


「少しぐらい我慢しろ」


「少しぐらい良くね?」


「良くない」


 間髪入れずに返され、部屋のあちこちから笑いが起きた。


「服汚したら怒られるぞ」


「そうだぞ。一生言われる」


「今日は絶対に食う前にこぼすなよ」


 好き勝手言われて、グランが眉を寄せる。


「こぼさねえよ」


「お前は口より先に手が出るから危ないんだ」


「肉見た瞬間に噛みつくなよ」


「獣扱いすんな」


 そう言いながらも、腹の虫が鳴いたのか、グランの機嫌は少しだけ悪そうだった。


 着せられている格好は、いつもの無骨な装いとは違う。だが本人は鏡を見て感心するでもなく、着慣れぬ服を気にするでもなく、ただ窮屈さと空腹にだけ意識を取られている。


 それでも、妙に似合っていた。


 肩幅の広さが衣装の形を崩さず支え、厚い胸板と腰の締まりが、布の下でもはっきりわかる。立っているだけで重心が低く、そこにいるだけで周囲の空気が少し詰まるような感じがある。きれいに着飾ったというより、もともとそういう場に立つべき獣を無理やり整えたような迫力があった。


 何人かがそれに気づいて一瞬黙ったが、本人はまったく意に介していない。


「終わったら肉あるんだろ」


「ある」


「酒も」


「ある」


「ならいい」


 あっさり機嫌を直し、腕を組む。


 その動きがまた妙に絵になって、若い男のひとりが小さく息を呑んだ。


 そこへ扉が開いた。


 外の空気が細く差し込む。


 ざわめきが、ほんの少し低くなる。


「おい……」


「来たか」


「市長だな」


 さっきまでの気楽な笑いから、空気がひと段だけ引き締まる。酒場で騒ぐ時とは違う、街の顔役が入ってきた時の空気だった。


 ブレイクがすぐに歩み寄る。


「ご無沙汰しております」


 その声には親しみがある。堅苦しさばかりではなく、長く顔を合わせてきた者同士の自然さがあった。


 入ってきた男は、派手な装いではない。だが、仕立ての良い衣に身を包み、疲れの滲む目もとを持ちながら、それでも背筋はきちんと伸びている。忙しさに削られているのが見て取れるのに、立ち姿が崩れていない。


「久しいな、ブレイク殿」


 短い言葉のあと、その視線がグランへ向けられた。


 ブレイクが肩越しに言う。


「アルトリアの市長だ。族長みたいなもんだな」


「へえ」


 グランは素直に頷いたが、その一言で本当にどこまで理解したのかは怪しい。


 市長が苦笑した。


「初めまして。いつも妻がお世話になっています」


「妻?」


 グランの片眉が上がる。


 数拍、間があく。


 その顔にブレイクがため息混じりに答えた。


「エリナの旦那だ」


「ああ」


 やっと繋がったらしい。


 市長の口もとが緩む。部屋の空気もそれに釣られて少し和らいだ。


「お疲れのようですな」


 ブレイクが言うと、市長は肩を軽く回した。


「最近何かと騒がしくてね。嬉しい騒がしさばかりなら良いのだが、街を預かる立場というのは、なかなかそうもいかん」


 冗談めいた言い方だが、目の下のわずかな影が、それをただの冗談には見せない。


 グランはその顔をじっと見た。


 難しい言葉も、役職の重さも、細かな事情も、たぶん半分もわかってはいない。だが、疲れている者の顔くらいは見ればわかる。


「肉食えよ」


 ぽつりと、それだけ言った。


 部屋の空気が一瞬だけ止まり、それからどっと笑いが起きる。


 市長自身も、堪えきれずに笑った。


「そうだな。終わったらそうさせてもらおう」


「食った方がいいぞ。疲れてる時の肉はうまい」


「覚えておく」


 妙に真っ直ぐな助言だった。


 市長はその真っ直ぐさを嫌うどころか、少し肩の力を抜いたように見えた。


「今日はお招きいただき、ありがとうございます」


 市長がそう言うと、グランは首を傾げる。


「呼んだのオレじゃねえぞ」


「知っている」


 また笑いが起きる。


 だがその笑いは、先ほどまでのからかうものとは違い、どこか温かいものだった。市長がここにいることで少し締まった空気は、グランの一言でうまくほぐれ、ちょうどよい塩梅に整っていく。


 その頃、控室の扉の向こうでは、ルシアがわずかに開けた隙間からその様子を覗いていた。


 細い隙間から見えたのは、こちらに背を向けた男たちの肩越しに立つ一人の男。落ち着いた立ち姿、整えられた衣、そして少し疲れた横顔。


 エリナの夫。


 そう聞いていなければ気にも留めなかったかもしれぬ。だが、一度そうだと思うと不思議なものだ。あの明るく気の強い女が選んだ相手らしいところを、勝手に探してしまう。


 騒がしい場にいても声を張り上げず、それでいて周囲が自然と視線を向ける。あの女の隣に立つだけのことはあるらしい、とルシアは思った。


 そしてその視線がグランへ向く。


 あやつは相変わらずだ。


 構えもせず、飾りもせず、ただそこにいる。なのに、目立つ。嫌でも視界に入る。自分の隣に立たせると、いろいろな意味で心臓に悪い男だと、改めて思う。


 扉をそっと閉じる。


 胸の鼓動が少し早い。


 控室の中へ戻ると、エリナがすぐに気づいた。


「見た?」


「ちらりとな」


「どうだった?」


「市長らしい顔をしておった」


「なにそれ」


 エリナが笑う。


 ルシアも少しだけ口もとを緩めたが、その緊張は消えなかった。


 やがて外の物音が少しずつ変わり始める。


 ばらばらだった話し声が、ゆっくりとまとまっていく。椅子が引かれる音が減り、歩き回る足音も少なくなる。誰かが声を潜め、別の誰かがそれに釣られる。ざわめきは消えたわけではないが、確実に一つの方向へ向かって整い始めていた。


 その変化を肌で感じた瞬間、ルシアの喉がごくりと鳴った。


「来るね」


 リナが小さく言う。


「ええ」


 イリスが頷く。


 エリナはにやりとしたままだったが、その目だけは少し優しい。


「大丈夫。変に考えなくていいから」


「それができれば苦労せぬ」


「でもルシア、変に考えてる顔もかわいいよ」


「今は黙れ」


 返しながらも、声にいつもの切れ味が足りぬ。自分でもわかるほど、心が落ち着いていなかった。


 呼吸を整える。


 ひとつ。


 ふたつ。


 胸の前で組みかけた手を下ろし、指先を軽く握って開く。戦いの前に力を確かめるような仕草だったが、今日求められているのはそういう強さではない。


 それでも、体に染みついた癖が少しだけルシアを支えてくれる。


 外の音が、ふっと薄くなった。


 誰かが合図したのだろう。


 それまで空間を漂っていたざわめきが、一気に水底へ沈むように静まっていく。足音が止まる。椅子の軋みも消える。残るのは、衣擦れと、息づかいと、遠くで揺れる灯りの小さな音だけ。


 その静けさの中で、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。


「ほら」


 エリナがそっと背を押した。


 ルシアは一度だけ目を閉じ、開く。


 扉が開く。


 光が差す。


 白い裾が床を滑って、ルシアは前へ出た。


 視線が集まるのがわかった。


 顔を上げた瞬間、それが肌に触れるようにわかる。大勢の目が、声を失ってこちらを見ている。だが怖さは、不思議と少なかった。むしろ、その場の空気が一度止まり、自分がその中心に立ったのだとわかった瞬間、奇妙に心が澄んだ。


 前にはグランがいる。


 目が合う。


 その一瞬で、周囲のざわめきも、視線も、全部どうでもよくなるから腹が立つ。


 あやつは、いつも通りに見えた。


 だが隣へ行くにつれて、いつもの通りでないことも見えてくる。整えられた衣に包まれた肩の厚み。首筋から顎へ上がる線の鋭さ。いつもなら土や血や汗の匂いを連れている男が、今日はどこか新しい布と香の薄い匂いを纏っている。


 そのくせ、立ち方は少しも変わらない。


 堂々としている。


 気負いがない。


 まるでこれから何が起ころうと、どうせ自分は自分のままだと言わんばかりだ。


 その横へ並んだ瞬間、ルシアは胸の奥のざわつきが少しだけ落ち着くのを感じた。


 この男の隣なら、なんとか立っていられる。


 そんなことを考えた自分に気づいて、少しだけ頬が熱くなる。


 場の中央で、市長がゆっくりと口を開いた。


「天と地、全ての神と精霊に誓うか」


 厳かすぎるわけではない。だが軽くもない声だった。場を支える者の声だと、一息でわかる。


 ルシアは喉の奥が乾くのを感じた。


 横で、エリナがほんのわずかに身を寄せて、小声で言う。


「ここ、返事」


 いらぬことを、と一瞬思ったが、その声に救われたのも事実だった。


 グランが先に口を開く。


「おう」


 あまりにもいつも通りで、場の空気が少しだけ揺れる。


 笑いになる手前の小さな息があちこちから漏れた。


 ルシアはその気配に逆に肩の力を抜かれた。


「は、はい」


 声はほんの少しだけ震えたが、言葉そのものははっきり出た。


 その瞬間、場に短い静寂が落ちた。


 ほんの一拍。


 心臓が一度強く打つのに足りるほどの長さ。


 そして次の瞬間、堰を切ったように拍手が湧いた。


 大きな音が広間を満たす。手を叩く音が重なり、誰かが口笛を吹き、歓声が弾ける。張っていた空気が一気に緩み、祝いの熱へと変わっていく。


 ルシアはその音の大きさに目を丸くした。


 祝われている。


 自分が。


 自分たちが。


 胸の奥がふっと熱くなる。


 だが、その余韻に浸る暇もなく、隣からエリナの囁きが飛んできた。


「ここでキス」


 ルシアの思考が止まった。


「な――」


「お、おい」


 市長が思わず制止しかける。


 だがエリナは横目で夫を見ると、容赦なく肘を腹へ入れた。


「黙れ」


 短い一言。


 市長は息を詰まらせて口を閉じる。


 そのやり取りが視界の端に入ったのに、ルシアの意識はもう隣の男に引き寄せられていた。


 グランがこちらを見る。


 まっすぐ。


 逃げ道を塞ぐような目ではない。ただ、見ているだけだ。なのにその視線は妙に重く、熱く、心の奥へ入り込んでくる。


 ルシアの喉が鳴る。


「いつも美しいが、今日はより一層美しいぞ」


 なんのためらいもなく言う。


 いつも通りの、厚かましいほど真っ直ぐな言葉。


 だが今日は、それがいつも以上に胸へ刺さった。


 美しい、と言われることに慣れていないわけではない。エルフとして生きてきた以上、外見に言葉が寄ってくることそのものは珍しくもない。


 だが、あやつの言葉は違う。


 飾らない。


 測らない。


 気を引くためでも、場を整えるためでもなく、見たままを、そのまま投げてくる。


 だから困る。


 だから、逃げられぬ。


「馬鹿者……」


 かろうじて出たのは、その一言だった。


 いつものように突っぱねるつもりだったのに、声が思ったより弱い。頬が熱い。耳まで熱い。胸元に集まる視線も恥ずかしいはずなのに、それ以上にこの男の目から逃れられないことの方がずっと落ち着かなかった。


 一瞬、間がある。


 グランはすぐには動かなかった。


 ただルシアを見ている。


 ルシアも、逸らせない。


 その一拍が長い。拍手も歓声もまだどこかで続いているはずなのに、二人の間だけ、急に静かになったように感じる。


 それから、グランの手がゆっくり伸びた。


 大きな手が、ルシアの腰へ触れる。


 布越しなのに、その熱がわかる。


 反対の腕が背へ回る。開いた背に近い場所へ、ひやりとした空気の代わりに、男の熱が寄ってくる。


 引き寄せられる。


 抵抗しようと思えば、たぶんできた。


 肘を張ることも、肩を押すことも、いくらでもできた。


 だがルシアの体は動かなかった。


 動かなかったのではない。


 動かさなかった。


 自分でもその違いに気づいた瞬間、胸がひどく鳴った。


 近い。


 息が触れる。


 視界のほとんどが、グランで埋まる。


 その距離で見た男の目は、思っていたよりずっと静かだった。欲望に濁るでもなく、場に酔うでもなく、ただ真っ直ぐに自分を見ている。その静かな熱に、ルシアの力が抜ける。


 そして、唇が触れた。


 ほんの短く、では終わらなかった。


 重なる。


 温かい。


 場の熱とは別の熱が、そこからじわりと広がっていく。目を閉じるつもりなどなかったのに、気づけば睫毛が落ちていた。背に回った手がしっかりと支えていて、逃げ場がないのに怖くない。


 短いはずの時間が、妙に長く感じられる。


 唇が離れた時、ルシアはすぐに目を開けられなかった。


 息を吸う。


 ようやく瞼を上げる。


 一瞬、場が静まっていた。


 誰もがその瞬間を見て、息を止めていたのだとわかるくらい、空気がぴんと張っている。


 そして次の瞬間、それは爆発した。


「おおおお!」


「すげぇ!」


「大胆だな!」


「情熱的じゃねえか!」


 笑いと歓声と口笛が一気に押し寄せる。先ほどまでの祝福よりさらに一段熱い、半ば野次に近い喜びが広間を揺らした。


 ルシアは、そこで初めて我に返った。


 何が起きたか、頭ではわかっていた。


 だがそれが、大勢の前で、自分の身に起きたことだと理解した瞬間、全身の血が一気に顔へ集まる。


 視線が痛い。


 耳に入る言葉が全部恥ずかしい。


 今の顔を見られたくないと思うのに、見られているとわかるからさらに熱くなる。


「お、おぬし……!」


 ようやく絞り出した声は、怒りとも羞恥ともつかぬ震えを含んでいた。


 だがグランは悪びれもせず、むしろ少し満足そうですらある。


 それがまた腹立たしい。


 ルシアは勢いのままエリナを睨んだ。


 元凶は明らかにこいつだ。


 エリナはにやにやしている。


 してやったり、という顔だった。


「よかったじゃん」


「良いわけあるか!」


「えー、でも嫌そうじゃなかったよ」


「なっ……!」


 返す言葉が出ない。


 そこへさらに追い打ちのようにリナが顔を出す。


「うっとりしてたね」


「しておらぬ!」


「幸せそうでしたよ」


 イリスまで静かに重ねる。


「イリスまで何を言う!」


 だが、噛みついたところで周囲の笑いは止まらなかった。むしろルシアが顔を真っ赤にしていればいるほど、場は温かく沸く。


 これ以上ここに立っていたら、本当にどうにかなりそうだった。


 救いだったのは、場がそのまま自然に祝宴へ流れてくれたことだ。


 誰かが大皿を運び、酒樽が開かれ、香ばしい肉の匂いと焼きたてのパンの匂いが広間へ広がっていく。人々は椅子を動かし、杯を取り、さっきまでの厳かな空気をあっという間に食事と笑いへ変えていった。


 戦いの匂いは、もうどこにもない。


 あるのは勝った者たちの熱と、終わったからこそ味わえる安堵だけだった。


 グランの方は、あっという間に男たちに囲まれていた。


「おめでとう!」


「おう、あんがと」


 肉を受け取り、すでに食っている。


「お前、さっきのはやるなあ!」


「何がだ」


「何がって、あの場であれだけ堂々とやるやつそういねえぞ」


「キスか?」


「そこを聞き返すな!」


 笑いが起きる。


 グランは本当にわかっていないらしく、骨付きの肉を噛みちぎりながら首を傾げている。その自然体が、逆に周囲をさらに沸かせていた。


 一方のルシアは、まだ熱を引かせきれずにいた。


 手に渡された杯を持つ指先が少し熱い。冷えた酒が喉を滑っていくと、ようやく胸のあたりが少し落ち着く。


 だが、落ち着いたところへまたエリナが寄ってくる。


「ね、やっぱり絵になったでしょ」


「黙れ。ほんに黙れ」


「そんな怒んないでよ」


「怒るわ!」


 声を荒げたつもりだったが、周囲に聞こえるとそれはどこか照れ隠しにしかならぬらしい。リナが肩を震わせている。


「本当はキスなどせぬのだろうが!」


 ルシアが言うと、エリナは不思議そうに目を丸くした。


「なんで?」


「なんで、ではない!」


「いつもしてるでしょ」


 さらりと返され、ルシアの言葉が止まる。


「そ、それとこれとは違う!」


「どう違うの?」


「場所じゃ!」


「今日はこの場所だからよかったんじゃん」


 まるで悪びれない。


 リナが頷く。


「うん。むしろここでしなかったら何のための流れってなるし」


「ならぬ!」


「なったよ」


「なっておりません」


 イリスまでしれっと言う。


 完全に囲まれている。


 ルシアは杯をもう一口あおった。酒の熱が腹へ落ちる。頬の熱は、それでは消えなかった。


 そこへ、静かに近づく足音がある。


 振り向くと、市長がいた。


 さきほどの場を整える顔とは少し違う、祝宴の席らしい柔らかな表情をしている。だがその目はやはりよく人を見ていた。


「ご結婚おめでとうございます」


 そう言ってから、彼はルシアをフルネームで呼んだ。


 その瞬間、ルシアの中で何かがぴたりと止まる。


 この場で、その名を、きちんと知っている者は多くない。


 少なくとも、ただの酔客が軽く口にできる名ではない。


 ルシアの表情が自然に引き締まったのを見て、市長はわずかに笑った。


「警戒なさらず。悪意があって調べたわけではありません」


「ならば、なぜ知っておる」


「ご存知ないのですか?」


「なにをじゃ」


 市長は少しだけ周囲を見た。すると、すぐ近くにいた何人かが、面白がるような顔になる。


 嫌な気配がした。


「お二人の物語、人気ですよ」


「……は?」


 理解が追いつかない。


 市長は本気で言っている顔だ。


「吟遊詩人が歌っています。各地を回る者たちは、勝った戦や目立つ恋や、民が喜ぶ話を逃しませんからな」


「待て」


 ルシアの声が低くなる。


 市長は構わず続けた。


「奴隷紋の獣人と高位エルフの恋物語」


「こ、恋物語?」


 思わず裏返った自分の声が恥ずかしい。だがそれどころではない。


 市長の横で、常連らしき男が「ああ、それだそれだ」と頷いている。


「俺も聞いたぞ」


「今いちばん受けるやつだな」


「神武会のことまで混ざってたぞ」


 ルシアの頭がじわじわと熱くなる。


 想像してみる。


 知らぬ誰かが弦を鳴らし、酒場か広場かどこかで、自分とグランのことを勝手に語っている様を。


 奴隷紋だの、高位エルフだの、恋だの。


 言葉だけが耳の中でぐるぐる回る。


「神武会の件も、あれだけの騒ぎになりましたからね」


 市長は言う。


「これからさらに広がるでしょう。エルディアにも」


「本国にも……?」


 ルシアの顔から血の気が引きかけ、次の瞬間には逆に一気に熱が上がった。


 本国。


 エルディア。


 同胞たちの顔が脳裏をよぎる。知った顔も、知り合いの知り合いも、いくらでもいる。そこへ自分の名と、この男との関係が、妙な脚色つきで流れていく様を想像してしまった。


 ひどい。


 ひどすぎる。


「すごかったよ。今日のキスまで入ったらもっと受けるんじゃない?」


 エリナが笑いながら言う。


「貴様は黙っておれ!」


「良かったよ、ほんと」


「良かったではない!」


「素晴らしかったです」


 イリスが淡々と追い打ちをかける。


 周囲も完全に面白がっていた。


「お似合いだったぞ」


「さっきのは本当に歌になりそうだな」


「情熱的ってやつだ」


 完全包囲。


 ルシアは言葉を失う。


 怒るべきか、否定するべきか、吟遊詩人を探して口を塞ぐべきか。考えがいくつも浮かぶのに、どれも形にならぬまま弾けていく。


 頭の中がうるさい。


 場は賑やかなのに、その賑やかさが遠くなる。視界の端では誰かが肉を切り分け、誰かが酒を注ぎ、誰かが笑っている。現実は続いているのに、自分だけがその場に取り残されたような感覚だった。


 ふと、市長の視線がルシアの向こうを越える。


 グランの方だ。


「また相談を」


 穏やかな声でそう言う。


 グランは肉を持ったまま顔を上げた。


「?」


 本当に意味がわかっていない顔だった。


 ブレイクが、その横で静かに頷く。


「うむ」


 何か話が通っているらしい。


 だがルシアには、それを問いただす余裕がなかった。


 まだ耳の奥には、恋物語という言葉が残っている。


 まだ唇には、さっきの熱がかすかに残っている。


 まだ胸の奥は、落ち着ききらない。


 杯を持つ手に力を入れる。こぼさぬようにするだけで精一杯だった。


 広間の笑い声がまた大きくなる。


 グランが誰かに肩を叩かれ、少し面倒そうな顔をしながらも肉を渡しているのが見える。あの男は、たぶんこの先もあまり変わらぬのだろう。どれだけ注目されようが、どれだけ勝ちを重ねようが、自分の腹が減れば肉を求め、疲れた者を見れば肉を食えと言い、欲しいと思えば大勢の前でも抱き寄せて口づける。


 考えなしで、無遠慮で、強引で。


 だが、そういうところに何度も救われてきた。


 その事実まで否定するほど、ルシアはもう若くなかった。


 問題は、それをこうして周囲にまで見抜かれ、歌にされ、笑われ、祝われてしまうことだ。


 杯を口へ運ぶ。


 冷えた酒が舌に触れ、喉を滑る。


 少しだけ息を吐く。


 それでも胸の奥の熱は、まだ消えなかった。


 白い裾が足もとで静かに揺れる。


 胸元に触れる空気は相変わらず落ち着かず、背はまだ少し寒い。だが、その寒さすら、さっき触れた手の熱を思い出させて、余計に厄介だった。


「……ほんに、こんなものを着る日が来るとはな」


 誰にも聞かせぬように呟いたその声は、賑やかな広間の中に溶けて消えた。


 消えたはずなのに、隣へやってきたグランがしっかり拾っていた。


「似合ってるぞ」


 またそれを言うのか、とルシアは睨もうとする。


 だが、睨みきる前に目が合う。


 何のてらいもない顔だ。


 ただ、本心からそう思っている顔。


 腹が立つ。


 腹が立つのに、心が少しだけ軽くなる。


「うるさい」


 それだけ返して、ルシアは顔を逸らした。


 グランは気にした様子もなく隣に立つ。肩が近い。そこにいるだけで妙に落ち着くのが癪だった。


 広間ではまだ笑いが続いている。


 祝宴の熱も、酒の匂いも、肉の香ばしさも、誰かの悪ふざけも、全部が混ざり合って夜を満たしていた。


 戦いは終わった。


 勝ったという事実だけでは足りぬほど、いろいろなものがこの場にはあった。


 手にしたもの。


 繋いだもの。


 知らぬうちに周囲へ広がっていたもの。


 そのすべてを前にして、ルシアはまだうまく言葉を持てない。


 だが、隣にいる男の熱だけは、たしかだった。


 その熱が今夜の喧騒よりもずっと確かなものとして胸に残っていることを、ルシアはまだ、口にはできなかった。

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