第ニ十一話 ……ほんに、どうするんじゃ
酒場の扉を開けると、夜の空気は少しだけ冷えていた。
店の中はあれだけ騒がしかったのに、一歩外へ出るだけで音の届き方が変わる。笑い声も、杯の触れ合う音も、店主が怒鳴る声も、分厚い扉一枚で遠くなる。石畳の上には夜の湿り気が薄く残り、通りの向こうではまだ灯りの消えていない店がぽつぽつと光っていた。
ルシアは店を出るなり、大きく息を吐いた。
酒を飲んでいたわけではない。だが、酔った時のような熱が頬に残っている。顔だけではない。耳も首も熱い。酒場の中で浴びせられた言葉の一つ一つが、まだ皮膚の内側に引っかかったままだった。
結婚式。
採寸。
ドレス。
店を貸し切るだの、皆へ知らせるだの、好き勝手に話は進み、最後には自分まで頷いていた。
頷いていたのは事実だ。だが、あれは周囲の勢いに押し切られたというか、もう止める方が無理だと悟ったというか、とにかく自分の意思だけで綺麗に整理出来るものではない。
隣では、その原因の大半を作った獣人が平然と肉を齧っていた。
酒場を出る時にリナが持たせてきた包みだ。祝いだと言っていた。中身は香草をまぶして焼いた肉の塊で、まだ温かい。歩きながら食べるものではない気もするが、グランにそんな遠慮があるはずもない。
「美味い」
グランが言う。
ルシアは思わず眉を寄せた。
「歩きながら食うでない」
「腹減ってる」
「さっきまで食うておったじゃろうが」
「足りねえ」
平然と返される。
自宅へ向かう夜道は見慣れている。酒場から出てしばらく歩けば、通りの賑わいも少しずつ薄くなる。屋台の煙が流れてきて、遠くで荷車の音が鳴り、どこかの家の窓から煮込みの匂いが漂ってくる。そういう夜の生活の中を、二人は並んで歩いた。
ルシアは黙っている。
グランは肉を食っている。
しばらくそれが続いたあとで、グランが何でもない顔で聞いた。
「疲れたか」
ルシアは一瞬だけ足を止めそうになった。
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったからだ。こやつは空腹か、眠いか、強いか、面白いか、その程度しか気にしていないように見える時が多い。だから余計に、その一言が変に胸へ落ちた。
「……疲れておる」
素直に答える。
「戦ったわけではないのに、妙に疲れておる」
グランはそれを聞いて、少し考えるような顔をした。だが考えたところで特別な答えを出す気配はない。
「寝ればいい」
結局それだった。
ルシアは小さく息を漏らす。
「おぬしは何も感じておらんのか」
「ん?」
「今日のあれこれじゃ。グランディアから戻って来るまで、酒場での騒ぎ、結婚式の話」
「別に」
「別に、で済ませるな」
ルシアが睨むと、グランは肩をすくめた。
「どうするんじゃって、お前が言ってたやつか」
「そうじゃ」
「止める必要あるか?」
酒場でも言われた言葉だった。
あの時も一度、腹の中で転がして答えを出した。止める理由はほとんどない。恥ずかしさはある。勢いもある。だが、グランが優勝し、自分が返事をし、周りがそう受け取った以上、今さら引っくり返す方が面倒だ。
その理屈は、もう分かっている。
分かっているのだが、分かることと心が落ち着くことは別だった。
「理屈では分かっておる」
ルシアは夜道を見ながら言う。
「だが、心の方が追いついておらぬ」
グランは包みを片手へ持ち替え、もう一方の手で鼻の頭を軽く掻いた。
「じゃあ、追いつくまで待てばいいだろ」
簡単に言う。
あまりに簡単に。
だが、その簡単さが妙にしっくり来る時があるから腹立たしい。
自宅へ着く頃には、通りの音もだいぶ遠くなっていた。グランが戸を開け、ルシアが先に入る。夜の家は少しひんやりしていて、昼の熱も外の喧騒もきちんと遮っていた。
落ち着く。
その実感が先に来る。
玄関の灯りをつけ、靴を脱ぎ、居間へ入る。見慣れた卓と椅子と、ソファと寝台。ここへ戻ってくると、ようやく色々なことが一度に押し寄せてくる。長い移動。決勝。表彰式。酒場での騒ぎ。その全部が、今になって身体へ重く落ちた。
ルシアは荷を置き、そのまま椅子へ座り込んだ。
肩が重い。
頭も少し熱い。
それなのに、グランは平然と卓の前へ座り、包みを広げて肉を食い始める。
腹立たしいほどいつも通りだ。
「どうするんじゃ!」
ルシアはつい、もう一度言っていた。
グランが肉を咥えたまま顔を上げる。
「またそれか」
「あの者たちはもう止まらんぞ!」
「止める必要あるか?」
「……」
同じ答えだった。
そして、二度目に聞くと、さっきよりも少しだけ腹の奥へ静かに落ちる。
ルシアは肘掛けへ背を預け、目を閉じた。
止める必要はない。
むしろ、止めようとする方が無駄だ。
リナもエリナも、ああいう時は強い。イリスはもっと強い。穏やかな顔で一番容赦がない。周囲ももう認めている。否定する方が面倒だ。
恥ずかしさはある。
だがそれと同じくらい、どこかで受け入れている自分がいるのも分かっていた。
「……ないな」
小さくそう言うと、グランは満足した顔でまた肉へ戻った。
「だろ」
その顔を見て、ルシアはほんの少しだけ見直す。
のんきに食っているだけのようでいて、妙なところで落ち着いている。少なくとも、今の自分よりは余計なことを考えていない。そのことが少しだけ羨ましい。
「では、どうするのじゃ?」
ルシアが改めて問う。
グランは少しだけ考えた。
「とりあえず今日は肉食ったら寝ればいい」
あまりにそのままで、ルシアは思わず笑いそうになる。
「ふむ」
「明日、エリナの店に行けば何とかしてくれるだろ」
「……そうじゃな」
頷いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
明日になれば、また面倒は来る。だが、今日のうちに全部を決める必要はない。そこまで理解すると、今この家の中にいることが急に心地よくなった。
ルシアは視線を上げる。
グランの左腕が目に入った。
決勝で歪んだ腕だ。今は肉を持っているせいで見た目にはそこまで違和感はないが、本当に何ともないはずがない。
「左腕を見せよ」
そう言うと、グランは素直に肉を置いた。
「まだ見んのか」
「当たり前じゃ」
ルシアは立ち上がり、グランの隣へ寄る。左腕を取る。指先で肘から手首へゆっくりなぞると、皮膚の下の熱がはっきり伝わってくる。筋肉の張り方も、骨の並びも、ついさっきよりさらに落ち着いている気がした。
「……本当につながってきておるな」
呆れたような声が漏れる。
普通ならあり得ない。だが、もう驚くのにも慣れ始めている自分が少し嫌だ。
ルシアはそのまま腕を丁寧に確認した。肘の外側。前腕。手首。どこを押しても、嫌な引っかかりはない。完全ではない。だが、回復の勢いがおかしい。
「まだ無茶はするな」
ルシアは腕を撫でるように言った。
「本当につながるまで大人しくしておれ」
グランはルシアの指先を見下ろし、それから肩をすくめる。
「決勝終わったしな」
「ならよい」
そこでようやく手を離した。
そのまま二人でソファへ移る。夜の家は静かだ。外からは通りを行く人の声や荷車の音が時折聞こえるが、遠い。家の中には肉の匂いと、風呂へ行く前の少しだけ雑多な空気だけが残っている。
ルシアはソファへ深く腰を預けた。
グランはその横に座り、まだ肉を食べている。
「おぬしは本当によう食うの」
「うまいからな」
「そういう意味ではない」
「でも美味い」
それで話が終わるのが、妙に可笑しい。
しばらくそのまま並んで座る。
無理に何かを話す必要もない。静かな時間が流れて、それだけで少しずつ落ち着いていく。
「そういえば」
ルシアがぽつりと言う。
「獣人は結婚式などはせんのか?」
グランは肉を噛みながら少し考えた。
「祭りの時に、みなにまとめて言うくらいだな」
「それだけか」
「それだけだ」
ルシアは少しだけ目を細める。
いかにも獣人らしい。細かい形式より、分かりやすく告げて終わり。そういうところは嫌いではなかった。
「ヒトやエルフは面倒じゃの」
「お前らが増やしてるんだろ」
「否定はせぬ」
あっさり認める。
その直後、グランの肩へ頭を軽く預けた。深い意味があるというより、そうするのが自然だった。グランも何も言わず、空いた腕をルシアの背へ回す。
「明日はエリナの店に行かなくてはな」
「昼にでも行けばいい」
「うむ」
短いやり取りのあと、また静かになる。
グランの体温は高い。決勝の熱がまだ少し残っているのかもしれない。それとも元々こういうものなのか。今となっては区別がつかない。
やがて二人はソファから寝台へ移った。
灯りを落とし、布へ入る。外の音はさらに遠くなり、夜が深くなる。距離は近い。触れればすぐ届く。今さらそこに特別な言い訳もいらなかった。
グランが髪に触れる。
指先が白金の束をすくい、肩へ流す。ルシアは少しだけ目を細めた。
「お前は本当に美しい」
何度目か分からない言葉だった。
だが、その度に腹の奥へ静かに落ちる。
「当たり前じゃ」
ルシアは鼻を鳴らすように返す。
その返しにグランが少し笑った。
眠るまでの時間は、長かったようでも短かったようでもある。夜の気配が濃くなり、呼吸の音だけが近くなり、やがて二人とも深く眠った。
目を覚ました時には、かなり遅い時間になっていた。
窓から差し込む光はもう高い。昼へ寄りかかる手前の、丸い明るさだ。
ルシアが先に起きた。
横を見る。
グランはまだ眠っている。
決勝の時にあれだけ凶暴な顔で笑っていた男が、今は妙に穏やかだ。眉間の力が抜け、口元も少しだけ緩い。そういう顔を見ていると、昨夜の酒場の騒ぎも、結婚式がどうのという面倒も、一旦全部遠くなる。
ルシアはそっと手を伸ばした。
額へ触れる。
髪を払い、頬を撫でる。
眠っている男は起きない。その無防備さが少しだけ可愛くて、ルシアはごく薄く微笑んだ。
しばらくそうしてから、ようやく自分も起き上がる。
その気配でグランが目を開けた。
「起きたか」
「起きたのはわらわの方が先じゃ」
「そうか」
起き抜けでも、あまり動じない顔だ。
二人で風呂へ向かう。昼近い湯は明るい。夜や朝とは違って、窓から差す光が湯気を透かして見せる。
身体を洗い、髪を流し、さっぱりしてから外へ出る頃には、二人ともだいぶ目が覚めていた。
街へ出る。
通りの空気は、やはりもう違っていた。
「おめでとう!」
「幸せそうでなにより!」
「結婚式いつだ?」
祝福。冷やかし。好奇の視線。全部が混じって飛んでくる。
グランは気にしない。
ルシアは気にしている。だが、気にしている顔を見せると余計に面白がられる気がして、出来るだけ無視した。
エリナの店へ着くと、予想通りだった。
「いらっしゃい!」
扉を開けた瞬間、エリナの声が飛ぶ。
「ゆっくり出来た?」
リナがにやにやしながら続く。
「お身体は大丈夫ですか?」
イリスも穏やかな顔で立っていた。
三人ともにやにやしている。
なぜ遅くなったかなど、もう何もかも分かっている顔だ。
「なんじゃ、その顔は」
ルシアが言うと、リナがけらけら笑った。
「別にー?」
「別に、ではないじゃろう」
「ゆっくり出来たんだなあって」
ルシアは顔をしかめたが、それ以上は言い返せない。
採寸はすぐに始まった。
グランの方は本当に早い。肩幅、胸囲、腰、腕。エリナが布を当てて測り、紙へ書き込む。
「はい、終わり」
「もうか」
「男のは楽」
グランはそれだけで済んだ。
問題はルシアの方だ。
「はい、ルシア、こっち」
奥へ連れて行かれる。リナとイリスまで当然のようについてくる。
「なぜおぬしらまでおるんじゃ?」
「見たいから」
「手伝うから」
「必要ですから」
三方向から返され、ルシアは観念した。
採寸は細かい。肩、首、胸、腰、腕、脚。布が肌へ触れるたび、エリナの目つきが真剣になる。
「うーん」
胸元を測りながら、エリナが声を漏らす。
「ルシア、またお胸大きくなってるね」
「何を言うておる」
ルシアが即座に返すと、横からリナが腹筋を指で軽く押した。
「ルシア、腹筋もきれいだねー」
「触るな!」
イリスはそんなやり取りを静かに見ながら、さらりと言う。
「これならお子さんが出来ても大丈夫ですよ」
ルシアが完全に止まる。
「な、なぜおぬしらまでそういう話になるのじゃ!」
三人とも楽しそうだった。
採寸が終わる頃には、ルシアは決勝の後とは別の意味でへとへとになっていた。
エリナが紙を見ながら頷く。
「うーん、超特急で仕立てて十日かな」
リナが即座に言う。
「オッケー。んじゃその日は店貸切にしとくね」
イリスも続く。
「それだけあれば皆さんにもお伝え出来ます」
ルシアはまた頷くしかない。
「うむ」
本当に、黙っているだけでどんどん進む。
そのことに今さら驚く必要もないと、ルシアはどこかで思い始めていた。
ふと口元が緩みかける。
リナが見逃さない。
「ルシア、なににやにやしてるの?」
「べつににやにやなぞしとらん」
「ふーん」
三人ともにやにやしていた。
エリナが紙をまとめる。
「当日はリナの店にドレス持って行くから、ルシアたちはそのままお店で待っててね」
「うむ」
それで話は決まった。
十日後。
朝から二人はリナの店へ向かう。
通りの人々がすれ違うたびに祝福してくる。もう隠れる必要もないらしい。いや、最初からなかったのかもしれない。
店へ着くと、中はすでに忙しかった。
「出席者多いから椅子片付けて立食でいくよ」
リナが大声で言う。
「そうですね」
イリスが頷き、店の奥ではブレイクたちが椅子を運んでいた。見慣れない獣人が妙に多い。
グランがそれを見て言う。
「なんか多くねえか?」
ブレイクが椅子を肩へ担いだまま答えた。
「ああ。今こいつらと一緒に護衛や魔獣狩りをやってる」
「ふーん」
グランはそれ以上深く聞かない。
エリナが奥から顔を出す。
「はーい、ルシアはこっち来てね」
ルシアは小さく息を吸う。
「う、うむ」
少し緊張している自分が分かった。
リナがすぐに覗き込む。
「静かじゃん」
「緊張しなくても大丈夫ですよ」
イリスが優しく言う。
「う、うむ」
本当は少し大丈夫ではない。
だが口には出せない。
エリナが布を広げながら、何でもない顔で言う。
「今日はうちの旦那も来るってー」
「そ、そうか」
返事が少しだけぎこちない。
一方その頃、グランは入口近くで立ったまま周囲を見ていた。
「腹減った」
率直だった。
リナが振り返って即答する。
「食べちゃダメ。終わるまで待ってね」
そうやって、二人の式の準備が進んでいく。




