第ニ十話 ……どうするんじゃ、これ
闘技場の通路は、まだ歓声の余熱で揺れていた。
石壁に反響して遅れて届く笑い声。どこかで誰かが叫ぶ声。拍手。足音。酒の匂いと汗の匂いが混じった、熱い空気。決勝が終わったというのに、むしろ街全体がそこから本当に動き始めたような騒がしさだった。
グランは、そういうのをあまり気にしない。
片腕でルシアを抱えたまま、いつも通りの足取りで通路を歩いている。抱えられているルシアの方は顔を真っ赤にしたまま、ようやく少しだけ暴れた。
「下ろせ!」
「なんでだ」
「なんででもじゃ!」
「もう終わっただろ」
「終わっておらぬ!」
反射的に怒鳴ってから、自分の声が通路に響いたことに気づき、ルシアは余計に顔を赤くした。
後ろでは、ブレイクたちがそんな二人を半ば呆れ、半ば面白がりながら追ってくる。ブレイクは賞金袋を肩へ担ぎ、イリスはそのすぐ横で笑いを堪え切れていない顔をしていた。リナは最初からけらけら笑いっぱなしで、エリナは笑いながらも周囲へ目を配っている。
「ちょっと、ルシアの顔!」
「赤すぎるって!」
「見れば分かるから、わざわざ言うでない!」
ルシアが返すと、リナはさらに笑った。
通路の先から、別の係員が駆けてくる気配がした。止めに来るのか、呼び戻しに来るのか。そのどちらにしろ面倒だと察したのはルシアだけではない。ブレイクが一歩前へ出て、肩へ担いだ賞金袋を少し持ち直した。
「急ぐか」
「うむ」
ルシアも即座に頷く。
グランだけが首を傾げた。
「なんでだ」
「なんででもじゃ! 今は早く出る!」
「肉、控え室にまだ」
「駄目じゃ!」
ルシアが叫ぶより早く、ブレイクも口を開く。
「やめろ」
短く、重い声だった。
グランが不満そうな顔をする。
「残してきた」
「肉ならアルトリアでも買える」
「同じじゃねえだろ」
今度はリナが前へ出た。
「お肉なら、お店から優勝祝いでご馳走するよ!」
エリナもすぐに続く。
「そうそう。今ここで戻る方がやばいって」
イリスまで優しく念を押す。
「お願いですから、それはやめてください」
ルシアは額へ手を当て、低く言った。
「控え室へ戻るのは、ケンカを売っておるようにしか見えん」
グランは一瞬だけ考えるような顔をした。
考えているのか、ただ惜しんでいるだけなのか、その顔だけでは分からない。だが最終的には、舌打ちこそしなかったものの不満を隠しもしない顔で頷いた。
「……アルトリアで肉な」
「好きなだけ食え」
ブレイクが言う。
「言ったな」
「言った」
そこでようやく、グランも控え室の肉を諦めた。
闘技場の裏手を抜ける。表通りはまだ騒ぎがひどい。追いかけて来る奴も出るだろう。そう読んだブレイクが、表へ出る前に宿へ向かう道を選んだ。人通りの少ない石畳を速足で渡り、荷車の列を避け、屋台の裏を抜ける。
それでも、通りへ出ればあちこちで声が飛んだ。
「いたぞ!」
「優勝の獣人!」
「嫁連れてる!」
その最後の一言に、ルシアがぴくりと反応する。
「連れておるのではなく、勝手に抱えておるのじゃ!」
「同じだろ」
「違う!」
グランは本気で不思議そうな顔をした。
宿に着くと、主人はすでに何かを察した顔をしていた。客の一人が闘技場から先に戻ってきたのか、表通りの騒ぎを見たのか、その両方かもしれない。ともかく、こちらの顔を見るなり妙ににやけた。
「おお、戻られましたか。いやあ、おめでとうございます」
その「おめでとう」が何に対するものか、ルシアには判断がつくのが嫌だった。
「荷物をまとめる。急ぐぞ」
ルシアがそう言うと、主人はますます面白そうな顔になった。
「ええ、ええ、もちろん。お急ぎでしたら馬も――」
「いらぬ。荷だけでよい」
ルシアは言葉を切るように返し、そのまま二階へ上がった。
荷物をまとめるのは早かった。もともと長居するつもりではなかったし、武道大会の期間に合わせた滞在だったから、余計なものは少ない。着替え、酒、ちょっとした道具、ルシアの細々した持ち物。それを袋へ詰めながらも、下からは人の声がどんどん増えていく。
「おい、本当にここか?」
「さっき宿へ入っていくのを見たぞ」
「会えねえかな」
野次馬だ。
ルシアの手が少しだけ速くなる。
その横で、グランは袋へ肉を突っ込もうとしていた。
「何をしておる」
「晩飯」
「今はそれどころではない!」
下からは、主人の引きつった笑い声と、誰かをなだめる声が聞こえてくる。放っておけば面倒になるのは明らかだった。
ブレイクが階段の途中から顔を出す。
「表はもうだいぶ来てる」
「見れば分かる」
「裏から出よう」
「うむ」
リナとエリナ、イリスもそれぞれ手伝いながら動いていた。女たちの動きはこういう時に妙に早い。袋の口を縛り、持つ者を決め、必要なものと捨てるものを一瞬で振り分ける。
出る時も、大騒ぎだった。
正面ではなく裏口。荷を持って、半ば逃げるように宿を出る。狭い路地へ入れば人目は減るが、それでも遠くから誰かの声が追いかけてくる。グランは途中で一度だけ振り返った。
「やっぱ控え室の――」
「駄目じゃ!」
ルシアだけでなく、今度は全員の声が重なった。
ブレイクが肩越しに呆れた声を投げる。
「忘れろ」
「忘れねえ」
「忘れろ」
リナが笑いながら割って入る。
「だからお肉ならうちの店で出すって!」
イリスも優しく背中を押す。
「今日は帰りましょう。とにかく今日は」
その「今日は」に全部が詰まっている気がして、ルシアは深く頷いた。
グランディアを離れるまで、気は抜けなかった。
街道へ出ても、闘技場の熱はしばらく背中に張りついているようだった。途中の休憩でも、通り過ぎる旅人の視線がちらちらこちらへ向く。あの表彰式を見た者か、すでに話だけ聞いた者か。どちらにしても面倒だ。
だが、走る馬車の揺れに身を任せ、夕方へ近づく空を見上げる頃には、さすがにルシアも少しだけ肩の力を抜いた。
馬車を乗り継ぎようやく、アルトリアへ着いた時には、日はだいぶ傾いていた。
城門の前からして、何かがおかしい。門番の視線が妙にこちらへ来る。通りを歩く商人たちまで、一瞬目を丸くしてから口元を緩める。嫌な予感しかしない。
「……まさか」
ルシアが低く呟いた時には、もう遅かった。
酒場へ入った瞬間、空気が爆発した。
「おおっ!」
「帰ってきたぞ!」
「優勝おめでとう!」
「嫁連れてる!」
最後の一言で、ルシアの肩が強張る。
グランはそんな空気の中心へ当然のように歩いていった。いつもの席に腰を下ろし、持っていた荷をどさりと置く。その隣へ、ルシアは不本意そうな顔で腰を下ろした。
だが座った途端、我慢していたものが噴き出した。
「おぬしには恥じらいというものが無いのか!」
酒場のざわめきが少しだけ静まる。
グランは即答した。
「無い!」
一切の迷いがない。
酒場中が吹き出した。
ルシアは顔を真っ赤にして机を叩く。
「馬鹿者!」
グランはそこで初めて少しだけ考えるような顔をしたが、たぶん内容は考えていない。ただ、怒られていることだけは分かっている。
「なんでだ」
「なんででもじゃ!」
「嫁になったんだろ」
「そういうことを言うておるのではない!」
そこでリナが横から身を乗り出してきた。
今日も酒場の給仕姿だが、目だけは面白いものを見つけた時のそれだ。
「でも、優勝より有名かもね」
エリナもすぐ隣へ椅子を引いてくる。
「うん。あれは強かった。優勝したのもすごい。でも」
一拍。
「ルシア嫁になれ、の方が話題になってると思う」
周囲の常連が一斉に頷いた。
「なってるな」
「なってる」
「そっちばっかり聞いた」
ルシアは机へ額を打ちつけたい衝動を必死で抑える。
「やめぬか!」
イリスはそんな中でも柔らかく笑った。
「情熱的でしたよ」
「褒めるな!」
即座に返す。
だが、その怒鳴り声にもどこか勢いが足りない。リナはそこを見逃さない。
「でもあの後、ルシアご機嫌だったね」
「そうそう」
エリナがすぐに乗る。
「怒ろうとしてるのに、ちょっとにやけてた!」
ルシアが固まる。
「そ、そんなことは無い! はずじゃ」
最後の「はずじゃ」が弱かった。
イリスはすぐに慰めるような顔になる。
「大丈夫ですよ。最初はみんなそんな感じです」
ルシアはそこで本気で首を傾げた。
「そうなのか?」
「そうだよ」
リナが酒を置きながら真面目な顔になる。
「ずっとラブラブでいたきゃ、ルシアも努力しなきゃ」
エリナが当然のように続けた。
「おすすめの下着、用意しとくね」
ルシアはまた本気で頷きかける。
「そうなのか?」
イリスが柔らかく締める。
「愛するのは情熱でも、続けるには少し努力はいりますね」
ルシアの顔が真面目になる。
その瞬間だった。
ガールズトークの匂いを嗅ぎ取った獣人が、こっそり席を離れた。
グランである。
ルシアが気づいた時には、もう少し離れた席へ移動していた。しかも肉の皿はしっかり持って行っている。
「逃げよった!」
「逃げたね」
「逃げたわ」
女たちが声を揃える。
だが追いかけはしない。今はそれどころではない。
グランの方では、すでにブレイクと常連客たちが場所を空けて待っていた。
「お疲れ」
ブレイクが酒と肉を差し出す。
グランはそれを受け取りながら、首をひねった。
「怒ってるのか喜んでるのか分からん」
その一言に、ブレイクは少しだけ笑う。
「両方だな」
「両方?」
「そうそう」
年嵩の常連がすぐに口を挟む。
「女ってのは怒りながら喜んだり、泣いたり、悲しんだりする生き物なんだな」
別の常連も頷く。
「色々いっぺんに来るんだよ」
「めんどくせえな」
グランの感想は率直だった。
ブレイクが酒を飲みながら肩をすくめる。
「そう言うな。それ込みで好きなんだろ」
グランは少しだけ考えてから頷いた。
「まあな」
その返事があまりに迷いなくて、常連たちは笑った。
一方その頃、女たちの卓では話題がさらに一歩先へ進んでいた。
「あっ、そうだ!」
エリナが突然手を打つ。
「結婚式しなきゃ!」
リナもすぐに乗る。
「ほんとだ!」
イリスも自然に頷いた。
「そうですね」
ルシアは少し遅れて目を瞬かせる。
「いや、まだ正式に結婚した訳ではないし……」
そこでリナとエリナが真顔になった。
「は?」
「あれで結婚してないって、ふざけてる?」
イリスまで静かに追い打ちをかける。
「誰も信じませんよ」
ルシアは一瞬だけ黙り、それから小さく答えた。
「はい」
完全に押し負けている。
男たちの席にもその話は当然聞こえていた。
グランは肉を食いながら首を傾げる。
「結婚式ってなんだ?」
ブレイクが答える。
「ヒトやエルフがやる習慣だな」
常連が補足する。
「世間さまに、自分たちが結婚したって報告するんだな」
別の常連も胸を張る。
「うちもやったぞ」
グランは平然と言った。
「もうみんな知ってるぞ」
男たちが一瞬だけ黙る。
確かにそうだ。
大陸中へ広がるだろう勢いで知れ渡っている。
それでも、最初に口を開いた常連はすぐに首を振った。
「いや、そうなんだが、それでもやった方がいいな」
「やらない方が後々大変になるぞ」
グランは酒を飲み、ふむと鼻を鳴らした。
「ふーん。んで、何すんだ?」
ブレイクが少し考えてから答える。
「着飾ったり、誓ったりだ」
別の常連が真顔で言う。
「まあ、基本的には嫁さんの言いなりになる事だな」
「そうそう」
「黙って大人しくしとくだけだ」
グランはその教えを素直に聞き入れた。
「ふーん」
たぶん半分も分かっていない。
だが一応、覚える気はあるらしい。
女たちの卓では、もう止まらなかった。
「ルシア、明日にでも店来てね」
エリナが目を輝かせて言う。
「ウェディングドレスの採寸するから」
リナも身を乗り出す。
「結婚式にはうちの店使っていいからね」
イリスは落ち着いた声で続ける。
「正式な日付が決まれば、みなさんにも声をかけておきますね」
ルシアは完全に飲まれていた。
「はい」
素直に頷いてしまう。
エリナはもう頭の中で何かを組み立て始めている顔だ。
「ルシア、スタイルいいから、どんなドレスにしよっかなあ」
リナも楽しそうに頷く。
「けっこう派手なドレスでも似合いそうだよねー」
イリスがそこで少しだけ柔らかく釘を刺す。
「ですが色は白が一番ですね」
エリナとリナが顔を見合わせて同時に頷く。
「それはそう」
「うん、それはそう」
ルシアが勇気を振り絞って口を挟む。
「あ、あの、わらわの希望としては……」
だが、二人はそれをあっさり押し流した。
「大丈夫、大丈夫」
「任せて」
イリスまで微笑む。
「ルシアさんが当日楽しんでいただけるように、がんばりますね」
ルシアはそこで完全に言葉を失った。
酒場の空気はあたたかい。
優勝の余韻はまだ濃く残っている。だが、その熱はもう戦いのものではない。笑いと祝福と、面白がりと、ほんの少しの優しさが混じった熱だ。
少し離れた席で、グランは肉を食いながらその様子を見ていた。
ブレイクや常連たちの話も聞く。
女たちの話も耳に入る。
だが、本人だけがどこか他人事みたいな顔だ。
「ふーん」
それだけだった。
ルシアはふと顔を上げる。
グランを見る。
周囲を見る。
またグランを見る。
リナは笑い、エリナはすでに頭の中で採寸を始め、イリスは日取りのことまで考えている顔だ。ブレイクたちは酒を飲みながら面白そうにこちらを見ている。常連まで勝手に頷いている。
止める隙がない。
考える余裕もない。
話だけがどんどん先へ進む。
ルシアは小さく呟いた。
「……どうするんじゃ、これ」
誰に向けたわけでもない。
だが、その声だけがやけに現実だった。




