第十九話 ルシア、お前はオレの嫁だ!
目を開けた時、最初に見えたのは白い天井だった。
知らない天井ではない。控え室の、妙に高くて無駄に立派な天井だ。石を積んで作られたその天井には、グランディア神殿を示す紋様が薄く彫られている。試合前にはまるで気にならなかったそれが、今はやけにはっきり見えた。
ブレイクはしばらく、その紋様を黙って見ていた。
頭がまだ少し重い。痛みはある。だが、骨が折れているような鈍い危うさではない。胸も脇も顔も、それぞれきちんと痛い。つまり生きている。呼吸も出来る。意識も戻った。なら大したことはない。
そう判断してから、ゆっくりと目を閉じ直す。
決勝の最後が頭の中で繋がる。
振った。
受けられた。
殴られた。
それでも立った。
そこで意識が切れた。
思い出す順番が歪んでいるのは、頭をぶん殴られたせいだろう。だが、肝心なところだけは妙にはっきりしていた。
強い。
単純に、強い。
ブレイクは口の端だけを少し上げた。
「……強いな」
自分の口から出た声が、思っていたより低く掠れていた。
技で崩したわけではない。裏をかいたわけでもない。読み合いで上を行ったわけですらない。ただ真正面から受け、真正面から殴り返し、そのまま勝った。
ああいう強さは、決して揺らがない。
揺らぐ余地が無いといった方が正しいのかもしれない。
考えすぎる者は、迷う。迷えば遅れる。遅れれば死ぬ。だがグランは違う。考えないわけではないのだろうが、考えたところでやることが変わらない。殴る。踏み込む。受ける。潰す。それが最初から最後までぶれない。
だからこそ、強い。
強くなればなるほど迷いが増える者は多い。選べる手が増えるからだ。だがあの獣人は、強くなってもなお選ぶ手が変わらない。
あれは厄介だ。
そして、妙に羨ましくもある。
ブレイクはゆっくりと上体を起こした。背中に鈍い痛みが走るが、動けないほどではない。長椅子に敷かれた布がずれ、膝の上へ落ちる。控え室の中には薬草の匂いが薄く残っていた。誰かが診てくれたのだろう。胸元の鎧は外され、包帯だけが雑に巻かれている。
そこで扉が開いた。
控えめとは言い難い勢いだった。
先に入ってきたのは、肉だった。
いや、正確には肉を山ほど抱えたグランだ。
両腕いっぱいに骨付き肉を抱え、その上まだ食っている。肉の脂が唇の端へ少しだけついていて、それを気にもしない。優勝した男の姿としては色々と終わっていたが、あまりにグランらしすぎて、ブレイクは逆に何も言えなかった。
その後ろから、ルシアが入ってくる。
こちらもまた、なぜか肉を持たされていた。抱えたままの顔が露骨に不機嫌だ。というより、持ってきたのは自分なのか押しつけられたのか、その辺りの経緯まで何となく顔に出ている。
グランはブレイクが起きているのを見るなり、骨付き肉を齧ったままで言った。
「よう、起きたか」
軽い。
ついさっきまで決勝で殴り合っていた相手に対する第一声としては、驚くほど軽い。
ブレイクは息を吐くように笑った。
「ああ、大丈夫だ」
ルシアはグランの雑な挨拶の横で、少しだけ表情を改めた。
「大事ないか?」
「ない。まだ痛むが、それだけだ」
「ならよい」
短く頷いてから、ルシアは少しだけ肩をすくめる。
「おぬしに何かあれば、わらわがイリスに怒られるからの」
ブレイクはそこでようやく、口元をはっきり緩めた。
「怒るだろうな」
「確実じゃ」
「会場には来てるはずだ。リナやエリナもな」
「見えたか?」
「いや」
ブレイクは首を振る。
「あの観客じゃ、会えなくても仕方ない」
確かに今日は人が多すぎた。客席は朝から埋まり、通路まで人が溢れていた。家族や顔馴染みがいたとしても、試合の間に見つけられるとは限らない。
その会話の最中にも、グランは肉を食っていた。
骨付き肉を齧り、肉を削ぎ、最後には骨ごと噛み砕く。ばきり、と乾いた音が控え室へ響く。ブレイクはその音に一瞬だけ視線を持っていかれた。
「……お前、それを今ここで食うのか」
「腹減った」
即答だった。
グランにとっては、それがすべてらしい。
ブレイクは呆れ半分に肩を落とし、それからふとグランの左腕を見る。決勝の途中で確かに歪んだはずの腕だ。今は普通に肉を持っている。見た目だけなら違和感はない。
「そちらこそ、腕は大丈夫か?」
そう聞くと、グランは骨を噛み砕いたまま平然と答えた。
「食ったら治った」
ブレイクはさすがに一瞬言葉を失った。
横でルシアが大きく息を吐く。
「治ってはおらぬ」
すぐに訂正が入る。
「まださすがにつながってはおらん」
ルシアはグランの腕をちらりと見る。その目は決勝直後よりも冷静だ。怒っているわけでも呆れているわけでもなく、単純に観察している。
「だが歪みもないし、この調子なら十日ほどで治るじゃろう」
それを聞いたブレイクは、苦笑しか出なかった。
「十日で済むのか」
「済むだろ」
今度はグランが答える。
ルシアは即座に睨んだ。
「おぬしが決めるな」
「もう戻ってる」
「骨が中で完全につながっておらぬと言うておる」
「食えばいける」
「何を食えばそんな理屈になるのじゃ!」
控え室の静けさが、そのやり取りで少しだけほぐれた。
ブレイクはようやく肩の力を抜く。決勝の熱も、敗北の痛みも、こうして顔を見ていると妙に落ち着くから不思議だ。勝った方も負けた方も、あまりそのことを引きずっていない。引きずる性質ではないのだろう。
扉が軽く叩かれたのは、その時だった。
ルシアが振り返り、グランは肉を齧ったまま「入れ」とも言わずに待つ。扉の向こうで少しだけ躊躇した気配があったあと、控えめに開いた。
係員らしい若い男だった。制服の襟元は少し乱れ、頬にはまだ緊張が残っている。優勝者と準優勝者が揃う控え室へ入るのだから当然だ。
「その……表彰式の準備が整いました」
視線はグランへ向けられている。だが、肉を山ほど抱えたままの優勝者を見る目が、どうしても困っていた。
グランは即答した。
「めんどくせ」
係員の顔が固まる。
ルシアは額へ手を当てた。
「優勝した者の務めじゃ」
「もう終わっただろ」
「戦いが終わっただけじゃ」
「同じだ」
「違う」
ルシアの声はきっぱりしていた。優勝したことそのものより、その後に付いてくる面倒の方へきちんと目を向けられるのは、やはりグランよりずっと大人だ。
ブレイクはそこで小さく笑う。
「俺は家族と客席から見るよ」
ルシアが振り返る。
「そうしておれ。イリスに無事な顔を見せてやれ」
「ああ」
係員はまだ困った顔のまま、しかしルシアが話を進めてくれていることに明らかに安堵していた。
グランは肉をもう一口齧り、やる気のない顔で立ち上がる。
「あとで食う」
「今も食っておるではないか」
「残りをだ」
ルシアは大きくため息を吐き、持たされていた肉の皿を卓へ置いた。
やがて大闘技場の中央へ優勝者が呼ばれる。
歓声は決勝直後より少し落ち着いている。だが、それでも会場全体を包む熱は消えていない。勝ったばかりの男が再び姿を現せば、当然また沸く。
そして本当に、グランは肉を食いながら出てきた。
観客席から歓声と笑いが一緒に上がる。
「肉食ってるぞ!」
「腕、大丈夫なのか!?」
「肉食ってる場合か!」
グランはそのどれにも構わず、片手に抱えた肉を齧りながら中央へ歩く。優勝者の行進というより、どこかの露店からつまみ食いしてきた大男がそのまま迷い込んだみたいな風情だった。
客席の一角では、ルシアがようやくブレイクたちと合流していた。
イリスはブレイクの顔を見るなり、まず胸を撫で下ろしてから、その頬を思い切りつねっていた。無事だと確認した途端に怒るあたりが、いかにも彼女らしい。リナはその横でけらけら笑い、エリナは最初から面白いものを見る顔で腕を組んでいる。
そして、肉を齧りながら表彰へ向かうグランを見て、ルシアは心底疲れた顔になった。
「肉は取り上げるべきじゃったな」
ぼそりと呟く。
リナが即座に笑いながら返す。
「離さないでしょ」
エリナも首を振る。
「むり、むり。あれは無理」
イリスだけは少し困ったように笑った。
「でも、元気そうでよかったわね」
「元気すぎるのが問題じゃ」
ルシアの返しは冷たい。だが、その目がグランから離れないことを、三人ともちゃんと見ていた。
舞台の中央にはグランディア神殿の大神官が出てきた。
年配の男だ。法衣は白を基調とした重いもので、金糸の刺繍がこれでもかと施されている。動くたびに裾が大げさに揺れ、その後ろには数人の付き人が控えている。いかにも偉い。いかにも格式が高い。そういう存在感だ。
大神官は、肉を食いながら立っている優勝者を一度見て、ほんのわずかに眉をひそめた。
だが、そこは大神官である。観客の前で露骨に顔へ出すようなことはしない。咳払いを一つし、荘厳な声を響かせた。
「本年のグランディア神武会において――」
口上が始まる。
長い。
そして重い。
神々がどうだとか、武の誉れがどうだとか、伝統がどうだとか、いかにもこういう場に相応しい言葉が滔々と続く。
グランは肉を食っていた。
まるで聞いていない。
その様子を見て、ブレイクは額を押さえるように小さく笑った。リナは肩を震わせ、エリナはもう口元を隠すことすらしない。イリスだけが一応は我慢しようとしていたが、それでも目元が少し緩んでいる。
ルシアは小さく呟く。
「……あの馬鹿者」
怒っているのか呆れているのか、自分でも分からない声だ。
大神官の口上はまだ続いていた。
賞賛、伝統、栄誉、栄光。
その一つ一つが優勝者へ積まれていく。普通の者なら緊張し、誇らしくなり、少なくとも肉を食うのはやめるところだ。
グランは肉を齧り、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ」
その小さな声に、ルシアの背中へ嫌なものが走る。
嫌な予感だ。
決勝前、予選後、これまで何度も覚えてきた種類のものだ。しかも今の「あっ」は、本気で何か大事なことを思い出した顔だった。
大神官は気づかず、まだ話している。
グランは客席の方を見る。
ルシアを見つける。
にやりと笑う。
ルシアのこめかみが引きつる。
「……あ、あやつ」
その瞬間、大神官の口上も、観客のざわめきも、ルシアの耳にはほとんど入らなくなった。
グランが動く。
大神官の前から、まっすぐ客席へ向かった。
付き人たちが慌てる。
「お、お待ちください!」
「まだ表彰が――」
「大神官さまのお言葉が――」
だが止まらない。
観客席もざわつく。
「なんだ?」
「どこ行くんだ?」
「おい、まさか」
グランはそのままルシアの前まで来た。
客席の最前列。
目の前。
ルシアはもう呆れていた。恥ずかしさも、怒りも、困惑も、全部が一周して呆れになっていた。
「何をしておる」
低く問う。
グランは当たり前の顔で言った。
「神武会で優勝したら嫁になるって約束だよな」
周囲が静まる。
さっきまで笑っていたリナも、さすがに一瞬だけ息を止めた。エリナは目を見開き、イリスは口元へ手を当てる。ブレイクは片手で顔を覆いかけたが、途中でやめた。
逃げられない。
ルシアもそれは分かっていた。
ここまで来て誤魔化すのは、たぶんもっと面倒だ。だが、素直に言うのも悔しい。意地がある。格好というものがある。
だから、少しだけ回りくどく返す。
「……まあ、なってやらん事もないような感じじゃな」
自分でも分かるくらい歯切れが悪い。
ルシアなりの照れ隠しだった。
だがグランは理解しない。
「?」
本気で意味が分かっていない顔だった。
一拍。
そして次の瞬間、大声で言い切る。
「ルシア、お前はオレの嫁だ!」
闘技場全体が静まった。
風の音まで聞こえそうなほど、ぴたりと止まる。
ルシアの顔が一気に赤くなる。
ここまで大勢の前で、ここまで真っ直ぐ、ここまで遠慮なく言い切られれば、もう逃げ道はどこにもない。
喉が詰まる。
言葉が出ない。
それでも、この場で黙るのだけはもっと負けな気がした。
だから、真っ赤になったまま、絞り出すように返した。
「は、はい」
その返事を合図にしたみたいに、闘技場が爆発した。
歓声。
拍手。
笑い。
叫び。
全部が一気に押し寄せる。
「おおおおおっ!」
「言ったぞ!」
「そうなるのかよ!」
「最高だな!」
リナとエリナが最初に吹き出した。
腹を抱えるほど笑っている。イリスは暖かく拍手をしていた。ブレイクは苦笑しながらも、どこか納得した顔でその様子を見ている。
ルシアは真っ赤なまま、グランを睨もうとした。
だが、その前に抱き上げられた。
「ちょっ……!」
言い終わる前に体が浮く。
グランは当たり前のようにルシアを抱きかかえ、そのまま踵を返した。
観客がさらに沸く。
拍手と歓声で送り出される。
闘技場の中央から、優勝者が嫁を抱えて去っていく。
そんな表彰式があるかと、誰かが冷静なら思ったかもしれない。だが、この場にいる誰も、そんなことはもう気にしていなかった。
ただ一人を除いて。
大神官である。
舞台の上に取り残された大神官は、しばらく何も言えなかった。
法衣の裾が小刻みに震えている。怒りか、衝撃か、その両方か。付き人たちもどうしていいか分からず固まっていた。
そこへ、ブレイクが歩いていく。
大神官の前で止まるかと思いきや、そうではない。脇へ回り、後ろに用意されていた賞金の袋をがしっと掴んだ。
大神官がようやく反応する。
「……な、何を」
ブレイクは平然と答えた。
「これは俺が責任を持って渡しておきます」
大神官はぽかんとした。
本当に、言葉を失った顔だった。
ブレイクはそれ以上何も言わず、そのまま袋を肩へ担ぐ。イリスがその様子を見て小さく笑い、リナとエリナもまだ笑いながら立ち上がる。
「行くぞ」
ブレイクが言う。
誰に向けてかは明らかだった。
そして、大神官だけが舞台に残された。
観客たちはまだ満足げだった。拍手の余韻が残り、あちこちで今の場面を再現するような大声が飛び交っている。誰もが面白いものを見た顔をしていた。
付き人たちが恐る恐る大神官へ近づく。
「大神官さま……」
「だ、大丈夫ですか?」
大神官はしばらく答えない。
法衣の裾を握りしめ、肩を細かく震わせたまま、やがてようやく口を開いた。
「優勝を取り消す事は出来ますか?」
真顔だった。
付き人たちは一瞬だけ本気で考える顔をしたが、すぐに全員が首を振った。
「無理です」
「不可能です」
「すでに優勝しています」
「表彰式の出席は優勝の条件ではありません」
最後の一言が、妙に現実的で残酷だった。
大神官は大きくため息をつく。
「……そうですか」
怒りを飲み込み、諦める。
その目に、ほんのわずかに涙が滲んだように見えた。
だが、付き人たちは誰一人そこに触れず、そっと目を逸らした。
その頃、グランはルシアを抱えたまま闘技場の通路を歩いていた。
歓声はまだ背中から追いかけてくる。ルシアは腕の中で真っ赤なまま、ようやく言葉を発した。
「下ろせ!」
「なんでだ」
「なんででもじゃ! 人前じゃぞ!」
「もう終わっただろ」
「終わっておらぬ!」
言い返しながらも、完全に暴れないあたりがまたルシアらしい。力づくで降りることも出来るはずなのに、今はそれをしない。周囲の視線もあるし、何より自分でもまだ処理しきれていないのだろう。
後ろからはブレイクたちの足音も近づいてきていた。
「お熱いことだな」
リナが言う。
「やっとそこまで来たのねえ」
エリナが続ける。
イリスは苦笑しながらも柔らかく拍手を続けていた。
「おめでとうございます」
その一言が妙に真っ直ぐで、ルシアはさらに顔を赤くする。
「お、おぬしらまで……」
ブレイクは賞金袋を肩に担ぎ直し、少しだけ肩をすくめた。
「まあ、そうなるだろうとは思ってた」
「思っておったなら止めよ!」
「止まるか?」
その問いに、ルシアは答えられなかった。
止まらない。
確かに止まらない。
知っているからこそ、なおさら腹が立つ。
グランはそんなやり取りを聞き流しながら、ようやくルシアを床へ下ろした。
足が石床へ着く。
だが、すぐには離れない。ルシアの手首を握ったまま、妙に満足そうな顔をしている。
「なんじゃ、その顔は」
「約束守っただろ」
ルシアは一瞬だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……そうじゃな」
悔しいが、それは事実だった。
神武会で優勝した。
約束は回収された。
しかも公の場で、これ以上ないほど大きな形で。
もう誤魔化しようがない。
ブレイクが賞金袋を軽く持ち上げる。
「これも忘れるなよ」
グランがちらりと見る。
「ああ」
「今、興味なさそうな顔をしたな」
「肉じゃねえし」
即答だった。
リナとエリナがまた笑う。イリスも今度ばかりは口元を隠していた。
ルシアは再び額に手を当てた。
「ほんに、おぬしは……」
だが声の最後は、妙に柔らかかった。
その日のうちに、グランの優勝と、表彰式での破天荒な行動は、グランディア中へ一気に広がった。
酒場ではその話で酒が進み、露店では勝手に誇張され、賭け屋では優勝そのものよりもその後の騒ぎの方が熱く語られた。
奴隷紋の獣人が神武会を制した。
その場でエルフの美姫を嫁にした。
大神官を舞台へ置き去りにして帰った。
そんな噂は、面白おかしく削られ、盛られ、誰かの口から誰かの口へ渡るたびにどんどん派手になっていった。
それはやがてグランディアの外へも流れていく。
街道を行く商人が持ち出し、旅の武人が酒場で語り、港では船乗りが面白がって広めた。
グランの優勝はもちろん話題になった。
だが、それ以上に表彰式でのあの一幕は、人の口に乗りやすすぎた。
最強の獣人。
高位のエルフ。
大観衆の前での嫁宣言。
そういう話は、強さの話よりも早く遠くへ飛ぶ。
その頃、大神官は神殿の奥でまだ深いため息をついていたが、その話題が大陸中へ広がるのを止める術は、どこにもなかった。




