第十八話 やっぱりお前だったな
目を開けた時、最初に視界へ入ったのは白かった。
朝の光だ。
薄い布越しにやわらかく差し込んだそれが、乱れた白金の髪の上へ静かに落ちている。寝台の上で、ルシアはまだ眠っていた。肩まで落ちた髪が頬へかかり、長い睫毛の影が薄く頬へ滲んでいる。強い時はあれほど人を見下ろしたような顔をするくせに、こうして眠っている時だけは妙に隙がある。
グランは黙ってその横顔を見ていた。
決勝の朝だというのに、胸の奥にある熱とは別のところが静かに満たされていく。見慣れているはずなのに、何度見ても飽きない。顔も、髪も、体つきも、匂いも、全部がきちんといい。
だから、思った通りに口へ出した。
「やっぱりいい女だな」
ルシアの睫毛がわずかに震えた。
すぐには目を開けない。だが、完全に眠っていたわけでもないらしい。朝の光の中で唇だけが先に動く。
「……馬鹿者」
低い声だった。
まだ熱の抜けきっていない、眠りの底からそのまま掬い上げたような声だ。
そこでようやく目が開く。焦点の定まり切らぬ視線がゆっくりとグランへ向き、そのまましばらく動かない。ぼんやり見て、それから小さく目を細めた。
「起こしたのう」
「朝だからいいだろ」
「よくない」
言いながらも、怒ってはいない。むしろ怒る気力が少し足りていないような顔で、ルシアはゆっくりと上体を起こした。掛け布が肩から滑りかけ、それを片手で押さえる。起き抜けのわずかな気だるさを残した動きが妙に生々しい。
グランはそのまま見ていた。
ルシアは視線に気づいたらしい。片眉を上げる。
「何を見ておる」
「胸を見てた」
「そういうことではない」
「見てると気分がいい」
「知るか」
そっぽを向くように言ってから、ルシアは寝台の端へ腰をずらす。床へ足を下ろす動きが少しだけ鈍い。決勝の朝に珍しくこちらより遅く目覚めた理由など、考えるまでもない。昨夜の名残が体に残っているのだろう。
ルシア自身も、それを自覚している顔だった。
グランが何も言わずにいると、ルシアは一度だけ舌打ちした。
「言いたいことがあるなら言え」
「別に」
「うそをつけ」
「今日は遅いなと思っただけだ」
「……おぬしのせいでもあるわ」
そこでようやく、少しだけ言い返してきた。
声は低いのに、耳がうっすら赤い。そこだけ見ると、決勝だの何だのとは別の話みたいだが、今日が決勝の朝だということもちゃんとルシアは分かっている。だからこそ、今さら変に取り繕うのも面倒なのだろう。
グランは寝台から起き上がり、肩を回した。
体は軽い。重戦士と、女魔導師と、毒針の老人。ここまででそれなりに面白い相手がいた。だが最後はブレイクだ。そう思うだけで、まだ何もしていないのに胸の奥が熱くなる。
ルシアがその顔を見て、呆れたように息を吐いた。
「朝から浮かれておるの」
「悪くねえからな」
「そういうところが分かりやすすぎる」
「お前も顔に出てるぞ」
「出ておらぬ」
「そうか?」
「そうじゃ」
即答だった。
だが、その目はわずかに揺れている。強者同士の最後のぶつかり合いを前にして、何も感じていないはずがない。しかも相手はブレイクだ。気心も、強さも、性格も知っている。決勝の相手としてはこれ以上ないくらい収まりがいい。
それが少しだけ気に食わなくて、少しだけ嬉しいのかもしれなかった。
風呂場へ向かう。
朝の湯気は夜と違って、どこか薄く澄んでいた。湯へ肩まで沈めると、夜の名残がゆっくりとほどけていく。肌に残っていた熱も、匂いも、少しずつ湯へ移る。
二人で湯へ入るのも、今となっては珍しいことではなかった。
何かを話すわけでもない。ただ同じ湯に入り、髪を流し、肌を洗う。時折、湯の中で腕が触れる。膝が当たる。そういうことがもう自然だ。
ルシアは湯を手で掬い、首筋へ流した。白金の髪が濡れて背へ張りつく。水滴が鎖骨を伝い、その先へ滑っていく。決勝の朝だというのに、グランの視線は時々そこへ行く。
ルシアは気づいている。
「何を見ておる」
「尻を見てた」
「軽々しく見るな」
「いいだろ、減らねえし」
ルシアがぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、湯を掬って正面からぶっかけてくる。
グランは目を細めただけで避けない。顔にかかった湯を手で払い、少し笑う。
「決勝前だぞ」
「そうじゃからじゃ」
「意味分かんねえ」
「分からなくてよい」
そこで会話は途切れた。
だが空気は悪くない。
昨夜の匂いも気配も、湯の中で少しずつ流れていく。身体はすっきりするのに、奥に残った熱までは消えきらない。その半端さが、かえって今の二人にはちょうどよかった。
風呂から上がると、窓の外の光はもうしっかり白い。
部屋へ戻って髪を拭き、衣服を整える。ルシアは白金の髪をいつもよりきっちりとまとめた。邪魔にならぬように、乱れぬように。決勝を見る顔だ。
グランはその横で、帯を締めながらぼんやりと眺めていた。
「似合ってるぞ」
ルシアは鏡代わりの磨いた金属板から目を離さずに答える。
「そうか」
「ああ」
「……おぬしのそういうところは、たまに調子が狂う」
「褒めてる」
「知っておる」
知っているのに、その度に少しだけ揺れる。
グランにはそれも分かる。
宿を出ると、決勝の日のグランディアが目の前に広がっていた。
人が多い。
だが、昨日までと同じ騒ぎではない。屋台の煙は変わらず立ち、酒の匂いも肉の匂いも朝から濃い。なのに声の出し方だけが違う。浮ついた笑いより、期待を押し殺したざわめきが多い。強いものを見るための空気だ。
闘技場へ向かう人の流れに二人も混ざる。
通りの両脇から視線が集まる。
「付き合ってるのかな?」
「あの空気だと付き合ってるだろ」
「仲良いな」
「似合ってるな」
そんな声がすれ違いざまに飛ぶ。
ルシアは前だけ見て歩く。
だが、耳は正直だった。
グランはご機嫌だった。
視線も声も気にしていない。むしろ悪くなさそうな顔だ。通りへ漂う焼き肉の匂いにも少し引かれていたが、今日はルシアが足を緩めないので、そのまま歩くしかない。
「何じゃ、その顔は」
ルシアが横目で言う。
「何がだ」
「機嫌よさそうじゃ」
「悪くねえからな」
「人に見られておるぞ」
「見りゃいいだろ」
「……まったく」
ルシアは呆れたように息を吐く。
だが、自分の手が無意識にグランの袖を軽くつまんでいたことに気づくと、すぐに離した。
闘技場の入口が見えてくる。
周囲の熱気はさらに濃くなる。賭け屋の前にはまだ人だかりが残り、最後の倍率を巡って大声が飛び交っていた。焼いた肉の煙が風に流れ、酒場の前にはすでに昼前だというのに席を確保しようとする連中がいる。
入口の前でルシアが足を止める。
「ケガはするなよ」
その声は、思っていたより低かった。
グランは少しだけ口元を上げる。
「さあな」
「おぬし……」
「する時はするだろ」
「せぬようにせいと言うておる」
「無茶言うな」
「おぬし相手には、そのくらい言わねば足りぬ」
グランは笑う。
ルシアは睨んだが、その目の奥には心配がそのまま残っていた。
それを見て、グランは少しだけ気分が良くなった。
「行ってくる」
「うむ」
短く返したルシアの声は、それでもきちんと背を押した。
闘技場の中央は広く、空は高い。
砂は踏み固められ、陽を受けて白く光っていた。観客席は隙間なく埋まり、見下ろしてくる視線の数だけで肌がざらつくようだった。歓声はすでに上がっている。だがまだ本番前の熱だ。本当に大きく鳴るのは、これからだ。
先に出てきたのはブレイクだった。
鉄棒を肩へ担ぎ、黙って歩く。その一歩一歩が重い。肩の力は抜けているのに、こちらへ向ける目だけは深い。最後にぶつかる相手を見る目だ。
続いてグランが出る。
歓声がひとつ大きくなる。
奴隷紋の獣人。
乱戦を潰し、重戦士を沈め、魔導師と老人を叩き落とした男。
その相手が、鉄棒の獣人。
今日この場で見たがっているものが、今まさに中央へ立つ。
ルシアは高い席から、それをじっと見下ろしていた。
呼吸が少し深くなる。酒を飲まずとも、こういう時は十分に酔える。
二人が中央で向き合う。
グランが先に笑う。
「やっぱりお前だったな」
ブレイクが鉄棒を肩から下ろし、片手で軽く握り直した。
「手加減出来んぞ」
低い声だった。
グランは喉の奥で笑う。
「したら死ぬぞ」
その言葉に、観客席の空気がさらに張る。
審判が下がる。
合図が落ちた。
最初に動いたのはブレイクだった。
重い踏み込みだ。
砂が沈む。
鉄棒が唸る。
初手から真っ向。探りも様子見もない。最初の一撃で持てる重さを全部叩きつけてくる。ブレイクらしい立ち上がりだった。
グランは避けない。
その場で受ける。
横薙ぎの鉄棒が両腕へ食い込み、鈍い音が会場全体に響く。腕と鉄がぶつかった音ではない。質量そのものがぶつかった音だ。砂が爆ぜ、足元がわずかに沈む。
観客席がざわつく。
「重いな……」
誰かが呟く。
だがグランは動かない。
ブレイクはそこで止まらなかった。
引き戻す。
今度は逆から。
同じように横へ薙ぐ。さらに重い。さっきよりも踏み込みが深い。グランはまた受ける。両腕へ衝撃が入り、肩から背へ震えが抜ける。足元の砂が半歩ぶんめくれた。
ルシアの目が細くなる。
ブレイクの重さは知っている。だが今日の一撃は、その知っている重さを越えようとしている。
三撃目。
上から落ちる。
振り下ろし。
真正面から頭を叩き割るための軌道だ。グランは両腕を交差させてそれを受ける。地面が沈む。砂が外へ弾ける。重さが腕へ入ったまま、骨へ届く。
それでもグランはまだ笑っていた。
面白い。
重い。
だからいい。
ブレイクの目がさらに深くなる。
四撃目。
間合いを詰めたまま、逃がさない横薙ぎ。重さだけで崩すのではなく、重さで間合いごと食う振りだ。グランは腕でそれを止め、今度は拳を返す。ブレイクの胴へ入る。鈍い音。だがブレイクは止まらない。鉄棒を押し込み返し、さらに前へ出る。
観客席の歓声が少しずつ太くなる。
「行け!」
「押せ!」
「そこで潰せ!」
どちらへの声か分からない。それでよかった。
五撃目。
ブレイクの呼吸が変わる。
深く、重く、一気に落ちる。
足がさらに沈む。鉄棒が持ち上がる。ここまでで積み上げた全部を、この一撃へ入れるつもりだと、見ている者にも分かった。
グランはなお、避けない。
真正面で受ける位置に立っている。
ブレイクが振り下ろした。
全身の力を一点へ集めた渾身の一撃。
重い音が遅れて来る。
衝撃が会場へ広がる。
グランの左腕が歪む。
肘から先が押し曲げられ、形が変わる。骨と肉がその瞬間だけ違う方向へ押しやられたのが、観客席からもはっきり見えた。
「折れた!」
「砕けたぞ!」
悲鳴みたいな歓声が上がる。
ルシアが初めて身を乗り出した。
肘掛けを掴む指先に力が入る。視線が鋭く、細くなる。呼吸が一瞬止まりそうになる。それでも目だけは逸らさない。
グランが一歩引いた。
砂が鳴る。
歪んだ左腕を見る。
次にブレイクを見る。
そして笑い出した。
最初は低く。
次に、肩が揺れるほど大きく。
観客席がざわつく。
「なんだ……」
「おかしくなったのか?」
「腕が折れて笑ってるぞ!」
グランは笑いながら言う。
「すげえぞ! さすがだな!」
心底楽しそうな声だった。
ルシアの目が変わる。
次の瞬間、グランの体が膨れ上がった。
肩が盛り上がる。
胸が張る。
腕も、腹も、脚も、皮膚の下から一気に押し広げられるように膨張していく。獣の本能がそのまま肉へ出たような変化だった。歪んでいた左腕も、その盛り上がった筋肉に内側から押し戻される。骨の位置が戻り、まっすぐになる。
観客席が息を呑む。
「腕……戻ったぞ」
「なんだあれ」
「バケモノか」
ルシアは何も言わない。
ただ、食い入るように見ていた。
知っている。
こいつがまだ奥を残していることも、痛みで止まるような男ではないことも。
だが、それを決勝の真ん中で、こうして剥き出しにされると、胸の奥がぞくりとする。
グランは凶暴な顔で笑った。
牙を剥くような顔だ。
ブレイクも少しだけ口元を上げる。
「ようやく本気になったか」
グランは低く言う。
「死ぬなよ、ブレイク」
そして踏み込んだ。
一瞬。
観客には消えたように見えた。
「消えた!」
その声が上がるより先に、重い衝撃音が会場に響く。
ブレイクの鉄棒がグランの頭へ直撃していた。
避けられなかったのではない。
避けなかった。
真正面で食らい、そのまま前へ出ている。
だがグランは揺るがない。
首も折れず、膝も落ちず、視線すらぶれない。受けた衝撃がそのまま返ったみたいに、鉄棒の方が軋んだ。鈍い歪みの音。鉄棒がわずかに曲がる。
ブレイクの歯が食いしばられる。
「くっ……!」
そこへグランの拳が入った。
胴体へ。
深く、真正面から。
拳がめり込み、ブレイクの体が揺れる。息が抜ける。だが倒れない。足が砂を噛み、踏ん張り、体を残す。
グランの目が少しだけ見開く。
「いいな」
そのままもう一撃。
今度は大きく振る。肩ごと、腰ごと回す。拳が空気を裂き、ブレイクの側頭へ叩き込まれる。
重い音。
ブレイクの首が跳ねる。
だが、それでも倒れない。
観客席が大歓声に包まれる。
「まだ立つのか!」
「なんだあいつら!」
「化け物だろ!」
グランがそこで初めて首を傾げた。
「ん?」
ブレイクは立っている。
鉄棒を握ったまま。
膝も折れない。
だが目が落ちている。
意識が飛んでいた。
立ったまま、もう動かない。
グランが一歩下がる。
審判が駆け寄る。肩へ触れる。声をかける。反応はない。そこでようやく勝者の声が響いた。
「勝者、グラン!」
一瞬、闘技場全体が揺れたように感じた。
歓声だ。
大歓声。
勝敗への歓声というより、今目の前で見せつけられた決勝そのものへの歓声だった。正面から殴り、正面から受け、最後に残った方が勝つ。あまりにも単純で、あまりにも無茶苦茶で、だからこそ最高だった。
グランは息を吐き、拳を開いて閉じた。
腕は熱い。
頭も熱い。
胸の奥はもっと熱い。
楽しかった。
それだけははっきりしている。
闘技場を下りていくと、ルシアが待っていた。
その顔を見るなり、ルシアは長く息を吐く。
「はぁ……まったく心配させよって」
呆れている。
怒ってもいる。
けれどその声の底に、ようやく力が抜けた安堵があった。
グランは口元を緩める。
「勝っただろ」
「そういう問題ではない」
「いつもそれだな」
「おぬしがいつもそうだからじゃ」
ルシアは言いながらも、視線をグランから外せない。左腕。頭。立ち方。呼吸。全部を見ている。傷の具合を確かめる目だ。
グランはそれが少しだけくすぐったかったが、悪い気はしなかった。




